児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年01月

今日1月17日は、明治後期から大正期の社会運動家で、一時、無政府主義者(アナキスト)として知られた大杉栄が、1885年に生まれた日です。

香川県に生まれた大杉は、父が軍人だったため、軍人をめざして名古屋にあった陸軍幼年学校に入りましたが、軍隊に疑問を感じ、上官に反抗したため退校となって上京しました。

1903年に東京外国語学校へ入学してから、足尾銅山の鉱毒事件に関心を持つうち、幸徳秋水堺利彦 らが興した平民社の社会主義運動に共鳴して、研究会に出席するようになりました。1906年には、日本社会党に参加、東京の市電の運賃値上げ反対運動で先頭にたって行動したために検挙され、入獄しました。出獄すると、ヨーロッパの社会主義運動に関心をいだくようになり、特にロシアの革命家でアナキズム(無政府主義…あらゆる権力や権威を否定して、個人の完全な自由を主張する考え)を掲げる理論家クロポトキンの理解者になりました。1907年、クロポトキンの著書を翻訳した「青年に訴ふ」が新聞紙条例違反となって再び収監されるなど、入・出獄をくりかえします。

1908年の赤旗事件では、堺や荒畑寒村らとともに2年半の懲役刑を受けました。この獄中でクロポトキンの影響からぬけだし、1910~11年の「大逆事件」(天皇暗殺を企てたという容疑で、幸徳秋水らが逮捕、処刑された事件) 後に出獄して、荒畑寒村と共に『近代思想』を創刊、資本主義に代わる新しい社会を提案するなど、「社会主義者の冬の時代」といわれる厳しい状況の中にあっても、労働運動・社会思想・進化論などについての著作や翻訳を次々に著し、積極的な活動をしました。

いっぽう、古い道徳に意識的に反抗してハイカラな服装をして「自由恋愛」を主張。新聞記者だった神近市子と結ばれ、ついで婦人解放家・作家の伊藤野枝(のえ)とも結ばれましたが、このような恋愛関係に同志たちからも批判を受け、1916年には神近に刺されるという事件を引き起こすなど、話題を集めました。

そんな大杉の思想や行動が、保守主義者たちの反感を買ったのでしょう。1923年、関東大震災後の戒厳令下の混乱の中、憲兵大尉らによって、伊藤野枝、6歳の甥とともに、殺害されたのでした。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、大杉栄の著作を、13点読むことができます。


「1月17日にあった主なできごと」

1706年 フランクリン誕生…たこを用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしたばかりでなく、アメリカ独立に多大な貢献をした政治家・著述家・物理学者・気象学者として多岐な分野で活躍した フランクリン が生まれました。

1991年 湾岸戦争勃発…アメリカ軍を主力とする多国籍軍は、クウェートに侵攻したイラク軍がこの日に設定されていた撤退期限が過ぎてもクウェートから撤退しなかったため、クウェートのイラク軍拠点に攻撃を開始し、1か月あまりにおよぶ湾岸戦争が勃発しました。

1995年 阪神・淡路大震災…午前5時46分、淡路島北部を震源とする巨大地震が発生しました。神戸市・芦屋市・西宮市などで震度7の激震を記録、神戸市を中心に阪神間の人口密集地を直撃して、鉄道・高速道路・港湾等の交通機関や電気・水道・ガスのライフラインが壊滅状態となりました。自宅を失なって避難した人は30万人以上、死者6400人以上、負傷者43000人余、倒壊・損壊家屋は40万棟を越える大惨事となりました。

今日1月14日は、江戸時代後期・幕末期の砲術家として活躍した高島秋帆が、1866年に亡くなった日です。

高島秋帆は1798年、長崎の代々町年寄(町政をあずかる役)の子として生まれました。高島家が、日本で唯一の海外と通じることができた出島に出入りできる家柄だったため、秋帆は、父の代から研究のはじまった砲術を学びはじめました。

出島に入る外国の情報を知るうちに秋帆は、日本砲術と西洋砲術のあまりの差にがくぜんとしました。そこで、出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学び、私費で銃器などをそろえ、1834年に「高島流砲術」を完成させました。さらにこの年、門弟を集めて砲術の塾を開きました。佐賀藩の領主鍋島茂義も門人のひとりで、免許皆伝を与えるとともに、自作第1号の大砲を1835年に献上しています。

1840年、清が「アヘン戦争」でイギリスに敗れたことを知った秋帆は、洋式砲術の必要性を訴える意見書を、幕府に提出しました。幕府も、しばしば日本近海に現われる外国船に頭を悩ませていたため、老中・水野忠邦は、1841年、武州徳丸ヶ原(現・東京板橋区高島平)で、秋帆に日本初となる洋式砲術と洋式銃の公開演習を行なわせました。

この演習は大成功をおさめ、秋帆は幕府からは砲術の専門家として重用され、江川英龍らに砲術を伝授させました。ところが、秋帆をねたんだ者が、「秋帆は密貿易をし、外国兵を受け入れようとしている」という訴えをおこしたことで、秋帆は1842年、伝馬町の獄に投ぜられ、高島家は断絶となってしまいました。

1853年、ペリー の黒船による来航という社会情勢の変化により、秋帆は赦免されて出獄することができました。そして、処罰を覚悟の上で「海防が不備ではアメリカとは戦えない」と老中の阿部正弘に進言するなど、再び活動を開始しました。1855年、幕府の講武所の教授方頭取として品川砲台を完成させ、1857年には砲術指南役となって江川太郎左衛門らを育てるなど、65歳で亡くなるまで、軍政面で力をつくしました。


「1月14日にあった主なできごと」

1602年 狩野探幽誕生…日本画を代表する狩野派の、江戸幕府代々の御用絵師として栄える基礎を築いた 狩野探幽 が生まれました。

1843年 新島襄誕生…同志社を設立するなど、明治の初期に教育者・宗教家として活躍した 新島襄 が生まれました。

1875年 シュバイツァー誕生…アフリカの赤道直下の国ガボンのランバレネで、生涯を原住民への医療などに捧げたドイツの神学者・医師 シュバイツァー が生まれました。

1898年 ルイス・キャロル死去…イギリスの数学(幾何学)者でありながら、『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』 などファンタジーあふれる児童文学作品を著したルイス・キャロル(本名ドジソン)が亡くなりました。 

1925年 三島由紀夫誕生…ちみつな構成と華麗な文体で人気のあった作家でありながら、アメリカに従属する日本を憂えて自衛隊の決起をうながすも受け入れられず、割腹自殺をとげた 三島由紀夫 が生まれました。

1950年 ベトナム民主共和国再独立宣言…1945年9月、ホーチミン を大統領とするベトナム民主共和国が独立を宣言し、東南アジア最初の共産主義国家として独立しました。しかし、翌年支配国だったフランスが待ったをかけ、8年にもわたる第1次インドシナ戦争に突入、1949年6月、「ベトナム国」(南ベトナム) がサイゴンを首都に成立しました。この日ホーチミンは、ベトナム国に対抗して「ベトナム民主共和国」(首都ハノイ・北ベトナム)として再独立を宣言したものです。なお1976年、北ベトナムは南ベトナムを吸収、ベトナム民主共和国は「ベトナム社会主義共和国」となって統一をはたし、現在に至っています。

1953年 チトー大統領…独立まもないユーゴスラビアは、この日ユーゴ解放の国民的英雄 チトー を大統領に選びました。チトーの指導のもとに、非同盟中立という、社会主義国ばかりでなく資本主義国とも手をつなぐという独自の方針を貫き、6つの共和国をまとめあげました。しかし、1980年チトーの死とともに、共和国間の紛争があちこちでおこり、1991年「クロアチア」「マケドニア」「スロベニア」、1992年「ボスニア・ヘルツェゴビナ」が独立、2003年にユーゴスラビアは、セルビア・モンテネグロとなって独立、2006年には「セルビア」と「モンテネグロ」に分離したため、旧ユーゴスラビアは、「クロアチア」「マケドニア」「スロベニア」「ボスニア・ヘルツェゴビナ」「セルビア」「モンテネグロ」の6か国になっています。

今日1月13日は、『唐獅子図屏風』『洛中洛外図屏風』『山水花鳥図』など、室町時代から江戸時代まで日本画壇の中心だった[狩野派]を代表する狩野永徳(かのう えいとく)が、1543年に生まれた日です。

ふすま、障子、屏風(びょうぶ)、壁などにえがかれた絵を、障壁画といいます。織田信長が天下取りの夢を果たしかけた1575年から、豊臣秀吉が死んで徳川家康が天下を統一する1600年までの安土桃山時代は、この障壁画がもっとも栄えた時代です。

信長や秀吉は、自分の力をしめすために城や寺を盛んに建て、一流の絵師に、障壁画の腕をふるわせました。狩野永徳は、この時代を代表する絵師です。

永徳は、日本画で有名な狩野派を受けついできた家に生まれました。父の松栄も、祖父の元信も、すぐれた絵師でした。とくに、狩野派の基礎をきずいた元信は、仕事にたいへんきびしく、仕事中は、たとえ大名がたずねてきても「絵師が筆をとっているときは、武士が真剣勝負をしているときと同じだ」と、応待にも出なかったという話が残っているほどです。

永徳は、幼年時代から、このきびしい祖父の教えをうけ、16歳のときに祖父を失ったころには、すでに狩野派の絵師として世に知られていました。そして20歳をすぎると、貴族の家や寺院の障壁画に、父松栄をしのぐ筆をふるうようになりました。

33歳のとき、永徳の名を天下一にする機会がおとずれました。信長がきずいた安土城の5層7重の天守閣に、障壁画をえがくことを命じられたのです。永徳は、金箔を張りつめた大障壁に力づよい筆を走らせ、信長に「これこそ天下に二つとないものじゃ」と、うならせました。

信長が本能寺で明智光秀に殺されてからは、秀吉に重く用いられ、大坂城や聚楽第の障壁も、永徳の筆でかざりました。また、大きな屋敷を建てた大名たちにもまねかれて、数おおくの絵をえがきました。壁やふすまなどをかざった松、梅、人物などは、実物に近いほどの大きさのものもあり、その雄大さや迫力は、戦乱の世に生きる武将たちの心をとらえてはなしませんでした。眼光のするどい唐獅子が岩のあいだをのし歩く『唐獅子図屏風』(下の絵) などは、おそろしいほどの力にあふれています。

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しかし、この作品のほか、織田信長が上杉謙信におくったとされる『洛中洛外図屏風』、京都の大徳寺聚光院の『山水花鳥図』などをのぞくと、永徳の絵とはっきりしているものは、ほんのわずかしか残っていません。おおくは、武士の争いで焼け失せてしまったとみられています。

永徳は、1593年に父よりも2年早く、47歳で世を去りました。このとき絵師からも武士からも、その早い死が惜しまれたということです。まさに日本画壇を代表する天才的画家の一人でした。


「1月13日にあった主なできごと」

1199年 源頼朝死去…武士による初めての政権となった鎌倉幕府の初代将軍 源頼朝 が亡くなりました。

1653年 玉川上水…江戸幕府は急増する江戸市民の水を補うために、町人(玉川)清衛門、庄衛門兄弟に建設を命じました。多摩川上流の羽村から四谷まで50km余に水を通す出す大規模な難工事で、翌年6月、江戸市内に流れこんだ清流に、江戸市民は躍り上がって喜びました。江戸の人口は、17世紀末には100万人に達し、ロンドンやパリを越えて世界一だったそうです。

1860年 咸臨丸出港…江戸幕府のオランダから購入した洋式軍艦咸臨丸は、この日品川沖からアメリカに向けて出港しました。勝海舟 を艦長に、福沢諭吉、中浜万次郎 らをのせて、初の太平洋横断に成功しました。
 
1864年 フォスター死去…「オールドブラックジョー」「故郷の人々」など数多くの歌曲を作曲したアメリカを代表する作曲家 フォスター が亡くなりました。

1935年 ザールがドイツ復帰…ドイツとフランスの国境にあり良質な石炭に恵まれ鉄鋼業や工業が盛んだったザール地方は、第1次世界大戦後ドイツ本国から分離され、フランスの保護領になっていました。この日の住民投票の結果、ドイツへ復帰、ヒトラーはこれをナチスの勝利として、さらに領土拡大のために軍備を整えていきました。

今日1月12日は、『オリエント急行の殺人』『ナイルに死す』『そして誰もいなくなった』など、数々の話題作を著したイギリス生まれの推理作家アガサ・クリスティが、1976年に亡くなった日です。

アガサ・クリスティは、1891年にイギリスの南西部の港町トーキィに、アメリカ人実業家の父、イギリス人の母との三人兄弟の末っ子に生まれました。姉と兄はアガサよりも10歳近く年が離れていため、兄弟で幼少期を共にする機会がほとんどありませんでした。

アガサの母は、少し変わった価値観を持つ人で、アガサに正規の学校教育を受けさせなかったばかりか、[7歳になるまでは字が書けない方が良い] と信じるような人でした。そのためアガサは、満足に文字が書けず、友人のいないアガサは、使用人やメイドと遊んだり、家の庭園で空想上の友人との一人遊びをして過ごすなど、内気な少女に育っていきました。しかし、母の指導で、父の書斎にあるさまざまな書籍を読みふけるようになり、幅広い知識を得て、深い教養を身につけることができたのは幸いでした。

15歳のとき、短期間でしたが一家でフランスに移住し、礼儀作法を教える私学校に入ってピアノやダンス、演劇や音楽を学びました。結局アガサは、正規の教育は受けさせてもらえませんでしたが、アガサ自身は、母親を誇りにしていたようです。

やがてアガサは、姉の影響を受けて推理小説に興味を持ちはじめ、24歳のときにクリスティ大佐と結婚してから、推理小説を書きはじめました。初めての小説は、1920年の『スタイルズ荘の怪事件』で、作家としての第一歩を踏み出しました。

その後、父の破産と病死、自身の離婚、そして考古学者との再婚など、さまざまな出来事を乗り越えながら、アガサは小説家として精力的に作品を発表していきました。その作品の多くは、結末の大どんでん返しによって読者をあっといわせるもので、アメリカのエラリー・クイーンらとともに、推理小説の黄金時代を築き上げました。

85歳で亡くなるまでに、アガサが書き下ろした作品は、長編小説66作、中短編小説156作、戯曲15作などで、中でも『アクロイド殺し』『オリエント急行の殺人』『ABC殺人事件』『そして誰もいなくなった』他は、今なお世界じゅうで版を重ね続けています。ギネスブックは、アガサの著作の販売実績は全世界で10億冊以上、[史上最高のベストセラー作家] に認定しています。

なお昨年は、アガサ・クリスティ生誕120周年に当たり、NHKのBS放送では9月に、アガサ関連の映画を大挙して放送しました。


「1月12日にあった主なできごと」

1628年 ペロー誕生…「長靴をはいたねこ」「眠り姫」「サンドリヨン(シンデレラ)」など、ヨーロッパに伝わっている民話を題材に11のお話を「ガチョウおばさんの物語」という本に著したフランスの詩人、童話作家のペローが生まれました。

1746年 ペスタロッチ誕生…スイスの片田舎で孤児や貧民の子らへの教育に従事するなど、子どもたちへの愛の教育を貫いた ペスタロッチ が生まれました。

1866年 河口慧海誕生…中国や日本に伝承された漢訳の仏典に疑問をおぼえ、仏教の原典を求めて単身ネパールや鎖国中のチベットに入った、仏教学者で探検家の 河口慧海 が生まれました。

1914年 桜島が大噴火…鹿児島の桜島が大爆発をおこし、流失した30億トンという大量の溶岩で、これまで島だった桜島は対岸の大隈半島と陸続きになりました。

今日1月11日は、『スイスのロビンソン一家』のお話をこしらえたスイスの児童文学者で牧師のウィースが、1818年に生まれた日です。

1742年、スイスのベルンに生まれたヨハン・ダビット・ウィースは、ベルン大学で神学と哲学を学んだのちに牧師となりました。長男ルドルフら4人の息子をもうけ、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』をヒントに、自分の一家が同じような遭難をしたことを想定したお話『スイスのロビンソン』を書いて、息子たちに話して聞かせました。

『ロビンソン・クルーソー』は、たった一人で無人島に流れ着き、そこでの生活をする話ですが、この『スイスのロビンソン』は、一家6人がいっしょに暮らすところが大きな違いといえます。

牧師で冒険話の語り手である父親、母親、そして4人の男の子(16歳のフリッツ、14歳のエルネスト、12歳のジャック、9歳のフランシス)の一家6人は、帆船でオーストラリアへ向かう途中で難破してしまいました。彼らは、たるを切っていかだをこしらえ、座礁した船から荷物や、犬・乳牛・ヤギなど動物たちを連れて、南海の孤島にたどりつき、島を「新スイス」と名づけて暮らすところからはじまります。

こうして10年近くものあいだ、ありあわせの道具や、島の中で見つけられたものを使って、島をくまなく探険し、手に入ったものを有効に活用していきました。大きな木の上に「タカの巣」と呼ぶ安全な家をつくり、狩りや魚釣りをし、質素であっても快適な生活を楽しむようになっていきます。子どもたちはみな、りっぱな青年に成長していきました。強くて勇敢なばかりでなく、さまざまな学問にもよくはげみました。

ある日、狩りに出かけたフリッツは、1羽のアホウドリの足に手紙がくくりつけてあるのに気がつきました。それがきっかけになって、イギリス人の少女ジェニーと出合います。ジェニーは、3年前に漂着し岩穴の中で、たったひとり暮らしていたのでした。ジェニーはロビンソン家の一員となり、いっそう充実した時間が流れました。

大きな嵐が止んだある朝、イギリス船が島にやってきました。ジェニーを探していたのでした。こうして7人の家族は、国へもどるかどうか、長い間話し合いました。両親と、ジャックとエルネストはこの島「新スイス」に留まって、ここで生活する決心をしました。フリッツとフランシスは、両親たちと別れ、ジェニーと共にヨーロッパに戻る決意をするのです……。


この作品はあくまで、ウィースが息子たちのために執筆されたものでした。これが陽の目をみるようになったのは、のちにベルン大学の哲学教授となった長男ルドルフが、父から聞いた話を整理して、ドイツ語で出版したことからでした。刊行されるや大評判となり、ヨーロッパを中心に大きなブームをひきおこしました。今もこの作品は、『アルプスの少女ハイジ』と並び、スイスの古典的な児童文学作品として、世界じゅうで愛読されています。

なお、『スイスのロビンソン』(抄訳版)は、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「レディバードブックス100点セット」の日本語訳で読むことが出来ます。作品は、1981年に『ふしぎな島のフローネ』(日本アニメーション制作 / フジテレビ系)というタイトルで50話にわたって放送され、好評を博したテレビアニメの原作でもあります。 


「1月11日はこんな日」

鏡開き…歳神様へおそなえしておいた鏡餅を、神棚からおろして雑煮や汁粉にして食べる「鏡開き」の日です。餅は、刃物で切らずに、手で割り開いたり木槌でわったり砕いたりします。武家社会の風習が一般化した行事です。


「1月11日にあった主なできごと」

1569年 謙信が信玄に塩を贈る…5度にわたる「川中島の戦い」を、甲斐(山梨)の 武田信玄 と戦った越後(新潟)の 上杉謙信は、敵である信玄に塩を贈りました。陰謀で塩を絶たれて困っていた武田方を救うためで、このいい伝えから「敵に塩を贈る」ということわざが生まれました。

1845年 伊能忠敬誕生…江戸時代後期の測量家で、日本全土の実測地図「大日本沿海輿地(えんかいよち)全図」を完成させた 伊能忠敬 が生まれました。

1851年 太平天国の乱…清(中国)のキリスト教徒である 洪秀全 が「太平天国」を組織して反乱をおこしました。4、5年後には数十万人もの兵力にふくれあがり、水陸両軍を編成するまでに至りましたが、1864年に鎮圧されました。

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