児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年11月

今日11月30日は、第2次世界大戦のとき、イギリス首相として連合国を勝利に導くのに大きな力を発揮したチャーチルが、1874年に生まれた日です。チャーチルは1953年、『大戦回顧録』の著書によってノーベル文学賞を受賞しています。

オックスフォードシャー州の貴族の家に生まれたウィンストン・チャーチルは、子どものころからわんぱくで、勉強ぎらいでした。13歳で名門ハロウ校に入学しますが、文章を書くことが好きだった以外は戦争ごっこばかりしています。そのため成績は悪く、そんな息子を見かねた父親は、法律家にすることをあきらめ、軍人になることをすすめました。でも、陸軍士官学校へは2度も不合格、3度目にやっと入学をはたせるほどでした。

1894年に卒業したチャーチルは、陸軍将校としてキューバ・インド・エジプトなどを回りました。ひまなときに読書に集中するうち、文を書いて生きることをめざすようになりました。1899年に軍職をしりぞくと、「モーニング・ポスト」の記者に採用され、特派員となって南アフリカでおこっていた「ブーア戦争」を取材しました。ところが取材中に、ブーア人の捕りょになってしまいました。うまく脱獄に成功して、その体験記を発表したところ大評判になって、チャーチルは一躍有名人になったのです。そして、1900年に、保守党から下院議員に当選し、政治家の世界へふみこみました。第1次世界大戦中は海軍大臣として活躍し、第1次大戦後は陸軍、空軍などの大臣を歴任しました。

第2次世界大戦中の1940年からは、国民の大きな期待を集めてイギリス首相となり、ドイツ空軍によるイギリス本土空襲にあっても、「イギリスのブルドック」とよばれる闘志をむき出しにして、国民をはげまし続けました。

1941年6月に、反共でありながらも独ソ戦争をはじめたソ連と同盟し、8月にはアメリカの ルーズベルト 大統領と「大西洋憲章」を発表して、第2次世界大戦および戦後世界の基本的態度を明らかにしました。のちの国際連合憲章は、この憲章をもとにしています。さらにチャーチルは、アメリカのルーズベルト、ソ連の スターリン 首相と「テヘラン会談」「ヤルタ会談」を開いてドイツに対する戦争を指導し、連合国の団結を固めてドイツを敗北に導いたのでした。

なお、チャーチルの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブックで公開している「せかい伝記図書館」第16巻「チャーチル」をご覧ください。


「11月30日にあった主なできごと」

1667年 スウィフト誕生… 『ガリバー旅行記』 などを著したイギリスの風刺作家スウィフトが生まれました。

1835年 マーク・トウェーン誕生…少年文学『トムソーヤの冒険』『ハックルベリーフィンの冒険』や『王子と乞食』などユーモアのなかにするどい社会風刺をもりこんだ数々の作品を著したアメリカの作家 マーク・トウェーン が生まれました。

1892年 伝染病研究所設立… 北里柴三郎 は、福沢諭吉 の後援でわが国初の伝染病研究所を設立しました。ここでペスト菌や赤痢菌発見などの功績をあげ、野口英世や志賀潔らの人材を輩出しました。

今日11月29日は、自伝的な少女小説『若草物語』など、たくさんの楽しい物語を著したアメリカの女流作家オルコットが、1832年に生まれた日です。

ペンシルベニア州に生まれたルイーザ・メイ・オルコットは、4人姉妹の次女として生まれました。父は、「アメリカのペスタロッチ」といわれる個性を尊重する理想主義教育の主唱者でした。4人の娘たちは家族の深い愛情にかこまれ、精神的にゆたかな子ども時代をすごしましました。

ところが1844年に一家はボストンへ移住し、父は実験学校を設立しましたが、あまりに理想的すぎたため経営に失敗して、その負債に苦しみました。一家の暮らしは立ち行かなくなり、オルコットは家計を助けるために、縫いものをしたり、姉たちと塾を開いて教壇に立つかたわら、作家として自立する決心をしました。

23歳のとき、父の友人で思想家として有名なエマソンが、子どもたちに話して聞かせた童話をヒントに『花物語』という処女作を書き上げたほか、いくつかの戯曲を書きました。さらに、1861年に始まった南北戦争中に、奴隷解放を願って看護婦として献身的な働きをした経験をもとにした書簡集『病院スケッチ』を発表しましたが、あまり注目されませんでした。

1867年に児童雑誌の編集長になったとき、出版社から少女向けの小説を書くようにすすめられ、わずか6週間で書き上げたのが『若草物語』でした。この小説は出版されると大評判になり、オルコットはたちまち、少女たちの大好きな「お話のおばさん」になっていたのです。

この物語は、ニューイングランド地方の一家族マーチ家の4人姉妹(メグ・ジョー・ベス・エイミー)が、父親が従軍牧師として南北戦争に行っている1年間に体験した楽しいこと・つらいこと・こっけいな事件・おそろしい災難などをとおし、少女たちが明るく成長していく姿を生き生きと描いた作品でした。それは、オルコット4姉妹をモデルにした自伝的な内容でした。この作品のヒットのおかげで、苦しかった家の暮らしも楽になり、一家に幸せが訪れました。

「メグやジョーは、それからどうなったの?」まるでマーチ家の一員になったかのように物語へとけこんだ読者たちは、オルコットに続編を望みました。そんな期待に応えてオルコットは、1869年に、大人になったマーチ姉妹とそれぞれの結婚について描いた『続・若草物語』、1871年に『第三若草物語』(邦題『昔気質の一少女』)、1886年に『第四若草物語』(邦題『続・昔気質の一少女』)を次々に著し、4部作を完成させたのでした。

しかし、オルコットは1888年、ふとした風邪がもとで亡くなってしまいました。『若草物語』のジョーとちがって、オルコットは一生結婚することなく、家族のために働き続けた人生でした。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、『若草物語』(水谷まさる訳) を読むことができます。


「11月29日にあった主なできごと」

1529年 王陽明死去…儒教の流れをくむ「朱子学」に対し、日常生活の中での実践を通して人の生きるべき道をもとめる「陽明学」という学問の大きな流れを作った思想家 王陽明 が亡くなりました。

1875年 同志社創立…新島襄 らが京都に、キリスト教精神に基づく「良心」を建学精神に掲げ、漢学以外はすべて英語で教育するという「同志社英学校」(現・同志社大学)を創設しました。

1987年 大韓航空機爆破事件…イランのバクダッドから韓国のソウルに向かう航空機が、ミャンマー沖で爆破され、乗員・乗客115人が死亡・行方不明になりました。北朝鮮の工作員金賢姫(キムヒョンヒ)らが実行犯と判明しましたが、北朝鮮は関与を否定しているため、真相は不明のままです。

今日11月26日は、スペイン全土を統一し、コロンブス によるアメリカ発見の援助をしたイサベラ女王が、1504年に亡くなった日です。

イサベラは1451年、スペイン北西部にあった「カステリア王国」の王女として生まれました。当時のスペインは、この「カステリア王国」とスペイン東部の「アラゴン王国」、さらに8世紀からスペイン南部を占領していたイスラム教徒の国「グラナダ王国」に分かれていました。

23歳でカステリア王の位についたイサベラは、17歳の時すでに、アラゴン王国の王子と結婚していたため、1479年に夫がアラゴン国王に即位したとき、両国は合併して「スペイン王国」としました。イサベラは夫のフェルナンディ2世とともに、この国を治めることになったのです。

しかし、王国が成立したころは、貴族勢力が大きな力を持ち、国は乱れていました。イサベラは都市住民の協力を得て貴族勢力を抑え、国王の力を強めて国の秩序を回復させました。そして、イベリア半島からイスラム教徒を追い払う戦い(国土再征服運動=ラ・コンキスタ)を10年以上も続けた結果、1492年ついに「グラナダ王国」を滅ぼして、スペイン全土を統一することに成功しました。

この異教徒征服により、ローマ教皇から「カトリック夫婦王」の称号を受けました。イサベラは、宗教裁判をもうけて、イスラム教徒やユダヤ教徒を迫害しましたが、ルネッサンス文化を、野蛮だったスペインに輸入し、学問・芸術・礼儀を盛んにし、自ら勉強にはげみました。

もっとも特筆すべきイサベラの功績は、さまざまな国や貴族らに援助を求めたものの、どこからも受け入れられなかったコロンブスの [西回りでインド到達をめざす航海計画] を受け入れ、後援をしたことです。コロンブスの艦隊は、大西洋を横断し、1492年西インド諸島のサン・サルバドル島に到達し、その結果、中南米のほとんどはスペイン領となって、「太陽の沈まぬ国」とまでいわれた16世紀のスペイン繁栄のきっかけをつかみました。


「11月26日にあった主なできごと」

1086年 院政のはじまり…白河天皇がわずか8歳のわが子に、堀川天皇として位を譲りました。上皇となった白河は、幼い天皇の後見役として政治の実権を握り続けました。上皇のいるところが「院」と呼ばれ、そこで政治が行なわれたために「院政」とよばれます。

1906年 満鉄設立…日露戦争に勝利した日本は、ロシアが建設した東清鉄道を譲り受け、南満州鉄道(満鉄)として経営することになりました。満鉄は、鉄道事業を中心に広範囲にわたる事業を展開、日本の満州(中国東北部)進出の中核となりました。

1911年 小村寿太郎死去…日英同盟、日韓併合の立役者であり、日露戦争が終結したポーツマス講和会議の全権大使を務めた外交官 小村寿太郎 が亡くなりました。

1952年 ヘディン死去…87年の生涯を中央アジアの探検にそそぎ、砂にうずもれた楼蘭の町や、インダス川の水源や、ヒマラヤ山脈の北にあるもう1つの山脈トランスヒマラヤなどを探りあてたスウェーデンの ヘディン が、亡くなりました。

今日11月25日は、「日露戦争」や「満州事変」など、戦争に強く反対した社会主義者の堺(さかい)利彦が、1871年に生まれた日です。

福岡県の士族の家に生まれた堺は、「自由民権運動」(国会開設を求め、民主主義をめざした運動) の感化を受けながら育ちました。地元の中学を首席で卒業して第一高等中学校に入学しますが、飲酒や遊びにふけって中退。その後は、一家の柱となって、大阪で小学校教師や新聞記者を勤めました。

1899年から東京の新聞社「萬朝報(よろずちょうほう)」に入社し、家庭や生活の改善、女性の地位向上などの記事を書きました。同僚に 内村鑑三 や幸徳秋水がいて、1901年に3人が中心となって、社会主義をめざす「理想団」という組織を作りました。

当時、日露戦争の開戦がさしせまっていました。「萬朝報」が主戦論に傾くと、戦争反対をとなえていた堺は、幸徳とともに退社して、1903年「平民社」を創立しました。そして週刊「平民新聞」を発行して反戦運動を展開します。その頃から、社会正義と平和のためには、社会主義を実現することが大切だと考えるようになり、創刊1周年記念号に幸徳と共訳の『共産党宣言』(マルクス・エンゲルスの著書)を掲載しました。

さらに、1906年には日本社会党を結成して評議員となりましたが、政府による社会主義への弾圧が進み、翌年に同党は解党され、1908年には「赤旗事件」(社会主義者の象徴とされていた赤旗を所持していたため) で逮捕され、2年間入獄を余儀なくされてしまいました。しかし、これが幸いして「大逆事件」(天皇の暗殺を計画したとして幸徳ら12名が処刑された事件) の難をのがれました。

出獄した堺は、社会主義運動がむずかしくなった「冬の時代」をしのぎ、さまざまな随筆や評論を書きながら、弾圧がゆるやかになる時機を待ちました。第1次世界大戦中に、民主主義を求める民衆の運動が盛んになると、わかりやすい言葉で、社会の仕組みや政治のありかたを考えさせる文章を次々に発表して、大衆を啓蒙していきます。

1922年には「日本共産党」を創立して初代委員長になり、このころから精力的にマルクス主義思想の普及に努めました。しかし、1923年「第一次共産党事件」(政府による弾圧事件)で検挙され、保釈出獄後に共産党から離れて、合法的な政党を組織するようになりました。

1931年に「満州事変」がはじまると、「労農大衆党」の委員長として反戦の姿勢を貫き通しました。しかし1933年、社会主義者への弾圧がきわめて厳しい時代に、終始持論を曲げず、運動の中心となった生涯を閉じたのでした。


「11月25日にあった主なできごと」

1890年 第一回帝国議会の開催…明治憲法発布翌年のこの日、帝国議会が開かれました。議会は、貴族院と衆議院の2院からなり、貴族院議員は皇族・華族、多額納税者などから選ばれました。衆議院の議員は、25歳以上の男子で国税15円以上を納める人に限られるなど、当時の人口のおよそ1パーセントが有権者であるにすぎませんでした。
 
1892年 オリンピック復活の提唱…クーベルタン 男爵は、アテネで古代競技場が発掘されたことに刺激され、スポーツによる世界平和を築こうとオリンピック復活の提言を発表、オリンピック委員会が作られました。

1970年 三島由紀夫割腹自殺…『仮面の告白』『金閣寺』『潮騒』などちみつな構成と華麗な文体で人気のあった作家 三島由紀夫 が、アメリカに従属する日本を憂えて自衛隊の決起をうながすも受け入れられず、割腹自殺をとげました。  

1987年 ハイビジョンの日…高精密度テレビ「ハイビジョン」の走査線が、従来のテレビの走査線525本に対し、1125本であることから、この日が「ハイビジョンの日」と制定されました。

今日11月24日は、イギリス生まれでアメリカ合衆国で活躍した女流小説家・劇作家のバーネット夫人が、1849年に生まれた日です。

後にバーネット夫人となるフランシス・イライザ・ホジソンは、イギリスのマンチェスターに生まれました。幼ないころから妖精物語を好む想像力の豊かな子でしたが、父が事業に失敗した後に亡くなり、1865年に一家と共にアメリカのテネシー州ノックスビルへと移住しました。アメリカ南北戦争による不景気で家業がつづかなくなり、家計を助けるために小説を書きはじめました。まもなく女性向け月刊雑誌に物語を発表するようになります。1873年に医者のスワン・バーネットと結婚してから、バーネット夫人と呼ばれるようになりました。

1886年に雑誌に発表した『小フォントルロイ卿』(邦題『小公子』)は、子ども向けとして書かれた作品でしたが、母親に人気を博し、50万部のベストセラーとなりました。この作品は、1892年に日本でも発売され、若松賤子という人が、『小公子』と訳してから有名になり、今も『小公子』の名で親しまれています。

さらに、1888年『セーラ・クルー』を発表、この作品は1905年に『小公女』と改題されて書き直されました。1890年代後半、バーネット氏と離婚後は主にイングランドに居住しましたが、1905年にアメリカ合衆国の市民権を取得して1909年に米国に戻り、同年『秘密の花園』を発表しました。ニューヨーク州プランドームで余生を送り、1924年に死去。生涯におよそ50作品を著しました。

なお、代表作『小公子』は、こんな内容です。

少年セドリックは、母エロルとニューヨークの裏町に住んでいます。快活で、だれにも親切なセドリックは町の人気者で、とくに雑貨屋のホッブスや靴磨きのディックとは大の仲良しでした。しかし、ある日訪ねてきた紳士に、セドリックがイギリスの伯爵家の跡取りであることを聞きました。セドリックの父はドリンコート伯爵の3男で、アメリカに来て伯爵の反対を押しきってセドリックの母と結婚しましたが、亡くなってしまいました。セドリックの伯父二人も死亡したため、跡取りは、セドリックしかいなくなったのです。 セドリックは、ホッブスやディックらと別れて、イギリスの祖父のところへ行くのはいやでしたが、悩んだ末にイギリス行きを決断します。

ドリンコート伯爵は頑固なかんしゃく持ちで、セドリックの母エロルが息子をたぶらかしたと嫌っていました。そのためエロルとセドリックを引き離し、セドリックを貴族フォントルロイ卿として育てようとします。 しかし、それを知らないセドリックの無邪気さや、純粋で明朗な優しさは、ドリンコート伯爵のかたくなな心を少しずつ動かし、変化させていくのです。

そんなある日のこと、伯爵の長男と結婚をしたというミナと名乗る女性が子どもを連れて訪れ、その息子トムこそが正当なフォントルロイ卿であると主張しました。トムが、セドリックと比べてあまりに品のないことに落胆したドリンコート伯爵は、エロルにあい、彼女が立派な女性で、セドリックが伸びやかに育ったのはエロルのたまものであると気づきましたが、すでに手遅れと思われました。

この事件はイギリスじゅうの新聞に出て、「どちらが本物の小公子か」と大騒ぎになりました。靴磨きのディックは、客に見せられた新聞の写真を見て、ミナとトムの正体に気づきました。ミナは以前にディックの兄と結婚しており、トムは二人の子だったのです。 ディックは、雑貨屋のホッブスといっしょに、セドリックを助けようとイギリスにかけつけました。そして、ふたりの友人たちのおかげで真実が明らかになっていくのです……。

なお、『小公女』と『秘密の花園』(共に抄訳版)は、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「レディバードブックス100点セット」の日本語訳で読むことが出来ます。


「11月24日にあった主なできごと」

1940年 西園寺公望死去…自由主義思想を支持し、2度総理大臣になるなど、明治・大正・昭和の3代にわたり活躍した最後の元老政治家といわれる西園寺公望が亡くなりました。

1944年 東京初空襲…アメリカ軍の爆撃飛行機B29が、東京へ初めて爆撃を敢行しました。航空機を製造する中島飛行機武蔵野工場が主な攻撃目標でしたが、やがて無差別爆撃へ戦術を変え、翌年3月10日には東京の下町を火の海にする大空襲を行いました。

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