児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年08月

今日8月24日は、イタリアのナポリ近郊にあった都市ポンペイが、紀元79年のベスビオ火山の噴火による火山灰で地中に埋もれた日です。ポンペイは、18世紀に発掘が開始され、現在は主要な部分が一般公開されています。1997年には、古代ローマ人の暮らしぶりや文化遺産があざやかに残されているとして「世界遺産」に登録されています。

ポンペイは、古代ローマの貴族たちの保養地として栄えた町で、噴火当時の人口は1万数千人、そのうち2000人ほどが逃げ遅れて犠牲になったと推定されています。火山灰は、わずか1日足らずで5メートルの深さに町全体をつつみこみ、そののちも断続的にふりそそいで、町は完全に姿を消してしまいました。その上に草や木が生い茂り、ポンペイという町は忘れられてしまったのでした。

ポンペイが再び発見されたのは16世紀の終わりごろで、運河工事のときに偶然発見されました。そして、1748年から本格的な発掘がはじまりました。神殿や公衆浴場、闘技場などのほか、ポンペイとその周辺の別荘から次つぎに現れるローマ時代の壁画などの遺品の美しさに、世界じゅうの人々が驚きの声をあげました。それ以降、現在にいたるまで発掘がつづけられています。でもなぜ、ポンペイの壁画は豊かな色彩を失わなかったのでしょうか。

その理由は、町に降り積もった火山灰にありました。火山灰には乾燥剤として用いられるシリカゲルに似た成分が含まれていて、湿気を吸収する性質があったこと。そしてこの火山灰が町全体を埋めつくしたため、壁画や美術品の劣化を最小限に食い止めたことでした。

こうしてポンペイの悲劇は、皮肉にも古代ローマ帝国の栄華を今に伝えることになりました。ポンペイの町は、古代ローマの伝統を守って、ほぼ直角に交差する大通りによって区切られ、計画的に設計されていました。上下水道が整備され、きれいな水が町中に送られ、水道水の量を調節して出す仕組みなどは現在とほとんど変わらないというのも驚きです。通りの両側には石造りの家と店があり、当時の暮らしぶりをそのまま伝えています。

テーブルに並べられたままの食事や食器、人々が食べていた卵や焼いたままのパンや肉なども、こちこちに固まってはいるものの、くさることなく掘り出されました。コインや台所のつぼ、ペンを置くインクスタンド、子どものおもちゃ、象牙のクシなど等……。クリーニング屋のような職業、貿易会社まであったこともわかりました。

イタリアへ旅行する機会がありましたら、ぜひポンペイまで足をのばすことをおすすめします。


「8月24日にあった主なできごと」

1594年 石川五右衛門刑死…豊臣秀吉が愛用する「千鳥の香炉」を盗もうとして、捕えられた盗賊の石川五右衛門とその親族は、京都の三条河原で、当時の極刑である[釜ゆでの刑]に処せられました。これ以降、釜型の風呂のことを「五右衛門風呂」と呼ぶようになりました。

1897年 陸奥宗光死去…イギリスとの治外法権を撤廃、日清戦争後の下関条約締結の全権大使をつとめるなど、近代日本の外交を支えた 陸奥宗光 が亡くなりました。

今日8月23日は、中国の後漢末期から三国時代(魏・蜀・呉)・蜀(しょく)の軍略家である諸葛孔明(しょかつ こうめい)が、234年に亡くなったとされる日です。

『三国志』というのは、紀元184年後漢の霊帝即位のころから約100年間の時代をあつかった物語です。後漢の末期に国が乱れ、各地方政権の争いの中から、魏・蜀・呉の3国が生まれました。この3国もまた晋に統一されるという激動の時代を興味深く描いたもので、正式名は『三国志演義』といい、やはり国が乱れて統一された時代・元末から明の始まりのころ(1365年前後)に、羅貫中という人が書いたとされています。しかし、古くからの伝説や戯曲を集大成したものといったほうがよさそうです。

中国は、3世紀にはいると政治がみだれ、あちこちで豪族や武将が勢力をきそい、争いがはげしくなりました。そのなかで曹操と孫権の二人が、強い力をもっていました。やがて、劉備も天下統一をめざしてたちあがります。

劉備には、二人の強いけらいがついていました。でも戦略のうまいけらいがいません。国を建てるには、武力にくわえて知恵と知識のある人をみかたにすることが大切だと考えた劉備は、作戦のうまい人をさがしもとめていました。

そんなとき、壌陽の郊外に、諸葛孔明というかしこい青年がいることを聞きました。さっそく、劉備は馬を走らせましたが、会えません。季節が秋から冬にかわって、ふたたび孔明をたずねました。このときも会えませんでした。草木がいっせいに芽ぶく春、三たびおとずれました。3度めの訪問でやっと会うことができました。

劉備は孔明に、ぜひ力をかりたいと頼みました。孔明は、豪族の出身でしたが、戦乱をさけてひっそりと暮らしていましたので、なかなか承知しません。しかし、劉備が3度もむかえにきてくれたことに感激して、孔明は、家臣になることをちかいました。(このエピソードは「三顧の礼」として有名)

劉備の期待にこたえて、孔明のめざましい活躍が始まります。208年、荊州に攻めこんできた魏の国の曹操を、孔明は呉の孫権と手をくんでむかえうち、曹操を北に追いはらってしまいました。この戦いで、劉備は荊州を手に入れます。その後も領土を広げ、蜀の国を建てました。

そして、またたくまに蜀の国は、魏や呉とかたをならべるまでの勢力になりました。ここに中国全土を3つにわけてにらみあう、三国時代が幕開けとなったのです。

221年、国の名を蜀漢国として、劉備は皇帝となり、孔明は丞相という地位を与えられました。皇帝になった2年ご、劉備は重い病気にかかり、子の劉禅を孔明にたくして亡くなりました。孔明は、幼い皇帝の劉禅をたすけ、成長するにしたがって軍を指揮する方法や政治のあり方を教えました。その教えは、有名な『出師(すいし)の表』に記されています。

234年、孔明は魏の大軍とむかいあった陣地のなかで、病死しました。うわさをきいた魏の大将仲達は、蜀漢軍を一気につぶそうとしました。ところが蜀漢軍は、少しもあわてず、整然としています。仲達はまだ孔明が生きていると思い、あわてて兵をひきあげました。孔明は、それほどすぐれた政治家でした。


「8月23日にあった主なできごと」

1868年 白虎隊の最期…明治新政府軍と旧幕府との間の戦争を戊辰戦争といいますが、旧幕府軍の拠点である会津藩(福島県)に、白虎隊という16歳~17歳の会津藩士の子弟343人で構成された組織がありました。8月に入ると新政府軍は会津の鶴ヶ城へせまり、落城寸前になった22日、白虎隊の出陣が許され激しい戦いにいどみました。そして翌日、城が煙につつまれているのを見た生き残りの隊員20名は、飯盛山で命を絶ったのでした。

1879年 滝廉太郎誕生…明治時代の洋楽揺籃期に、『荒城の月』『花』などの歌曲や、『鳩ぽっぽ』『お正月』などの童謡を作曲した 滝廉太郎 が生まれました。

1914年 日本対ドイツ戦に参戦…第1次世界大戦がはじまり、日英同盟を結んでいた日本は、ドイツに宣戦を布告しました。ヨーロッパ諸国がアジアから撤退しているすきに、中国に手を伸ばすのが日本のねらいでした。

今日8月20日は、中国の軍人・政治家で、中華民国初代大総統となった袁世凱(えん せいがい)が、1859年に誕生した日です。

アヘン戦争(1839-42)でイギリスに敗れてからおよそ100年にわたる中国の歴史は、無尽蔵ともいうべき鉱産物を餌食にしようとするヨーロッパ諸国や日本、封建的な特権を持ち続け外国資本と結ぼうとする役人支配の清朝(満州人の王朝)、漢民族による新政府を打ち立てようとする革命勢力、これらの3つの勢力がしのぎをけずる1世紀といっても過言ではありません。この時代を生きた中心的で象徴的人物が、袁世凱でした。

河南省の大地主の家に生まれた袁世凱は、清朝の役人になる試験に不合格になってしまいました。そのため軍隊に入って朝鮮におもむき、いくつかの功績をあげて、新陸軍を結成するなど重用されるようになりました。1898年、清皇帝(光緒帝)がめざした政治改革に参加するもこれを裏切って、反対派の西太后らの信任を得て山東省の地方長官に出世しました。

1899年、反キリスト教の立場にたつ義和団という秘密結社が、外国人や外国商品をボイコットする「義和団事件」が華北一帯でおこり、英・米・日・露など8か国が軍隊を送ってこの事件をおさえました(北清事件)。この時袁世凱は、外国人を保護する立場にたったのを評価されて、1901年死去した清朝の総理大臣格である直隷総督大臣だった李鴻章のあとをひきつぎました。しかし、清朝の重臣たちの反発にあって、1908年むなしく故郷の河南へ帰りました。

1911年秋、孫文 に率いられた漢民族の新政府をおこそうとする「辛亥革命」がおきると、総理大臣となり、軍隊の指揮権もみとめられて1912年、清の皇帝である宣統帝に退位をせまって、清王朝を滅亡させ、ひきかえに中華民国臨時大総統となりました。しかし、袁世凱が議会を無視する行動に出たために、各地の革命勢力が反発しました。武力でこれを鎮めて革命派を弾圧した袁世凱は、インフラ整備や軍備の充実などの面から国家の近代化をはかりました。

こうして1913年には正式に中華民国大総統に就任、独裁政治を断行しつづけました。1915年、第1次世界大戦のため列強が中国から撤退したすきをついて、日本が対中国に「21か条の要求」を袁世凱政府につきつけ、山東省、満州、内モンゴルなどに日本の利権を認めさせました。

やむなく日本の要求を受け入れた袁世凱でしたが、盛んな抗日の声をうまく利用して、たくみに人気をとりながら、1916年皇帝の位に就くことを決めました。しかしこれには、内外の反発を買って退位、まもなく失意のうちに亡くなったのでした。


「8月20日にあった主なできごと」

1241年 藤原定家死去…「小倉百人一首」の編さんや、万葉集、古今集と並び日本の3大和歌集の一つ「新古今和歌集」を編さんした鎌倉時代の歌人 藤原定家 が亡くなりました。

1839年 高杉晋作誕生…吉田松蔭 の松下村塾に学び、農民や町民を集めて奇兵隊を組織し倒幕に力をそそいだものの、明治維新を前に若くして病死した長州藩士 高杉晋作 が生まれました。

1926年 NHKの創立…1925年の春、東京、大阪、名古屋の放送局がラジオ放送をはじめていましたが、この3局がいっしょになって、日本放送協会(NHK)を創立させました。設立当時の聴取者は、わずか2万5000人でした。

1941年 詩集『智恵子抄』…彫刻家で詩人の 高村光太郎 は、精神病となり7年間病気とたたかって亡くなった妻智恵子を歌った詩集『智恵子抄』を刊行しました。智恵子は東京には空がないという/ほんとうの空が見たいという・・・ではじまる「あどけない話」や「レモン哀歌」など29編の詩や短歌は、今も多くの人たちに感動を与え、映画やテレビドラマにもよく登場します。詩の内容は、青空文庫 で読むことができます。

1988年 イラ・イラ戦争停戦…1980年ペルシャ湾岸地域を優位に支配しようとするイラクのフセイン大統領が、革命後の不安定なイランへ攻撃を開始して、イラン・イラク戦争が始まりました。一進一退のくりかえしだったため、国連の即時停戦の要請を受けて、停戦が実現しました。双方の犠牲者は100万人を超えるといわれています。

今日8月19日は、こころざし半ばにして暗殺された養父シーザーの後をついで内乱を勝ちぬき、200年もの「ローマの平和」(パックス・ロマーナ)をきずいた大帝国・帝政ローマの初代皇帝となったオクタビアヌス(アウグスッス)が、紀元14年に亡くなった日です。

古代ローマ共和国の英雄といわれる シーザー が、BC44年に反対派のブルータスらに暗殺されると、ローマの町はたちまち乱れてしまいました。この混乱を救ったのが、シーザーの姪の子でシーザーの養子だったオクタビアヌスと、シーザーの武将だったアントニウス、レピズスの第2回三頭政治でした。(ちなみに第1回三頭政治は、シーザー・ポンペイウス・クラッススによるもの) 3人はシーザーの軍隊と元老院を味方につけて、ローマの国土を分割しておさめました。

レピズスはまもなく勢力を失い、オクタビアヌスとアントニウスの二人が国土を治めるようになりましたが、オクタビアヌスの妹と結婚していたアントニウスの離婚がきっかけになって、対立するようになりました。そして東方の統治にあたっていたアントニウスがエジプトの クレオパトラ と結んでローマの分断をはかろうとするのを知ったオクタビアヌスは、元老院をときふせて兵をだし、アントニウス・クレオパトラ軍と戦いました。これがBC31年のアクティウム(ギリシア西岸)の海戦です。オクタビアヌスは大勝して、翌年アントニウスとクレオパトラは自殺して、エジプト王国は滅亡しました。

BC29年ローマに凱旋したオクタビアヌスは、元老院から「アウグスッス」という称号を得ました。アウグスッスとは「高貴な」とか「立派な」という意味の言葉なので、オクタビアヌスがいかに尊敬されていたかがわかります。長い間の戦争にあけくれていたローマ市民は、平和を喜び、連日お祭りや行列にあけくれたということです。

アウグスッスは、元老院を解散し、最高指揮官・統領・護民官などを兼ねた元首となりました。こうして200年ものあいだ、大領土をすみずみまでしっかり統治して空前の繁栄をもたらした「帝政ローマ」が誕生したのです。


「8月19日にあった主なできごと」

1662年 パスカル死去…液体の圧力に関する「パスカルの法則」や、随想録「パンセ」の著書で有名な物理学者・哲学者 パスカル が亡くなりました。

1832年 ねずみ小僧の処刑…「ねずみ小僧次郎吉」といわれる大泥棒が、鈴が森刑場でさらし首の刑に処せられました。ねずみ小僧は15年間に、大名などの武家屋敷100か所から1万両もの大金を盗み、貧しい人たちに配ったという逸話が伝えられ、ねずみ小僧を主人公にした小説が、芥川龍之介、菊池寛、吉行淳之介らたくさんの作家に書かれています。

1929年 ツェッペリン号日本着陸…ドイツの飛行船「ツェッペリング伯号」が世界周航の途中、霞ヶ浦飛行場に到着。全長240mもの巨船に、日本中が大騒ぎになりました。飛行船の時代が来るかと思われましたが、可燃性や操縦の困難性を克服できず、次第にすたれていきました。

今日8月18日は、遊牧民がつくった「史上最大の帝国」といわれるモンゴル帝国の初代皇帝チンギス・ハン(ハンは王の意)が、1227年亡くなったとされる日です。

12世紀のモンゴル高原は、大小さまざまな遊牧民が争いをくりかえしていました。チンギス・ハンの生年は、はっきりしていませんが、12世紀の半ばすぎ、外モンゴルのオノン川に近いモンゴル民族の名門氏族のテントの中でうぶ声をあげ、テムジンと名づけられました。

テムジンは、幼少のとき父親がタイチウト部族に毒殺されたため、貧苦のうちに成長、当時強勢を誇っていたケレイト部族に従ってしだいに勢力を蓄えたといわれています。そして1189年ごろ、モンゴル氏族連合の盟主に推されて、チンギス・ハンの称号を贈られました。

13世紀の初頭にこれらの抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を統一したのがチンギス・ハンです。それからのちのチンギス・ハンは、千戸制という軍事・行政制度をとりいれ、強力な軍隊を編成すると、華北(中国北部)の金へ侵入、中央アジアの西夏を滅ぼし、西アジアのホラズム朝などを次々に征服して広大な「モンゴル帝国」を築き上げました。

さらにチンギス・ハンの死後もその勢力をさらに拡大させ、次のハンとなったオゴタイは金を滅ぼし、カラコルムを首都にロシアを征服、ヨーロッパにまで進軍しました。オゴタイの死でヨーロッパの征服をまぬがれましたが、第4代ハンのモンケは、イランのアッバース朝、チベットなどを征服。第5代フビライは、1271年に首都を大都(北京)に移し、国号を「元」にして中国全土を支配し、朝鮮の高麗を属国にして、日本や東南アジアの支配までめざしましたが、これには失敗しました。

ユーラシアにおけるモンゴル帝国の支配は約100年でしたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、チンギス・ハンの名は、偉大な英雄として賞賛され、とくにモンゴルでは国家創建の英雄として称えられています。

なお、チンギスハンの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブックで公開している「せかい伝記図書館」第3巻 「チンギス・ハン」 をご覧ください。


「8月18日にあった主なできごと」

1598年 豊臣秀吉死去…織田信長の後をついで天下統一を果たし、絢爛豪華な安土桃山時代を築いた武将 豊臣秀吉 が亡くなりました。

1850年 バルザック死去…「谷間の百合」や「ゴリオ爺さん」など、「人間喜劇」と名づけた作品群を遺したフランスの作家 バルザック が亡くなりました。

1864年 伊藤左千夫誕生…歌人として 正岡子規 に師事、写生の短歌を継承して斎藤茂吉らを育て、小説『野菊の墓』を著した伊藤左千夫が生まれました。(2009.8.18ブログ 参照)

1909年 ワシントンの桜…東京市(東京都)が、ワシントンへ桜の苗木を2000本贈ることに決定しました。苗木はポトマック河畔に植えられて、いまや桜の名所として有名です。

1930年 細君譲渡騒動…作家の 谷崎潤一郎 と、その妻千代子が離婚し、谷崎の友人の作家佐藤春夫が千代子と再婚するという細君譲渡騒動がおきました。このことを書いた挨拶状が関係者に送られたため、一大センセーションがまきおこりました。

1949年 フジヤマの飛び魚…ロサンゼルスで開かれた全米水上選手権大会に出場した古橋広之進は、1500mと400m自由形他で世界新記録を連発。アメリカの新聞は「フジヤマの飛び魚」とたたえ、敗戦でうち沈んでいた日本人を勇気づけました。

1966年 中国文化大革命…中国の首都北京で、中学生や大学生を中心とする紅衛兵100万人が文化大革命の勝利を祝う大集会を開きました。この文化大革命運動は、共産党内の反毛沢東分子や親ソ連派を「資本主義の復活をはかる実務派」として打倒、翌年4月の九全大会で、毛沢東、林彪路線を確定することになりました。

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