児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年09月

今日9月7日は、明治後期から昭和初期にかけて活躍した作家で、幻想と怪奇とロマンを綾なす『高野聖』『眉かくしの霊』などの作品や、新派の舞台でおなじみの『婦系図』『滝の白糸』などを著し、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫らたくさんの作家に影響を与えた泉鏡花が、1939年に亡くなった日です。

1873年に鏡花は、彫金細工師の名工を父に、能楽の鼓の名流の娘を母に、金沢市に生まれました。両親から芸と神仏にたいする信仰をうけて育ちました。中学を卒業したころ、尾崎紅葉 の作品を読んで感銘を受け、紅葉の門下に入ることを志して上京しました。努力のかいがあって、18歳で入門を許されて、尾崎家での書生生活をはじめました。原稿の整理や雑用にあたるうちに紅葉の信頼をかちとり、指導を受けながら、小説の勉強を続けました。

紅葉のあっせんで、連載新聞小説などいくつかの作品を発表しましたが、不評のために自信を失い、一時帰郷したり、自殺を図ったことさえありました。しかし、1895年に発表した『夜行巡査』が、文芸評論家の田岡嶺雲の賛辞を得て、そのおかげで『外科室』が『文芸倶楽部』の巻頭に掲載されました。この2つ「観念小説」(世間の道徳や常識を批判した作品)によって鏡花は、文壇デビーを果たしたのでした。

1896年に「読売新聞に連載した『照葉狂言』は、少年時代の思い出や9歳でなくなった母への思慕にあふれる叙情物語で、鏡花特有の美しい文体が定着したといわれています。

そして、1900年に発表した『高野聖』以降は、ロマン主義的な作風になり、幻想的な作品を多く書くようになりました。さらに、『婦系図(おんなけいず)』『滝の白糸』『歌行燈』など、今も新派悲劇の代表作としておなじみの花柳界の作品を遺したことでも有名です。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、泉鏡花の上記代表作のほとんどを読むことができます。


「9月7日にあった主なできごと」

1533年 エリザベス一世誕生…1558年、25歳のときから45年間イギリスをおさめ、おとろえかけていたイギリスを、世界にほこる大帝国にたてなおした エリザベス一世 が生まれました。

1962年 吉川英治死去…「宮本武蔵」「新・平家物語」「新書太閤記」など人生を深く見つめる大衆文芸作品を数多く生み出して、国民的作家として高く評価されている 吉川英治 が亡くなりました。

今日9月6日は、スペイン王と西回りでアジアの香辛料を入手する契約を結んだマゼラン隊の一せきが、1522年に人類初の世界一周をはたした日です。

ポルトガルの下級貴族の家に生まれたマゼランは、25歳のころ、ポルトガル軍の艦隊に入って初の航海に出ました。その後、インド洋やマラッカの海を8年間も航海したことで、海や地理についてはだれにも負けない知識を得ました。さらにマゼランは、いざというときの判断がするどく、人をまとめる力がすぐれていました。

航海者としての自信のついたマゼランは、ポルトガル王にモルッカ諸島(インドネシア周辺の島じま)への西回り航路開拓計画を話しました。しかし受け入れてもらえなかったため、スペイン王カルロス1世に面会し、同様の計画を熱心に語りました。カルロス1世は心を動かされ、マゼランと契約を結び、艦隊の長に任命したのでした。

こうして1519年9月、5せきの船隊が265人の男たちを乗せて、スペインのサンルカル港をはなやかに出航しました。マゼラン艦長の乗るトリニダット号を先頭にサン・アントニオ号、コンセプション号、ビクトリア号、サン・チャゴ号とつづきます。

マゼラン隊は、それから1年もかけて南アメリカの大西洋岸を南に南に、手探りのように船を進めました。そして1年1か月後に、黒ずんだ水が大きく開いたぶきみな入江を見つけました。これが南アメリカ大陸南端とフェルゴ島のせまい海峡(マゼラン海峡)でした。水路はまがりくねり、潮流が早く、水中には岩がかくれています。20日近くもの大変な苦労の末、この海峡をのりきりました。

こうして南太平洋に到達しましたが、太平洋はどこまで行っても、つきるところがありません。すぐに見えてくるだろうと思われた島じまの影は、行けども行けども現われてきません。100日以上もさまよいつづけ、グアム島をへてフィリピン諸島につきました。しかし喜びもつかの間、原住民との小ぜりあいのなかで、マゼランは殺されてしまいました。

一行は、新たなリーダーにエルカノを選び、モルッカ諸島で香辛料を手に入れた後、アフリカ南端の喜望峰を回って帰国したのでした。はじめ5せきだった船は、ビクトリア号だけになり、乗組員はわずか18人だけでした。

しかしこの世界周航の成功により、大西洋、インド洋、太平洋を結ぶ新たな交易ルートが開拓され、それまでの地中海交易に代わって、ヨーロッパを中心とした世界規模の大航海時代に突入するのです。

なお、マゼランの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブックで公開している「せかい伝記図書館」第4巻 「マゼラン」をご覧ください。


「9月6日にあった主なできごと」

1858年 広重死去…「東海道五十三次」などの風景版画の傑作を描き、フランス印象派の画家やゴッホ、ホイッスラーらに大きな影響を与えた、浮世絵師・安藤(歌川)広重 が亡くなりました。

1998年 黒沢明死去…『羅生門』『生きる』『七人の侍』『赤ひげ』 など、数多くの名作映画を生み出し「世界のクロサワ」と讃えられた映画監督 黒沢明 が亡くなりました。

今日9月3日は、ベトナムの革命家で、フランス植民地時代からベトナム戦争まで、ベトナム革命を指導したホー・チ・ミンが、1969年に亡くなった日です。

ベトナムは、19世紀の中ごろからフランスに侵略され、1885年からは、国の全土がフランスの植民地になっていました。

「ベトナム民族のために、祖国を独立させなければだめだ」

1890年に生まれ、幼いころから国を愛する心をあたためてきたホー・チ・ミンは、祖国を救う志をたてて、21歳のとき、ベトナム中部のふるさとの村をあとにしました。そして、イギリス、フランス、中国、ソ連などで、苦しい労働や侵略国の圧迫と闘いながら、革命の思想を学びました。また、やがて革命の旗をかかげるときにそなえて、民族の自由をとなえる人びとの組織を育てました。

1939年、第2次世界大戦が始まりました。ホー・チ・ミンは、その2年後に、胸の灯をあかあかともやして、祖国へ帰ってきました。30年ぶりでした。このとき、ベトナムには、太平洋戦争に勝ち進んだ日本軍が侵入してきていました。

「フランス植民地主義と戦え。日本の帝国主義と戦え」

ホー・チ・ミンは、ベトナム独立同盟を結成して、立ちあがりました。苦しい戦いでした。1942年には、革命に反対する軍隊にとらえられ、1年以上のあいだ、くさりにつながれて各地をひきずりまわされました。しかし、屈しませんでした。

1945年、第2次世界大戦が終わると同時に、ベトナム民主共和国の独立を宣言して、初代の大統領となりました。独立宣言を読みあげるホー・チ・ミンの目から、熱い涙がこぼれました。

ところが、大きな困難が立ちふさがりました。ベトナムの植民地支配の権力をとりもどそうとするフランスが、南ベトナムと手をむすんで、またも、進入してきたのです。

「われわれは、二度と他国のどれいになってはならない」

ホー・チ・ミンは、民族の力をひとつにして戦いぬき、1954年に、フランス軍を打ち破りました。でも、戦争は、まだ終わりませんでした。フランスにかわって、こんどはアメリカが南ベトナムをあやつりながら、空軍による北ベトナム爆撃を開始して、戦いは、ベトナム戦争へ発展しました。

「ベトナムの統一と平和は、民族の力でなしとげるのだ」

ホー・チ・ミンは、民族の自由を叫んで戦いつづけました。しかし、1969年、戦いのとちゅうでたおれてしまいました。

79歳の生涯を革命にささげたホー・チ・ミンは、自分の幸せなど考えませんでした。いつも、すべてのベトナム民族を愛し、人びとから「ホーおじさん」と、親しまれました。戦争が終わり、ベトナム社会主義共和国が生まれたのは、1976年でした。


「9月3日にあった主なできごと」

1189年 奥州藤原氏滅亡…平泉(岩手県)を中心に藤原清衡・基衡・秀衡と3代、およそ100年も栄えた藤原氏でしたが、源義経 をかくまったために、源頼朝軍に滅ぼされました。清衡の建造した中尊寺金色堂(国宝)には、藤原氏4代のミイラが残されています。

1658年 クロンウェル死去…イングランド共和国の初代護国卿(王権に匹敵する最高統治権を与えられた職名) クロンウェル が亡くなりました。

1841年 伊藤博文誕生…明治時代の政治家で、初代、第5代、第7代、第10代内閣総理大臣になった 伊藤博文 が生まれました。

今日9月2日は、明治期に活躍した美術家、美術評論家で、茶道をとおして日本人の心や日本の文化を外国に紹介した名著『茶の本』を遺した岡倉天心が、1913年に亡くなった日です。明治時代の日本の文化や文明の発展に大きな功績を残した教育者でもありました。

岡倉天心は、江戸時代があと数年で終わろうとする1862年年末に、横浜に生まれ、本名を覚三といいました。天心は号です。

幼いころから英語、漢学を学び、やがて家族とともに東京へでた天心は、わずか11歳で東京外国語学校へ入学しました。そして、さらに東京開成学校から東京大学文学部へ進み、このとき、アメリカから日本へきていた哲学者フェノロサに、哲学や文学や美術を学んで、思想と知識を深めていきました。

18歳で東京大学を卒業すると文部省へ入り、音楽取調掛を2年つとめたのち、フェノロサとともに、古い神社や寺院の宝物調査をおこないました。22歳のときに、秘宝とされていた法隆寺夢殿の救世観音菩薩像を見る機会にめぐまれ、たいへん心をうたれました。

「東洋の美術は、世界で最もすばらしいものだ」

このように確信するようになった天心は、9か月ほど、アメリカやヨーロッパの美術を視察してきたのち、東京美術学校(いまの東京芸術大学)の創立にくわわり、28歳から校長として、学校の経営と学生の指導に力をつくすようになりました。

ところが、8年後には校長をしりぞかなければなりませんでした。天心の、自由な考えや強い個性に反対する人びとが現われ、学校を追われたのです。しかし、そのまま、日本の美術を見捨てるような天心ではありません。なおいっそう心をもやした天心は、美術学校で育てた横山大観、下村観山らをひきつれて、日本美術院をつくり、新たな美術運動を始めました。

39歳のときには、インドへ旅をして、インド独立をめざして戦う人びとに心をよせました。また、3年後には、招きを受けてアメリカのボストン美術館の顧問をつとめ、さらにその後も、何度も太平洋、大西洋を越えて、世界じゅうに、日本の美術のすぐれていることやアジアの解放を、となえつづけました。ニューヨークで、英文の『茶の本』を出版したのも、このころです。やはり英文で『東洋の理想』『日本の目覚め』なども著わしています。

自分の思想のために力の限り生きた天心は、1913年に50歳の生涯を終えました。味わい深い日本文化をたたえる思想は、いまも『茶の本』のなかに生き続けています。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、『茶の本』 を翻訳で読むことができます。


「9月2日にあった主なできごと」

BC31年 アクチュームの海戦…シーザーの暗殺後、ローマはオクタビアヌスとアントニウスと権力争いが始まっていました。この日アクチュームの海戦がおこり、両軍1000隻の軍船が槍、火矢、投石で交戦し、オクタビアヌスが勝利しました。アントニウスはクレオパトラと共にエジプトにもどりましたが、翌年アントニウスは剣で、クレオパトラは毒蛇に胸を咬ませて自殺しました。

1937年 クーベルタン死去…古代オリンピア遺跡の発掘に刺激されてオリンピックの復活を提唱、1896年ギリシアのアテネで近代オリンピックの開催を実現した「近代オリンピックの父」クーベルタン男爵が亡くなりました。

1945年 日本の降伏…東京湾上に浮かんだアメリカの軍艦ミズリー号の艦上で、連合国側に対する日本の降伏文書の調印式が行なわれました。日本全権団は重光外相他11名、連合国軍は9か国それぞれの代表とマッカーサー最高司令官が署名し、ここに満州事変から15年にわたる日本の戦争に終止符がうたれました。

1949年 アジア象はな子…タイから寄贈された象が日本に到着、戦争中に餓死させられた象「花子」の名前を継いで「はな子」と命名されました。はな子は、1950年に始まった上野動物園の「移動動物園」企画で全国や東京都下を巡回しましたが、武蔵野市や三鷹市ではな子の誘致運動が起こり、1954年に上野動物園から井の頭自然文化園に引っ越しました。63歳の今も健在です。

今日9月1日は、大正ロマンを代表する数多くの美人画を遺した画家・詩人の竹久夢二が、1934年に亡くなった日です。

1884年、岡山県の酒造業を営む家に生まれた夢二(本名茂次郎)は、17歳で画家をめざして上京し、早稲田実業学校に通いながら絵ハガキを描いては、学校周辺の絵ハガキ店に売って生計をたてていました。

このころ、友人だった荒畑寒村の紹介で社会主義雑誌『直言』にコマ絵が掲載され、これが最初に印刷された夢二の絵でした。この後、童話雑誌『少年文庫』の挿絵を描いたり、文筆の分野でも、詩、歌謡、童話など創作したりしました。

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1907年、岸たまきと結婚、彼女をモデルに「夢二式美人」という目の大きな、もの憂い表情を特長とする独自の女性を描くようになりました。たまきとは、貧乏暮らしに疲れて2年後に離婚したということですが、離婚後も同棲をくりかえしています。

まもなく読売新聞社に入社して時事スケッチを担当したりしましたが、1909年に『夢二画集-春の巻』を発刊したところ、ベストセラーとなり、挿絵画家として一本立ちできるようになりました。

1913年に絵入り小唄集『どんたく』を出版し、その中に『宵待草』「♪ まてどくらせどこぬひとを 宵待草のやるせなさ こよいは月もでぬそうな」の三行詩が掲載されていました。

この詩に曲をつけさせてほしいという手紙が東京音楽学校の学生から夢二に届き、許可を与えると叙情的なメロディのついた楽譜が送られてきました。この曲は、1918年に出版され、演歌師によって全国に広まって大ヒットになりました。

その後の夢二は、独特の情趣ある絵や画集を多く発表したばかりか、書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけ、まさに日本の近代グラフィック・デザイナーの草分けのひとりともいえる活躍をしました。

しかし晩年は、欧米から帰国後、肺結核を悪化させて信州の病院で息をひきとりました。


「9月1日にあった主なできごと」

1923年 関東大震災…午前11時58分、関東地方一帯に震度7.9(激震)という大地震・関東大震災がおこりました。東京では130余か所で火災がおきて半分以上を焼き尽くし、関東全域で死者10万人以上、災害にあった人は400万人にものぼりました。不安が高まる中に「朝鮮人が暴動をおこした」「井戸に毒を流した」などというデマが乱れとび、罪のない朝鮮人や中国人数千人が殺されました。

1939年 第2次世界大戦…ヒトラーの率いるドイツ軍は、突然隣国のポーランドに侵攻しました。この行動に対し、イギリスとフランスは、兵を引き上げるように要求しましたがヒトラーはこれを受け入れず、9月3日に英仏はドイツに宣戦布告、第2次世界大戦が勃発しました。戦争はヨーロッパ全体に広がり、やがて世界のほとんどを巻きこむ大戦争になっていきました。

1960年 防災の日…前年に襲来して、5000人を越える死者・行方不明者、39000人の負傷者という大災害をおこした伊勢湾台風と、関東大震災のおきた日にちなみ、防災意識を高めようと、政府はこの日を「防災の日」と定めました。

1983年 大韓航空機撃墜される…ニューヨーク発、バンクーバー経由ソウル行の大韓航空機が、誘導装置の設定ミスによるソ連領空侵犯のために、ソ連戦闘機に撃墜され、乗客乗員269人が死亡しました。

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