児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年07月

今日7月30日は、室町時代の連歌師で、和歌の西行、俳句の松尾芭蕉とともに漂泊の人といわれる宗祇(そうぎ)が、1502年に亡くなった日です。

日本で生まれた歌の一種に、連歌とよばれるものがあります。ふたり以上の人が、まえの人の句につづけて、次から次へ句をよみつらねていく歌です。別の名で「続き歌」ともよばれ、平安時代のころ生まれたと伝えられています。

宗祇は、この続き歌を、さらに大きく育て広めた、室町時代の連歌師です。生まれたところは、近江(滋賀県)とも紀伊(和歌山県)ともいわれています。幼いころのことはわかりません。若いうちに京都へのぼって禅宗の僧となり、30歳になったころから、連歌師への道を進みはじめました。

「こころざしを立てたのが、人よりも10年以上もおそかった。人の2倍も3倍も努力をしなければ」

宗祇は、何人もの師のもとへかよって、連歌だけではなく、和歌も、日本の古い文学も、漢詩も、さらに日本の国づくりのころから伝わる神のことなども学びました。連歌の心をきわめるには、深い教養と広い知識を身につけることが、たいせつだと考えたからです。そして、学問のかたわら歌をよみつづけて10年の歳月が流れたころには、連歌師宗祇の名は、貴族のあいだにも武士のあいだにも知られるようになっていました。

宗祇が46歳になった年に「応仁の乱」がおこり、京都の室町幕府を中心に諸国の武士が2つに分かれて、11年におよぶ争いがつづきました。長い争いに、京の都は、焼け野原に荒れ果てたということです。

宗祇は、このとき、京都と関東のあいだを何度も行き来しました。信濃(長野県)や越後(新潟県)や美濃(岐阜県)などへも足をはこびました。また、争いが終わってからも、周防(山口県)や筑前(福岡県)へ、さらに越後へと、旅をつづけました。宗祇がつくりだす連歌の美しさがしたわれ、また、宗祇の学問の深さが尊敬され、争いで心が荒れた地方の大名や豪族たちに、師としてむかえられたのです。都をはなれた旅の空の下では、町人や農民たちにも、連歌の楽しみを教え広めました。

いっぽう京都では、幕府の将軍や貴族の連歌会にまねかれて歌の心を説き、将軍には『源氏物語』など日本の古典の講義もおこない、さらに『新撰菟玖波集』などの句集もまとめました。

奥ぶかく上品で美しい連歌を愛し、文学を愛し、旅を愛した宗祇は、80歳をすぎて旅にでた途中、箱根(神奈川県)湯本の宿屋で、谷をわたる風に耳をかたむけながら、清らかな歌人の生涯を終えました。のちの俳人芭蕉は、この宗祇の心をしたって、句を旅のなかに求めるようになったのだということです。


「7月30日にあった主なできごと」

1818年 エミリー・ブロンテ誕生…19世紀半ばのイギリス文壇に花開いたブロンテ3姉妹シャーロット・エミリー・アンのうち、『嵐が丘』を著したエミリーが生まれました。

1863年 フォード誕生…流れ作業による自動車の大量生産に成功し「世界の自動車王」といわれる実業家 フォード が生まれました。

1898年 ビスマルク死去…プロイセン王の右腕として鉄血政策を推進し、1871年ドイツ統一の立役者となった ビスマルク が亡くなりました。

1911年 明治天皇死去…王政復古をなしとげ、近代国家の形を整えた 明治天皇 が亡くなり、大正天皇が即位しました。

1947年 幸田露伴死去…『五重塔』などを著し、尾崎紅葉とともに「紅露時代」と呼ばれる時代を築いた作家 幸田露伴 が亡くなりました。

1965年 谷崎潤一郎死去……『細雪』『春琴抄』『痴人の愛』などの小説や『源氏物語』現代語訳を著した作家の 谷崎潤一郎 が亡くなりました。

今日7月29日は、『エミールと探偵たち』『飛ぶ教室』などの児童文学で名高いドイツの作家・詩人のケストナーが、1974年に亡くなった日です。

代表作『エミールと探偵たち』 のあらすじは次の通りです。

実業学校に通う母子家庭のエミールは、休暇を利用してベルリンにいるおばあさんやいとこに会いに行くことになりました。ところが、エミールは乗っていた汽車の中でいねむりをしているすきに、母からあずかったおばあさんに渡す金を、相席だった山高帽の男にすられてしまいました。

男を追ってベルリン市内の駅に降り立ったエミールでしたが、そこは目的地ではなく、所持金もないまま、とほうにくれてしまいます。行動を不審に思った少年グスタフが、エミールに声をかけ、わけを聞きだしました。

(地元でのいたずらが原因で、警察に知らせたくない)というエミールに、グスタフは仲間たちに声をかけ、犯人をつかまえる計画を練りはじめました。まず、エミールが到着しないのを心配するおばあさんへ事情を説明に行く少年。タクシーに乗りこんだ犯人を追い、宿泊先のホテルへ忍びこむ少年。近くの庭に隠れて機会を待つ少年たち。軍資金を用意して、少年たちをはげますエミールのいとこの少女。

ホテルのエレベーター・ボーイに扮した少年から、犯人がまもなく出発することを聞いた少年たちは、ホテルを出てきた犯人をとりかこんで歩きはじめました。進退きわまった男はかこみをやぶって、銀行に飛びこんで両替し、物証を消そうとしました。すかさず二人の少年が窓口でエミールから奪ったお札を銀貨に変えようとする男に「盗んだ金だ」というと、男はあくまでしらをきります。でもエーミールは家を出るとき、用心のためにお札をピンでとめておいたのでした。お札にピンのあとがある証拠に、山高帽の男は観念し、逮捕されました。さらに取調べにより、男は懸賞金がかけられていた手配中の悪党であることが判明したのでした……。


エーリヒ・ケストナーは1899年、ドレスデンでユダヤ系ドイツ人として生まれました。父親はカバン作りの手工業者でしたが、産業工業化のあおりを受けて工業労働者になり、母親も夫の少ない労働賃金をおぎなうために、理容師になって働きました。

教師をめざしたケストナーは、教師養成の中高一貫校に入学しましたが、第一次世界大戦がはじまったために、兵士として召集されました。命令と服従という関係しかない学校と軍隊に反発したケストナーは、大学進学を決めました。苦労してライプツィヒ大学を卒業した後、ベルリンに出て、2冊の詩集が認められ、やがて作家として一本立ちしました。そして、1928年に発表した少年文学『エミールと探偵たち』が評判をよび、その後次々と書き上げた作品も好評を博して、児童文学作家として世界的に有名になりました。

ところが、辛らつで、皮肉の強いパロディ、シニカルな多くの作品や、自由主義・民主主義を擁護してファシズムを非難したため、ナチスが政権を取ると、政府によって詩・小説、ついで児童文学の執筆を禁じられました。しかし、亡命する作家が多いなか、そんな仕打ちにあってもドイツにとどまり、2度の逮捕にもめげず活動をつづけました。

戦後も、『ふたりのロッテ』などを著し、ドイツ文壇の中心的存在となりました。1960年には『わたしが子どもだったころ』で優れた子どもの本に贈られる第3回国際アンデルセン賞を受賞しています。


「7月29日にあった主なできごと」

1856年 シューマン死去…「謝肉祭」 「子どもの情景」 などを作曲し、ドイツ・ロマン派のリーダーといわれる シューマン が亡くなりました。なお、有名な「トロイメライ」は、全13曲からなる「子どもの情景」の7曲目に登場する曲です。

1890年 ゴッホ死去…明るく力強い『ひまわり』など、わずか10年の間に850点以上の油絵の佳作を描いた後期印象派の代表的画家 ゴッホ が亡くなりました。

今日7月28日は、日本人がもっとも好きなクラシックのひとつ『四季』など、800曲近くを作曲したイタリア盛期バロックの代表的作曲家ビバルディが、1741年に亡くなった日です。

うれしい、春がやってきた。
小鳥たちは楽しそうに歌って、春にあいさつする。
いずみは、わきいで、そよ風にあわせて、
やさしく、ささやきながら、流れていく。

これは、ビバルディの曲としてもっとも広く親しまれている名曲『四季』のソネットの<春>の第1楽章にある部分です。ビバルディが47歳のころに作った曲で、これだけを単独で作曲したものではなく、<和声と創意への試み>という題をつけた『バイオリン協奏曲集 作品8』全12曲のうちの最初の4曲が、『四季』の春・夏・秋・冬にあたる部分です。

ソネットとは、イタリアに起こった、14行からなる詩のことで、ビバルディは、このような<春><夏><秋><冬>14行ずつの詩(だれの詩かわかっていません。ビバルディ自身が書いたものかもしれません)をもとにして、この名曲『四季』を作曲しました。ソネットにもりこまれた春のさえずり、野をわたるそよ風、木の葉や水のささやき、夏のやけつくような太陽、天をゆるがす雷、秋の村人たちの収穫の踊り、狩人に追われて逃げまどうけものたち、冬の冷たい北風、手足をこごえさせて野を急ぐ旅人、家の中のあたたかい炉ばた……などの、さまざまな情景をバイオリンの音色に変えて、四季のうつろいを、やさしく、こまやかに描きだしました。

来日したことのあるイタリアのイ・ムジチ合奏団演奏の『四季』は、日本だけでも6種類累計280万枚を売り上げたといわれるほど人気が高く、曲を耳にすれば (ユー・チューブ参照) 誰もが、印象深く聞いたことを思いうかべることでしょう。

アントニオ・ビバルディは、1678年に、北イタリアのベネチアに生まれました。父はサン・マルコ大聖堂の、すぐれたバイオリン奏者でした。少年時代のビバルディは、父からバイオリンや作曲法を学んで成長しました。また、サン・マルコ大聖堂の楽長から、オルガンや音楽の理論を学びました。

15歳で、修道院へ入り僧侶としての生活を始めました。そして、21歳で副司祭、25歳で司祭となり、生涯、僧侶としての肩書きを持ちつづけました。ところが、せっかく司祭になったにもかかわらず、わずか半年でその地位をしりぞきました。ビバルディは、ひどいぜん息もちだったため、ミサの最中に激しい発作におそわれて、祭壇をおりなければならないことがときどき起こり、しかたなく、寺院に願いでて司祭の職をしりぞいたのです。

当時ベネチアには、孤児や私生児や貧しい家の子どもたちを養育するために町がつくった、4つの宗教的なピエタ(救貧施設)がありました。司祭をやめたビバルディは、このピエタの付属女子音楽学校の教師としてつとめることになりました。ピエタの子どもたちは、天使のように歌い、バイオリン、チェロ、オルガン、フルート、オーボエ、ファゴットなどをみごとに演奏することができました。そして、自分たちだけで演奏会を開き、みんなが白衣をまとい耳もとに1輪の花をかざして演奏する姿は、町じゅうの人びとから愛されていました。

こうしてビバルディは、亡くなる前年の1740年までピエタの教師を続け、およそ770曲を、主としてピエタの子どもたちのために作曲しました。その大部分は協奏曲で、他にオペラ46曲、ソナタが90曲などがありました。

ビバルディは60歳の年に、アムステルダム劇場創立100年記念に招かれてオランダへおもむき、翌年の秋には、最後のオペラ『フェラスペ』をベネチアで初演、62歳の春には、新しいバイオリン協奏曲を作り、ピエタにザクセン公を招いて、みずから演奏しました。しかし、これが、ビバルディがピエタの少女たちのまえに、そして、ベネチアの人びとのまえに姿を見せた最後になってしまいました。

多数の楽譜をピエタの一室に残したまま、62歳のビバルディはとつぜん姿を消してしまったのです。そして、それから200年も経った1938年オーストリアの首都ウィーンの聖ステファン教会のある教区の1741年の死亡者名簿の中から、僧侶アントニオ・ビバルディの名が発見されたのです。しかも、この教区に住んでいた1人の皮細工師の家で亡くなり、貧しい人々を埋葬する共同墓地に投げ捨てるように葬られていたのでした。


「7月28日にあった主なできごと」

1750年 バッハ死去…宗教的なお祈りや日ごろのなぐさめ程度だった音楽を、人の心を豊かに表現する芸術として高めた バッハ が亡くなりました。

1866年 ポター誕生…世界で一番有名なうさぎ 「ピーターラビット」 シリーズ23点の作者ビアトリクス・ポターが生まれました。(2008.7.28ブログ 参照)

今日7月27日は、イギリスの化学、物理学、気象学者で、原子説を提唱したことで知られるドルトンが、1844年に亡くなった日です。

ジョン・ドルトンは1766年、マンチェスターの貧しい職工の家に生まれました。幼い頃からとても勉強家で、地元の小学校で初等教育を受けましたが、そこの教師が引退すると、わずか12歳で教師になりました。

ドルトンの科学への興味は、身近な大気の研究からはじまりました。1793年に『気象観測と気象論』という本に著し、詩人のゲーテはドルトンに刺激されて、雲のカレンダーをこしらえたといわれています。その頃から、自分で設計した寒暖計、気圧計、湿度計を使って気象観測を毎日何十回となく行い、その記録はその後46年間、亡くなる前日まで続けられたのでした。

ドルトンの業績で最も評価の高いものは、原子説を提唱したことです。大気の研究を深めているうち、上空の大気と地上の大気の組成にあまり違いがないことに気づきましたが、重い炭酸ガスがなぜ下の方にたまらないのかという疑問にぶつかりました。運動している小さい粒(原子)のことが頭に浮かび、あらゆる物質は原子から構成されているという仮設を立てました。

この考え方は、ドルトン独自のものでなく、古代ギリシアのデモクリストスらも考えていたものでしたが、彼らが原子の数も形も無限のものとしていたのに対し、ドルトンはおなじ元素の原子はすべて同じもので、物質間の化合はすべて原子と原子の結びつきでおこるとしました。この考えによって、その頃確立された「定比例の法則」(純粋の化合物は元素が決まった割合で化合したもの)をさらに推し進めた「倍数比例の法則」を、1804年に発表しました。この法則は、2つの元素が化合して2種類以上の化合物が出来る場合、1つの元素の一定量に対し、もう一方の元素の量は簡単な整数の比になるというもので、たとえば炭素(C)と酸素(O)の化合物である二酸化炭素(CO2)のように、炭素と酸素の量は1:2のように整数比となるというものです。

この発表による反響は大きかったものの、本国のイギリスではあまり重要視されず、60歳をすぎても生徒に算数を教えて生計を立てなくてはなりませんでした。ある化学者がドルトンほどの大学者を重用しないのは国の恥だと政府を動かして、なんとか年金がもらえるようになったものの、死ぬまで教師を続け、気象ノートをとりつづけたのでした。

ドルトンの原子説はのちに近代化学の出発点となり、さまざまな現象を理解するための大きな土台となったのです。


「7月27日にあった主なできごと」

1887年 山本有三誕生…小説『路傍の石』『真実一路』や戯曲『米百俵』など、生命の尊厳や人間の生き方についてやさしい文体で書かれた作品を多く残した 山本有三 が生まれました。(2009.7.26ブログ 参照)

今日7月26日は、江戸3代将軍徳川家光の死後まもなく「慶安の変」というクーデターがおこり、その主犯格の由井正雪(ゆい しょうせつ)が、1651年に切腹自殺した日です。

由井正雪は、現在の静岡市由比の紺屋の子として生まれ、幼い頃から頭のきれる人物といわれ、17歳のとき、楠木正成の子孫という軍学者の弟子となりました。

やがて、神田に軍学塾を開いたところ評判を呼び、弟子の中には大名の子弟や旗本までも含まれるほど人気の道場となりました。一時は3000名もこえる門下生がいたといわれるほどでした。

ところが、さまざまな浪人たちとふれあううちに、幕府の政策に疑問を持つようになり、批判をするようになりました。さらに、経済的に貧しくなりはじめている武士や浪人たちを救うためには、幕府を倒さなくてはならないと考えるようになりました。そして、同志である槍術家の丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義らとともに、秘かに各地の浪人たちを集め、江戸・駿府・大坂・京都で兵をあげる計画を立てました。

しかし仲間の裏切りによる密告によって、事前に計画が発覚。正雪は駿府の宿で町奉行の捕り方に囲まれてしまい、自刃したのでした。正雪の仲間たちや、計画に加わった者たちもそれぞれ捕まり、殺されました。これがクーデター未遂に終わった「慶安の変」のあらましです。

この事件は、のちに黙阿弥の『花菖蒲慶安実記』や『慶安太平記』など、歌舞伎や浄瑠璃、芝居の登場人物として広く知られるようになりました。また、この事件は、直後に4代将軍となった家綱が、武断政策から文治政策に転換する契機の一つになったともいわれています。


「7月26日にあった主なできごと」

1881年 小山内薫誕生…明治末から大正・昭和初期に演劇界の発展に努めた劇作家、演出家の 小山内薫 が生まれました。

1945年 ポツダム宣言の発表…アメリカ、イギリス、ソ連(現ロシア)3国首脳の名で、日本に無条件降伏をせまる「ポツダム宣言」を発表しましたが、日本は無視しました。しかし、8月に入って広島と長崎に原爆を投下され、日本と不可侵条約を結んでいたソ連の参戦などの情勢の変化により、8月14日の御前会議で受諾を決めて終戦にむかいました。発表から受諾までの20日間で、およそ38万人もの人が亡くなったといわれています。

1956年 スエズ運河国有化宣言…エジプトにあるスエズ運河は、地中海と紅海を結ぶ国際的な水路です。開通した1869年から100年近くものあいだ、通行料はフランスやイギリスが株を占める万国スエズ運河会社に入り、エジプトには何の利益も受けられませんでした。エジプトのナセル大統領はこの日、スエズ運河国有化を世界に宣言しました。これを不服としたフランスやイギリスは、国際連合に解決を求めましたが、その解決を待たずに両国は、10月にイスラエルと連合してエジプトに戦争をしかけました(スエズ動乱・中東動乱)。これに対して世界中から非難がまきおこり、連合軍は11月に撤退。翌年4月にエジプト国有になって、スエズ運河は再開されました。

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