児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年08月

今日8月6日は、スペイン絵画の黄金時代を築いた17世紀を代表する巨匠ベラスケスが、1660年に亡くなった日です。

ディエゴ・ベラスケスは、1599年スペイン南部の当時もっとも栄えていた都市セビーリャに生まれました。11歳で当地の有力な画家のパチェーコに弟子入りしました。パチェーコは、画家であるとともに詩人でもあり古典の素養のある知識人だったため、ベラスケスは、パェチーコ家に集まるたくさんの芸術家や学者から多方面の文化を学びました。パチェーコは、ベラスケスが自分よりはるかに優れた画家としての能力があることを、公然と認める心の広さをもった人物でした。

6年の徒弟時代を終えたベラスケスは、わずか17歳で親方としての資格審査を通りました。こうして最上級の画家の地位を得て、当時のスペイン画壇の中心だった厨房画(ボデゴン)と呼ばれる、厨房を中心とした室内情景や静物を描いた絵画を多く残しています。18歳で、ベラスケスは、パチェーコの娘フアナと結婚。1623年には、マドリードに出て国王フェリペ4世付きの宮廷画家となりました。

美術愛好家であったフェリペ4世は、ベラスケスを厚遇しました。宮廷内に画家のアトリエをこしらえ、ベラスケス以外に自分の肖像を描かせないほどのお気に入りでした。当時、画家という職業には「職人」としての地位しか認められなかったため、画家としてだけでなく、ベラスケスを宮廷の役人としても重用しました。王の私室取次係、宮内警吏、王室待従代理など順調に出世し、晩年には宮廷装飾の責任者を命じられ、貴族、王の側近としての地位を与えられました。こうしてベラスケスは、61歳で亡くなるまでの30数年にわたり、国王や王女をはじめ、宮廷の人々の肖像画、王宮や離宮を飾るための絵画を描きつづけました。

多くの画家が波乱万丈の一生を送ったのに対し、ベラスケスほど順調な生涯をを終えた画家はめずらしいといわれています。絵を描けば誰にも負けず、若くして宮廷画家となって名画の数々を残し、国王の期待通りの職務を遂行し、生涯師匠の娘である妻を愛し続け、出世街道をまっしぐらに進み、ついには願い通り騎士の称号を序せられたのです。

なお、ベラスケスの代表作『ラス・メニーナス』(女官たち)につきましては、[2007年8月23日ブログ] をご覧ください。

Velazquez-Meninas.jpg

1985年『イラストレイティッド・ロンドンニューズ』誌の読者投票は、この作品を世界最高絵画に選びました。


「8月6日にあった主なできごと」

1806年 神聖ローマ帝国滅亡…フランツ2世が退位して、844年間の歴史を閉じました。

1809年 テニスン誕生…ビクトリア朝時代を代表するイギリスの詩人テニスンが生まれた。[2009年8月6日ブログ 参照] 

1881年 フレミング誕生…青かびからとりだした物質が大きな殺菌力をもつことを偶然に発見し、ペニシリンと命名して世界の医学者を驚かせた フレミング が生まれました。

1945年 広島に原爆投下される…アメリカ空軍B29爆撃機が、人類初の原爆を広島に投下しました。[2007年8月6日ブログ 参照]

今日8月5日は、イギリス・フランス・オランダ・アメリカ4か国の連合艦隊が1864年、長州藩(山口県)に戦争をいどんだ日です。3日間の戦いの末に連合艦隊が完勝しました。

明治維新のリーダー役だった長州藩は、外国を追い払うという考え方(攘夷派)の先頭に立っていました。そのため前年の1863年5月、馬関海峡(今の関門海峡)を封鎖して、航行中のアメリカ・フランス商船に対して砲撃を加えるという攘夷の行動にでました。それから半月後、アメリカ・フランス軍艦は、長州軍艦を砲撃してしかえしをしました。ところが長州はこれにめげず、砲台を修復したばかりか、対岸の小倉藩領の彦島も占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖をし続けたのです。

大きな経済的損失を受けたイギリスは、長州に懲戒的報復することを決定。フランス・オランダ・アメリカに参加を呼びかけて、艦船17隻の連合艦隊を編成し、1864年7月末に横浜沖を出て、下関にむかいました。

馬関海峡についた同艦隊は、旗艦ユーリアルス号から発した戦闘開始の信号を合図に、馬関(現下関市の中心部)と彦島の砲台を砲撃しはじめました。戦闘は8日までつづいたものの、圧倒的な規模をほこる連合国の敵ではなく、長州の砲台は次々に壊されていきました。こうして完膚なきまでに打ちのめされた長州は、攘夷の無謀さをはっきりと知りました。

方向転換してイギリスに接近した長州は、欧米から新知識や技術を積極的に導入して、軍備を近代化していきました。そして同時期に近代化路線に転換した薩摩藩とともに、倒幕への道を一気に進むことになるのです。


「8月5日にあった主なできごと」

1895年 エンゲルス死去…マルクスとともに「共産党宣言」「資本論」などを著した エンゲルス が亡くなりました。

今日8月4日は、徳川3代将軍家光が、江戸時代初期に幕府が武家を統制するために定めた法令「武家諸法度」に、1635年「参勤交代(さんきんこうたい)の制度」を条文にとり入れた日です。

江戸幕府をはじめた 徳川家康 は、全国の大名たちを支配するために、1615年「武家諸法度」を2代将軍秀忠の名で発布しました。3代将軍家光はさらに厳しく統制するために、「参勤交代」の決まりを加えたのです。

「下に、下に……」と、いかめしい大名行列が通ると、百姓や町人たちは、道端に土下座をします。時代劇などでおなじみのシーンですが、これが参勤交代によって生まれたものです。

大名というのは、1万石以上の米のとれる領地をもっている武家で、大小260ほどあり、この大名たちがあまり力をたくわえないようにねらった制度でした。諸大名たちは、1年ごとに江戸と自分の領地を行き来して、妻子は人質として江戸屋敷に住まわせるとともに、その旅費や江戸の滞在費をすべて大名に負担させました。つまり、大名は1年おきに大行列を組んで江戸へ上り、1年経つと江戸から領地にもどるわけで、1年ごとにいったりきたりするものでした。

さらに、参勤交代のおかげで、街道が整備され、大名行列が消費するぼう大な費用によって宿場が繁栄しました。一番大きな大名行列は、加賀(石川県)100万石といわれた前田藩で、その規模4千人の行列でしたから、その費用はどんなに大きなものだったか計り知れません。交代の時期や、往復の道すじなども幕府の命令で決められ、西日本の大名たちは、主に東海道を通ったため特に栄えました。また、箱根など途中の要所には関所を設けたり、大井川に橋をかけなかったり、出入りする人々を取り締まることを可能にしました。

このように、徳川将軍家のみを絶対とする江戸幕府の支配体制を確立したため、戦国時代を完全に終結させ、250年以上におよぶ、世界史上でもまれな長期安定政権となったことは否定できません。


「8月4日にあった主なできごと」

1830年 吉田松陰誕生…佐久間象山 らに学び、1857年に私塾「松下村塾」を主宰し、幕末から明治にかけて活躍した 高杉晋作伊藤博文 らおよそ80人の門下生を育て、1859年に「安政の大獄」で刑死した長州藩士 吉田松陰 が生まれました。

1875年 アンデルセン死去…『マッチうりの少女』『みにくいあひるの子』『人魚姫』など150編以上の童話を生み出し、「童話の王様」と讃えられる アンデルセン がなくなりました。

1944年 アンネ一家逮捕される…『アンネの日記』を書いたドイツ系ユダヤ人アンネ・フランクの一家が、オランダ・アムステルダムの隠れ家に潜行生活中、ナチスの秘密警察ゲシュタボに逮捕されました。

今日8月3日は、江戸時代の前期に農民の願いを将軍に直訴して、死罪となった佐倉惣五郎が、1653年に亡くなったとされる日です。

下総国の佐倉藩公津村(現在の千葉県成田市内)では、堀田家が藩主をつとめていましたが、印旛沼の埋めたて事業などが失敗したため、年貢の取り立てを年々厳しくしていました。ある時、祝いごとにかこつけて名主(村役人のかしら)が宴会に印鑑持参で呼び集められて、強引に年貢を5年間2割増しするといいわたされました。

名主のひとりだった佐倉惣五郎(木内宗吾)は、これに反発して江戸に出向き、将軍の行列を待ち受けて、竹の先に訴え状をさしはさんで直訴しました。こうして農民の願いは聞き届けらたものの、正式な手続きのない行為だったため、惣五郎は妻と4人の子ともども死罪になってしまいました。こののち、堀田家は武士の身分をはく奪された上、所領と城・屋敷を没収されたということです。佐倉藩の農民たちは、惣五郎の霊堂をつくり、今なお祀り続けています。

この話は、江戸時代中期以降『地蔵堂通夜物語』や『東山桜荘子』などの物語、歌舞伎『佐倉義民伝』などに取り上げられて、義民として知られるようになりましたが、一揆や直訴を行ったという記録がないため、架空の話ではないかといわれてきました。しかし近年になって、1652年の検地帳にその名が発見されたため、実在したことが判明しています。


「8月3日にあった主なできごと」

1792年 アークライト死去…水力紡績機を発明するなど、イギリスにおこった産業革命の担い手となった アークライト が亡くなりました。

1862年 新渡戸稲造誕生…国際連盟事務局次長などを通じ、日本の国際的な発展に寄与した教育者 新渡戸稲造 が生まれました。

今日8月2日は、『夕鶴』『彦一ばなし』『絵姿女房』など、日本各地に伝わる民話を素材にした一連の「民話劇」を著した劇作家の木下順二が、1914年に生まれた日です。

『夕鶴』の内容は次の通りです。

与ひょうは、ある日ワナにかかって苦しんでいた一羽の鶴を助けました。後日、与ひょうの家を「女房にしてください」と一人の女性つうが訪ねてきます。夫婦として暮らしはじめたある日、つうは「織っている間は部屋をのぞかないでほしい」と約束をして、すばらしい織物を与ひょうに作ってあげました。つうが織った布は、「鶴の千羽織」とよばれ、知りあいの運ずの仲介で高値で売られ、与ひょうにもお金が入ってくる。その噂を聞きつけた惣どが運ずと共に与ひょうをけしかけ、つうに何枚も布を織らせました。

つうとの約束を破って惣どと運ず、さらに与ひょうは、織っているつうの姿を見てしまいます。そこにいたのは、自らの羽を抜いては織りこんでいく、まさにわが身をけずって織物をしている与ひょうの助けた鶴の姿でした。正体を見られたつうは、与ひょうのもとを去り、よたよたと空に帰っていくのでした……。

この話は、新潟県の佐渡に伝わる民話「鶴女房」をもとに作られたといわれています。しかし木下は、もとの民話にはない「お金」に取りつかれていく人間と「お金」を理解しない鶴を対比させることによって、作品の芸術性を高め、経済至上主義への批判を行ったといえます。


木下順二は、東京・本郷に生まれ、小学校から高校までを熊本ですごしました。1936年に東京帝国大学英文科へ入学、中野好夫のもとでイギリス演劇史や シェークスピア の文学を学び、戯曲の創作を志しました。第二次世界大戦中から民話を素材にした劇を書きはじめ、戦後『彦市ばなし』『三年寝太郎』などの民話劇を経て、1949年に『夕鶴』を発表して民話劇ブームをおこしました。『夕鶴』は、「つう役」の主演女優(山本安英)らにより400回もの上演をはたして、演劇の大衆化に寄与しました。

その後、ゾルゲ事件 を題材とした『オットーと呼ばれる日本人』、東京裁判を題材とする『神と人とのあいだ』などで戦後の日本演劇を代表する作家として活躍、反戦・平和運動にも積極的に参加し、2006年に死去しました。ロングセラー民話絵本『かにむかし』『わらしべ長者』『ききみみずきん』などの作者としても有名です。


「8月2日にあった主なできごと」

1922年 ベル死去…聾唖(ろうあ)者の発音矯正などの仕事を通じて音声研究を深めているうちに、磁石式の電話機を発明した ベル が亡くなりました。

↑このページのトップヘ