児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年02月

今日2月28日は、『小説神髄』『当世書生気質』を著し、シェイクスピア全集の翻訳など、作家・評論家・翻訳家・劇作家・教育家として、多岐な分野で活躍した坪内逍遥(つぼうち しょうよう)が、1935年に亡くなった日です。

逍遥は1858年、尾張藩だった現在の岐阜県美濃加茂市に生まれました。父は尾張藩士でしたが、母は芸術好きの商人の子で、逍遥は、幼いころから、読本・草双紙などの江戸文学や俳諧、和歌に親しんで育ちました。やがて名古屋に一家で移住してからは、貸本屋や劇場にも親しみ、芸術への関心を深めていきました。ある貸本屋の主人は、店に置いてあった滝沢馬琴や式亭三馬らの作品を1冊残らず読んでしまって、「こんな子どもははじめてだ」と驚いたというエピソードが残されています。東京大学予備門を経て、東京大学文学部を卒業、東京専門学校(のちの早稲田大学)講師となり、のちに教授になりました。

1885年に、日本における近代文学のはじまりとされる評論『小説神髄』を発表。子どものころに親しんだ江戸時代の勧善懲悪の物語を否定し、小説はまず人情を描くべきで、世態風俗の描写がこれに次ぐと、道徳や政治にとらわれない新しい文学論を説きました。そして、その理論を実際に示すために小説『当世書生気質』を著しました。

1891年には「早稲田文学」を創刊し、たくさんの作家を育てましたが、その創刊号に載せた シェークスピア に関する論文から、森鴎外 との間で「没理想論争」をくり広げたことはよく知られています。逍遥の写実主義に対し、鴎外の美学上の理想主義が対立したものでした。

逍遥は、小説のほかに戯曲も書き、演劇の近代化に果たした役割も大きなものがあります。特に歌舞伎を新しい時代に合うものにしようと『桐一葉』という7幕15場という大作を書き、『沓手鳥(ほととぎす)孤城落月』と2部作で、淀君(秀吉の側室)の悲劇を描きました。また1906年には、島村抱月らと文芸協会を開設し、その責任者となって、シェイクスピアや イプセン らの西洋劇の公演を催し、近代劇のさきがけとなりました。

1928年には、「沙翁(シェークスピア)全集」全40巻の完訳を果たし、1933年には同全集をさらに推こうし、原語の味わいを活かした現代語訳「新修シェークスピヤ全集」全40巻を刊行するなど、近代文芸の基礎を築きあげたのでした。


「2月28日にあった主なできごと」

1533年 モンテーニュ誕生…名著 「随想録」の著者として、今も高く評価されているフランスの思想家 モンテーニュ が生まれました。

1546年 ルター死去…免罪符を販売するローマ教会を批判し、ヨーロッパ各地で宗教改革を推し進めたドイツの宗教家 ルター が亡くなりました。

1591年 千利休切腹…織田信長や豊臣秀吉に仕え、わび茶を大成し、茶道を 「わび」 「さび」 の芸術として高めた 千利休 が、秀吉の怒りにふれて切腹させられました。

1638年 天草四郎死去…島原・天草地方のキリシタンの農民たちは、藩主の厳しい年貢の取立てとキリシタンへの弾圧を強めたことから、少年 天草四郎 を大将に一揆を起こしました(島原の乱)。島原の原城に籠城して3か月余り抵抗しましたが、幕府の総攻撃を受けて、四郎をはじめ37000人が死亡しました。

1811年 佐久間象山誕生…幕末の志士として有名な吉田松蔭、坂本龍馬、勝海舟らを指導した開国論者の 佐久間象山 が生まれました。

1972年 「浅間山荘」強行突入…連合赤軍のメンバーが19日に軽井沢にある「浅間山荘」に押し入り、管理人の妻を人質に立てこもっていましたが、この日機動隊が強行突入、激しい銃撃戦の末に人質を解放、犯人5名を逮捕、隊員2名が殉職しました。突入の様子はテレビで生中継され、視聴率は総世帯の9割近くにも達し、今なおこの記録は破られていません。

「おもしろ古典落語」の11回目は、『初天神(はつてんじん)』というお笑いの一席をお楽しみください。天神様というのは、学問の神様といわれる菅原道真公のことで、その天神様を祀ってあるお宮が天満宮です。新年になってから、天満宮にはじめてお詣りにいくことを「初天神」といい、とくに25日が天満宮の縁日のため、1月・2月の25日には、おおぜいの人たちがお詣りでかけました。

「おい、おっかぁ、ちょっと羽織を出してくれよ」「うるさいね、この人は。羽織をこしらえたら、どこへ行くにも着たがるんだからね、どこへ行くんだい?」「これから、天神様へお詣りに行こうとおもってね、初天神だ」「あら、そうかい。じゃ金坊を連れてっておくれよ。家にあの子がいると、悪さばかりして困るんだよ」「いやだよ、あんな生意気な奴はいないよ、親の顔がみてぇくらいだ」「それがあんたじゃないか」「おれの子にゃちげぇねぇが、あれが他所(よそ)のもんだったら、おらぁいっしょの家にいないね、連れて行くのはいやだよ」「そんなこといわないで、連れてっておくれよ」

「ヘへへ…、おとっつぁんとおっかさん、いい争いをしてますね。あの、一家に波風が立つというのはよくないよ、ご両人」「聞いたか? 親をつかまえてご両人だとよ、あっちへ行って遊んでな」「おとっつぁん、どっかへ行くんだろ?」「行かないよ」「行きますよ、羽織をきてるもん。連れてっておくれよ」「だめだったらだめ、おとっつぁんはこれから大事な仕事に行くんだから」「うそだぁ、今日は仕事にあぶれてるの知ってるもん。初天神へ行くんだろ、連れてっておくれよ」「おまえがぐずぐずいうから、見つかったじゃないか」「いいじゃないの、連れてったら」「簡単にいうなよ、こいつはどこ行っても、あれ買ってくれ、これ買ってくれって、うるさくてしょうがないんだよ」「そんなこといわないから、おとっつぁん連れてっておくれよ」

とうとう、何も買わない約束で、金坊を初天神に連れて行くはめになりました。天満宮の境内には、人がたくさん出ていて、屋台もたくさん出ています。そのうち、あんのじょう「大福買って、みかん買って」と、はじまりました。両方とも毒だと突っぱねると「じゃ、飴買って」飴はここにはないというと「おとっつぁんの後ろ」飴屋がニタニタしています。「こんちくしょう。今日ぐらい休め」「冗談いっちゃいけません。今日はかき入れです。どうぞ坊ちゃん、買ってもらいなさい」一個一銭の飴を、おとっつぁんが大きいのを取ってやるといって「これか? こっちか?」といじりまくるので、飴屋は渋い顔。金坊が飴をなめながらぬかるみを歩き、着物を汚したのでしかって引っぱたくと「痛え、痛えやい……何か買って」泣きながらねだっています。飴はどうしたと聞くと「おとっつぁんがぶったから落とした」「どこにも落ちてねえじゃねえか」「腹ん中へ落とした」

今度は凧(たこ)をねだります。往来でだだをこねるから閉口して、一番小さいのを選ぼうとすると、金坊と凧屋にうまく結託されて一番大きい凧を買わされるはめになり、帰りに一杯やろうと思っていた金を、全部はたかされてしまいます。

金坊が大喜びで凧を抱いて走ると、酔っぱらいにぶつかりました。「このがき、凧なんか破っちまう」と脅かされ、金坊が泣きだしたので「泣くんじゃねえ。おとっつぁんがついてら。ええ、どうも相すみません」そこは父親、平謝りに謝ります。そのうち、今度はおやじがぶつかって、金坊「それ、あたいのおやじなんです。勘弁してやってください。おとっつぁん、泣くんじゃねえ。あたいがついてら」

そのうち、おやじの方が凧に夢中になり「あがった、あがったい。やっぱり値段が高えのはちがうな」「あたいの」「うるせえな、こんちきしょうは。あっちへ行ってろ」

金坊、泣き声になって「こんなことなら、おとっつぁん連れて来るんじゃなかった」


「2月25日にあった主なできごと」

903年 菅原道真死去…幼少の頃から学問の誉れが高く、学者から右大臣にまでのぼりつめたものの、政敵に陥れられて九州の大宰府へ左遷された平安時代の学者 菅原道真 が亡くなりました。

1000年 一条天皇2人の正妻…平安時代中期、政治を支配していた関白の 藤原道長 は、長女の彰子(しょうし)を一条天皇に嫁がせ、孫を天皇にしようと画策していましたが、この日藤原定子(ていし)を一条天皇の皇后に、彰子を中宮として、ともに天皇の正妻としました。

1670年 箱根用水完成…5年にもわたるノミやツルハシでトンネルを掘る難工事の末、芦ノ湖と現在の裾野市を結ぶ1280mの用水路箱根用水が完成しました。幕府や藩の力を借りずに、延べ人数83万人余という農民や町民の手で作り上げ、現在に至るまで裾野市とその周辺地域に灌漑用水を供給している技術は、高く評価されています。

1841年 ルノアール誕生…フランスの印象派の画家で、風景画や花などの静物画から人物画まで、世界中でもっとも人気の高い画家の一人  ルノアール が生まれました。

1953年 斉藤茂吉死去…写実的、生活密着的な歌風を特徴とするアララギ派の歌人の中心だった 斎藤茂吉 が亡くなりました。

今日2月24日は、日本人として初めてチベット入国に成功し、経典の翻訳やチベット語の研究に多くの業績を残した仏教学者・探検家の河口慧海(かわぐち えかい)が、1945年に亡くなった日です。

慧海は1866年、桶や樽を作る職人の子として大坂(現・大阪)の堺に生まれました。本名は定次郎といい、慧海の名は、24歳で出家してからのものです。父に「職人の子に学問はいらぬ」と小学校を退学させられ、その後『釈迦一代記』を読んで心をうたれた慧海は、自分も シャカ のようにきびしく生きることを誓い、仏教の世界へ近づいていったといわれています。

私塾で勉強をつづけたのち東京へでて、貧しさとたたかいながら哲学館(いまの東洋大学)に学び、卒業まえに、東京本所の五百羅漢寺の住職になりました。しかし1年後には宗教団体に不満をいだいて、住職をしりぞいてしまいました。

26歳の年に慧海は、正しい経典をさがしに、チベットへ行こうと決心をしました。住職をやめたのちも、一切蔵経などを読んで修行をつづけるうちに、日本の経典には誤りが多いことに気づき、チベットへ行けば正しい原典を手に入れることができるのでは……と、考えたのです。ところが、チベットは、鎖国のように国を閉じていた時代です。しかも平均4000メートルの高山と高原の上にある国です。「チベットは野蛮人の住む国だ」と信じている人びとから、旅をあきらめるように、何度も忠告されました。でも、きびしく生きようとする慧海の心は、もう変わりません。

1897年、31歳の慧海は、神戸から船に乗りました。しかし、そのままチベットへ入ったわけではありません。途中、インドで1年チベット語を学び、さらに、ヒマラヤ山中の村でやはり1年、チベット仏教を学び、やっとチベット国境を越えたのは、日本をでてから4年目のことでした。このとき慧海は、身なりも言葉も、すっかりチベット人になりきっていたということです。

チベット人になりすませた慧海は、ラサ大学に学び、法王にも会うことができました。ところが、2年後にはチベットを命からがら脱出しなければなりませんでした。日本人であることを見やぶられそうになったのです。慧海は、目的を十分に果たさないまま、1903年に、日本へ帰ってきました。慧海は翌年、ふたたびチベットへむかい、こんどは11年後におおくの経典やチベット民族の資料を持ち帰って、ついに、大きな夢をなしとげました。

その後の慧海が、79歳で亡くなるまでに、たくさんの仏教の本を著わし、正しい仏教の普及に大きな業績を遺しました。しかし、仏教学者としての功績以上に、勇気あるチベット探検記『西蔵旅行記』などは、民族学者や探検家にも高く評価されています。


「2月24日にあった主なできごと」

1786年 グリム兄弟・弟誕生…ドイツに伝わる民話を「グリム童話」として集大成した グリム兄弟 の弟ウィルヘルムが生まれました。

1815年 フルトン死去…1807年、ハドソン川で蒸気船の試運転に成功したアメリカの技術者で発明家の フルトン が亡くなりました。、

1873年 キリスト教禁制撤廃…1612年以来禁止されてきたキリスト教を、明治政府も国禁にしてきましたが、この日「キリスト教国禁」の高札を撤去。欧米諸国の非難や、条約改正を妨げる一因をなしていることを知った政府は、キリスト教を黙認する決断をしました。 まもなく、横浜、神戸、東京、大阪などにあいついで教会が建設され、明治文化や教育の発展に大きな力となりました。

1933年 国際連盟総会で抗議の退場…日本の国際連盟代表の松岡洋佑ら代表団は、スイスのジュネーブで開かれた臨時総会で、議場からいっせいに退場しました。前年に日本が中国東北部に建設した「満州国」を国際連盟が認めず、軍を引き上げるよう求める勧告案を、賛成42、反対1、棄権1で採決したことに抗議したものです。この総会の後日本は、3月27日、正式に国際連盟を脱退、国際社会の中で孤立する道を歩みはじめました。

「おもしろ古典落語」の10回目は、『ねずみ』という、名工・左甚五郎にまつわるお笑いの一席をお楽しみください。

江戸・日本橋橘町の大工・政五郎の家に十年もの間居候をしていた左甚五郎。その政五郎が亡くなり、今は2代目のせがれの後見をしていますが、もともと旅が好きなため、まだ見ていない奥州・松島を見物しようと、伊達六十二万石のご城下・仙台までやってきました。

「おじさん、旅の人でしょ」と声をかけてきたのは、12、3歳の子どもです。「ああ、見ての通りだ」「どっかへ泊まるんでしょ、どうせ泊まるんなら、わたしのうちぃ泊まってくださいな」「おう、坊やは宿の客引きさんかい、どこへ泊まってもおんなじだ、じゃ今晩は、坊やんとこへ泊めてもらおうかな」「泊まってくれますか、でも、家はあんまり大きくありません。それに座敷もきれいじゃありません」「ああいいとも。一晩くらいなら、狭くっても、きたなくってもかまやしないよ」

「おじさん、寝るときに、ふとんを敷いたり掛けたりしますか?」「変なことを聞くなよ、宿屋へ泊まりゃ、ふとんを敷いたり掛けたりするの、あたりまえだろ」「じゃ、すいません、二十文ください」「前金かい?」「そういうわけじゃなくて、布団屋に借りがありますから、おあしを持ってかないと、布団貸してくれないんです。で、おじさん今晩寒い思いをしたくないと思ったら、二十文だしたほうがおためでしょ」「そうか、よしよし、わかった。正直でいいや、あいよ」「へい、すいません。ほんとうなら、家までおじさんを案内しなくちゃいけないんですけど、おじさんを案内したり、布団屋へいったりしてると、遅くなりますから、一人でいってください」

何かわけがありそうだと、子どもに教えられた道を行ってみると、「ねずみ屋」という宿屋はなるほどみすぼらしくて、掘っ建て小屋同然。いっぽう前にある「虎屋」という大きな旅籠(はたご)は、大繁盛しています。案内をこうと、顔を出した主人がいうには、自分は腰をぬかしてあまり動けないし、使用人もいないから、申し訳ないが、そばの川原で足をすすいでほしいというので、ますますびっくり。その上、子どもが帰ってきて、ご飯を炊いたり魚を焼いたりすると時間がかかるから、自分たち親子の分まで入れて寿司を頼まないかといい出します。甚五郎は苦笑して、寿司5人前と酒を用意するようにと、二分の金を渡しました。

年はもいかない子どもが客引きをしているのが気になって、それとなく事情を聞くと、この主人は、卯兵衛(うへえ)といって、もとは前の虎屋のあるじだったといいいます。5年前に女房に先立たれ、女中頭を後添いにしたのが間違いのもと。悪い女で、番頭と密通し、たまたま七夕の晩に卯兵衛が、二階の客のけんかを止めようとして階段から落ちて足腰が立たなくなり、寝たきりになったのを幸い、親子を前の物置小屋に押しこめ、店を乗っ取ったのだといいます。

「ふーん、世の中にはひどい奴がいるもんだね。で、『ねずみ屋』ってのはどういうわけで」「へぇ、虎屋は番頭に乗っとられましたが、こちらは物置でございまして、ねずみがたくさんおりまして、そこをせがれと私がのっとったようなもんですから、ねずみに義理をたてまして、『ねずみ屋』といたしました」「なるほど、おもしろい名前だね。ときに、おとっつぁん、端切れがあるかい」「鼻紙ならございますが」「鼻紙じゃない、端切れ、板っ切れのようなもんだよ」「へえへ、物置でございましたので、そういったものは、あそこの隅にたくさん…」「そうかい、一人でも二人でも、お客さまの気を引くように、あたしがねずみを彫ってみよう」「お客さまは、彫りものをなさるんですか。そういえば、まだ宿帳をおつけしていませんでしたが、ご生国はどちらで?」「飛騨の高山です」「お名前は?」「江戸日本橋橘町、大工政五郎内甚五郎、とつけてください」「えっ、あの…日本一の左甚五郎さまで」

金銀を山と積まれても、自分で仕事をしようという気にならなければ、のみを持とうとしない人ですが、一文の金にならなくても、自分がその気になったからには、魂を打ちこんで仕事にかかる人です。こうして、甚五郎は、一晩部屋にこもって見事な木彫りのねずみをこしらえ、たらいに入れて上から竹あみをかけさせ、ふらりと立ち去りました。

さあ、このねずみが、たらいの中で歩きまわるというので、『左甚五郎の福ねずみ』と評判になって、後から後から客が来て、たちまち「ねずみ屋」は大繁盛。新しく使用人も雇い、裏の空き地に建て増しするほどの勢い。逆に「虎屋」はすっかりさびれてしまいます。「虎屋」の主人は、なんとかねずみを動かなくしようと、仙台一の名工に大金を出して頼み、大きな木の虎を彫ってもらいました。それを二階に置いて「ねずみ屋」のねずみをにらみつけさせると、どうしたことか、ねずみはまったく動かなくなったのです。

この野郎と、怒った拍子に腰がピンと立った卯兵衛は、江戸の甚五郎に「あたしの腰が立ちました。ねずみの腰が抜けました」と手紙にしたためたところ、不思議に思った甚五郎、2代目政五郎を伴ってはるばる仙台にかけつけ、虎屋の虎を見ました。ところが、目に恨みをふくんでいて、それほどいい出来だとは思えません。そこでねずみに、「あたしはおまえに魂を打ちこんで彫ったつもりだが、あんな虎が恐いのかい?」というと、

「えっ、あれ、虎ですか? てっきり、あっしは猫だと思いました」


「2月23日にあった主なできごと」

1685年 ヘンデル誕生…バッハと並びバロック音楽の完成者といわれ、ドイツに生まれイギリスに帰化した作曲家 ヘンデル が生まれました。

1784年 漢委奴国王の金印…福岡県の小島・志賀島の農民が、田んぼの用水路で金印を発見し、黒田藩の殿様に差し出しました。そこには「漢委奴国王」と彫ってありました。金印は、1954年から「国宝」に指定されています。

1836年 アラモの戦い…アラモの砦に立てこもるデイビィ・クロケットら182人のアメリカ・フロンティア義勇軍に対し、3000人ものメキシコ正規軍が攻撃を開始し、義勇軍は13日後に全滅。ただし、メキシコ軍も大打撃を蒙り、この地にテキサス共和国ができることになりました。そして1845年、テキサスはアメリカ合衆国と合併、テキサス州となりました。

今日2月22日は、詩情あふれる森や湖の風景画、『真珠の女』などの人物画の傑作を描き、次代の印象派の画家たちに多くの影響を与えたフランスの画家コローが、1875年に亡くなった日です。

コローの生きていた時代のフランスは、革命、ナポレオン戦争、王政復古、プロシア・フランス戦争、パリコミューンなど、政治的にも社会的にも激動期で、多くの画家たちもその荒波に翻弄されましたが、コローは、79年の長い生涯を通じて、おだやかに、絵ひとすじに生き抜いた人でした。経済的に恵まれ、一生独身を貫き、無欲で友情にあつく、貧困と盲目のために悲惨な状態にあった親友のドーミエに家を買って与えたり、自身が死の床にあってもミレーの死を聞くと、家族に金を送ってやるほどの人情家でもありました。

1796年、パリの裕福な織物商人の子として生まれたカミーユ・コローは、学生時代はルーアンやパリ近郊の寄宿学校で学びました。コローは画家になることを望んでいましたが、父親が反対し、布地商人の見習いとなって修業をしました。1822年26歳の時、ようやく父の許しを得て画家を志し、当時のアカデミックな風景画家ミシャロンに師事しました。ところが指導を受けて数か月で亡くなったため、その師だった当時のフランス風景画の第一人者ベルタンに師事することになりました。

コローは生涯に3度イタリア旅行をしています。1回目の旅行はもっとも長く、画家を志した3年後の1825年からおよそ3年間、ローマとその近郊を中心に、べェネチアなどにも滞在しています。さらに1834年と1843年にもそれぞれ半年ほどイタリアに滞在したことで、自然から受ける感銘を、夢幻の雰囲気の中に表現するといった独自の風景画をあみ出し、コローの画業に決定的な影響を与えました。晩年に至るまでフランス各地を精力的に旅行し、各地の風景をキャンバスにとどめています。特にパリ郊外に父が購入した別荘に滞在したり、フォンテーヌブローの森のはずれにあるバルビゾン村をひんぱんに訪れて、ミレーらと交友を深めました。

コローは、初のイタリア旅行中のころから、画家の登竜門でもあるサロンに毎年のように出品していました。しかし、なかなか高い評価がえられませんでした。名声を手にしだしたのは、60歳をこえてからで、1848年にはコロー自身がサロンの審査員に任命されるまでになりました。1855年のパリ万国博覧会には6点の作品を出品し、グランプリを得ています。

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コローといえば風景画というイメージがありますが、晩年には『真珠の女』をはじめ『青衣の女』など人物画の名品をいくつか残しています。コロー独自の銀灰色の基調のなかに、手のしぐさや眼の輝きや唇の微妙な動きなど、心象表現をみごとに演出していると評価されていて、特に『真珠の女』は、ダ・ビンチの『モナリザ』をイメージした作品といわれ、ダ・ビンチが生涯『モナリザ』を手放さなかったように、コローも死ぬまでこの絵を客間に飾っていたそうです。


「2月22日にあった主なできごと」

622年 聖徳太子死去…用明天皇の第二皇子で、推古天皇(叔母)の摂政として、「17条の憲法」「冠位十二階」の制定など、内外の政治を立派に整えた飛鳥時代の政治家聖徳太子が亡くなりました。

1732年 ワシントン誕生…イギリスからの独立戦争で総司令官として活躍し、アメリカ合衆国初代大統領となったワシントンが生まれました。

1848年 フランス2月革命…フランスの首都パリで、選挙改革を求める集会が禁止されたことに抗議した労働者や学生がデモ行進やストライキを行ったことで、国王が退位して、第2共和制がスタートしました。革命はヨーロッパ各地に伝わり、ナポレオンの失脚後の「ウィーン体制」(1789年のフランス革命以前の状態を復活させる) の崩壊につながりました。

1989年 吉野ヶ里遺跡…佐賀県にある「吉野ヶ里」の発掘調査の結果が発表され、国内最大規模の弥生時代の環濠(かんごう)集落と大々的に報道されました。

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