児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年09月

今日9月22日は、電気分解の法則や電磁誘導の法則の発見などの業績により「電気学の父」いわれるイギリスの科学者ファラデーが、1791年に生まれた日です。

マイケル・ファラデーは、イギリスの首都ロンドンの郊外で生まれました。父は、仕事の上手なかじ屋でしたが、体が弱く病気がちだったために家族は生活が苦しく、馬小屋の2階でパンだけをかじって1日が終わることもありました。じゅうぶんな勉強もできないまま小学校を卒業したファラデーは、父や母を助けるために、13歳で製本屋の小僧になりました。

ファラデーは、どんなつらい仕事でも、いやがらずにいっしょうけんめいはたらきました。そして、仕事が終わってからも、休まずに、自分の製本した科学書や百科事典などを読みふけりました。なかでも、科学の本がいちばん好きでした。

本を読むだけでなく、重要なところは文や図面をノートに書きぬき、さらに、自分の目でたしかめるために、倹約したお金で道具を買って、実験もつづけました。町で開かれた科学の講習を聞きに行き、これも片はしからノートにとりました。

「なんとかして、科学者の道へ進みたいのですが……」

やがて21歳になったファラデーは、思いきって、名高い王立研究所の科学者デービーへ、これまでのノートをそえて手紙をだしました。すると、数か月ののち、すばらしい返事がとどきました。研究所へきてもよいというのです。ファラデーは胸をおどらせて、デービーのもとへとんで行きました。

「なぜ、こうなるのだろう。こうすれば、どうなるのだろう」

ノートをとりながら何度も実験をくり返したファラデーは、やがて電気の世界に入り、40歳のときに、発電機の基礎になった電磁誘導現象というものを発見しました。

「電流で磁気ができるのなら、逆に、磁気で電流を起こすこともできるのではないだろうか」

ファラデーは、人の考えの逆を、もういちど考えたのです。

その後、研究所の教授となり、ファラデーが電気のことで実験しなかったものはなにもない、といわれるほどに研究をうちこむ毎日を送りました。

年をとってからは、クリスマスがくるたびに、ろうそくを材料にして、科学とはどんなものであるかを、だれにでもわかるように、やさしく話して聞かせました。その話をまとめた『ろうそくの科学』は、いまも世界じゅうの子どもたちに読みつがれています。

1867年8月、ファラデーは長い研究生活に終わりを告げ、人類に明るい光を残してこの世を去りました。

なお、『ろうそくの科学』は、ネットで公開している 山形浩生氏の翻訳 で読むことができます。


「9月22日にあった主なできごと」

1852年 明治天皇誕生…父孝明天皇の死後、1867年に即位。明治天皇 は、江戸第15代将軍徳川慶喜の大政奉還後、王政復古を宣言。翌1868年には、国民の考えを尊重することなどを誓った「五箇条の御誓文」を発表して新しい政治の大方針を打ちだしました。そして、日本の近代化と天皇制国家の確立に重要な役割を果たしました。しかし、天皇の権力が絶大になり、これを日清・日露戦争に勝利した軍隊が利用し、その後の日本は軍国主義に導かれていきました。

1862年 リンカーン奴隷解放宣言…第16代アメリカ合衆国大統領 リンカーン は、2年前に合衆国から脱退したアメリカ南部連邦11州との戦い(南北戦争)の最中、「翌年1月1日から奴隷解放を実施する」という歴史に残る宣言を布告しました。

1868年 会津若松城落城…4月の江戸城無血開城のあと、会津藩主松平容保(かたもり)は、仙台・盛岡・米沢・庄内などの諸藩と同盟して、旧幕府軍の残党を加えて、薩摩・長州などを中心とした官軍とたたかうことになりました。8月に官軍の一隊は同盟の中心となっていた会津若松城下に入り、市街戦、籠城戦となりましたが、この日降伏して開城、半年近くに及ぶ会津戦争は終わりました。

1878年 吉田茂誕生…太平洋戦争敗戦の翌年に首相に就任、以来5回にわたって首相をつとめ、親米政策を推進して日米講和条約、日米安保条約を締結した 吉田茂 が生まれました。

今日9月21日は、真珠養殖の成功とそのブランド化などで財をなした御木本幸吉(みきもと こうきち)が、1954年に亡くなった日です。

御木本幸吉は1858年、志摩国(三重県)の鳥羽で生まれました。家は、屋号を「阿波幸」という、うどん屋でした。少年時代の幸吉は、うどん屋を手伝いながら、野菜や米や卵などを売り歩いて、家のくらしを助けました。

幸吉が、人間の手で美しい真珠を作りだすことを決心したのは、32歳のときでした。30歳で真珠商人になったものの、商人たちが天然の真珠をうばいあうため、日本の真珠がしだいに少なくなっていくことに心を痛めていた幸吉は、東京帝国大学の箕作佳吉博士から貝の中で真珠ができる秘密をおそわり、胸をときめかせて養殖にとりかかったのです。

「成功まで一生かかるかもしれないが、死んでもやりぬくぞ」

幸吉は、英虞(あご)湾に養殖場を作り、たくさんのアコヤ貝に真珠の核になる粒を入れて、海中に沈めました。しかし、何度やっても失敗でした。あるときは、赤潮で海中のアコヤ貝が全滅してしまいました。でも、幸吉は、くじけませんでした。人から「真珠きちがい」と笑われながら、実験をくりかえしました。

1893年7月のある日、幸吉と妻のうめは、海岸で貝の中を調べていました。すると突然、うめが叫びました。

「あなた、あったわ、あったわ、光ってる」

うめが開いた貝に、きらりと光るものがあります。形はまだ半円ですが、まちがいなく真珠です。

「よし、方法を考えれば、きっと、丸い真珠ができるぞ」

幸吉は、むちゅうになって研究をつづけました。そして、ついに1905年に、真円真珠の養殖に成功しました。死んでもやろうと決心して15年、幸吉は47歳でした。

大きな夢をかなえた幸吉は、つぎには、この日本の養殖真珠を世界に広めることにのりだしました。

「全世界の女性の首に真珠を飾らせてみせる」

養殖場をふやし、飾りものを作る加工場も建て、ニューヨーク、パリ、ロンドンなどに店を開いて、ミキモト・パール(現・ミキモト)をいっせいに売りだしたのです。昭和の初めにアメリカへ渡り、発明王 エジソン に真珠をおくったときには「わたしは、ダイヤモンドと真珠だけは作ることができなかった。あなたは偉大だ」とたたえられました。

1924年、66歳の幸吉は貴族院議員に当選しました。しかし、わずか1年で自分からしりぞき、1954年に96歳で亡くなるまでの長い生涯を、真珠養殖の改良にささげつくしました。


「9月21日にあった主なできごと」

1933年 宮沢賢治死去…「雨にも負けず」 などの詩や 「風の又三郎」 「銀河鉄道の夜」 「セロ弾きのゴーシュ」 などの童話を著した 宮沢賢治 が亡くなりました。

今日9月17日は、明治・大正期に活躍した歌人の若山牧水が、1928年に亡くなった日です。

牧水といえば、西行 芭蕉 と並び称されるほど旅を愛した歌人でした。「白鳥は哀しからずや空の青海の青にも染まずただよう」「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなん国ぞ今日も旅行く」などの歌は、今なお多くの人たちに愛唱されています。飲酒の量もはんぱなものでなく、晩年健康が衰えても1日一升酒を楽しんだようで、「白玉の歯にしみ通る秋の夜の酒は静かに飲むべかりけれ」と、詠んだのもうなずけます。

牧水は1885年、宮崎県坪谷村(現日向市)の医者の長男として生まれました。中学時代から短歌と俳句をはじめ、1904年に早稲田大学英文科入学、北原白秋 らと親交しながら、尾上柴舟のもとで短歌を学び、雑誌『新声』の歌壇に投稿するようになりました。学生時代に知り合った園田小枝子との情熱的な恋愛は有名で、この失恋が旅と酒を愛するきっかけとなったということです。

1908年、大学卒業後まもなく発表した処女歌集『海の声』、翌年の第2歌集『独り歌へる』はほとんど反響を呼びませんでしたが、1910年出版した第3歌集『別離』によって、前田夕暮とともに歌壇に「牧水・夕暮時代」を現出させ、歌人として生活できるようになりました。

1911年、友人の歌人太田水穂を頼って長野から上京していた若山喜志子と水穂宅で知り合い、翌年結婚、のちに歌人となる長男旅人(たびと)ら、2女1男をもうけました。1920年に沼津の自然を愛し、特に千本松原の景観に魅せられて、一家をあげて沼津に移住しました。

それからの牧水は、揮毫(きごう)旅行に出かけることが多くなりました。短冊などに歌を書くことで収入を得る旅は、性にあっていたのでしょう。旅は全国にわたり、生活の主な糧となりました。牧水の、平明で清澄、流麗な歌の数々はどこでも人気をよび、43年の生涯に7000首以上を詠み、全国にある歌碑は275を数えるそうです。そして、全国多数の新聞や雑誌にある歌壇の選者として広く後進を導き、優れた紀行文、随筆なども遺しています。

1927年牧水は、妻とともに朝鮮へ揮毫旅行に出発し、約2か月間にわたって珍島や金剛山などをめぐりましたが、体調を崩し帰国しました。翌年の死亡記事は次のように伝えています。「食事代わりの酒約100gを飲み、杯を置く間もなく昏睡に陥り一言の遺書もなく、門下生の捧げる末期の水ならぬ酒を唇にして永眠」──と。


「9月17日にあった主なできごと」

1867年 正岡子規誕生…俳誌「ホトトギス」や歌誌「アララギ」を創刊し、写生の重要性を説いた俳人・歌人・随筆家の 正岡子規 が生まれました。

1894年 黄海の海戦…日清戦争で、日本連合艦隊と清国の北洋艦隊とが鴨緑江沖の黄海で激突、清国海軍は大損害を受けて制海権を失いました。日本海軍が初めて経験する近代的装甲艦を実戦に投入した本格的な海戦として知られています。

今日9月16日は、江戸時代後期の画家・洋学者で、著書『慎機論』で幕政批判をしたとして「蛮社の獄」に倒れた渡辺崋山(わたなべ かざん)が、1793年に生まれた日です。

渡辺崋山は、田原藩(愛知県)の江戸藩邸で、武士の長男として生まれました。11人もの家族がいる渡辺家はとても貧しく、幼い弟妹たちを奉公に出さなければならないほどでした。そのため崋山も、貧しさとたたかいながらも、朱子学や、陽明学などの学問に励みました。

絵の腕前は少年時代から優れていましたが、18歳のころに谷文晁(ぶんちょう)に入門してから大きく花開くこととなりました。朝早くから夜半すぎまで、灯籠の絵などの絵の内職をしながら、いっぽうで古画を写したり、読書にはげむのがその頃の日課でした。

そんな努力が実って、20代半ばには画家として著名となり、生活も苦労せずにすむようになりました。崋山は、人物、花、鳥などをよく描きましたが、のちには西洋画の遠近法をとり入れた山水図など、いきいきとした写実的な独自の画風をうみだしていきました。立体感のある肖像の傑作を多く遺しましたが、特に蘭学の師を描いた「鷹見泉石像」(東京国立博物館蔵)は、国宝になっています。

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いっぽう崋山は、学問に励み、儒学(朱子学)、農学などを学び、父親のあとを受けて田原藩に仕えるうちに、しだいに重い役割を担うようになりました。そして、40歳のときには藩の家老に選ばれ、藩の繁栄に貢献しました。救民のための義倉「報民倉」を建設したために、天保の大飢饉では一人の餓死者を出さなかったのは、崋山の功績だといわれています。

また崋山は、儒学にあきたらず、高野長英ら洋学の同志と「尚志会」というグループを作って、政治、経済、国防などの研究にはげみました。1838年にイギリス船モリソン号がやってくるという風説をきいた崋山は『慎機論』を、長英は『夢物語』を書いて、外国船を打ち払うというやり方や鎖国を考えなおすべきだと説きました。彼らの活動こそ、封建体制の中にあって、ようやく近代的な国民意識の芽生えと生長を約束するものでしたが、幕政に対する批判ととられたのでしょう。

「尚志会」が、無人島への渡航を企てているという理由で、崋山や長英らは、1839年に捕らえられてしまいました。これが「蛮社の獄」という弾圧で、取調べの結果無実とわかったものの、崋山は、田原藩での蟄居を命ぜられてしまいました。藩主に災いの及ぶことをおそれた崋山は死を決意し、長男へ「餓死るとも二君に仕ふべからず」と遺書して1841年に切腹、49年の多彩な生涯を終えました。ペリーが率いる黒船来航の12年前のことでした。
 
なお、崋山の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブックで公開している「せかい伝記図書館」第30巻 「渡辺崋山」をぜひご覧ください。


「9月16日にあった主なできごと」

1620年 メイフラワー号出帆…アメリカ建国のきっかけをつくった102人のピュリタン(清教徒)が、イギリスのプリマス港を出港。

1865年 小村寿太郎誕生…日英同盟、日韓併合の立役者であり、日露戦争が終結したポーツマス講和会議の全権大使を務めた外交官 小村寿太郎 が生まれました。

1877年 大森貝塚発掘開始…アメリカの動物学者 モース は、縄文時代の貝塚「大森貝塚」を発掘を開始しました。この発掘がきっかけとなって、日本に近代科学としての考古学がスタートしました。

今日9月15日は、平安時代後期の天台宗の高僧でありながら絵画にも精通して、鳥獣戯画の作者といわれる鳥羽僧正(とばそうじょう)が、1140年に亡くなった日です。

すもうをとって、カエルに投げとばされているウサギ、衣をまとい、和尚になりすまして、ごちそうをいただいているサル。このほか、馬、牛、キツネ、イノシシ、ニワトリなど、さまざまな動物たちを、まるで人間のようにえがいた『鳥獣戯画』。

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鳥羽僧正は、このめずらしい絵をかいたといわれている僧侶です。

僧正は1053年、朝廷につかえる公家の家に生まれ、幼いうちに出家しました。そして、天台宗の園城寺で修行をつんで、26歳のとき法橋の位を受けました。年老いてからは、さらに法印、大僧正の位にまでのぼり、85歳のときには天台宗をとりしまる延暦寺の座主にまでなりました。僧としてのほんとうの名は覚猷(かくゆう)といいましたが、京都の鳥羽離宮内の寺に長く住んだことがあることから、鳥羽僧正とよばれるようになったのです。

僧正は、僧として高い知識をそなえていただけではなく、仏像画をかくことにも優れていました。また、のちに鳥羽絵として流行するようになった、世の中を皮肉ったこっけいな絵をかくことも、じょうずでした。

あるとき、米俵が風に吹かれて飛んでいる絵をかきました。すると、上皇から、絵の意味をたずねられました。重い米俵が飛んでいるのが不思議だったからです。僧正は答えました。

「寺にとどけられる俵に、ぬかをたくさんつめたものがあります。だから、俵は目をはなすと、空に舞いあがってしまいます」

この話を笑いながら聞いた上皇は、俵に米をつめるときに不正がおこなわれていることをさとって、すぐに役人をいましめたということです。鎌倉時代の説話集に残っている話です。

僧正が50歳をすぎたころから、延暦寺や興福寺などの大きな寺で、たびたび、権力をめぐって僧たちの争いが起こりました。そのため、多くの僧は修行をおこたり、仏教の世界は乱れてしまいました。

『鳥獣戯画』も、このような社会を皮肉ったものだろうといわれています。サルの僧が、たくさんのみつぎものをもらっている絵などには、貴族と僧の堕落に対する、するどい批判がこめられています。

しかし、この『鳥獣戯画』が、ほんとうに鳥羽僧正の手でえがかれたものかどうか、はっきりはしていません。でも、この絵巻ものが、墨の線だけでえがいた、すぐれた日本画であることにはまちがいなく、いまは国宝として、京都の高山寺に保存されています。


「9月15日にあった主なできごと」

1600年 関が原の合戦…天下分け目の戦いといわれる合戦が、岐阜県南西部の地「関が原」でおこりました。徳川家康 ひきいる東軍と、石田光成 ひきいる西軍との戦いです。一進一退をくりかえしていたのが、西軍として参戦していた小早川軍が東軍に寝返ったことことで西軍は総崩れし、東軍の圧勝に終わりました。これにより、全国支配の実権は、家康がにぎることになりました。

1825年 岩倉具視誕生…公家出身で、幕末から明治前期に活躍した政治家 岩倉具視 が生まれました。

1881年 魯迅誕生…20世紀初頭の旧中国のみにくさを鋭く批判した「狂人日記」「阿Q正伝」を著した 魯迅 が生まれました。

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