児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年07月

今日7月23日は、たったひとつの本『農業全書』(全10巻) だけで「日本の三大農学者」の一人とあがめられる宮崎安貞(やすさだ)が、1697年に亡くなった日です。

安貞は、1623年広島(安芸)藩士・山林奉行の子に生まれ、25歳のとき筑前の黒田藩に200石でむかえられました。ところが、30歳を前にして、浪人の身になりました。このときから、山陽道、畿内、伊勢、紀州と各地を歩き、農民の悲惨な暮しぶりを見るにつけ、その遅れた知識を少しでも高めてやりたいという気持ちになりました。

数年間にわたる、今でいう取材旅行の後、再び筑前にもどって片田舎に部屋を借り、ぼう大なメモを頼りに各地の農法の比較研究をはじめました。論考を検証するために、自ら農業にもたずさわりながら何と40年ものあいだ、農書の執筆をつづけたのでした。

こうしてライフワーク『農業全書』が完成したのは安貞が70歳のときで、師と仰ぐ 貝原益軒 らの協力をえて、1697年に日本初の農書『農業全書』が刊行されました。

『農業全書』10巻の内訳は、五穀之類99種、菜之類923種、山野菜之類98種、三草之類91種、四木之類94種、菓木之類97種、諸木之類95種、生類養法93種、薬種類922種などとなっています。

安貞は、この刊行されたばかりの書を手にした数日後に世を去ってしまいました。そのため、反響ぶりを知ることはありませんでしたが、発売とともにベストセラーとなり、明治に至るまで何度も刊行され、「百姓のバイブル」とまでいわれました。水戸の 徳川光圀 も「これ人の世に一日もこれ無かるべからざるの書なり」と絶賛し、八代将軍 徳川吉宗 も座右の書に加えたほどです。

なお、中国・明の『農政全書』というお手本はあったものの、日本の事情に合うように執筆されたこの労作を、長野電波技術研究所附属図書館の 「農業全書」 で、ほぼ全文を読むことができます。


「7月23日にあった主なできごと」

1787年 二宮尊徳誕生…江戸時代後期の農政家で、干拓事業などで農村の復興につくした 二宮尊徳 が生まれました。薪を背負いながら勉学にはげんだエピソードは有名です。

1867年 幸田露伴誕生…『五重塔』などを著し、尾崎紅葉とともに「紅露時代」と呼ばれる時代を築いた作家の 幸田露伴 が生まれました。

今日7月22日は、結核菌を死滅させるストレプトマイシンなど、20を超える抗生物質を発見したウクライナ出身のアメリカ生化学者ワクスマンが、1888年に誕生した日です。

セルマン・ワクスマンは、ロシアのウクライナ地方の小さな町に生まれました。9歳のとき町にジフテリアがはやり、2歳の妹をあっというまに亡くしてしまいました。しかし、市から届いた血清が間に合った人は、みんな助かっています。妹を失った悲しみのなかで、ワクスマンは血清のすばらしいききめに心をうばわれました。そして、この驚きがきっかけとなって、薬の研究をしようと心にちかいました。

ワクスマンはユダヤ人なので、ロシアではなにかと不自由な思いをします。そこで22歳のときアメリカに渡り、苦学しながらラトガース大学で農学を学びました。卒業後は、農業試験所で土の中の微生物の研究をつづけ、1930年には、ラトガース大学の教授になりました。

「土にすむ細菌のなかで、結核菌に強い菌がきっといるにちがいない。それをさがしだしてみよう」

ワクスマンは、土の中では結核菌がいつのまにか死んでしまうことを知って、こう思いつきました。しかし土の中には、数えきれないほどたくさんの菌がいます。そのなかからめざす菌をさがすことは、考えただけで気の遠くなるようなことでした。

くる日もくる日も、こつこつとねばり強く研究をつづけました。そのうちに、ふとしたことから放線菌という菌のいる土の中では、ほかの細菌類が少ないことに気づきました。放線菌には、ほかの細菌をほろぼす力があるということをつきとめたのです。これは大きなヒントになりました。

さらに研究をつづけたワクスマンは、1943年になってとうとう、ストレプトミセス・グリセウスという放線菌から、ストレプトマイシンをとりだすことに成功しました。また、ストレプトマイシンをつくる菌が、自然のなかではとても少ないことから、これを人工的に育てる方法もみつけたばかりでなく、自然にあるもの以上にききめのある菌も、つくりだしたのです。

それまで結核は、かかったら最後、けっして治らない病気といわれていました。ところがストレプトマイシンは、結核菌だけでなく肺炎菌などにも、おどろくほどの効果がありました。この薬が発見されたことによって、いったいどれほど大勢の患者が救われたことでしょう。

ワクスマンは、1952年にノーベル生理・医学賞を受けました。その授賞式の帰り、日本にも立ち寄り、各地で講演をしています。その後、ストレプトマイシンの特許料の一部で日本ワクスマン財団をつくり、研究者の育成にもつくし1973年に亡くなりました。


「7月22日にあった主なできごと」

1363年 世阿弥誕生…室町時代に現在も演じられる多くの能をつくり、「風姿花伝」(花伝書) を著して能楽を大成した 世阿弥 が生まれました。

1822年 メンデル誕生…オーストリアの司祭で、植物学研究を行い、メンデルの法則と呼ばれる遺伝に関する法則を発見した メンデル が生まれました。

1922年 高峰譲吉死去…消化薬タカジアスターゼの開発や、アドレナリンの抽出など、理化学や医学の発展に大きく貢献した 高峰譲吉 が亡くなりました。

今日7月21日は、アメリカの宇宙船アポロ11号が人類初の月面着陸したようすが、1969年の日本の昼食時にテレビ報道された日です。世紀の瞬間を見ようと、街頭テレビなどに人々がむらがって、大都市の交通量が半減しました。

人類を月面に到達させるという一連のアポロ計画は、宇宙開発でソ連に遅れをとっていたアメリカが、威信をかけて取り組んだ宇宙開発競争のひとつです。1961年5月に ケネディ 大統領が議会演説で表明した「1960年代の終わりまでに人類を月面に到達させ、なおかつ安全に地球に帰還させることを約束する」という公約を実現したものでした。

1969年7月16日、アームストロング船長、コリンズ、オルドリンの3人を乗せたアポロ11号はケネディ宇宙センターから発射されました。そして7月21日午前2時56分(米国東部夏時間20日午後10時56分)、アームストロングが月面に歴史的な第1歩を踏みました。

月着陸船イーグルが着陸したのは「静かの海」とよばれるところで、船長は「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類のためには大きな飛躍である」と伝えました。19分後には、オルドリンもおり立ちました。もう一人の宇宙飛行士コリンズは、周回する指令・機械船コロンビアで待機していました。

月面からの船外活動をとらえた映像は世界中に配信され、この瞬間、少なくとも6,000万人以上の人々がテレビでこの場面を見ていたといわれます。アームストロングとオルドリンは、米国旗を月面に立て、無線電話でニクソン大統領に無事着陸の報告をしました。

それから観測ステーションを設置し、月面のサンプリングを行い、およそ22kgの岩石や土壌を収集したり、カンガルージャンプといわれる月面歩行をして100mほど離れたところまで往復するなど、1時間40分ほどの月面任務を終えて着陸船にもどりました。

それから21時間半後、着陸船イーグルは月面を離れ、周回する指令・機械船コロンビアにドッキングし、7月24日に帰還しました。なお、アポロ計画ではその後5回の月面着陸が行われ、1972年にすべての月飛行計画を終了しました。

 

「7月21日にあった主なできごと」

1588年 アルマダの海戦…イギリス本土をねらうスペインのフェリペ2世は、自慢の無敵艦隊(アルマダ)を率い、イギリス艦隊との海戦を開始しました。しかし10日間ほどの交戦の末、機動力のある小型船を駆使したイギリスに敗北してしまいました。

1899年 ヘミングウェイ誕生…『日はまた昇る』『武器よさらば』『老人と海』などを著したアメリカの小説家ヘミングウェイが生まれました。(2009.7.21ブログ 参照)

今日7月20日は、公家出身で幕末から明治前期に活躍した政治家 岩倉具視(ともみ)が、1883年に亡くなった日です。

1825年、京都の公家堀川家に生まれた具視は、14歳のとき岩倉家の養子になりました。やがて、朝廷に務めるようになり、29歳の時に孝明天皇の侍従となりました。

岩倉具視が政治の世界に登場するのは、1858年に幕府が日米修好通商条約を結んだときからです。1858年1月、幕府の老中堀田正睦(まさよし)は、日米修好通商条約を結ぶにあたり、天皇の許可を求めました。これに対して岩倉は、同志の公家88人とともに、条約を朝廷が幕府に委任することに反対、攘夷のための軍備の充実を主張しました。

しかし6月、大老・井伊直弼 は独断で日米修好通商条約を締結しました。井伊は続いてオランダ、ロシア、イギリスと次々と不平等条約を締結しました。これに反対する尊攘派に対し、井伊は「安政の大獄」を発動して大弾圧を加えました。

1860年、桜田門外の変で井伊が殺害されると、幕府は公武合体派が勢力を広げ、孝明天皇の妹である和宮(かずのみや)を14代将軍徳川家茂へ降嫁してもらえないかと朝廷にもちかけました。朝廷側にあって幕府と交渉にあたったのが岩倉でした。

孝明天皇は、条約の破棄と攘夷を条件に和宮降嫁を認め、1861年10月に和宮は江戸へ下向し、岩倉もこれに随行しました。尊攘派の志士たちは岩倉を「佐幕派」として排撃したため、岩倉は辞官し、京都のいなかの岩倉村に身をひそめざるをえませんでした。

しかし諸藩の勤皇の志士たちは、岩倉と秘かに連絡をとりました。そして、倒幕についての意見をかわすうち、岩倉はしだいに朝廷内の倒幕派の中心となっていきました。やがて朝廷にもどった岩倉は王政復古をめざし、薩長2藩に討幕の密勅を下すことに成功、明治天皇が位についたのち、明治維新を実現させるのです。

明治新政府の成立とともに岩倉は、外務卿など重要なポストにつき、1871年には右大臣となって、条約改正交渉と米欧視察のため、特命全権大使として、木戸孝允大久保利通伊藤博文 ら使節団をひきい、1873年に帰国しました。

その直後、西郷隆盛 らが主張した征韓論に対して、岩倉は大久保利通らと組んでこれを退けました。そのため、征韓派の不平士族たちに襲われて、暗殺されそうになったこともありました。

その後の岩倉は、天皇を中心とした明治国家の基礎を固めるための莫大な皇室財産をつくりだし、帝国憲法の土台を示しながら、59歳で亡くなったのでした。


「7月20日にあった主なできごと」

1937年 マルコーニ死去…無線電信の発達に大きな功績をのこした、イタリアの電気技術者 マルコーニ が亡くなりました。

今日7月16日は、江戸時代後期の薩摩藩の藩主で、名君と讃えられた島津斉彬(しまづ なりあきら)が、1858年に亡くなった日です。

斉彬は1809年、藩主・島津斉興(なりおき)の長男として江戸薩摩藩邸で生まれました。母は「賢夫人」として知られた女性で、乳母をつけず、自ら斉彬を養育しました。幼い頃から利発で、15、6歳の頃には、文武両道で諸藩にその名が伝わるほどでした。特に蘭学に通じていて西洋文明の研究に関しては、当代一といわれるほどでした。

ところが、これが周囲の目に「蘭学かぶれ」と映ったことが皮肉にも薩摩藩を2分する抗争の原因になったといわれています。斉彬が藩主になれば、公金を湯水のごとく費やし藩財政の困窮に拍車をかけかねないと、特に藩上層部に心配され、斉興は斉彬が40歳を過ぎてもまだ家督を譲りませんでした。そして、斉彬の異母弟に当たる島津久光を擁立しようとしたのです。

そんな薩摩藩の内紛に対し、斉彬と親しい幕府老中の阿部正弘、越前福井の松平春嶽らが事態の収拾に努め、1851年2月に斉興が隠居し、ようやく斉彬が第11代藩主に就任しました。

藩主に就任するや斉彬は、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設など藩の富国強兵に努めました。土佐の漂流民でアメリカから帰国した 中浜万次郎(ジョン万次郎) を保護し、西洋式軍艦を建造して徳川幕府に献上したほか、下士階級出身の 西郷隆盛大久保利通 を登用して重要な仕事にあたらせました。

斉彬は、松平春嶽以外にも土佐藩の山内容堂や水戸藩の徳川斉昭らと藩主就任以前から交流をもっていました。斉彬は彼らとともに幕政にも積極的に口をはさみ、老中・阿部正弘に幕政改革を訴えていました。特に斉彬は、黒船来航以来の難局を打開するには公武合体するほかないと主張しました。

斉彬は1858年、老中・阿部正弘の死後に大老に就いた 井伊直弼 と将軍継嗣問題で真っ向から対立しました。第13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子がなかったため、徳川斉昭らとともに次期将軍に 一橋慶喜(徳川慶喜) を推し、養女篤姫を公家である近衛家の養女とした上で家定の正室として嫁がせました。

いっぽう、井伊直弼は紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を次期将軍に推しました。井伊は大老の地位を利用して強権を発動し、反対派を弾圧する「安政の大獄」を開始。さらに、慶福を第14代将軍・徳川家茂(いえもち)としたため、斉彬らは将軍継嗣問題で敗れたのでした。

斉彬はこれに対し、藩兵5,000人を率いて抗議のため上洛することを計画しましたが、鹿児島城下で出兵準備の最中に、49歳で急死してしまいました。


「7月16日にあった主なできごと」

622年 回教暦元年…イスラム教の開祖 ムハンマド(マホメット) が、メッカからメディナに移って布教を開始。この年を回教暦元年としました。

733年 山上憶良死去…貧しい人たちへの気遣いや家族思いの万葉歌人・山上憶良 が亡くなったといわれます。

1260年 立正安国論…僧 日蓮 はこの日、鎌倉幕府の前執権北条時頼に「立正安国論」を献上し、相次ぐ地震や飢饉、疫病などの災害の原因は、阿弥陀如来だけを信じ念仏をとなえればよいという法然を激しく非難、正法である法華経を信じなければ国内に反乱がおこり外国から侵略を受けると予言しました。

1872年 アムンゼン誕生…ノルウェーの極地探検家で、1911年南極点に初めて到達した アムンゼン が生まれました。

1945年 世界初の原爆実験…アメリカのニューメキシコ州の砂漠で、原爆実験がおこなわれました。この成功により、広島に8月6日、9日に長崎へ原子爆弾が落とされました。

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