児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年07月

今日7月8日は、世界最大の石油会社「スタンダード石油」を設立し巨額の富を得、後にそのぼう大な資産を慈善事業に費やしたアメリカの実業家ロックフェラーが、1839年に生まれた日です。

ジョン・ロックフェラーは、 ニューヨーク州リッチフォードに、農業をいとなむ両親の長男として生まれました。

1853年に一家はオハイオ州クリーブランドに転居。16歳のとき、ロックフェラーはこの地で、農産物仲買商の店員兼簿記係として働きはじめました。そして2年後の1858年、友人のモーリス・クラークといっしょに、クラーク・アンド・ロックフェラー社を設立し、2800ドルの投資で穀物を売買する店をひらくまでになりました。

ロックフェラーはいつも、他人とは別の行動をとること、時代の流れに敏感であることを心がけていました。穀物商の次にはじめたのが、石油を精製する仕事でした。そのころ人びとは、石油の発掘に懸命になっているときでした。ロックフェラーは、意見の違うクラークと別れ、精製会社を72,500ドルで買収して新会社を設立、石油の精製と販売に力をそそぎました。

事業は順調にすすみ、地元の競合企業を吸収し、やがてアメリカ全土に広がる配送網を持つ石油会社をめざすまでになりました。こうして1870年31歳のとき、「スタンダード石油」を設立して社長に就任したのでした。事業をさらに拡大させて、1879年には世界の石油精製の9割を占めるほどの石油精製会社に急成長、総資産10億ドルをこえるまでになりました。

「世界の石油王」といわれるようになったロックフェラーですが、「富は私してはならない。私も人びとも共に栄えて進歩があり栄光がある」という信条の持ち主でした。そのため、財産の一部を公共事業、慈善事業に拠出しました。

1892年には、3500万ドル以上の資金をシカゴ大学創設につぎこみ、1913年には「ロックフェラー財団」をこしらえて、病院・医学研究所、教会、学校などたくさんの施設をこしらえ、文化事業に多額の資金を投入しました。

ロックフェラーは1911年まで社長にとどまりますが、この年アメリカ最高裁判所は「スタンダード石油」を、アメリカの法律「反トラスト法」違反に認定、トラストの解散を命じたことがきっかけでした。この巨大企業を構成していた38のグループ会社は、それぞれ個別の会社として切り離されることになりましたが、事業と財団は息子が受けつぎ、現在でもアメリカで最も豊かで最も影響力を持つ一族といわれています。


「7月8日にあった主なできごと」

1621年 ラ・フォンテーヌ誕生…人間を動物におきかえた教訓話(寓話)で名高いフランスの文学者・詩人のラ・フォンテーヌが生まれました。(2008.7.8ブログ 参照)

1979年 朝永振一郎死去…量子力学の研究の中から「超多時間理論」をまとめ、それを発展させた「くりこみ理論」を発明した功績によって、ノーベル物理学賞を受賞した 朝永振一郎 が亡くなりました。

1994年 金日成死去…朝鮮半島の抗日運動家・革命家として活動、1948年9月にソ連の支援をえて「朝鮮民主主義人民共和国」(北朝鮮)を建国、同国を朝鮮労働党独裁によって支配し続けた 金日成 が亡くなりました。

今日7月7日は、イギリスとの治外法権を撤廃、日清戦争後の下関条約締結の全権大使をつとめるなど、近代日本の外交を支えた陸奥宗光(むつ むねみつ)が、1844年に生まれた日です。

江戸幕府を倒した明治政府にとって、いちばん頭のいたい問題は、1858年に江戸幕府が、アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ロシアの各国と結んだ通商条約でした。外国人が罪をおかしても、治外法権ができたことによって日本の法律でさばくことができませんし、外国からの輸入品に関税をかけるのも、自由に決められないという、たいへん不平等な条約だったからです。この条約を改正するという難問に取り組み、解決へ努力したのが、陸奥宗光でした。

1844年、宗光は、和歌山藩士伊達宗広の6番目の子としてうまれました。藩の政治にたずさわり、国学にもすぐれていた宗広の血を受けついだ宗光は、本を読んだり、議論をしたりすることが大好きな少年でした。

18歳のころ、京都で 坂本龍馬 と知り合った宗光は、龍馬の組織した海援隊に入り、討幕運動に加わりました。

明治維新ののち、政府の役人となった宗光は、持ち前の能力と、おうせいな行動力で、外国事務局御用係、地租改正局長を歴任し、1875年には元老院幹事に任命されました。しかし、薩摩藩(鹿児島県)と長州藩(山口県)の出身者による政権の独占に不満をいだいて、役人をやめてしまいました。

西南戦争のおこった1877年、宗光は政府を倒す計画に参加したとして、投獄されました。そして、獄中にあった5年のあいだに宗光の考えは、大きく変わりました。

「政府を外から変えようとしてもだめだ。それよりも、政府のなかにいて仕事をとおして変えていこう」

宗光は、刑期を終えると、ヨーロッパへ留学しました。外国の政治を、自分の目でたしかめたいと思ったのです。

2年後、帰国した宗光はふたたび役人となり、伊藤博文 内閣の外務大臣に就任しました。このとき「政府を倒そうとした男をなぜ大臣にするのですか」といわれた博文は「そのくらいの人物でなければ、あの仕事はつとまらない」と言ったと伝えられています。博文の言ったあの仕事とは、明治政府がかかえていた最大の難問、5か国との不平等な条約を改正することです。

宗光は、各国とねばり強く交渉をつづけ、1894年ついにイギリスと、治外法権をなくすという条約改正に成功しました。そして、よく年、清国(中国)との講和会議が下関(山口県)で開かれたときには、博文とともに全権として、日本に有利な条件で講和条約を結びました。

しかし、講和会議の2年後、病気のため53歳で亡くなりました。


「7月7日の行事」

今日7月7日は、「七夕」です。こんなロマンチックな中国の伝説が、もとになっています。

天の神様の娘の織女星(こと座のベガ)は、美しい織物を織る名手でした。とても仕事熱心なため、年頃になってもボーイフレンド一人作りません。かわいそうになった神様は、天の川のむこうに住む働き者の牽牛星(わし座のアルタイル)という若者と結婚させました。ところが、結婚すると二人は、あんまり毎日が楽しくて織女星は織物を織らなくなり、牽牛星も牛を追わなくなったのです。怒った神様は、天の川のこちらの岸に織女星を連れもどし、1年に一度の「七夕の夜」だけ向こう岸に行ってよいことにしたのです。7月7日の晩、空が晴れると、白鳥たちが天の川にたくさん舞い降りて、翼で橋を架けてくれます。織り姫はその白鳥たちの橋を渡って牽牛に会いに行くのです。

いっぽう日本には、「棚機つ女(たなばたつめ)」という民間信仰がありました。少女はこの日に、身を清めて衣を織り、機織り機の棚の上に置いて、神様をお迎えし、穢れを取り去ってもらうというもので、この伝統と中国の伝説がいっしょになって、7世紀の頃から宮中の行事になり、江戸時代の末期になって、一般の人たちもこの行事をはじめるようになったといわれています。


「7月7日にあった主なできごと」

1615年 武家諸法度発布…5月に大坂夏の陣で、豊臣氏を滅ぼした徳川幕府は、2代将軍の徳川秀忠の名で全国諸大名に「武家諸法度」13か条を発布しました。自分の領地と江戸とを1年ごとに毎年4月に参勤することを指示した参勤交代制、築城の厳禁、幕府による大名やその側近の結婚許可制などの統制令でした。

1622年 支倉常長死去…江戸時代初期の仙台藩主伊達政宗の家臣で、慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパへ渡航した 支倉常長 が亡くなりました。

1930年 コナン・ドイル死去…名探偵シャーロック・ホームズシリーズを生み出したイギリスの作家コナン・ドイルが亡くなりました。(ホームズシリーズの1冊 『バスカビル家の犬』 は、オンラインブックで読むことができます)

1937年 盧溝橋事件…北京に近い盧溝橋で、中国・国民党政府軍と日本軍との間に発砲事件がおこりました。日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となったこの事件をきっかけに、日本軍と中国は戦争状態に突入し、戦線を拡大していきました。

今日7月6日は、『脂肪の塊』『首飾り』などの短編をおよそ260編も遺したフランスの作家モーパッサンが、1893年に亡くなった日です。モーパッサンには『女の一生』など長編6編もあります。

短編の代表作『首飾り』は、次のような内容です。

下級役人ロワゼルと結婚したマルチドは、パリでつつましい生活を送っていました。でも、気位の高い美ぼうを鼻にかけた性格のマルチドには、それが不満でなりません。毎日のように、豪華な居間や晩さんを空想しては、気をまぎらすのでした。

そんなある日、ロワゼルは、華やかな場に出て注目をあびたい妻のために、苦労して舞踏会の招待状を手に入れました。ところがマルチドは喜ぶどころか、舞踏会に着ていくドレスがないじゃない、と悲しそうにいいます。

そこでロワゼルは、猟銃を買うためにためておいた400フランのお金をはたいて、マルチドのためにドレスを買ってあげました。でもマチルドは、舞踏会につけていくアクセサリーがないから、行きたくないといいます。幸運なことに、マルチドにはフォレスティエ夫人という富豪の友人がいました。なんとかマルチドは、夫人からダイヤをちりばめた首飾りを借りることに成功しました。

着飾ったマルチドは舞踏会へ出かけ、その美ぼうと愛らしさで舞踏会の人気をひとり占めにしたのでした。マルチドにとって、まさに夢のようなひと時で、幸せな気分に酔いしれました。夫のロワゼルも、そんなかわいらしい妻を持ったことに満足しました。

疲れて家に帰り、ドレスを脱いでから、マルチドはとんでもないことに気がつきました。先ほどまであったダイヤの首飾りがなくなっているのです。必死で探しましたが見つからないため、修繕に出したので1週間ほど待ってほしい、と夫人に伝えました。

マルチドとロワゼルは、弁償のために同じ首飾りを探しまわりますが、なかなか見つかりません。ようやく紛失したものと同じ首飾りを見つけましたが、その値段は何と3万6千フランもします。

ロワゼルは親から譲り受けた遺産と、あちこちから金を借りまくり、なくした首飾りと同じものを買いもとめ、フォレスティエ夫人に無事返すことができました。この日からマルチドとロワゼルの借金返済の苦しい日々がはじまりました。

マルチドは必死に働き、ロワゼルは内職までして赤貧の暮らしを続けること10年。マルチドは自分の容姿のことや身なりのことなどまったく気にしない、たくましい女性になっていました。こうして借金を返し終わったある日、シャンゼリゼ通りでフォレスティエ夫人に偶然あいました。変わりようにおどろく夫人に、マルチドはいっさいのできごとを、誇らしくつげるのでした。

びっくりした夫人は、マルチドの手をとって「まあっ! お気の毒なことをしたわ。あの首飾りはまがいものだったのよ。せいぜい500フランくらいのものだったのに……」


モーパッサンは1850年、フランスのノルマンディー地方のブルジョワ階級の両親のもとに生まれました。

12歳のときに父母が別居し、まもなく神学校の寄宿舎に入るもなじめないため、母はモーパッサンと妹を連れてルーアンに移り住みました。高等中学で大学入学資格を得てパリ大学に入学しましたが、普仏戦争の遊撃隊として召集された後、海軍省の役人になりました。その頃おじの親友で『ボヴァリー夫人』の著作で有名なフローベールを紹介してもらい、小説の指導を受けるようになりました。ツルゲーネフ、ゾラ、ドーデーら若手の作家に出あって親交を結び、1875年に短篇『剥製の手』が雑誌に掲載されて評判になりました。

1880年に発表した短編『脂肪の塊』あたりから文豪としての地位を確立していき、1883年に刊行した長編『女の一生』は、トルストイ にも評価され、ベストセラーとなりました。

活発な執筆出版活動のかたわら、ひんぱんに旅に出ては海浜での水遊びに興じましたが、1885年ころから眼病に苦しみはじめ、1888年には不眠や神経症に悩んで、麻酔薬を乱用するようになりました。1892年に自殺未遂を起こして精神病院に収容され、1893年43歳の若さで亡くなりました。


「7月6日にあった主なできごと」

1783年 浅間山の大噴火…長野と群馬の県境にある浅間山がこの日に煙を吐き出し、2日後に大爆発をおこし、火砕流が村々を襲って、2万人の命を奪いました。火山灰が広い地域をおおったため作物が出来ず、天明の飢饉の要因となりました。

1885年 狂犬病ワクチン…フランスの細菌学者・化学者の パスツール が、1885年に狂犬病ワクチンを初めて人体に接種しました。

1912年 初のオリンピック参加…ストックホルムで開催された第5回オリンピックに、日本選手2名が出場しました。

1917年 アラビアのロレンス…トルコに抵抗するアラブ人の反乱を支援していたイギリス軍人トマス・エドワード・ロレンスは、ヨルダン南部の都市アカバにあるトルコ軍基地を奇襲して陥落させました。これら一連のオスマントルコからのアラブ独立闘争をえがいた映画「アラビアのロレンス」は1962年に公開(日本公開は1963年)され、世界中で大ヒットしました。

今日7月5日は、連合国の占領下にあった1949年、日本国有鉄道(JRの前身─国鉄)の下山総裁が出勤途中に失踪した日です。

下山総裁は、朝8時20分に大田区の自宅を出て、千代田区丸の内にある国鉄本社へ車でむかいました。総裁の車が東京駅近くまできたとき、デパートで買い物をしたいといわれたため、運転手は、日本橋の三越本店へむかいました。しかし、開店前だったため、銀行に寄るようにいわれ、総裁は20分ほど銀行へ入って用事をすませました。そのあとまた三越本店へむかい、9時37分に総裁は車を降りて、中へ入っていきました。

ところが、それきり総裁はどこかに消えてしまったのです。総裁が行方不明になったことは、すぐに警察に知らされ、みんなはけんめいに行方を探しましたが、まったくわかりません。

そして翌日の未明に、常磐線の北千住駅と綾瀬駅の間の線路上で、死体となって総裁は発見されました。調査の結果、ここを通った貨物列車にひき殺されたことが判明しました。この「下山事件」は、事件発生直後から自殺説・他殺説が入り乱れましたが、警察は公式の捜査結果を発表することなく捜査をうちきりました。

当時中国大陸では、国民政府と内戦中の中国共産党軍の勝利が決定的となり、朝鮮半島でも北緯38度線を境に共産政権と親米政権が一触即発の緊張状態にありました。そんな国際情勢の中、日本占領を行うアメリカ軍を中心とした連合国軍は、それまでの民主化政策から、日本が反共の防波堤となるように、対日政策を方向転換しました。

そして、日本経済が安定的に自立するように財政金融引き締め政策を実施しました。その一環として、全公務員で約28万人の人員削減をせまり、そのうち国鉄に対しては、約10万人近い人員整理を要請しました。

1948年1月に実施された戦後3回目の衆院総選挙では、吉田茂 の民主自由党が単独過半数264議席を獲得しましたが、日本共産党も4議席から35議席へと大躍進しました。

共産党系労働組合も、国鉄労働組合もその勢いにのって、この人員整理にもうれつに反対しました。吉田内閣打倒と人民政府樹立を公然とさけび、世の中の情勢は騒然となっていました。下山総裁は人員整理の当事者として国鉄労働組合との交渉の矢面に立って、前日の7月4日には、3万人の従業員に対し第1次解雇通告が行ったばかりでした。

この「下山事件」からほぼ1か月後に、三鷹事件、松川事件があいついで発生したため、これら3事件を合わせ「国鉄三大ミステリー」とよばれています。


「7月5日にあった主なできごと」

1590年 秀吉天下統一…豊臣秀吉 は、小田原城を包囲して北条氏政・氏直父子を降伏させ、最後まで抵抗していた戦国大名をしたがわせて、応仁の乱から120年近く続いた「戦国時代」を終わらせました。

今日7月2日は、『車輪の下』『デミアン』『青春は美わし』などの小説や詩作によって知られる20世紀前半のドイツ文学を代表するヘッセが、1877年に生まれた日です。

中・長編小説『車輪の下』は、つぎのような内容です。

ハンスは、天分のある子として将来を期待される少年でした。父親や教師たちは、エリート養成学校である神学校へハンスをいかせようと、友だちとふれあうことも、川遊びや釣り、ウサギを飼うことも禁止して、夜中まで受験勉強に熱中させました。ひそかに心配してくれるのは、靴屋のフライク親方だけでした。

やがて試験の日がきます。はじめて小さな町から都会へ出て、各地の秀才たちと競争するのは、感じやすいハンス少年の心を痛めましたが、結果は2番の成績で神学校に合格することができました。

ハンスは模範的な生徒として、教師たちに愛され、友だちにも尊敬されました。ただ、同室のハイルナーだけは、ハンスをくそ勉強家として軽べつしました。ハイルナーは詩人肌の天分の持ち主でした。ハンスはそんなハイルナーに魅かれ、ふたりの間に友情がめばえました。しかし、この友情はハンスにとって嬉しい半面、勉強時間がつぶれるのが悩みでした。

ある日、ハイルナーはけんかがもとで校長から監禁の罰をくらい、仲間たちから孤立しました。模範生の名を傷つけたくなかったハンスは、ハイルナーと距離をおくようにしましたが、まもなくその行為は卑怯なことだと恥じて、仲直りを決意しました。

問題児の仲間となったことで先生からの信頼も失い、ついにはハイルナーの放校という憂き目にあったハンスは、とほうにくれました。気がつけば勉強にはついていけず、友人たちも離れていきました。ぼんやり物思いにふけり、何をいわれても微笑しか返せなくなったハンスは、神経病患者としてなかば強制的に退学へと追いこまれてしまいました。

父は、病気に対する不安から怒りや失望をおしかくしてハンスを迎えました。ハンスの心は深く傷ついていました。失われた幼・少年時代をなつかしがりながら町を歩きまわり、目的のない毎日を送りました。以前の教師はハンスに見向きもせず、友人たちからは落ちた期待のホープにたいするののしりも受けなければなりませんでした。

そんなある日、靴屋のフライク親方が、果汁しぼりにハンスを誘いました。久しぶりに陽気になったハンスは、そこで出合った少女に淡い恋をしました。きまぐれなキスだけで終わりますが、ハンスには、機械工になって再出発する勇気がめばえました。

こうしてはじめて労働のよろこびと苦しさを味わい、思い切り遊ぶ週末、ハンスは誘われて数人の仲間とピクニックに出かけました。ハンスははじめてタバコをすい、酒を飲み、仲間の引き止めるのをふりきって帰る途中、川におぼれて死んでしまいます。

でも、その死顔はとても満足そうで、笑っているように見えました……。

この『車輪の下』は、1877年ドイツ南部の小村カルフに生まれたヘルマン・ヘッセの、自伝的な作品といわれています。難関といわれる州試験に合格し、14歳のときに神学校に入学しますが、半年で退学させられました。絶望のために自殺をはかりますが未遂となって、神経科病院に入院。その後、高校入学するも中退し、本屋の見習い店員となりましたが3日で脱走するなど、さまざまな苦悩を体験しました。

そんな感じやすい少年の喜びや哀しみ、心の傷を切々と描きだし、子どもの心を理解しない教師や親、教育へ抗議をするような『車輪の下』は、ヘッセのたくさんの作品の中でも、もっとも読まれています。

その後ヘッセは、独学で文学や哲学を学び、『ペーター・カーメンチント』で認められ、おもにスイスに住んで作家活動に入りました。2度の世界大戦では、絶対的平和主義として戦争に反対しつづけました。第二次世界大戦終結後の1946年にノーベル文学賞を受賞し、1962年85歳で死去しました。


「7月2日にあった主なできごと」

1338年 新田義貞死去…鎌倉時代末期・南北朝時代に活躍した武将で、後に室町幕府を開いた足利尊氏と対立した 新田義貞 が亡くなりました。

1778年 ルソー死去…フランス革命の理論的指導者といわれる思想家 ルソー が亡くなりました。 

1863年 薩英戦争…1862年に8月に、薩摩藩は横浜に近い生麦村で、島津久光の行列の先頭を乗馬で横切った英国人を殺傷する事件(生麦事件)をおこしたのに対し、英国は犯人の処罰と賠償金を要求。拒否した薩摩藩へこの日、イギリス東洋艦隊7隻が鹿児島湾へ侵入し、砲撃戦を開始しました。

1950年 金閣寺炎上…この日の早朝に、21歳の大学生が放火して国宝の舎利殿(金閣)が全焼しました。犯人が病弱で、重度の吃音者だったこと、金閣寺の見習い僧侶だったことなどがわかり、三島由紀夫 は『金閣寺』を、水上勉は『五番町夕霧楼』『金閣炎上』を著すなど文学作品が話題となりました。

1961年 ヘミングウェイ死去…『日はまた昇る』『武器よさらば』『老人と海』などを著したアメリカの小説家ヘミングウェイが亡くなりました。(2009.7.21ブログ 参照)

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