児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2011年01月

今日1月31日は、世界じゅうの子どもたちや大人に大人気の『クマのプーさん』シリーズを著したイギリスの児童文学者・詩人のミルンが、1956年に亡くなった日です。

1882年にロンドンで生まれたアラン・アレクサンダー・ミルンは、子どもの頃に『透明人間』などの作品で「SFの父」といわれたウェルズの教えを受けて、啓蒙されたいわれています。ケンブリッジ大学を卒業後は、1906年から8年間にわたりユーモア誌『パンチ』の編集助手になりました。その後、軍隊に入りますが、第1次世界大戦後にふたたび『パンチ』誌に復帰しながら、作家として軽妙なエッセイや戯曲、推理小説『赤い館の秘密』などを著しました。

しかし、ミルンを有名にしたのは、40歳を過ぎてから著した『クマのプーさん』シリーズです。たまたまミルンに男の子ができ、子どもの心の世界を身近にみつめるチャンスができたことで、自身の幼いころの体験を思いだしながら、作家として技術を駆使してえがいた作品群で、シリーズは、童話集『くまのプーさん』『プー横丁にたった家』、童謡集『クリストファー・ロビンのうた』『クマのプーさんとぼく』の4点です。

「500エーカーの森」に暮らす、くまのプーさんと、友だちのクリストファー・ロビン(長男の名)、コブタ、ろばのイーヨー、はねっかえりとらのトラー、カンガルーのカンガやルー、ふくろうのフクロ、ウサギやモモンガらがくりひろげるお話の数々は、空想と現実がたくみに混じりあいながら、明るくユーモラスに展開し、子どもたちを魅きつけて離しません。

主人公のプーさんは、ハチミツが大好物な食いしん坊のぬいぐるみ(テディベア)。自称「すこし頭のよわいくま」で、失敗ばかりしています。そこから、とぼけたユーモアや、ゆかいな機知が生まれてきます。そして、どの動物たちも生き生きとした個性にあふれていて、童話というより「魔法のオモチャ箱」「詩情あふれるファンタジー」といった印象です。

たとえば、「ハチミツの木」という、こんなお話があります。
ある日、プーはかしの木のてっぺんに、ミツバチの巣を見つけます。「ハチミツが取れる」と思ったプーは、長いこと考えて、青い風船にぶらさがって飛び上がり、ミツバチに黒い雲だとだまして、ミツをとろというのです。ところが、ミツバチは疑り深そうに、プーの頭のまわりをぶんぶん飛びます。「ロビン! こうもり傘を持ってますか。それをさして、ちぇっ、雨らしいぞっていいながら歩いてください。そうすれば、ミツバチはほんとの雲だと思うでしょうから」ロビンは、おかしなプーだと笑いながらも、いう通りにしました。プーはなんとかハチミツを手にしましたが、どうして下へおりてよいかわかりません。あわてているプーを見て、ロビンは、おもちゃの銃で風船を撃って穴をあけたため、プーはやっと下りることができました。危険な体験をした日でしたが、ハチミツをいっぱい食べられて、プーにはよい一日でした…。

シリーズの挿絵は、アーネスト・シェパードによってペンとインクで描かれた名品ぞろいで、これらは子どもたちよりも、大人に人気があります。また、シリーズを原作としたディズニー社のアニメーション作品も存在し、こちらは『くまのプーさん』となっています。


「1月31日にあった主なできごと」

1797年 シューベルト誕生…『ぼだい樹』『野ばら』『アベ・マリア』など600曲以上もの歌曲や、『未完成交響曲』などの交響曲や室内楽曲、ピアノ曲などを作曲した シューベルト が生まれました。

1947年 ゼネスト中止命令…激しいインフレを背景に生活を脅かされた労働者たちは、共産党の呼びかけで2月1日にゼネスト決行を計画しましたが、マッカーサーGHQ総司令官は、ゼネストは日本経済を破滅においやると、中止を指令しました。

1958年 アメリカ初の人工衛星…前年にソ連に先を越されたアメリカは、初の人工衛星エクスプローラ1号の打ち上げに成功しました。

「おもしろ古典落語」の5回目は、『三方一両損(さんぽういちりょうぞん)』(または『大岡裁き』) をお楽しみください。

(神田白壁町の長屋に住む左官の金太郎は、ある日柳原の土手で、神田堅大工町の大工・熊五郎名義の印形と書付、三両入った財布を拾いました。金太郎は、さっそく家を訪ねて届けたところ、へんくつで宵越しの金を持たない主義の熊五郎は、印形と書付はもらっておくが、おれを嫌って勝手におさらばした金なんぞ受けとるわけにはいかねぇ、といい張って聞きません。

親切心で届けてやったのを逆にすごむ熊五郎に、金太郎も頭にきて、大げんかになります。騒ぎを聞きつけた熊五郎の大家が止めに入りますが、かえってけんかが飛び火して、熊が「この逆蛍(はげ頭)、店賃はちゃんと入れてるんだから、てめえなんぞにとやかくいわれる筋合いはねぇ」と毒づいたから、大家もカンカン。こんな野郎はあたしが召し連れて訴えをするから、今日のところはひとまず帰ってくれといわれました。

腹の虫が納まらないまま金太郎は自分の長屋に引き上げ、大家に報告すると、こちらの大家も、向こうから先に訴えられたんじゃあ、てめぇの顔は立ってもおれの顔が立たないと、急いで願書を書いて南町奉行所に訴えます。後日、奉行所から呼び出しがかかり、それぞれの大家は、熊五郎と金太郎を連れて、奉行所のお白洲へ。こうして名奉行、大岡越前守のお裁きがはじまります)

「大工熊五郎とは、そちのほうか。そのほうが去(い)んぬる日、柳原において金子(きんす)三両、印形、書付を取り落とし、これなる左官金太郎なるものが拾いとり、そのほう宅へ届けつかわしたるところ、金子を受け取らず、乱暴にも金太郎を打ちちょうちゃくに及んだという願書の趣であるが、それに相違ないか」

「へぇ、どうもあいすいません。わざと落としたわけでもなんでもねぇ、つい粗相で落としてしまったんで、勘弁しておくんなせぇ。なーに、落っこったぐれぇはわかってますがね、そこは江戸っ子ですから、うしろをふりかえったり、拾ったりすりゃ、傍で見ていてみっともねぇことをしやぁがると、こう思われやしねぇかと、こんなめでたいことはない、久しぶりにさっぱりしていい心地だと、家へ帰って鰯の塩焼きで一杯やってると、いきなりこの野郎がやってきやがって、お節介にも『これは、てめえの財布だろ? おれが拾ったんだ。さぁ、中をあらためて受け取れ』ってぬかしやがるんで、『印形と書付はもらっとくが、銭はいったんおれの懐から出たもんだから、おれのもんじゃねぇ、だから持ってけ』てぇいったんですが、こいつがどうしても持っていかねぇで…だから『持ってかないとためにならねぇぞ』と、こいつのためを思って親切にいってやりますとね、こいつは人の親切を無にしやがって、どうしても持ってかねぇと強情をはるもんですから、『このやろう、まごまごしてやがると、ひっぱだくぞ』というと『殴れるもんなら殴ってみろ』ってんで、当人がそういうものを、殴らねぇのも角が立つだろうと思って、ポカリっ…と」

「さようか、おもしろいことを申すやつじゃ…、さて左官金太郎、そのほう、なにゆえそのみぎり、金子、熊五郎より申し受けぬのじゃ」「おいおいお奉行さん、みそこなっちゃいけねぇぜ。金はたった三両だよ。そんな金を猫ババするようなそんなさもしい了見をこっちとら持っちゃいねぇよ。そういう了見なら、あっしはいま時分、棟梁になってるよ。どうかして棟梁になりたくねぇ、人間は金を残すようなめにあいたくねぇ、どうか出世するような災難にあいたくねぇと思わばこそ、毎朝、金比羅さまへお灯明をあげて…それを、お奉行さまでも、その金をなぜ受け取らぬとは、あんまりじゃねぇか」

「よい、しからば両人とも金子は受け取らぬと申すのじゃな。…ならば、この三両は、越前が預かりおくが、よいか? ついては、そのほうどもの正直にめで、両人に改めて二両ずつ、ほうびをつかわすが、この儀は受け取れるか」「恐れながら家主より、当人に成り代わって御礼を申し上げます。町内よりかような者が出ましたことは、誉れでございます。ありがたく頂戴いたします」

「両人にほうびをつかわせ。…双方とも受けてくれたか、このたびの調べ、三方一両損と申す。わからんければ越前守申し聞かせる。これ、熊五郎、そのほう金太郎の届けしおり、受け取りおかば三両そのままになる。金太郎もそのおりもらいおかば三両ある。越前守も預かりおかば三両、しかるに越前一両を足し、双方にニ両ずつつかわす。いずれも一両ずつの損と相成る。これすなわち三方一両損と申すのじゃ、あいわかったか。あいわからば、一同立て…待て待て、だいぶ調べに時を経たようじゃ、定めし両人空腹に相成ったであろう。ただいま両人に食事をとらす…」(二人はめでたく仲直りし、豪華で美味な食事をごちそうになります)

「うーん、こいつはうめぇや、おめぇも食ってるか? これから腹がへったら、二人でちょいちょいけんかして、ここへ来ようじゃねぇか」「こりゃこりゃ、両人、いかに空腹だとて、腹も身のうちじゃ、あまり食すなよ」

「えへへっ、多かぁ(大岡)食わねえ、たった一膳(越前)」


「1月28日にあった主なできごと」

712年 古事記完成…太安万侶 が元明天皇に「古事記」を献上しました。「古事記」は「日本書紀」と並ぶ古代の2大歴史書の一つで、稗田阿礼が記憶していた歴史を、安万侶がまとめあげたものです。

1547年 ヘンリー8世死去…イングランド王で、カトリック教会から離れ、イングランド国教会の首長となったことで知られる ヘンリー8世 が亡くなりました。

1582年 天正少年使節…九州のキリシタン3大名大友宗麟、有馬晴信、大村純忠は、伊東マンショら少年4名を「天正少年使節」として、ローマ法王に謁見させるため、長崎の港から送り出しました。

1687年 生類憐れみの令…江戸幕府第5代将軍 徳川綱吉 は、この日悪名高き「生類憐れみの令」を出し、亡くなるまでの23年間にわたり人々を苦しめました。犬や猫、野生の鳥獣保護ばかりでなく、食用の魚貝類やにわとりまでも飼育したり売買を禁止しました。

1912年 南極に日章旗…白瀬矗(のぶ)率いる南極探検隊が、南緯80度付近に日章旗をかかげ「大和雪原」と命名しました。のちに、この地は氷上であって、南極大陸ではないことが判明しました。

今日1月27日は、『十五夜お月さん』『七つの子』『しゃぼんだま』などの童謡や『波浮の港』『船頭小唄』などの歌謡の作詞家として、今も歌われる名品の数々を残した野口雨情が、1945年に亡くなった日です。

1882年、茨城県北部(現・北茨城市磯原町)の廻船問屋を営む名家の長男として生まれた野口雨情は、東京専門学校(現・早稲田大学)に入学して、坪内逍遥の指導を受けました。また、同窓の三木露風らに刺激されて、詩を作りはじめますが、1年余りで中退。やがて、小川芋銭らと交わって社会主義の影響を受けて労働雑誌に詩を寄稿、1905年には、日本初めての創作民謡詩集『枯草』を自費出版、1907年には三木露風らと早稲田詩社を結成するなどの活動をしますが、いまひとつ満足できないものがあったのでしょう。その後しばらくは詩作から遠ざかり、北海道へ流浪の旅にでました。

新聞記者となって『小樽日報』に勤務していたときには、同僚の 石川啄木 と交友を結んでいます。さらに雨情は、最果ての地である樺太に渡り、そこで綴った詩を、東京の雑誌社へ送りつづけましたが、中途半端なものでした。旭川の新聞社勤務後に雨情は、東京にもどって、小川未明のところに身を寄せたりしていましたが、やがて帰郷しました。

1918年、鈴木三重吉 が、子どもの文学の大切さを世の中に広く訴えて発刊した児童雑誌『赤い鳥』が話題となり、童話や童謡を中心とした運動が高まりをみせました。これに刺激されて雨情は、水戸で雑誌『茨城少年』を創刊、翌1919年には、再度上京して『都会と田園』を発表して詩壇に復帰、『船頭小唄』を作って中山晋平に頼んだのもこの年のことでした。すでに38歳になっていた雨情の詩魂が開花をはじめるのは、これがきっかけでした。

雨情は、創刊されたばかりの児童雑誌『金の船』へ、『十五夜お月さん』など話題となる童謡を次々と発表、1920年には『金の船』童謡欄の選者となり、これ以降、雨情の童謡には、ほとんどの詩に曲がつくようになって、1921年には『七つの子』『赤い靴』『青い眼の人形』(共に本居長世作曲)が発表されました。こうして、大正デモクラシーの自由な空気の中で、今も歌い継がれる普遍的な愛をうたった創作童謡群の中心となって活躍するようになったのです。そして、北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人といわれるようになりました。

その後の雨情は、童謡とともに盛んになった「新民謡」(創作民謡)にも力を注ぎ、1935年には日本民謡協会を再興して理事長に就任しています。また、日本各地を旅行し、その地の民謡(ご当地ソング)を数多く創作しました。1945年、疎開先の宇都宮市近郊で亡くなりましたが、63年の生涯の中で、2000余編にのぼる詩を残したといわれます。

なお、弊社で刊行した「みんなのおんがくかい」(絵本12冊・CD12枚)には、母から子へと歌い継がれてきた珠玉の童謡120曲がおさめられていますが、雨情の作詞による『七つの子』『赤い靴』『青い眼の人形』『しゃぼん玉』『こがね虫』『あの町この町』『雨降りお月さん』『証城寺のたぬきばやし』『うさぎのダンス』『俵はごろごろ』以上10曲を、歌唱・絵・詞・解説つきで収録しています。

また、オンラインブック「青空文庫」では、雨情のたくさんの詩やエッセイを読むことができます。


「1月27日にあった主なできごと」

1219年 源実朝死去…鎌倉幕府の第3代将軍で、歌人としても著名な 源実朝 が、兄の2代将軍頼家の子公暁に暗殺されました。公暁も殺され、源氏の血が絶えてしまいました。

1756年 モーツァルト誕生…ハイドンやベートーべェンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人であるオーストリアの作曲家 モーツァルト が生まれました。

1832年 キャロル誕生…イギリスの数学(幾何学)者でありながら『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』 などファンタジーあふれる児童文学作品を著したキャロル(本名ドジソン)が生まれました。

1902年 八甲田山遭難事件…日本陸軍の歩兵隊が青森県八甲田山で冬季訓練中に遭難し、訓練への参加者210名中199名が死亡。軍の無謀な訓練が問題になりました。

「おもしろ古典落語」の4回目は、人気の高い一席『大山詣り(おおやまいり)』です。大山は丹沢山塊の東にあり、1253メートルの山の中腹にある神社は、商売繁盛にご利益があるということで人気のスポットでした。

(長屋の連中が大家の吉兵衛を先達に、大山詣りに出かけることになりました。去年もでかけましたが、熊さんが酒に酔って、けんかざたをおこしたために、今年は、怒ったら二分の罰金、けんかをすると丸坊主にするという罰則を決めます。行きはまず何事もなく、無事に山から下り、帰りの東海道は神奈川宿に泊まりました。ところが、江戸に近づくと、みんな気がゆるんで大酒を食らい、大家が心配しているところへ、熊が風呂場で大立ち回りをやらかしたという知らせがきました。ぶんなぐられた留が、今度ばかりはどうしても野郎を坊主にすると息巻くのを、江戸も近いことだからと大家はなだめますが、みんなの怒りは収まらず、暴れ疲れてぐっすり寝こんでいる熊の頭を、クリクリ坊主にしました。翌朝、目を覚ました熊は、「ゆんべのことは何一つ覚えていないが、それにしてもひでえことをしやがる」と頭に来て、そそくさと支度をするや駕籠を仕立て、途中でのんびり道中の長屋の連中を追いこして、江戸の長屋へ帰りました)

「おう、今帰ったぜ」「あら、お帰んなさい。ばかに早かったね。いま、みんな集まって、これから品川まで迎えに行くところだったんだよ」「迎えに? そいつはちょっと待ってくんねぇ。それより、こんど行った連中のかみさんたちを家へ集めてもらいたいてぇんだ。いやいや事情はあとで話すから、急いでみなさんのお耳にいれたいことがありますから顔を出してくれってな」「そうかい、じゃ、呼んでくるよ」

「おや、熊さんお帰んなさい」「おやおや、皆さん、ごいっしょで…、何しろ家が狭ぇから両方に分かれてすわってくんねぇ」「熊さん、どうしたの、頭に手ぬぐいなんか巻いて」「ええ、この手ぬぐいについちゃ、事情(わけ)ありなんで…、実は、みんなの顔を見るのも面目なくて口も聞けねぇ始末なんだ。どうかまぁ、話をしまいまで、何にもいわずに聞いていただきてぇんで…。

いや今年のお山は、いいお山でした。天気も都合いいし、無事済んで、さぁこれから江戸へ帰ろうってんで藤沢へきたとき、だれがいい出したともなく、金沢八景を見よう、とこういうんだ。八景を見たあと、せっかくここまで来たんだから、舟に乗って米が浜のお祖師さんへお詣りしようってことになった。ところが、虫が知らせたのか、舟に乗ろうというときになって、おれはどうも腹ぐあいが悪くってしょうがねぇから、舟宿で寝てることにした。みんなゆっくり遊んできてくれ、と待っていたところが、まもなく、土地の漁師の話だ。…舟が烏帽子島のちょっと先へ出た時分、急に黒い雲が出たと思うと、疾風(はやて)がものすごい勢いで吹き、波は高くなって、舟は大きな横波をまともに受けて横っ倒し…まぁ騒いじゃいけねぇ、静かにしてくんねぇな…。

漁師の話によると、江戸の人たちの舟がひっくりかえったと、浜辺の者が手分けしてあっちこっちを捜しまわったが、死骸もわからねぇ…、さっきまで一つの鍋のものを食い合った友だちが死んじまって、おれ一人、のめのめと江戸へ帰ぇれるもんじゃねぇ…みんなの後を追って、海へ飛びこんで死のうとは思ったけれど、江戸で首を長くして亭主を待っているおめえさんたちのことを思うと、このことを知らせなくちゃぁと、恥をしのんで帰ってきたんだ」

「あらまぁ…だから、あたしゃ、今年はやりたくなかったんだよ。けどねぇ、やらなければみんなに嫉妬(やきもち)のように思われるからやったんじゃないか…わぁー」「まぁ、まぁ、泣くのはおよしよ。泣くのはちょいとお待ちったら、なんだねぇ、そんな大声を上げて…この人のあだ名を知ってるかい? この人はホラ熊、チャラ熊、千三つの熊なんていわれているじゃないか…ちょいと熊さん、そんないい加減なこといって泣かせておいて、日がくれてからみんな揃って帰ってくると、おまえさん舌でも出そうってんだろ」

「ね・ね、姉さん、そりゃ、おまえさんをかついだこともあるがね、人間、生き死にのウソはつきませんぜ…そんなに疑うんなら、みんなが死んだって証拠をお目にかけましょう」「証拠? あるんなら見せてごらんよ」「ええ、見せますとも、あっしゃ、おまえさんたちにこの話をしたあと、かかぁを離縁して、明日ともいわず、これから高野山へ登って、みんなの菩提(ぼだい)を弔うつもりなんだ。見てくれぇ…この通り坊主になってきたんだ、これでも疑ぐるのかい」

(これを見たかみさん連中は、ワッと泣きだします。熊は、それほど亭主が恋しければ、尼になってお祈りするのが一番とみんなを丸めこみ、自分のかみさん以外の女たちを一人残らず丸坊主にします。そして、寺から借りてきた衣を着て、にわかごしらえの尼さんたちの真ん中に入って、かねをたたきながら、なむあみだぶつ…とお経をあげます。いっぽう亭主連中は、長屋に帰ってみると、なにやら念仏の声が聞こえます)

「念仏たぁ、気持ちのいいもんじゃねぇな。やっ、念仏は熊公の家だぜ、障子の穴からのぞいてやれ…あの真ん中に座ってるなぁ、いやに熊公に似てやしないかい? また、まわりにずいぶん坊主を集めやがったなぁ…ありゃ、坊主は坊主でも尼さんばっかりじゃねぇか」「えっ、そんなに尼さんが集まってるのか、ちょっとおれにものぞかせろいっ、あれっ、この正面で泣いているのは民さんとこの姉さんにそっくりだぜ」「なに? おれのかかぁ? その隣は大家さんとこの姉さん、やや留んとこのかみさんもいるぜ、あれっ、大変だ、かみさんをみんな坊主にしやがった、おーい、みんなたいへんだぞっ」

(熊の仕返しと知ってみんな怒り心頭。連中が息巻くのを、大家の吉兵衛さんが止めに入りますと…)

「冗談いいなさんな、大家さん。おまえさんの姉御さんはもう婆ぁだから、そうやってすましていられるだろうが、おれなんざ、かかぁの水の垂れるような銀杏返しを見るのが楽しみで帰ぇってきたんだ。それをこの野郎に…どうしたって、熊を張り倒さなければ腹の虫がおさまらねぇ」「いやいや、そんなに怒ることはない。これはほんとうにおめでたいことなんだから」「かかぁを坊主にされて、どういうわけでめでてぇんだ」

「お山は晴天、家へ帰りゃぁ、みんなお毛が(怪我)なくっておめでたい」


「1月26日にあった主なできごと」

1788年 囚人の移民…イギリスから、初めてオーストラリアに移民団がポートジャクソン湾(現シドニー)から上陸しました。このうち約半数は、犯罪を犯した囚人たちでした。これにちなんで「オーストラリアの建国記念日」となりました。

1823年 ジェンナー死去…牛痘にかかった人の膿を少年に接種 (種痘) し、天然痘という伝染病を根絶させるキッカケを作ったイギリスの外科医ジェンナーが亡くなりました。

1948年 帝銀事件…帝国銀行(現在の三井住友銀行)の東京豊島区にあった椎名町支店で、「近くの家で赤痢が発生したので予防薬を飲んでもらう」と偽って銀行員12名を毒殺、現金16万円などが強奪される事件がおこりました。8月になって画家平沢貞通が逮捕され、死刑が確定しましたが執行されないまま1987年に獄死。支援者はいまだに冤罪を叫び、再審請求を続けています。

今日1月25日は、不朽の児童文学といわれる『フランダースの犬』を著したイギリス出身の女流作家ウィーダが、 1908年に亡くなった日です。

ウィーダ(本名ルイーズ・ド・ラ・ラメー)は1839年、フランス人の父とイギリス人の母の子としてイギリスのサフォーク州に生まれました。20歳の頃から小説を書き始め、1863年にデビュー作となるロマンス小説『囚れの身となって』を発表し作家活動に入りました。子どもの頃に、自分の名前のルイーズをうまく発音できずに「ウィーダ」といっていたのを、ペンネームにしたといわれています。

ロンドン社交界で話題を集めるほどはなやかな活躍をしましたが、1870年頃に父が亡くなったため、イタリアのフィレンツェに移住、犬が大好きで、イタリアの動物愛護協会設立に尽力するほどでした。1872年に『フランダースの犬』を出版しましたが、刊行当初はあまり話題にはなりませんでした。生涯に『ニュールンベルクのストーブ』『銀色のキリスト』をはじめ40冊以上の物語を執筆していますが、今も読みつがれているのは、『フランダースの犬』だけといってもよいほどです。晩年は人間不信となって犬だけが心の支えとなりましたが、たくさんの飼い犬の食費に経済的に破綻、1908年に肺炎をこじらせて亡くなりました。

『フランダースの犬』のあらすじは、次の通りです。

ベルギーのフランダース地方の小村に、寝たきりの祖父と暮らす15歳の少年ネルロは、忠実な老大パトラッシュの引く荷車で、牛乳を町へ売りに行くことで、わずかの収入を得ていました。しかし、いつかベルギーが誇るルーベンスのような画家になることを夢見ていました。

ネルロのただ一人の親友は、風車小屋の一人娘12歳の少女アロアでしたが、アロアの父は家柄が低く貧しいネルロのことを快く思っていません。ある日、ネルロがアロアの肖像画をかいているのを見つけると、その絵をとりあげてしまいました。

仕事を終えたあとのネルロは、毎日小屋で、懸命に絵の勉強を続け、倒木に腰掛ける木こりのおじいさんの快心の絵をかきあげ、年に一度開かれるアントワープで開かれる絵画コンクールに出品しました。入選したら200フランという大金がもらえるのです。

でも、クリスマスを数日後に控えた日に祖父が亡くなり、楽しいはずのクリスマスの前日に、家賃を滞納していた小屋から追い出されることになってしまいました。さらに、アロアの父の所有する風車小屋の穀物倉庫が全焼する事件がおき、ネルロが放火したというぬれ衣を着せられてしまいます。その日は、絵画コンクールの結果発表日でもありました。渾身の力作が入選すればみんなに認めてもらえると、これに全ての望みをかけたネルロでしたが、入選者にネルロの名はありませんでした。

傷心のネルロは厳しい吹雪の中を村へ向かう道すがら、パトラッシュは大金の入った財布をくわえ出します。アロアの父の財布でした。ネルロはそれをアロアの家に届け、パトラッシュを預かってくれるように頼んで、再び雪夜の闇の中へ飛び出して行ってしまいました。全財産の入った財布が見つからずに絶望して帰宅したアロアの父は、これまでネルロに行ってきた数々のむごい仕打ちを悔やみ、翌日ネルロの身元を引き受けに行く決心をするのでした。さらに、コンクールでネルロの才能を認めた著名な画家が、ネルロを引き取って養育しようとやってきたのです。

でも、何もかもが手遅れでした。全てを失ったネルロは、あこがれのルーベンスの祭壇画が飾られている大聖堂へ向かい、パトラッシュはネルロを追って風車小屋を逃げ出します。

クリスマスの翌朝、アントワープ大聖堂を礼拝に訪れた人々は、祭壇画の前で、犬を固く抱きしめたまま、冷たくなっている少年と老犬を発見したのでした……。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、『フランダースの犬』(菊池寛訳)を読むことができます。


「1月25日にあった主なできごと」

901年 菅原道真左遷さる…右大臣として活躍していた「学問の神様」として名高い 菅原道真 は、左大臣藤原時平のたくらみにより、「東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れぞ」の句を残し、京都から筑紫の大宰府に左遷されました。

1212年 法然死去…平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶で、南無阿弥陀仏をとなえれば、人間はだれでも来世で極楽浄土に生まれかわることができると説く「浄土宗」を開いた 法然 が亡くなりました。

1858年 御木本幸吉誕生…「真珠王」と呼ばれ、真珠の養殖とそのブランド化に成功した 御木本幸吉 が生まれました。

1885年 北原白秋誕生…『赤い鳥小鳥』『あわて床屋』『からたちの花』など800編もの童謡の作詞を手がけた詩人・歌人の 北原白秋 が生まれました。

1907年 湯川秀樹誕生…日本で最初にノーベル賞にかがやいた理論物理学者 湯川秀樹 が生まれました。

1957年 志賀潔死去…赤痢菌を世界で初めて発見したことで知られる細菌学者 志賀潔 が亡くなりました。

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