児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年09月

今日9月14日は、イタリアの都市国家フィレンツェに生まれた詩人で、彼岸の国の旅を描いた叙事詩『神曲』や詩集『新生』などを著し、ルネサンスの先駆者といわれるダンテが、1321年に亡くなった日です。

詩人ダンテは、ベアトリーチェという一人の女性を、心に秘めた恋人として一生愛しつづけました。

ダンテがベアトリーチェに初めて会ったのは、9歳のときです。祭りの日にまねかれた家で、美しい少女ベアトリーチェをみたとき、天使のように気高くて、この世の人とは思えないほどの清らかさに心をうたれました。少女はダンテと同じ年ごろでした。それから9年めの春、フィレンツェを流れる川のほとりで、二人は偶然に出会いました。ベアトリーチェは、なつかしそうににっこりして、気品に満ちたあいさつをしました。ダンテはすっかり心を奪われてしまいます。その喜びにペンをはしらせ、詩にうたいあげました。

このときの詩は、のちに『新生』という詩集にまとめられました。『新生』は、ベアトリーチェにささげたソネット(14行で書かれた詩)の名編です。

川辺で会ったとき、すでに人妻であったベアトリーチェが、病魔におそわれ、24歳の若さで死んでしまいました。出会いの喜びではじまる『新生』も、深い悲しみで終わっています。

ベアトリーチェは、またダンテの代表作『神曲』にも、聖女として登場します。『神曲』は「地獄編」「煉獄編」「天国編」の3編にわかれ、100章1423行にもおよぶ長編叙事詩です。ダンテみずからが主人公となり、さまざまな苦しみにあったすえ、聖女ベアトリーチェに天国へみちびかれ、人間の幸福を知るという話です。ダンテは、これらの詩集のほかに『饗宴』という哲学書や『帝政論』という論文なども書きのこしました。

ダンテ・アリギエーリは、1265年に中部イタリアの都フィレンツェの貴族の家に生まれました。ラテン語学校をへて、有名なボローニャ大学にすすみ、文学、芸術、科学などを学びました。とくに古代ローマの詩人ベルギリウスの詩にひかれ、自分も詩作をはじめました。ソネットをたくさん書いたのもこのころです。

やがて、ダンテは役人になり、その後、市の代表委員の一人に選ばれて政治の世界にはいりました。そのころのヨーロッパは、都市を中心にした小さな国がいくつもあり国の内外に勢力をあらそっていました。政治家になった翌年、ダンテは反対勢力の人たちに陥れられてしまい、留守のあいだの欠席裁判で、永久追放の宣告をうけました。

フィレンツェを追われたダンテは、その後20年近くも、イタリアの各地をさまよい歩きました。有名な『神曲』は苦しい放浪生活のなかから生まれた傑作です。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、ダンテの『神曲』 を翻訳で読むことができます。


「9月14日にあった主なできごと」

1822年 ロゼッタストーン解読…1799年 ナポレオン がエジプト遠征の際に持ち帰ったロゼッタストーンを、フランスのシャンポリオンが解読に成功。古代エジプト文明の存在を解明するきっかけになりました。

1849年 パブロフ誕生…消化腺と条件反射の研究でノーベル賞を受賞したロシアの科学者 パブロフ が生まれました。

今日9月13日は、陸軍大将乃木希典(のぎ まれすけ)が、静子夫人とともに、1912年に自殺した日です。遺体のそばに、崩御してまもない 明治天皇 の写真がおかれ、遺書の内容から「殉死」であることが判明し、当時の国民に大きな衝撃を与えました。

乃木希典は、1879年長州藩(山口県)の武士の子として生まれました。16歳のときに伯父の玉木文之進の教えを受け、玉木が 吉田松陰 の門下であったため、間接的に松陰の影響を受けました。幕府の長州征伐の際には、山形有朋らと 高杉晋作 らが結成した奇兵隊に入って幕府軍と戦いました。

明治になると、新政府の陸軍に入って戊辰戦争を戦い、1877年に少佐になった年には西南戦争がおこりました。田原坂の合戦で、乃木隊の旗手が、西郷隆盛 軍に軍旗を奪われたとき、乃木はその責任は自分にあると自殺しようとして止められた、というエピソードが残されています。

1886年には、軍制や戦術を研究するためドイツに留学、質実剛健なドイツ軍人の影響を受け、帰国後は質素で古武士のような生活をするようになりました。日清戦争(1894-95年)では旅団長として参戦、戦後の「下関条約」により植民地となった台湾の総督となって植民地支配を行ないました。

1904年におこった日露戦争では、第3軍の司令官として、旅順(中国北東部)の攻撃を指揮しました。とくに203高地ではロシア軍指令官のステッセル将軍との壮絶な戦いは有名で、日露両軍ともに戦死者5千人以上も出す戦いに何とか勝利はしたものの、2人の息子を失いました。乃木は、東郷平八郎とともに日露戦争の英雄、「聖将」と呼ばれました。

その後は、学習院の院長となって、皇太子や皇族たちの教育にあたりました。しかし、この「殉死」事件に対する評価はさまざまです。天皇に忠誠を誓う武士道的精神・軍人精神の極致として賞賛する人たち、国民に皇室尊敬の念を植えつけるにはあまりに大時代的という人たち、作戦の失敗をくり返して多くの部下をいたずらに死傷させた愚将の当然の結果という人たち……。

その評価はともかく、乃木はまさに「明治という時代に殉じた人」なのかも知れません。


「9月13日にあった主なできごと」

1592年 モンテーニュ死去…世界的な名著 「随想録」の著者として、400年以上たった今も高く評価されているフランスの思想家 モンテーニュ が亡くなりました。

1733年 杉田玄白誕生…ドイツ人の学者の書いた人体解剖書のオランダ語訳『ターヘル・アナトミア』という医学書を、苦労の末に『解体新書』に著した 杉田玄白 が生まれました。

1975年 棟方志功死去…仏教を題材に生命力あふれる独自の板画の作風を確立し、いくつもの世界的な賞を受賞した版画家 棟方志功 が亡くなりました。

今日9月10日は、日本の天文観察技術の高さを世界に知らせた天文学者・木村栄(きむら ひさし)が、1870年に生まれた日です。

地球は、北極と南極をむすぶ軸を中心にして、自転しています。しかし、その地軸は、永久不変のものではありません。長い歳月のあいだには、少しずつ動いています。木村栄は、この地軸のずれを正確に調べるために緯度を観測し、その観測結果の計算に新しい方法を発見しました。

石川県金沢市で生まれた栄は、漢学の塾を開いていたおじの家へ、幼いうちに養子にだされ、少年時代はきびしく育てられました。早くから学問を習い、8歳をすぎると、すでに父のかわりに、子どもたちに漢学やそろばんを教えたということです。

19歳で上京すると、帝国大学(いまの東京大学)の星学科に入学して天文学を学び、卒業後はさらに大学院へ進んで、緯度観測や地球物理学の研究を深めていきました。

1898年、ドイツで開かれた万国測地学協会の総会で、地軸の動きを調べるための緯度観測所を、世界各地におくことが決まり、日本の岩手県水沢にも、観測所がつくられました。その所長にむかえられたのが29歳の栄でした。

所長のしごとについた栄は、若い人たちに「研究にかかったら、1日24時間じゅう、考えつづけるようでなければだめだ」と説きながら、おどろくほど熱心に、毎日、同じ星の位置の観測をつづけました。そして、その観測結果から緯度の変化を割りだして、ドイツの中央局へ報告するのです。

ところが、やがて中央局から、世界各地での観測結果のなかで、栄の報告したものはおかしいと、発表されてしまいました。もし、そうだったら、栄がはずかしいだけではなく、日本の科学の恥です。栄は、器械や観測方法や計算のしかたを調べなおしました。でも、どこにも故障もまちがいもありません。どこに原因があるのだろう……。栄は昼も夜も考えつづけました。

そんな、ある日のことです。栄は、ふと、地球の回転の変化に疑問をいだき、それまでの緯度計算の式に、もう1つ項をふやしてみることを考えつきました。そして計算しなおしてみると、水沢でだした数値と、世界各地の観測所でだした数値が一致するではありませんか。だれも気づかなかった項の発見です。

1902年に、これをまとめて発表した論文が、世界の天文学者を驚かせました。栄は、たちまち世界の天文学者となり、その新しい項は木村項(Z項)と名づけられました。

栄は、20年後に、中央局がドイツから水沢に移されると、その局長をつとめ、1943年に73歳で亡くなりました。緯度観測につくした人として、世界の科学史に名をとどめています。
 

「9月10日にあった主なできごと」

1561年 川中島の戦い…戦国時代の武将たちは、京都にせめのぼり、天下に号令することをめざして競いあっていました。甲斐(山梨)の 武田信玄 と、越後(新潟)の 上杉謙信 の両武将も、千曲川と犀川の合流地点にある川中島を中心に、いがみあっていました。川中島は穀倉地帯にあり、軍事的にも重要な地点だったため、1553年以来5度にわたって両軍の争奪戦の場となりました。今日の4回目の戦いがもっとも激しいものだったようで、信玄と謙信両雄の一騎打ちなど、さまざまなエピソードが残されています。結局双方とも、決定的な勝利をおさめることなく終わり、戦国時代は織田信長らの次の展開をむかえることになります。

1951年 「羅生門」グランプリ…黒沢明監督、三船敏郎・京マチ子主演による映画 「羅生門」 が、第12回ベネチア(ベニス)国際映画祭で、金獅子賞グランプリを受賞しました。

1960年 カラーテレビの本放送開始・・・NHK東京および大阪中央放送局、日本テレビ、東京放送、朝日放送、読売テレビが、この日、日本ではじめてカラーによる本放送(一部の番組のみ)を開始しましたが、当時のカラーテレビ受像機は全国でも1000台たらず、多くの人たちはデパートや駅前広場などで見る程度でした。

今日9月9日は、「ムーランルージュ」のポスターなど、パリのモンマルトルを中心に活躍したロートレックが、1901年に亡くなった日です。

トゥルーズ・ロートレックは、1864年、名門の伯爵家夫妻の長男として、フランス南西部のアルビに生まれました。幼少の頃のロートレックは、愛くるしさから「小さな宝石」と呼ばれて、母はもちろんまわりの人たちに可愛がられて育ちました。

両親が上流社会にありがちな近親婚だったためか、遺伝性の骨が弱いという体質を受けついでいました。そのため、13歳の時に左の大腿骨を、14歳の時に右の大腿骨と2度にわたるちょっとした転倒事故で、両足を骨折してしまいました。上半身は正常に発育したのに、ステッキにたよって歩かざるをえなくなり、両足の発育が停止して身長は150cm以上には成長しませんでした。

ロートレックにとって、精神的なはげみになったのは叔父のシャルルでした。シャルルはロートレックの絵の才能を見抜いていました。デッサンの名手だったシャルルは、動物の描きかたの手ほどきするうち、ロートレックは、走りまわる馬などを上手にデッサンするようになり、それが楽しみになりました。また、学校の成績もよく、教師や友人たちを漫画のように描いては、みんなを笑わせる陽気さも持ち合わせていました。
 
1882年、母といっしょにパリに移りました。そして、肖像画や歴史画を得意とするレオン・ボンナの画塾で学びました。まもなく画塾が閉鎖されたため、モンマルトルにあったフェルナン・コルモンの有名な画塾に移り、以後は晩年までこの地ですごすようになります。

2年もするとロートレックは、伝統的な絵画とは別の絵画をめざすようになりました。彼ののびやかなデッサンは、師をはるかに越える域に達していたのです。そして、モンマルトルの夜の街に毎晩のように出かけては、そこで働く女性たちを描き続けるのでした。

自身が障害者として差別を受けていたこともあって、ロートレックは、女給、踊り子、娼婦たちに共感しました。ナイトクラブ「ムーランルージュ(赤い風車)」をはじめ、ダンスホール、酒場などに入りびたり、退廃的な生活を送りました。そして、そんな女性たちを愛情をこめて描きつづけるのでした。

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1891年に「ムーランルージュ」の人気ダンサーのポスターが認められると、ポスター画家としての地位を確立。ロートレックの人気は急上昇し、1893年にはパリで初個展を開くなど、同時期に活躍したミューシャと人気を二分しました。

やがて、若い頃からの飲酒に加え、アブサン(ニガヨモギなどの薬草の入った高純度のリキュール)を好んだことから、1899年に強い中毒になって病院に強制入院しました。いったん回復するものの、1901年8月、死期の近いことを自覚したロートレックはパリを発ち、けものが巣に帰るように、故郷に帰っていた母のもとで死去したのでした。37歳の若さでした。


「9月9日にあった主なできごと」

686年 天武天皇死去…645年におこった大化改新の事業を完成させ、革新の気風あふれた白鳳文化を生んだ 天武天皇 が亡くなりました。

1828年 トルストイ誕生…『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』などの長編小説や随想録『人生読本』で名高いロシアの作家 トルストイ が生まれました。

1948年 「朝鮮民主主義人民共和国」成立…同年8月に成立した「大韓民国」(韓国)に対抗して、「朝鮮民主主義人民共和国」(北朝鮮)が成立し、金日成を首相に選びました。

今日9月8日は、「中間子」という電子のほぼ300倍もの質量をもつ素粒子のあることを、理論をもって証明したことで、1949年日本人で初めてノーベル賞(物理学賞)を受賞した 湯川秀樹が、1981年に亡くなった日です。

湯川秀樹は、1907年、有名な地理学者小川琢治(たくじ)の3男として、東京麻布に生まれました。のちに大阪の医師である湯川家に婿入りしたため、湯川姓となりました。

幼いころから優秀で、特に数学が得意だったようです。そのため、高校時代は数学者をめざしましたが、ある数学試験で不合格になってしまいました。なぜなのかを確かめたところ、先生の講義の通りに証明しなかったためだとわかり、数学への情熱がさめてしまいました。それからは、自分の頭脳で解決する学問をめざし、京都大学では理論物理学を専攻しました。

大学を卒業すると、同大学の講師となり、1933年に大阪大学講師になりました。そして1934年27歳のとき、原子核の内部に「中間子」が存在することを予言する論文を発表しました。物質を作っている基本の単位は「原子」で、その中心にある原子核の中には「陽子」と「中性子」という粒子があることはわかっていました。でも、この2種類の粒子がなぜバラバラに離れていないのかはまだわかっていませんでした。湯川は、それを結びつけているのが、「中間子」であると考えたのでした。

やがて1937年にアメリカの物理学者アンダーソンによって「中間子」の一部が発見され、その性質が解明されると、いちやく湯川の名が注目され、中間子理論の開拓者とよばれるようになりました。この結果、湯川は1940年に京都大学教授になり、1943年には文化勲章も受章しました。

さらに1947年にイギリスで中間子の全貌が発見されたことで、湯川は1949年にノーベル物理学賞を受賞しました。この快挙のニュースは、敗戦・占領下で自信を失っていた日本国民に大きな力を与えました。

その後湯川は、世界的な物理学者アインシュタインや、哲学者ラッセルが提唱したパグウォッシュ平和会議の一員となって、核兵器の廃絶と国際平和の創造につとめる運動に積極的に参加したことはよく知られています。

なお、湯川の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブックで公開している「せかい伝記図書館」第36巻 「湯川秀樹」をぜひご覧ください。


「9月8日にあった主なできごと」

1841年 ドボルザーク誕生…「スラブ舞曲」や「新世界より」などの作曲で名高いチェコ・ボヘミヤ音楽の巨匠ドボルザークが生まれました。

1868年 元号「明治」…年号をこれまでの「慶応」(4年)から「明治」(元年)と改めました。同時に、今後は1天皇は1年号とする「一世一元の制」を定めました。

1951年 サンフランシスコ講和条約締結…第2次世界大戦で、無条件降伏をして連合国の占領下におかれていた日本国民は、1日も早い独立を願っていました。1950年に朝鮮戦争がはじまると、アメリカは日本を独立させて資本主義の仲間入りをさせようと、対日講和の早期実現を決意しました。そしてこの日、日本の全権大使吉田茂首相は、サンフランシスコで戦争に関連した48か国と講和条約に調印し、6年8か月にわたる占領が終わり、独立を回復しました。しかしこの時、アメリカとの間に「安全保障条約」を結んだことで、日本国内に700か所以上もの米軍基地がおかれるなど、本当の意味での独立国にはなりきれず、さまざまな波紋を残すことになります。

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