児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年06月

今日6月2日は、天下統一を目前にした織田信長が、家臣明智光秀の謀反により自刃した事件「本能寺の変」が、1582年におきた日です。

この日 織田信長 は、京都の本能寺に宿をとって、中国地方の毛利氏を討つための準備をすすめていました。これまでに信長は、京を中心とした畿内とその周辺を手中に収め、甲斐の武田を滅ぼし、関東の北条、東北の伊達、九州の大友や島津なども信長に味方する姿勢を見せていたため、残る大きな敵は毛利氏でした。そこで、羽柴(豊臣)秀吉に命じて、中国に兵をすすめさせていたのです。

秀吉は、備中(今の岡山県)にせめこみ、高松城の水攻めをおこなっているところでしたが、なかなかはかどりません。毛利の援軍が高松城へやってくるという情報を受け取った秀吉は、信長に援軍の依頼をしたところでした。信長から応援を命じられた光秀は、1万3千の兵を従えて高松城へむかう途中、その進路を突然変えて、信長のいる本能寺を急襲したのです。

信長を守る兵は、わずか100名程度。光秀の軍勢は四方から本能寺を取り囲み、寺の中になだれこみ、あちらこちらに火をつけてまわりました。多勢に無勢、さすがの信長も弓や槍で応戦するも手のほどこしようがなく、燃えさかる火の中で、自刃せざるをえませんでした。

光秀はなぜ反旗を翻したのか、謎につつまれた事件であるだけに、さまざまな歴史家や文学者がその原因を推理して本に著していますが、光秀の信長への恨み説、光秀を操った黒幕説などいまだに定説といわれるものがありません。


「6月2日にあった主なできごと」
 
1716年 尾形光琳死去…江戸時代の中期、町人文化が栄えた元禄期を代表する画家で『紅白梅図屏風』『燕子花図屏風』などを描いた 尾形光琳 が亡くなりました。 

1882年 ガリバルディ死去…フランスやオーストリアなどに支配され、たくさんの国に分れていたイタリアを、イタリア王国として統一させた ガリバルディ が亡くなりました。

1953年 エリザベス2世戴冠…1952年にイギリス国王に即位したエリザベス2世女王の戴冠式が、ロンドンのウェストミンスター寺院で行なわれました。女王パレードには、100万人以上の人が歓迎したと伝えられています。元首の地位は名義的なものであっても、イギリス連邦の団結や各国との親善の役割には大きなものがあります。

今日6月1日は、アヘン戦争でイギリスに敗北して威信を失った清(中国)南部に、平等な世界を理想とする「太平天国」の建設をめざし、14年間にわたり革命運動をおこした洪秀全(こうしゅうぜん)が、1864年に亡くなった日です。

1813年、広東省の貧しい農村に生まれた洪秀全は、役人になるつもりで科挙をめざしましたが何度も失敗、失望のため重い病にふせてしまいました。その病床で、洪秀全は夢によって暗示をうけました。それは、天上にのぼって天帝エホバにあったところ、金印とひとふりの剣を与えられ、下界の悪魔を退治するようにいわれたのです。

病が治ったのち、洪秀全はキリスト教の書物を読んで感動し、上帝会という秘密の宗教団体をこしらえて布教するようになりました。入信すれば男女問わず平等で、自身をキリストの弟、エホバの次子とし、人間界で神の意思を実行する者としました。
 
広州付近で布教を行いましたがあまり成功しなかったため、1844年に広西省に移動しところ、増税に苦しむ農民やアヘン戦争で職を失った兵士や船頭らに受け入れられ、信徒を急速に増やしていきました。

そして1851年の初め、洪秀全は天王と自称して、太平天国を建国しました。洪秀全は、さらに北へ北へ進軍し、行く先々で貧しい農民たちを加え、みるみる大軍になって、最早おしとどめることができない規模と強さを持つまでになりました。軍隊は男子軍と女子軍にわけ、きびしい掟を守らせながら、悪事を働く役人たちをこらしめたばかりでなく、役人から衣服や食物をとりあげて貧しい人たちに分け与えました。

1852年、太平天国軍は広西から湖南へと進出、1853年には南京を陥落させ、この地を天京と改称して太平天国の首都に定めました。太平天国建国のころには数千人にすぎなかった軍隊は、南京陥落のころには20万、2~3年後にはさらに50万人とも100万ともいわれる兵力にふくれあがり、水陸両軍を編成するまでに至りました。

しかし、満州人のたてた王朝である清を倒し中国人の国にしようと北京をめざした太平軍でしたが、1855年ごろから外国の援助を受けた清朝の反撃が厳しくなり、主だった指導者たちの仲たがいもあって、太平天国の勢力はしだいに衰えをみせるようになりました。

太平天国討伐のための清軍が天京に迫りはじめましたが、数年間はこの攻撃を撃退していきました。しかし1862年、洪秀全の片腕が清軍に殺害されると、太平天国は急速に勢いを失い、天京周辺の拠点が清軍に奪回されたばかりか、天京が包囲されて食料不足をひきおこし、洪秀全は病におかされ病死しました。毒を飲んで自殺したという説もあります。

こうして7月、太平天国の都天京は清軍に滅ぼされました。清朝もまた長い間の戦争で財政は行き詰まり、西欧列強はその弱みにつけこんで、多くの利益を横取りするようになっていったのです。


「6月1日にあった主なできごと」

1947年 初の社会党内閣…片山哲単独一人内閣として1週間前にスタートした内閣でしたが、この日民主党など3党連立による閣僚人事が決まり、初の社会主義首相による内閣が本格的に発足しました。片山はクリスチャンで、キリスト教的人権思想と社会民主主義の融合を実践した代表的な人物の一人ですが、内閣は翌年3月までの短命に終わりました。

1968年 ヘレンケラー死去…生後19か月で目・耳・口の機能を失いながらも、著述家、社会福祉事業家として活躍した ヘレンケラー が亡くなりました。

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