児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年10月

今日10月29日は、ハレー彗星(すいせい)が76年ごとにまわる彗星であることを予言して的中させた、イギリスの天文学者ハレーが、1656年に生まれた日です。

ロンドンの裕福な石鹸製造業者の子として生まれたエドモンド・ハレーは、幼いころから天文学や数学に興味をもち、オクスフォード大学で、天体観測術を学びました。大学卒業後は、南半球の恒星を研究するため南大西洋のセントヘレナ島を訪れ、3年近く観測を行って、南半球から見える341個の恒星について詳細に記録した『南天星表』を発表。既存の星図にこれらの南天の恒星を追加したハレーの業績は、高く評価されました。

その後も毎日のように天体観測をつづけていたところ、1682年に大きな彗星が夜空に現れました。この大彗星が、ケプラーらが観測した1456年、1531年、1607年に現れた彗星と同一天体ではないかと考えました。

そこで、ケプラーのとなえた惑星運動の法則を証明したいと、1684年に ニュートン を訪ねました。疑問をぶつけたところ、ニュートンが既に「万有引力」の存在により、この問題を証明していたことを知りました。ハレーはこの成果を発表するようにニュートンを説得し、これを受けて1687年『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア)が執筆されました。しかし、出版を約束していた王立協会が資金難のためにかなわず、ハレーが経費を負担して、自費出版という形で出版されたのでした。

ハレーは、ニュートンの「万有引力」法則を使って大彗星の軌道計算をし、1705年に『彗星天文学概論』を発表。この著書の中で、大彗星は1758年に回帰することを予言したのでした。ハレー自身はこの回帰を待つことなく1718年に85歳で亡くなりましたが、予言の通り大彗星は現われ、これによってこの彗星は「ハレー彗星」と呼ばれることになりました。ハレー彗星は、惑星以外で太陽系を公転する天体が初めて確認された例でもありました。ハレー彗星は、その後も1835年、1910年、1986年と地球に近づいたのです。

ハレーは、恒星の固有運動や月の長年加速などを発見したり、地球物理学の分野では貿易風の研究、地磁気や磁極の研究なども行って、たくさんの科学的業績を遺した偉大な科学者でした。


「10月29日にあった主なできごと」

1815年 井伊直弼誕生…開国論を唱え「安政の大獄」を引き起こして尊攘派を弾圧、1860年「桜田門外の変」で水戸浪士らに殺害された江戸末期の大老 井伊直弼 が生まれました。

1922年 トルコ共和国宣言…オスマン帝国を倒したトルコは、この日共和国の成立を宣言。初代大統領にムスターファ・ケマルを選びました。アタチュルク(トルコの父)として、現在に至るまで、トルコ国民に深い敬愛を受けつづけています。

1929年 悲劇の火曜日…1920年代、永遠に続くと思われていたアメリカの繁栄に大ブレーキがかかりました。5日前(暗黒の木曜日)に1日1300万株が売られて株が大暴落したため、ニューヨークの取引の中心であるウォール街は、不安にかられた投機家でごったがえし、大損して自殺する人まであらわれました。さらにこの日1630万株も売られ、ウォール街最悪の日となって、午後には株式取引所の大扉を閉じました。株価はその後も売られ続け、世界中をまきこむ大恐慌となっていきました。

1945年 宝くじ発売…政府はこの日、戦後復興の資金集めのために、第1回宝くじの販売を開始しました。1枚10円、1等賞が10万円で副賞に木綿の布が2反、はずれ券4枚でたばこ10本がもらえました。評判が良かったために、翌年には賞金が100万円となりました。戦後数年間の宝くじには、敗戦後の物資不足を反映して、革靴、地下足袋、人口甘味料のズルチンといった景品がつき、1948年1等の副賞には木造住宅がつきました。

今日10月28日は、19世紀ロシアの代表的小説家の一人で、25編の短編からなる『猟人日記』を著したツルゲーネフが、1818年に生まれた日です。

イワン・ツルゲーネフは、モスクワの南にあるオリョールの地主の次男に生まれました。1000人もの「農奴」がいる豊かな貴族で、父は騎兵大佐、母は広大な領地の女主人でした。当時のロシアには、「農奴制」というのがあり、貴族や地主が、土地を耕すだけの農民(農奴)を持ち、農奴は家畜のように売り買いされる存在でした。

両親ともに傲慢でわがままな性格だったために、ツルゲーネフは暗く不幸せな少年時代をすごしました。15歳でモスクワ大学教育学部に入学したときに父が亡くなり、母は領内の農奴たちを、以前にもまして専制的に圧迫していきました。幼いころから、そんな農奴制の悲惨さを見てきたツルゲーネフは、これをなくすことを生涯の願いとするようになりました。

ペテルブルク大学を経て、1838年から1841年までベルリン大学で哲学や古典語を学ぶうち、ヨーロッパの思想をとり入れることの大切さを知るようになり、たまたま、夫と子のあるオペラ歌手に一目ぼれして、彼女を追ってパリに移り住みました。それ以後のツルゲーネフは、ヨーロッパとロシアを往復する生活をずっと続けました。

作家をめざしたツルゲーネフが、1847年に『猟人日記』シリーズの第1作「ホーリとカリーヌイチ」を雑誌に発表するや、世間の人たちはタブーとなっていた農奴制批判の内容に注目しました。そして1851年に全25編が完成して出版されると、農奴制廃止を願う人々から大喝采を受けたのでした。のちに、農奴解放の勅令を出したアレクサンドル2世は、当時皇太子でしたが、この作品を読んで農奴解放を決意したといっています。(農奴制が解放されたのは1861年、リンカーンによる奴隷解放の2年前のことです)

『猟人日記』は、一人の狩猟家が農奴の悲惨な暮らしぶりを書きとめる体裁をとった短編25編からなり、そのうちの一編『オオカミ』は、こんな内容です。

ある晩私は、雷雨にあい、やっとの思いで大きな森にたどりつきました。するとふいに人影が現れ「おれは森の番人、あだ名はオオカミだ」といいます。私は、この番人が農奴たちから、森にある枯れ枝1本も持っていかせない上、力がものすごくてはむかうことも買収することもできないと、恐れられているのを知っていました。夕立がやんで、森の出口まで案内してくれたオオカミは、ふいに、しげみの中にかくれました。風が静まると、斧の音が聞こえます。しばらくすると、オオカミの声が聞こえ、つかみあいが始まりました。私がかけつけると、オオカミはどろぼうを組みしいて、しばりあげていました。どろぼうは、ボロを着たしわだらけの農民で、しきりにあやまりました。「お屋敷の番頭がいじめるもんだから…丸はだかにされちゃったんだ」「だからといって、盗みをする法はない」「それじゃ、連れてきた馬だけは放してくれ」「おれだって、使われている身だからだめだ」。観念した男は開き直り、「馬をとられたら、にっちもさっちもいかねぇんだ。たたっ斬れ!」私は、男を助けようとしました。「かまわねぇでください、だんな」。オオカミはそういうと、しばった帯をパラリとといて、「さぁ、馬を連れて、とっととうせやがれ!」と、どなったのでした……。

ツルゲーネフは『猟人日記』以外に、19世紀のロシア小説の最高傑作の一つに挙げられている『父と子』(貴族主義的な父の世代と、当時のロシア社会に批判的な子の世代との対立を描いた力作)など、たくさんの作品を遺し、1883年パリ郊外で亡くなりました。一生独身ですごした孤独な生涯でした。

日本ではいち早く二葉亭四迷によって翻訳・紹介され、特に 国木田独歩 や田山花袋らに大きな影響を与えました。なお、オンライン図書館「青空文庫」では、『猟人日記』の一編『あいびき』(二葉亭四迷訳)を読むことが出来ます。


「10月28日にあった主なできごと」

1860年 嘉納治五郎誕生…講道館柔道の創始者であり、日本のオリンピック初参加に尽力するなど、スポーツの海外への道を開いた嘉納治五郎 が生まれました。

1886年 石川啄木誕生…歌集『一握の砂』『悲しき玩具』などを著し、民衆歌人、天才詩人といわれた 石川啄木 が生まれました。

1886年 自由の女神像…アメリカの独立100年を記念して、フランスから贈られた「自由の女神像」の除幕式がおこなわれました。ニューヨーク港ベッドロッド島に佇む46mの巨像は、アメリカのシンボルとなっています。

今日10月27日は、日露戦争の和平交渉に尽力したことで、ノーベル賞を受賞したアメリカの第26代大統領ルーズベルトが、1858年に生まれた日です。愛称が「テディ」だったことと、次のエピソードにより、熊のぬいぐるみのことを「テディベア」と呼ぶようになりました。

1902年の秋、セオドア・ルーズベルトは熊狩にでかけましたが、獲物をしとめられません。同行していたハンターが瀕死の小熊を追いつめ、とどめの一発を大統領に頼みました。ところがルーズベルトは、「瀕死の熊を撃つのはスポーツマン精神にそむく」として助けたことを、ワシントンポスト記者が美談として新聞に掲載しました。このエピソードにヒントをえたニューヨークのおもちゃメーカーが、熊のぬいぐるみに、ルーズベルト大統領の愛称である「テディ」と名づけて1903年に発売したのが「テディベア」のはじまりです。したがって、「テディベア」は特別な条件のもとに作られた熊ではなく、「熊のぬいぐるみの総称」ということになります。

1858年、ニューヨーク市の名門の家系に生まれたセオドア・ルーズベルトは、幼少時は病弱でした。それを克服するため運動を好むようになり、アウトドアスポーツに熱中しました。1880年にハーバード大学を卒業後に政界入りし、州議会議員に就任。官吏制度改革委員やニューヨーク市公安委員長、海軍次官補などをつとめました。
 
1898年、キューバの支配をめぐっておこったアメリカ・スペイン戦争では、義勇軍をひきいてキューバに従軍、勝利したことで国民的英雄となりました。この戦争により、アメリカはフィリピン、グアムおよびプエルトリコを含むスペイン植民地のほとんどすべてを獲得、キューバを保護国として事実上の支配下に置いたのでした。

1900年、大統領選の副大統領候補として当選、翌年9月に大統領マッキンリーが暗殺されたために、大統領に昇格しました(就任時の42歳と10か月は史上最年少)。在任中、政府としてはじめて大資本の弊害の除去につとめたり、ストライキの際に労働者に有利な調停を行なったことは評価されています。また、1905年には日露戦争で日本とロシア間の調停をつとめ、停戦からポーツマス条約での和平交渉に尽力したことで、1906年にノーベル平和賞を受賞しています。

なお、世界恐慌時にニューディール政策を推し進めたり、第2次世界大戦時に活躍した第32代アメリカ大統領で唯一4選された フランクリン・ルーズベルトとは、いとこ同志です。


「10月27日にあった主なできごと」

1728年 クック誕生…キャプテン・クックのよび名で知られ、世界の海を縦横に走り回って、オーストラリアやニュージーランドの探検・調査などさまざまな業績をのこした18世紀の海洋探検家 クック が生まれました。

1859年 吉田松陰の処刑…「松下村塾」を開き、高杉晋作、木戸孝允ら幕末に活躍した多くの志士を育て、「安政の大獄」で逮捕された長州藩(山口県)の学者 吉田松陰 が処刑されました。

今日10月26日は、世界的に知られる児童文学『ピノキオの冒険』を著したイタリアの作家コロッディが、1890年に亡くなった日です。

カルロ・コロッディは、1826年イタリアのフィレンツェに生まれました。本名は、カルロ・ロレンツィーニで、コロッディは、子ども時代を過ごした土地の名前からとったペンネームです。地元の小中学校に通い、ピノキオのように、わんぱくな少年時代をすごしたことが、『ピノキオ』を生み出す原動力となったようです。

修道会の学校を卒業後、1844年にフィレンツェの出版社に勤務しました。会社に出入りする知識人たちと知り合ううちに、愛国心や独立心にめざめ、雑誌への寄稿したり、作家としての活動を始めました。1848年におこった第一次イタリア統一戦争へ、義勇兵として参加したあとは、自分で新聞を発行したり、小説や評論などその執筆分野は非常に多岐にわたっています。

コロッディの関心は、まだ統一されていないイタリア国民が自国語の共通基盤をつちかうことに向けられました。やがて文学を通して、特にその未来をになう子どもたちを教育することが重要だと考えるようになり、1870年代後半から、フランスのペローの童話の翻訳したり、少年を主人公にした『ジャンネッチーノ』など、教訓的な童話を書いたりしました。

『ピノキオの冒険』は、1880年に「子ども新聞」に連載を開始するとたちまち評判になり、翌年出版されると、イタリアじゅうの幼児たちを夢中にさせました。グリムやアンデルセン童話にない、スピーディに次々に展開するで奇想天外なストーリーと、わんぱくで遊び好きで冒険心あふれた子ども心を、あやつり人形「ピノキオ」に託したところにありました。この作品にはあまり教訓的なところもなく、会話もいきいきしていて、コロッディのめざしたイタリア語の普及という点においても、大成功をおさめたといってよいでしょう。およその内容は、次の通りです。

親方から、おしゃべりをする不思議な木切れをもらった大工のジェペットじいさんは、さっそくあやつり人形を作って「ピノキオ」と名づけます。この人形は、鼻をつけると、切っても切っても長くなり、口をつけると笑い出し、両足が出来て歩き方を教えると、いきなり外へ逃げ出しました……。ピノキオは、生まれながらのわんぱく者で、勉強と努力が大きらい、すぐにキツネやネコから聞いた美味しそうな話にだまされます。やさしい妖精にウソをついて鼻を長くされても、妖精やコオロギらの忠告にも耳を貸さず、何度となく焼かれそうになったり、殺されそうになったりします。でも、どんなに裏切られても、ジェペットじいさんはピノキオを心から愛していました。そして、サメのお腹の中で再会を果たした二人は、抱き合って喜び合います。限りない苦難を乗り越えてピノキオは、ようやく目をさまし、人間の少年になることができたのでした……。

『ピノキオの冒険』が世界じゅうに広まったのは、コロッディが亡くなってからでした。20世紀に入って各国語に翻訳されるや、専門家たちからも高く評価され、いまも児童文学の名作として読み継がれています。

なお、『ピノキオ』は、いずみ書房のホームページで公開している「レディバードブックス100点セット」の29巻目「ピノキオ」(抄訳版)の日本語訳を読むことが出来ます。


「10月26日にあった主なできごと」

1909年 伊藤博文死去…尊王攘夷運動をへて維新後明治政府に入り、初代総理大臣として明治憲法の制定に努めた 伊藤博文 が、日韓併合の一歩をふみだすなか、朝鮮の独立をめざす青年に暗殺されました。

1963年 日本初の原子力発電…茨城県東海村の日本原子力研究所が日本で初めて原子力発電を行ないました。これを記念して、政府は1964年から10月26日を「原子力の日」と制定しました。

今日10月25日は、長編小説『不如帰(ほととぎす)』を著し、一躍ベストセラー作家となった明治・大正期の作家・随筆家の徳冨蘆花(とくとみ ろか)が、1868年に生まれた日です。

蘆花の『不如帰』は、「国民新聞」に連載されたものが1898年に出版され、1909年には再版を重ねて100刷となりました。清純な夫婦愛と、封建的な家族観への批判が熱狂的に支持され、尾崎紅葉の『金色夜叉』、伊藤左千夫の『野菊の墓』と並び、明治生まれの国民文学といわれています。『不如帰』のあらすじは、次の通りです。

陸軍中将の娘である片岡浪子は、海軍少尉の川島武男に嫁ぎました。誰もがうらやむ結婚で、2人は幸福な新婚生活を送っていました。

武男は将来を期待され、浪子の父親の片岡中将からも、実の息子のように可愛がられています。しかし、時は明治、まだまだ江戸時代から続く「お家大事」という封建的な考えが残っていました。武男の母親のお慶は、そんな因習のかたまりのような人でした。おまけにお慶は、武男の友人で甥の千々岩安彦と、浪子をいっしょにさせたかったのに適わなかったのが口惜しく、浪子に優しくありません。結婚後も浪子に横恋慕する千々岩…。

浪子と武男の幸福な生活は、長くは続きませんでした。浪子が肺病(結核)に侵されてしまったのです。浪子の母親も肺病で亡くなっていました。浪子は東京から逗子へ転地療養することになりました。

そんなある日、武男が海軍の勤務で長期間家を留守にしました。なんとお慶は、武男の留守中に浪子を離縁し、里に帰してしまったのです。勤務から帰った武男は、浪子を追いやった母親に激怒して、家を出ました。折りしも日清戦争が始まっていました。武男は艦隊に乗りこんで、清の最強軍艦と戦いますが、武男の乗った軍艦は砲弾を浴びて、武男は重傷を負います。なんとか九死に一生を得るものの、武男は浪子のことがいつまでも心の中からは消えません。

別れ別れになった2人は偶然、京都駅で顔を合わせました。浪子は東京へ向かう列車に、武男は神戸に向かう列車に乗っており、お互いを見かけたのです。まさに瞬間の再会でしたが、これが永遠の別れになってしまったのでした……。


蘆花は、学者の次男として肥後国(熊本県)に生まれました。兄は、思想家でジャーナリストとして名高い徳冨蘇峰です。プロテスタントの宣教師たちのグループ「熊本バンド」のひとりとして、京都の同志社に学び、キリスト教の影響を受けながら、ロシアの文豪トルストイに傾倒しました。

卒業後は20歳で上京し、兄の「民友社」に入って記者をしながら下積みを重ね、自然詩人として出発しました。そして新聞連載小説『不如帰』、続いて発表した随筆集『自然と人生』『思出の記』により、作家としての地位を確立しました。しかし、国家主義的傾向を強める兄とは次第に不仲となって絶縁、思想的な悩みもあって、1906年聖地エルサレムに巡礼に出かけ、帰国途中にトルストイの自宅を訪問して会見をはたしています。

帰国後の1907年、現在の東京都世田谷区粕谷に転居、死去するまでの20年間をこの地で過ごしました。1927年に病に倒れ、伊香保温泉で蘇峰と再会、和解して亡くなりました。

蘆花の死後、旧邸宅は夫人より東京市に寄贈されました。いまも東京都の史跡「蘆花恒春園」として開放されています。蘆花の名は、恒春園近くの芦花小学校、芦花中学校、京王線「芦花公園駅」にも残っています。また、『不如帰』の中の浪子の言葉「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」は、日本近代文学を代表する名セリフの一つといわれ、今も口ずさまれています。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、蘆花の作品『不如帰』ほか9編を読むことができます。


「10月25日にあった主なできごと」

1637年 島原の乱…島原・天草地方のキリシタンの農民たち37000人が、藩主の厳しい年貢の取立てとキリシタンへの弾圧を強めたことから、少年 天草四郎 を大将に一揆を起こしました。3か月余り島原の原城に籠城して抵抗しました。

1825年 ヨハンシュトラウス誕生…ウインナーワルツの代表曲として有名な『美しき青きドナウ』『ウィーンの森の物語』『春の声』など168曲のワルツを作曲したオーストリアの作曲家 ヨハンシュトラウス(2世) が生まれました。

1838年 ビゼー誕生…歌劇『カルメン』『アルルの女』『真珠採り』などを作曲したフランスの作曲家 ビゼー が生まれました。

1881年 ピカソ誕生…画家であり、彫刻家であり、また歴史家、詩人、学者でもあった情熱的芸術家 ピカソ が生まれました。

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