児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年08月

今日8月17日は、インドネシア独立運動の指導者スカルノが、1945年にオランダからの独立を宣言した日です。オランダはこの独立を認めず、その後4年間の戦争に突入しました。

インド洋と太平洋の間に、インドネシアがあります。スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスのほか、大小1万3000あまりの島が集まっている共和国です。しかし、1945年に第2次世界大戦が終わるまでは、オランダに支配された植民地でした。

1901年、その植民地時代にジャワ島のスラバヤで生まれたアハマッド・スカルノは、子どものころから、自分たちの独立国をもたない悲しさに心を痛めながら育ちました。そして1925年にバンドン工科大学を卒業すると、2年後にはインドネシア国民党をつくって、民族独立の戦いへ立ちあがりました。

ところが、たちまちオランダの役人ににらまれ、1929年に捕らえられたときは2年、1933年に捕らえられてからは9年もの間、牢や島に閉じ込められてしまいました。1939年に第2次世界大戦が始まったときも、捕らえられたままでした。

1942年、インドネシアを占領した日本軍の力で、スカルノは、やっと自由の身になりました。でも、こんどは、わがままな日本軍のいうことを聞きながら、戦争が終わるのを待たなければなりませんでした。

1945年8月に戦争が終わり、スカルノは、檻から出されたライオンのような勢いで、立ちあがりました。

「オランダも長い戦争でつかれている。いまだ」

このように叫んだと思うと、8月17日にはインドネシア独立を宣言し、新しい憲法を定めて大統領になったのです。

しかし、独立の声をあげてはみたものの、まだまだ平和はおとずれず、それからおよそ4年の間、もとの植民地にもどそうとするオランダと、戦わなければなりませんでした。

1949年にオランダは、ついにインドネシアの独立をみとめ、翌年インドネシア連邦共和国が誕生しました。ところが、スカルノ大統領には、これからさきが、さらに大変でした。

国土が数おおくの島に分かれているため、国民の心がひとつにまとまらず、各地で国民同志の争いが起こりました。民主主義の国をきずくため、国民の中からさまざまな代表を集めて話しあいの政治を進めていこうとしましたが、成功しませんでした。そのうえ、共産党の人たちとも手をむすんで政府をつくったことから、政府と軍人がにらみあうようになり、1967年、ついにスカルノ大統領は、陸軍司令官スハルト将軍に大統領の地位をゆずることになってしまいました。

スカルノは、1970年に69歳で亡くなりました。この建国の父の生涯には、心の休まるときはありませんでした。なお、タレントとして活躍中のデヴィ夫人(日本名・根本七保子)は、スカルノの第3夫人。


「8月17日にあった主なできごと」

1807年 蒸気船の試運転…アメリカの技術者で発明家の フルトン が、ハドソン川で蒸気船の試運転に成功した日です。

1949年 松川事件…東北本線の福島県松川市付近で、レールの釘がはずされていたため列車が転覆し、機関士ら3人が死亡する「松川事件」がおきました。この事件は、国鉄(JRの前身)の労働組合や共産党が仕組んだものとされ、労働組合員ら20人が逮捕されました。1963年に判決がおり、全員が無罪となりましたが、この事件をきっかけに政府の労働組合への取り締まりが強化され、日本の労働運動は急速に弱まっていきました。当時おきた下山事件、三鷹事件とともに「国鉄3大ミステリー」といわれています。

今日8月12日は、大正・昭和期の詩人で、『かなりや』『鞠(まり)と殿様』『肩たたき』などの童謡、『東京行進曲』『青い山脈』『王将』などの歌謡曲の作詞を手がけた西条八十(さいじょう やそ)が、1970年に亡くなった日です。

1892年東京・牛込の外国石けんを輸入販売する9人兄弟の家に生まれた八十は、幼いころから外国へのあこがれを抱いていました。そのため中学生のころからイギリス人女性に英語を学び、正則英語学校(現・正則学園高校)時代には英語以外にフランス語を学び、1915年に早稲田大学英文科を卒業しました。

早稲田大学在学中に、堀口大学、日夏耿之介らと同人誌を刊行したり、三木露風らと交流しながら詩人をめざしましたが、父親の急死、兄の放蕩、財産の放逸など突然の不幸にみまわれました。そのため、母や兄弟たちを養うために、株取引、てんぷら屋の経営など意にそわない仕事に手をそめ、わずかに残った財産も失ったのでした。

1919年に『赤い鳥』を創刊した鈴木三重吉に童謡創作を依頼された八十は、この年の11月号に『かなりや』(♪ 唄を忘れたかなりやは…)を発表。成田為三の曲を得て大ヒットとなり、八十はいちやく脚光をあびました。この歌は、大正時代の童謡を象徴するものとして、今なお歌われつづけています。やがて自費出版した第一詩集『砂金』では、象徴詩人としての地位を確立しました。

1924年から2年間、フランスへ留学しソルボンヌ大学でポール・ヴァレリーらと交遊し、帰国後、母校早稲田大学仏文科助教授となり、1931年に教授となりました。
 
教鞭のかたわら、おりから急成長をとげるレコード産業を活気づけたのも八十でした。佐藤千夜子が昭和初期の開放的なモダン東京を歌った『東京行進曲』(中山晋平作曲)は、日本の映画主題歌の第1号としてビクターレコードから発売され、25万枚を売り上げました。さらに民主化の息吹を伝える藤山一郎の躍動感あふれるさわやかな歌声で戦後まもなくヒットした『青い山脈』、異国情緒たっぷりの『蘇州夜曲』、古賀政男ワールドともいうべき『誰か故郷を想わざる』『ゲイシャ・ワルツ』、船村メロディの傑作として村田英雄の歌う『王将』など無数のヒットを放ちました。八十の手がけた作詞作品は、童謡・歌謡曲をふくめ2500曲を超えるほどで、薄幸の童謡詩人・金子みすゞを最初に見出した人でもありました。


「8月12日にあった主なできごと」

紀元前490年 マラソンの始まり…ギリシアのマラトン(英語読みマラソン)で、1万人のギリシア軍と10万人のペルシア軍が戦いギリシア軍が勝利をおさめました。戦いに勝ったことを知らせるために、ギリシア兵のフェイディピデスが首都アテネまでの42,195mを休まずに走り続け「わが軍勝利」といって死んでしまいました。この逸話を記念して、1904年の第1回近代オリンピックから、マラソン競技としてとり入れられました。

紀元前30年 クレオパトラ死去…古代エジプト・プトレマイオス朝最後の女王 クレオパトラ が、毒蛇に身をかませて亡くなったといわれる日です。

1643年 俵屋宗達死去…江戸時代の日本画の最高けっ作といわれる『風神雷神図』 などを描いた江戸時代初期の画家 俵屋宗達 が亡くなりました。

1893年 「君が代」「日の丸」制定…「君が代」など8曲が小学校祝日唱歌に定められ、国民の祝典や学校の式では必ず歌われるようになりました。太平洋戦争後は、天皇を賛美する歌として強制されなくなりましたが、1999年「国旗国歌法」で正式に「日の丸」が国旗、「君が代」が国歌と定められました。国民の誰もがよろこんでうたえる国歌がほしいという声も根強いものがあります。

1962年 太平洋単独横断…堀江謙一が小型ヨット(全長5.8m 幅2m)で兵庫県西宮をたった一人で出発し、93日後のこの日アメリカのサンフランシスコに到着。日本人初の太平洋横断に成功しました。

1985年 日航ジャンボ機墜落…日航機123便が、群馬県御巣鷹山の南にある高天原(たかまがはら)山に墜落。死者520人という日本国内で発生した航空機事故では最多、単独機の航空事故では世界最多という大惨事となりました。「上を向いて歩こう」を歌い世界的ヒットをさせた歌手坂本九もこの犠牲者の一人。

今日8月11日は、幕末から明治時代に活躍した落語家で、自作の人情話や怪談などで名を高めた初代三遊亭円朝が、1900年に亡くなった日です。

円朝の創作した人情話の代表作・落語「芝浜」の内容は次の通りです。

酒が大好きな魚屋の勝。まさに酒におぼれて、仕事に身が入らない毎日が続きます。ある朝早く、女房にたたき起こされて、いやいやながら芝の魚市場に向かいますが、市場がまだ開いていません。人気のない芝浜で顔を洗ってタバコを吹かしていると、そこで財布を見つけました。開けると中にはおどろくほどの大金。喜びいさんで家へ飛び帰った勝は、仲間を呼んで大酒を飲みだします。

翌朝、二日酔いで起きてきた勝は、女房にこんなに飲んで酒代をどうするのといわれます。勝は、拾った財布をお前に渡しただろといいますが、女房は知らないといい張るばかり。あせった勝は家じゅうを探しまわりますが、どこにもありません。しかたなく勝は、財布のことは夢だとあきらめ、それからは心を入れ替えて酒を絶ち、仕事にはげむようになりました。

その甲斐があって暮らしも安定し、やがていっぱしの店を構えることができた3年後の大晦日の夜のことです。勝は、苦労をねぎらって妻に頭を下げました。すると女房は、勝に例の財布を見せ、告白をはじめます。あの日、勝から拾った大金を見せられてびっくりし、長屋の大家に相談したこと。当時の横領は死罪であると、大家は財布を拾得物として役所に届け出たこと。時が経っても落とし主が現れなかったため、役所から拾い主に財布の大金が下げ渡されこと……を。

真相を知った勝は、自分をだました妻の行為を責めることなく、道をふみはずしそうになった勝を真人間へと立直らせてくれた妻の機転の行為に深く感謝しました。店まで持てるまでに頑張ってきた夫の労をねぎらって、ひさしぶりに酒でもと妻に酒を勧められて勝は、おずおずと杯を手にしました。しかし……、

「よそう。また夢になるといけねぇ」


1839年、円朝(本名出淵次郎吉)は、江戸湯島に生まれました。父も2代目三遊亭円生門下の音曲師橘屋円太郎(出淵長藏)で、次郎吉は7歳のころから見よう見まねで落語を演じ、小円太の名で父といっしょに高座にあがったといわれています。

しかし母親や義兄の反対で落語から離れ、10歳の頃には寺子屋で学び、歌川国芳のもとで画家の修行を積んだり、商家に奉公したりしました。やがて、17歳のとき、父の師である円生に入門、正式に落語家として修業にはげみ、円朝を名乗りました。円朝の得意にしたのは「鳴物噺」でした。これは歌舞伎狂言の味わいで、高座の背後に書割をしつらえて、台拍子、宮神楽、駅路の鈴の音、風の音、波の音などを効果として取り入れる噺で、その華やかな芸風はしだいに人気をよび、「円朝の芝居噺」として喝采を浴びました。こうして21歳のときに、真打ちとなりました。

当時の落語界は「滑稽噺」(お笑い)より、講談に近い「人情噺」や「怪談噺」などに人気があり、これらも見事に演ずる円朝に、師匠である円生はしっとしました。円生は、円朝が演じようとする演目を、先取りをしてしまうのです。こまった円朝は、「人のする話は決してしない」と心にきめ、自作自演の実録人情噺や怪談噺に取り組みました。

代表作のひとつ『牡丹灯籠』をこしらえたのは23歳の時で、『真景累ケ淵(かさねがふち)』とともに、明治20年~30年代の夏の寄席の一番の呼び物となりました。これらの怪談は、上田秋成の『雨月物語』と並んで文学の1ジャンルとしても評価の高いものです。

生まれて間もない日本語速記術によって、円朝の噺は速記本に仕立てられ、新聞に連載されるなどして人気を博すようになりました。その後も、『塩原多助一代記』など新作を続々発表し続け、二葉亭四迷らに影響を与えて、文芸における言文一致運動の台頭を促すほどでした。晩年には、明治天皇の御前で『牡丹灯籠』を演じるまでになり、歴代の名人の中でも別格の存在でした。

なお、円朝の『牡丹灯籠』『真景累ケ淵』など39作品は、オンライン図書館「青空文庫」で読むことができます。


「8月11日にあった主なできごと」

1338年 室町幕府…足利尊氏 は、北朝の光明天皇から征夷大将軍に任命され、室町幕府を開きました。いっぽう、後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を建てて、その正当性を主張していました。そのため、政権としての室町幕府はなかなか安定せず、3代将軍 足利義満 の時代になって、ようやく機構的な体裁が整いました。

1892年 吉川英治誕生…『宮本武蔵』『新・平家物語』『新書太閤記』など人生を深く見つめる大衆文芸作品を数多く生み出して、国民的作家として高く評価されている 吉川英治 が生まれました。

1919年 カーネギー死去…「鋼鉄王」とよばれた大実業家であり、公共図書館や大学、カーネギーホールの建設など公益事業に力をそそいだ社会事業家 カーネギー が亡くなりました。

今日8月10日は、大型ハングライダーを開発して自ら操縦し、航空工学の発展に貢献したドイツのリリエンタールが、1896年に試験飛行中に墜落して亡くなった日です。

オットー・リリエンタールは、1848年ドイツ系ユダヤ人として、ドイツ(当時プロイセン)北東部の都市アンクラームに生まれました。少年のころから鳥の飛行にあこがれ、弟グスタフといっしょに鳥の飛行を観察・記録をするようになりました。

1868年、ベルリンの工業アカデミーという学校に入学して物理学を学び、特に力学という物体間に働く力やそれによっておこる運動の研究に興味をおぼえました。やがて、ベルリンで機械工場の経営に成功すると、たくわえた資金をつぎこんで、飛行の基本的な実験を開始しました。

1889年には『飛行術の基礎としての鳥の飛しょう』を著し、飛行に関する基本理論をまとめました。この本は、回転腕による曲面の空気力の考察といった個所など、今もなお重要な資料とされています。そして、そのころから固定翼グライダーの製作をはじめ、何度も改良を重ねましたが、成功にはいたりませんでした。

そして1893年、ベルリンから鉄道で1時間ほどのドッセ河畔にある高さ15メートルほどの丘に飛行場所を移して、この丘からの飛行実験に成功しました。翌年には、自分の工場近くに、いまも残る人造丘を築いて練習を重ねました。そんな努力の甲斐があって、当時から盛んになったグライダーによる滑走競走では、200回以上も飛んだリリエンタールにかなう者はありませんでした。

リリエンタールのグライダーはハング方式で、搭乗者は腕で機体につかまり、つり下げた下半身を前後左右に振って制御するものでした。機体が右へ傾いたときは下半身を左へ振って回復しますが、これは右へ足を振り出したくなる本能とは反対の操作をしなくてはなりません。その部分を改良した新方式の単葉グライダーで試験飛行に挑んだのが、1896年8月9日のことでした。

あいにく折からの突風のために墜落、脊髄損傷のため、翌日ベルリンの病院で亡くなってしまいました。リリエンタールは、まさに自らの生命を航空にかけた先駆者でした。

リリエンタールの研究成果は、ライト兄弟 に引き継がれ、やがて動力による飛行機の発明につながるのです。


「8月10日にあった主なできごと」

708年 和同開珎…日本最古の鋳造貨幣「和同開珎(かいちん)」の使用が開始されました。

1232年 御成敗(貞永)式目制定…鎌倉時代の執権 北条泰時 は、武士の権利、義務、罰則などを51か条に定めた日本で初めての武士の法律『御成敗式目』を制定しました。その後長い間、武家社会に関するとり決めるときのお手本となりました。

1693年 井原西鶴死去…江戸時代に「浮世草子」とよばれる庶民のための小説を数多く著した 井原西鶴 が亡くなりました。

1830年 大久保利通誕生…明治維新をおしすすめた西郷隆盛木戸孝允とともに「維新の三傑」とよばれ、明治新政府の土台をささえた指導者 大久保利通 が生まれました。

今日8月9日は、鎌倉幕府第3代将軍で、歌人としても著名な源実朝が、1192年に生まれた日です。

1219年(承久1年)1月27日、鎌倉の鶴岡八幡宮で、源実朝が右大臣になったことを祝う拝賀式がおこなわれました。そして、式が終わり、実朝が拝殿から参道までに石段を降りてきたときのことです。かたわらのイチョウの大木のかげからとびだした一人の若者が、実朝に切りかかりました。

実朝は刀をぬくひまもありません。おりから舞い落ちていた粉雪が、一瞬のうちに赤い血に染まり、鎌倉幕府第3代将軍源実朝は、こうして27歳の短い生涯を閉じてしまいまいた。

実朝は、鎌倉幕府を開いた 源頼朝 を父に、伊豆の豪族北条時政の娘だった政子を母に、その次男として生まれました。

実朝が8歳のとき父が亡くなり、兄の頼家が第2代の将軍になりました。ところが頼家は、時政の力で、およそ1年でしりぞけられ、わずか11歳の実朝が、将軍の位につくことになりました。これは、年若い実朝を将軍にして、政治の実権を自分のものにしようとする、時政のたくらみによるものでした。

実朝は、名前だけの将軍になったのです。そのうえ北条氏によって、頼家をはじめ源氏の有力な武将たちが、次つぎにたおされていくと、将軍の位は、ますます飾りものにすぎなくなってしまいました。

少年時代を、一族のみにくい権力争いにまきこまれてすごすうちに、実朝は、和歌、音楽、けまりなど、京の都のみやびやかな文化に、あこがれるようになりました。きっと、心のやすまるものを求めたのでしょう。まもなく京の公家の娘と結婚すると、ますます、都の文化に心をひかれていきました。

実朝は武士です。武士を従える将軍です。しかし、やがて将軍として生きていく道はすてて、朝廷から官位を上げてもらうことだけを、生きがいとするようになりました。そして、右大臣の位を手に入れたときに、死の悲劇がおとずれたのです。

実朝を殺した若者は、実朝の兄頼家の子の公暁でした。

「実朝がいなくなれば、つぎの将軍はあなたですよ」

公暁は、時政の子の義時に、このようにそそのかされて、おじの実朝を殺してしまったといわれています。ところが公暁も、その日のうちに、将軍を殺した大罪人として首をはねられ、一夜のうちに、源氏の血すじは絶えてしまいました。

実朝は、将軍としては無力でしたが、14歳のころから、そのころの最高の歌人藤原定家を師とあおいで、さわやかで力強い和歌をおおくよみました。鎌倉右大臣家集ともよばれる『金槐和歌集』には、約700種の、実朝の歌がおさめられています。

なお、オンライン和歌集「千人万首」では、実朝の和歌70首を解説付きで読むことができます。


「8月9日にあった主なできごと」

1945年 長崎へ原爆投下…8月6日の広島に続き、長崎に原爆が投下されました。広島の原爆はウラン爆弾だったのに対し、プルトニウム爆弾という広島より強力なものでした。しかし平地の広島に比べて長崎の地形が複雑なため、被害は浦上地区に集中しました。それでもこの原爆で数か月以内に7万人が亡くなり、その後に亡くなった人を入れると、15万人ほどの人が命を落としました。

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