児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年07月

今日7月15日は、ローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけに応じた第1回十字軍が、1099年に聖地エルサレムを占領した日です。

11世紀の中ごろからの西ヨーロッパは、農業生産力が伸びたことから人口が増加して商業も活発になりました。経済的に余裕ができたカトリック信者たちは、さかんに聖地エルサレムを巡礼するようになりました。

ところが、エルサレムはイスラム教の聖地でもあり、当時はセルジューク朝が支配し、ビザンツ帝国の首都コンスタンチノーブルにせまる勢いでした。脅威を感じたビザンツ皇帝は、ローマ教皇ウルバヌス2世に救援を求めました。

これを受けて教皇は1095年、クレルモンで公会議を開き、「聖地エルサレムを異教徒の手から奪い返せ!」と演説をしました。教皇の激しい言葉に感動した人々は、西ヨーロッパ諸国を巻きこむ一大運動へ発展し、翌年この呼びかけに応えた諸侯や騎士たち、一般民衆も交えてコンスタンチノーブルに集結して十字軍を結成しました。

しかし、聖地奪回という大義名分のもとに集まった人たちでしたが、東西教会の統一をはかりたい教皇、武勲や戦利品をねらう諸侯や騎士たち、商圏拡大をねらう商人、贖罪や債務の帳消しを願う民衆ら、思惑のちがう人たちの集まりだったため、なかなか統一がとれません。それでも十字軍本隊は、1097年10月コンスタンチノープルとエルサレムの中間にあたる都市アンティオキアに到着して、これを包囲しました。8か月もの大苦戦の末に打ち破り、シリア海岸を南に下って、内輪もめしながらもエルサレムに近づきました。

聖都を目前にしてようやく協力しあうことができた十字軍は、イタリアからの武器などの補給もあって総攻撃を開始し、エルサレムを奪回することに成功しました。そしてここに「エルサレム公国」を打ち立て、さらに「アンティオキア公国」など十字軍国家と呼ばれる国家群をパレスティナとシリアに成立させました。

この十字軍は、巡礼の保護や聖墳墓を守るという目的を達成しただけでなく、占領地から得た宝物によって遠征軍は多くの富を得ることができました。さらに、この遠征は西ヨーロッパ諸国が初めて連携して共通の目標に取り組んだという点で、大きな意義がありました。

しかし以後2世紀、7回以上にわたる「十字軍」を名乗った運動で、当初の目的を達成することができたのは、この第1回目の十字軍だけでした。


「7月15日にあった主なできごと」

1606年 レンブラント誕生…「夜警」 「フローラ」 「自画像」 など数々の名画を描き、オランダ最大の画家といわれる レンブラント が生まれました。

1871年 国木田独歩誕生…「武蔵野」 「牛肉と馬鈴薯」 「源叔父」 などの著作をはじめ、詩人、ジャーナリスト、編集者として明治期に活躍した 国木田独歩 が生まれました。

1924年 黒田清輝死去…『湖畔』、『読書』などの作品を描き、わが国の洋画の発展に大きな功績を残した画家 黒田清輝 が亡くなりました。

1949年 三鷹事件…国鉄(JRの全身)中央線三鷹駅で、無人の電車が暴走して脱線転覆しながら線路脇の商店街に突入。男性6名が電車の下敷となって即死、負傷者20名を出す大惨事となりました。この事件は、同時期に起きた下山事件、松川事件と並ぶ「国鉄三大ミステリー」の一つとされています。

今日7月14日は、『接吻』など官能的な作品や『エミリー・フローゲの肖像』など、華やかな衣装につつまれた女性の肖像画を多く遺したオーストリアの象徴主義画家クリムトが、1862年に生まれた日です。

グスタフ・クリムトは、貧しい彫金師を父に7人兄弟の長男としてウィーン郊外に生まれました。設立したばかりの工芸美術学校に入学し、2歳下の弟や友人フランツらとフェルディナンド教授の指導を受けました。教授の美術教育は油彩からモザイク、フレスコの技法にいたるまで多岐にわたるものでした。兄弟とフランツの才能に感銘した教授は、まだ学生であるにもかかわらず、装飾計画の注文を3人に推せんするほどでした。

卒業後、3人は共同で建物装飾を手がける「芸術家カンパニー」を設立、新築されたブルク劇場の天井と階段室の装飾を請負って、その見事なできばえに市から功労勲章を得ました。さらにウィーンの美術史美術館の階段室の装飾を手がけ、その華麗で豪華なできばえは、ウィーン市民から大絶賛をあびました。

こうして、クリムトは画家としての名声を得てウィーン美術家協会に加入するまでになり、一家は貧困から脱出することができました。ところが、1892年に弟が急死していまい、クリムトは、弟の遺子である姪の後見人となるとともに、生涯友情で結ばれるエミリー・フローゲ(弟の妻の妹)と出会いました。のちにエミリーを通して、ウィーンの社交界に出入りすることになりますが、ふたりとも生涯独身を通しました。

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35歳のころからのクリムトは、まさにウィーン美術界を代表する画家となっていましたが、古い価値観と体制にしばられるウィーン美術家協会に不満をいだきはじめ、それまでの絵から脱皮して、エロチックな色合いを深めた作品を多く描きはじめました。

その頃、ウィーン大学大講堂の天井画の制作を依頼されたクリムトでしたが、提出された構成の下絵を見た大学関係者や批評家から、無秩序で途方もない作品、大学に飾るにふさわしくないと非難されました。クリムトはこれに気分を害し、計画を放棄したのでした。

しかしこの事件も、クリムトには大きな影響を与えませんでした。市議会からの注文依頼を受けることはなくなりましたが、肖像画家としてひっぱりだこになり、特に資本家の美術好きな夫人たちにもてはやされました。

クリムトの絵の特徴は、はじめに裸体のデッサン画を描くことでした。その上に直線・曲線のリズムにのせながら、金、銀、宝石といった高価な素材を、モザイク装飾のように衣装に描く技法には、卓越したものがあり、そんな性的な魅力と神秘的な特質を優雅に表現した肖像画の美しさ、豪華さに満足したにちがいありません。

赤裸々で官能的なテーマを描くクリムト作品には、甘美で妖えんであると同時に、常に不安感や時には死の香りさえ感じられます。『接吻』に代表される一連の作品には金ぱくが多用され、いっそう絢爛な雰囲気をかもしだしています。しかし、恍惚の男女のいる花園は崖っぷちにあり、いつまでも長く続かないことを暗示しているかのようです。

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クリムトは、1918年自宅で脳卒中で亡くなりましたが、アトリエには制作中のたくさんの作品が未完成のまま残されていました。そして、最期の言葉は「エミリー(上の2つの絵のモデル)を呼べ」だったと伝えられています。


「7月14日の行事」

フランス革命記念日(パリ祭)…1789年、パリ市民が政治犯を収容するバスティーユ牢獄を襲撃し、世界史上に特筆される「フランス革命」のひぶたが落とされた日です。日本では、この日を 「パリ祭」 と呼んでいますが、フランス国民は毎年、歌ったり踊ったり、心から喜びあう国民の祝日です。(2008.7.14ブログ 参照)


「7月14日にあった主なできごと」

1810年 緒方洪庵誕生…大阪に適塾を開き、福沢諭吉 や大村益次郎らを育てた蘭医・教育者として大きな功績を残した 緒方洪庵 が生まれました。

1867年 ダイナマイト完成…スウェーデンの化学者 ノーベル は、爆薬のダイナマイトを完成させたことを発表しました。ノーベルはこの発明の特許で莫大な遺産を残し、遺言によって「ノーベル賞」が創設されました。

今日7月13日は、「フランス革命」の指導者で、革命勃発後ジャコバン派の幹部として革命を指導し「恐怖政治」を推進したマラーが、1793年に暗殺された日です。

世界史上有名な「フランス革命」は、1789年7月14日のバスティーユ襲撃をきっかけに、全国で農民たちが蜂起して騒乱はフランス全土に広がっていきました。[国民議会] は、封建的特権の廃止を宣言して、基本的人権、国民主権などをもりこんだ人権宣言を採択しました。

1791年、憲法を制定して解散した国民議会に替わって発足した [立法議会] は、富裕な市民や富農層が支持し共和制をめざすジロンド派が優勢となりました。ジロンド派は、王権の停止と男子普通選挙による [国民公会] の招集を決め、共和制を宣言しました。

1793年になると、自国に革命が広がることを恐れた周辺諸国が、対仏大同盟を結成したころから、国民公会ではジロンド派に対抗する急進的なジャコバン派が勢力を伸ばしはじめました。ジャコバン派は、無産市民や小作農などを基盤にした党派で、ロベスピエールを中心とした指導者のひとりがポ-ル・マラーでした。

新聞『人民の友』を発行するマラーは、過激な政府攻撃をして下層民から支持されて、議会を主導するジロンド派を攻撃し、パリ民衆を蜂起させて、最終的に国民公会から追放することに成功しました。

しかし、その頃マラーは、持病の皮膚病が悪化して、薬用粘土をとかした自宅の浴槽につかりながら、執筆するような状態でした。そして1793年のこの日、反革命派の情報を知らせたいというひとりの娘が、マラー宅を訪れました。やがて、浴室から叫び声がきこえ、妻がかけつけると鮮血が床にあふれ、ナイフが原稿の上にころがっていました。暗殺者は、ジロンド派に傾倒する25歳の貴族の娘でした。暗殺後に、画家のダヴィッドが現場を訪れ、有名な『マラーの死』を描いています。

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マラーの盟友ロベスピエールは、この絵を神格化し、ジロンド派への弾圧強化の口実としました。そして、急進的政策を打ち出し、ルイ16世や 王妃アントワネット ら反対派の人間を次々とギロチンにかけて処刑するなど、いわゆる「恐怖政治」を徹底させました。

ところが、1994年には穏健共和派によるクーデター(テルミドールの反動)がおき、ロベスピエールは処刑され、不安定な政局は長く続きました。

そして、革命軍の将校としての功績をあげて、国民の支持を得た ナポレオン が、1799年のクーデターで [統領政府] を樹立させたことで、10年の長きにおよんだ「フランス革命」はようやく終結するにいたるのです。


「7月13日の行事」

うらぼん…7月13日から16日までの4日間は、「お盆」といわれる行事です。お盆は、正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といいます。(2009.7.13ブログ 参照)

 

「7月13日にあった主なできごと」

1930年 サッカー初のW杯で国交断絶…サッカーのワールドカップの第1回大会がこの日はじまり、13か国の選手がウルグアイの首都モンテビデオで熱戦をくりひろげました。勝ち進んだのはウルグアイとアルゼンチンで、ウルグアイが4対2で逆転優勝しました。ところが、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで暴動がおき、ウルグアイの領事館が襲われて国交断絶にまで発展しました。

今日7月12日は、豊臣秀吉、徳川家康の朱印状による安南(ベトナム)貿易で巨万の富を得、富士川、高瀬川などの河川開発を行なった角倉了以(すみのくら りょうい)が、1614年に亡くなった日です。

「おうーい。角倉船が、はいるぞぉ!」

見ると、沖あいから、帆をふくらませた大船が、こちらへむかって入ってきます。港は、商人と角倉船を見物しようとする人たちでにぎわっていました。

1592年、海外貿易で富を集めようと考えた 豊臣秀吉 は、京都、長崎、堺などの大商人たちに、朱印状をあたえました。朱印状というのは、外国と貿易をしてもよいという許可証です。朱印状をもらった了以の船は、おもに安南国(ベトナム)と貿易を始めました。

了以は、明(中国)に渡ったことのある名高い医者の吉田宗桂の子として、1554年に京都に生まれました。医者のほかに土倉業(金融業)もいとなむ豊かな家でした。

戦いにあけくれる戦国時代の世の中でしたが、了以の生まれる10年ほど前には、ポルトガル人によって鉄砲が日本にもたらされ、外国との貿易が活発になり始めたときでもありました。貿易に興味をもった了以は、医者のあとをつぐのは弟にゆずって、自分は商人になるこころざしを立てました。

京都の清水寺に、了以の安南国へ航海した船が、ぶじに帰ってきたことを感謝しておさめた絵馬が残っています。それを見ると、長さ約36メートル、幅約16メートルで397人乗りという大きな船でした。

この船に、銀貨をはじめ、銅、いおう、樟脳、家具などを積みこんで出航し、帰りには、生糸、絹織物、綿織物、香木、砂糖などを日本に運んできました。これらの品物で、了以は、たいへんな利益を得ることができました。
 
ところが、50歳を過ぎると、貿易のほうは息子の素庵にまかせて、河川開発にのりだしました。1606年、徳川幕府のゆるしを受けて、大堰川(京都の桂川・保津川の上流)の工事を手がけました。大石をとりのぞき、浅瀬を掘って、船が自由に通れるような水路をつくったのです。完成したのちは、この水路を使って、米や塩、木材などが運べるようになり、やすく物が手に入るようになりました。

1607年には、今度は幕府の命令で、富士川の工事をおこない、そのご、京都の賀茂川の水をふたつにわけて、二条から伏見に通じる運河をつくりました。これが高瀬川です。

了以は、1614年、60歳で世を去りましたが、息子の素庵が貿易とともに河川開発の事業もひきうけ、その子厳昭も貿易をついで、3代にわたって貿易業がつづけられました。


「7月12日にあった主なできごと」

1192年 鎌倉幕府始まる…源平の戦いで平氏に勝利した 源頼朝 は、征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府を開きました。鎌倉幕府は、武士によるはじめての政権で、1333年に執権の北条氏が新田義貞らに滅ぼされるまでおよそ150年間続きました。

1925年 放送開始…東京放送局(のちのNHK)が、ラジオの本放送を開始しました。

今日7月9日は、ベルレーヌらヨーロッパの詩人29人の作品57編を収録した訳詩集『海潮音』を遺した英仏文学者・上田敏が、1916年に亡くなった日です。

『海潮音』に収録された作品群の中でも、名訳として今も広く知られ、たくさんの人びとに愛唱されているのは、次の2編でしょう。

 山のあなた (詩 カール・ブッセ)

山のあなたの空遠く/「幸(さいわい)」住むと人のいふ。

噫(ああ)、われひとと尋(と)めゆきて/涙さしぐみかへりきぬ。

山のあなたになほ遠く/「幸」住むと人のいふ。


 落葉 (詩 ポール・ベルレーヌ)

秋の日の/ヴィオロンの/ためいきの/身にしみて/ひたぶるに/うら悲し。

鐘のおとに/胸ふたぎ/色かへて/涙ぐむ/過ぎし日の/おもひでや。

げにわれは/うらぶれて/こゝかしこ/さだめなく/とび散らふ/落葉かな。

上田敏は、1874年東京築地にもと幕臣(江戸幕府に仕えた武士)の長男として生まれました。父母ともに幕末から明治初めにかけて海外留学をしたことがある知識人だったことから、幼少時からヨーロッパの空気の満ちあふれた家庭環境のなかに育ちました。

東京英語学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学(現在の東京大学)英文科に学びました。当時講師で上田敏の指導にあたった ラフカディオ・ハーン(小泉八雲) は「英語で自己を表現できる、1万人中ただ一人の日本人学生である」とその能力を絶賛したといわれています。

卒業後は、東京高等師範学校(現在の筑波大学)教授、八雲の後任として東大講師となり、1905年に上田敏の最大の業績となる『海潮音』を発表するにいたりました。上田の訳詩は原詩の逐語訳ではないといわれています。原詩をヒントにしたオリジナル詩集といえそうで、いかに上田が豊富な日本語を自在に駆使しながら訳詩したか、その苦労がわかるような気がします。

2年後の1907年に、上田はアメリカやフランスを訪問し、帰国後に京都帝国大学(現在の京都大学)の講師、さらに教授となりました。その間に評論『耶蘇』『詩聖ダンテ』、外国文学の翻訳集『みおつくし』などを発表しました。そして、1916年に亡くなるまでに自伝小説『うづまき』や自作詩と翻訳詩で構成した『牧羊神』などを著しています。

なお、『海潮音』は、オンライン図書館「青空文庫」で読むことができます。「燕の歌」(ダヌンチオ/詩)「春の朝(あした)」(ブラウニング/詩)「海のあなた」(オーバネル/詩)など、あらためて朗誦することをお勧めします。


「7月9日にあった主なできごと」

1854年 日章旗を船印に決定…徳川幕府は、「日の丸」を日本の船の印と決定しました。やがてこれが慣習化されるようになり、正式に国旗となったのは1999年「国旗国歌法」の公布以降です。

1922年 森鴎外死去…『舞姫』『山椒太夫』『高瀬舟』など明治・大正期に活躍した文学者 森鴎外 が亡くなりました。

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