児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年09月

今日9月30日は、中国が明とよばれていたころ、儒教の流れをくむ「朱子学」に対し、日常生活の中での実践を通して人の生きるべき道をもとめる「陽明学」という学問の大きな流れを作った思想家 王陽明が、1472年に生まれた日です。

陽明は子どものころから、人間が大きく、広い心をもっていました。「試験に合格して、役人になるのが人のしあわせなのではなく、孔子や孟子のようになってこそ、初めてりっぱな人間といえるのだ」と言って塾の先生をたいへん驚かせたりしました。

何ごとも人と同じように、世間なみにという平凡な生活をきらい、さまざまな体験を求めました。そして人生に得るところがありそうだと思えるものは、さっそく実行に移します。仏教を学び、文学に熱中し、武道にも手をそめました。

18歳の年、朱子学の先生に出会い、けんめいに指導を受けました。しかし、その理論が自分の考えとは大きく隔たっていることに失望してしまいます。

陽明は、成長して役人になりましたが、理想と現実のちがいに、悩みつづけました。自分の利益を考える人たちばかりで、民衆を無視した政治を行なっていました。陽明は、ゆたかな知識のある、すぐれた人物でしたので、おとなしくしていれば、出世はまちがいありませんでした。ところが、陽明にとって、目先の損得などどうでもよいことです。自分だけのことを考える人間ではありませんでした。みだれた政治家とは、きびしく対立して、いいかげんな行動をいっさい許しません。いままで政治を金もうけの道具にして、やりたい放題のことをしていた人たちを、次つぎに追及しました。ところが、すじ道を立てて政治を考えようとする人は、ほとんどいません。

陽明は、嫌われて、ついには山奥へ追放されてしまいました。文化の遅れた土地で、わずかな人がひっそりと田畑を耕して暮らしています。しかも、まったく知らないことばを使っていたので、自分の気持ちを伝えることもできません。陽明は、ただ一人でほら穴に住み、学問にはげみました。朝から晩まで本を読む生活です。

ある夜、目からうろこが落ちるように、人の生きるべき道をさとりました。新しい独自の考え方をまとめて、陽明学とよばれるようになりました。人は、教育や政治など外の経験によりどころを求めるのではなく、自分の内面をほり下げて、正しい心を発見し、それにしたがって行動するということを主張しています。おおくの人に影響を与え、1528年に亡くなりました。

「陽明学」は、江戸時代の日本にも伝えられ、 「近江聖人」 と慕われた中江藤樹や、大塩の乱を起こした大坂奉行所元与力の大塩平八郎や、幕末維新の志士を育てた吉田松陰らは、陽明学者を自称していました。


「9月30日にあった主なできごと」

1913年 ディーゼル死去…空気を強く圧縮すると高い温度になります。この原理を応用して、空気を圧縮した筒のなかに液体の燃料を噴射して自然発火させ、爆発力でピストンを動かすエンジンを発明した ディーゼル が亡くなりました。

今日9月29日は、トラファルガル沖海戦で、フランス・スペイン連合艦隊をうちくだいたイギリス海軍の提督ネルソンが、1805年に戦死した日です。

ホレーショー・ネルソンは1758年、イギリスのノーフォーク地方に生まれ、わずか12歳で海軍にはいりました。各地の勤務でたたきあげ、20歳で大佐、25歳で艦長になりました。ネルソンは、1793年からは、おもにフランス軍と対戦して、目ざましいてがらをたてました。しかし、コルシカ島で戦っているとき右目を失明し、カナリア諸島での海戦では右腕を失ってしまいました。

そのころのヨーロッパは、全土にわたって戦争がくりひろげられていました。フランスの ナポレオン が、わがもの顔に各国を、馬のひずめでけちらしていた時代です。これにたいしてイギリスは、ロシア、オーストリア、スウェーデンなどと大同盟をむすび、フランスに立ちむかいました。フランスと連合するのは、スペインただ一国でした。強力な海軍を持つイギリスは、ナポレオンにとって難敵となっていました。

1805年8月に、イギリスに先手をとろうとフランス軍がドーバー海峡に集まってきました。ところが、ネルソンのひきいるイギリス海軍には、まったくすきがありません。ナポレオンは、正面からせめることができないため、たくみにネルソンをおびきだす作戦をたてました。手薄になったところをねらって、一気にイギリス本土へ上陸しようというのです。

ネルソンは、フランスの艦隊を発見して追跡しました。しかし、見当はずれの方向へ進む艦隊に、ネルソンはナポレオンの作戦をみやぶって、すぐひきかえしてしまいました。しばらくして今度は、ネルソンの方がフランス艦隊のゆだんしているところへ、おそいかかったのです。ネルソンのイギリス艦隊は、27隻。対するフランスは、スペインとの連合艦隊で、33隻もの戦艦をしたがえていました。不利な海戦でしたが、ネルソンのたくみな指揮で、大勝利におわりました。このトラファルガル沖の戦闘の中で、ネルソンは、先頭に立っていたために狙いうちされて、戦死してしまいました。

ネルソンのてがらにより、ナポレオンの全ヨーロッパ征圧の野望はうちやぶられました。イギリス海軍は世界じゅうにおそれられ、そののちも、イギリス本土に攻めこまれることはありませんでした。

なお、ネルソンの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブックで公開している「レディバード100点セット」
90巻目「ネルソン」の参考訳をご覧ください。


「9月29日にあった主なできごと」

1801年 本居宣長死去…35年かけて完成させた『古事記』注釈の集大成『古事記伝』44巻など、数多くの古代日本を探る研究書を著した江戸時代中期の国学者・本居宣長 が亡くなりました。

1837年 徳川慶喜誕生…大政奉還を行い、250年にもおよぶ江戸幕府の幕を閉じた15代将軍・徳川慶喜 が生まれました。

1872年 ガス灯の点灯…ガス灯が横浜の大江橋(桜木町駅近くの橋)から馬車道、本町通あたりに10数基設置されました。「あんどん」という油の中に灯心を入れたものしか見たことがなかった人々にとって、あまりの明るさに「あれはキリシタンの魔法だ」「近寄るな、すいこむと死んでしまうぞ」「外国人が横浜を火の海にする気だ」など大騒ぎしたと伝えられています。

1918年 原内閣成立…日本で初めての本格的な政党として 原敬 内閣が成立しました。初めて爵位をもたない平民宰相として人々の期待を集めましたが、普通選挙制に反対したり、大正デモクラシーを弾圧するなど国民の期待を裏切る結果になり、3年後に原は18歳の少年に暗殺されてしまいました。政党内閣はその後1932年の犬養内閣までつづきましたが、やがて軍閥・右翼勢力にとってかわられました。

1972年 日中共同声明の調印…田中角栄首相と中国周恩来首相は、北京で日中共同声明を発表し、日本と中国の国交正常化の調印を行ないました。この調印によって、両国間の国交が正常化され、1978年には日中平和友好条約が結ばれることになります。

今日9月28日は、一代で安田財閥を築き上げた実業家 安田善次郎が、1921年に暗殺された日です。

安田善次郎は1838年、越中(現・富山)藩の下級武士の子として生まれました。子どもの頃から、勤倹貯蓄の家風を身につけ、12歳のころには昼は野菜の行商をし、夜には 豊臣秀吉 の生涯をつづった伝記『太閤記』の写本をして過ごすほどの努力家でした。しかし、富山に来た大坂の町人を武士たちが丁重にむかえる姿を目にした善次郎は、武士が権威を失っていること、金力が世の中を動かすようになると考えるようになりました。

そして1858年、江戸に出ておもちゃ屋の奉公人、かつおぶし屋兼両替商に勤めながら金融のやり方を学びました。1863年に日本橋に両替商を開業、幕末の戦乱時にも営業を続けて巨利を得ました。1876年には国立銀行創立の出願者のひとりとなって明治政府に協力し、1880年に安田銀行(後の富士銀行、現みずほフィナンシャルグループ)を設立するに至りました。さらに損保会社(現・損害保険ジャパン)、生保会社(現・明治安田生命保険)を次々に設立して、安田財閥としての基礎を築きました。

やがて安田銀行をはじめ、第一・三井・三菱などの大銀行は、さまざまな分野の産業に手を広げ、政党と結んで利益をあげ、勢力を拡大するとともに、日本を支配する勢いでした。善次郎は、自分の天職を金融業と決めて、私的に事業を営むことを自ら戒めていました。しかし、南満州鉄道への参画や日銀の監事など、この時代の国家運営にも深く関わっていきました。

第1次世界大戦後の日本は、諸物価が上がり、国民生活は苦しくなるいっぽうでした。こうした状況のなか、天皇を中心とする強力な国家を造りあげるためには、実業家や政治家を葬り去らねばならない、という危険思想を掲げる者があらわれてきました。

1921年9月27日、神奈川県大磯町にある善次郎の別邸に、弁護士を名乗る男が訪れて、労働ホテル建設について談合したいと申し入れましたが、善次郎は面会を断りました。その翌日も、門前で4時間ほどねばって、ようやく面会が許された男は、いきなり隠し持っていた短刀で、善次郎を刺し殺したのです。犯人の神州義団団長を名乗る朝日平吾という男は、その場で所持していたカミソリで首を切って自殺しました。

なお、東京大学の安田講堂や、日比谷公会堂などは、善次郎が寄贈したものです。また、「五十、六十は鼻たれ小僧 男盛りは八、九十」という言葉を遺したといわれています。


「9月28日にあった主なできごと」

1895年 パスツール死去…狂犬病ワクチンを初めて人体に接種するなど、近代細菌学の開祖といわれるフランスの細菌学者・化学者 パスツール が亡くなりました。

1970年 ナセル死去…スエズ運河の国有化、アスワン・ハイ・ダムの建設につとめ、第三世界(アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの発展途上国)の指導者として活躍したエジプトの ナセル が亡くなりました。

今日9月27日は、日本・ドイツ・イタリア3国の間で「日独伊三国軍事同盟」が、1940年に締結された日です。この同盟により、日本はアジア、ドイツとイタリアがヨーロッパで主導権を持つことをお互いに認め、軍事的にも協力しあうことが取り決められました。

ポーランドへ侵攻した ヒトラー の率いるナチス・ドイツに対し、1939年9月にイギリスとフランスが宣戦布告して、第2次世界大戦が始まっていました。開戦後のドイツは、次々に周辺諸国を占領、1940年5月には北フランスに侵入を開始し、首都パリを陥落させたことでフランスを降伏させ、イタリアもドイツ側にたってイギリスに宣戦を布告しました。こうして圧倒的な戦力を誇るドイツは、イギリスを除くヨーロッパ全土を支配下におさめる勢いでした。

ナチス・ドイツは、早くから日本に三国同盟の話をもちかけていました。当時の日本は、すでに日中戦争で、ばく大な戦費を費やしていたのと、蒋介石政権を支援するアメリカと鋭く対立していました。ヨーロッパ戦線で快進撃を続けるドイツを見て、日本政府はドイツと手を結びアメリカを牽制しようと考えました。また、日本には、アジア太平洋地域のイギリス、フランス、オランダの植民地を支配することを、ドイツに了解させたいという意図もありました。

三国同盟の締結に対し、条約推進派から「条約反対三羽ガラス」と呼ばれていた 山本五十六、井上成美、米内光政を中心とする海軍は反発しましたが、「ナチスの勝利間違いなし」と軍事同盟の締結に熱心な陸軍や右翼の圧力に屈して、「バスに乗り遅れるな」というスローガンのもとに、条約締結を推進していきました。

こうして日本政府は外相松岡洋佑に命じて、日独伊軍事同盟をベルリンで調印しました。翌月には国家が一つになることを目的とした「大政翼賛会」という政党を組織して既成政党を解散・吸収し、現在の北朝鮮のような全体主義国家となって、東南アジア進出を推し進めました。この南進政策は、アメリカ、イギリス、オランダとの利害対立を深めることになり、対日石油輸出禁止などの措置をとったアメリカとの交渉がいきづまって、1941年12月にハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争を引き起こしていくのです。戦争はまさに全世界規模のものとなっていきました。

三国同盟は、1943年イタリアの降伏、1945年5月ドイツの降伏によって崩壊しました。


「9月27日にあった主なできごと」

1825年 蒸気機関車初の開業…イギリスの発明家 スチーブンソン が蒸気機関車を実用化してから11年後、ストックトン~ダーリントン間19kmを走る世界初の鉄道が開通しました。蒸気機関車はその後数十年で世界中に広まり、産業革命に大きな貢献をしました。

1917年 ドガ死去…「舞台の踊り子」(エトワール)などたくさんの踊り子の絵を描いた画家 ドガ が亡くなりました。

1925年 日本初の地下鉄…地下鉄銀座線(浅草─渋谷)の起工式が行なわれました。世界で14番目、アジア・オセアニア地域では初めての地下鉄路線でした。

今日9月24日は、江戸時代中期の天文・地理学者 西川如見(にしかわ じょけん)が、1724年に亡くなった日です。如見は、著書の『長崎夜話草』に、1639年に幕府はオランダ系混血児11名をジャガタラ(現・ジャカルタ)へ流したこと、その中のひとり14歳の「お春」のことなどを紹介しています。

如見は、1648年、長崎の生糸の鑑定を行なう地役人の家に生まれました。20歳をすぎてから学問を志し、儒学を京都の儒者である南部草寿に、天文暦算を小林義信に学びました。1695年に『華夷(かい)通商考』を出版し、長崎で見聞したことをもとにした世界の地理や風俗などを紹介しました。1697年には、家業を長男に譲って隠居し、天文暦算の研究に専念するようになり、1712年に『天文義論』を著しました。中国の天文学説を主として、ヨーロッパの天文学説を従と考えるところに特徴がありましたが、1717年には、徳川吉宗 に招かれて江戸におもむき、天文、地理の講義を行ったという記録が残っています。

さて、鎖国当時の長崎・出島は、日本のたったひとつの海外と接点のあるところでした。幕府は、オランダ人と中国人のほかは貿易を許さず、出島以外に住むことも禁じていました。如見はそんな長崎で暮らしていたため、めずらしい話を聞く機会が多かったのでしょう。それらを『長崎夜話草』に記しました。

その第1巻に、追放されたお春が、ジャガタラから日本行の船にたのんで手紙 「ジャガタラ文(ふみ)」をよこしたこと、それがあわれ深い内容なので書きとめておく、とあります。手紙は「千はやふる、神無月とよ」で始まり「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」と結ばれていました。お春の募る望郷の念を、少女とは思えぬ流麗な調子でしたためた名文として高く評価され、悲劇の少女として知られることとなりました。

なお、1939年にレコード発売され、今も歌われる歌謡曲「長崎物語」(じゃがたらお春)「♪赤い花なら まんじゅしゃげ……」は、この「じゃがたら文」を下敷きに作られたといわれています。


「9月24日にあった主なできごと」

1744年 石田梅岩死去…正直、倹約、堪忍という徳目をわかりやすく示し、町人の道を教える 「心学」 をはじめて説いた江戸時代中期の学者 石田梅岩 が亡くなりました。

1877年 西郷隆盛自刃…木戸孝允と大久保利通とともに倒幕・維新に尽力した「維新の三傑」の一人とうたわれた 西郷隆盛 は、士族(もと武士)たちの不満を解消させるために征韓論を主張しましたが、木戸、大久保らに反対されたため、明治政府の要職をすてて郷里鹿児島へかえりました。私塾を開いているうち、やがて下級士族たちにかつがれて8か月にわたる西南戦争をおこしました。西郷軍は政府軍と奮闘しましたが、最新式武装をした政府軍の力に及ばす、最期をさとった西郷は、たてこもった城山で、腹心に介錯を頼み自刃しました。

1965年 みどりの窓口開設…国鉄(いまのJR)は、コンピューターを使った指定券発売の窓口「みどりの窓口」を全国152の主要駅と日本交通公社(現・JTB)の83営業所に設置しました。これにより、長い時間待たされたり、ダブルブッキングがほとんど解消されました。

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