児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年06月

今日6月9日は、北陸地方の一向宗(浄土真宗)を信じる農民や武士たちが、対立していた守護の富樫政親を攻めて、1488年に自刃させた日です。これ以後90年間にわたって、一向宗徒は加賀(今の石川県)を支配しました。

仏教の言葉で、阿弥陀の力を借りることを「他力」といい、阿弥陀が過去の世ですべての生きものを救うためにたてた誓願を「本願」といいます。この「他力本願」をもとに「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と念仏をとなえ、阿弥陀にすがれば、次の世には極楽浄土に生まれることができる。この世でよいことをした者だけでなく、慈悲ぶかい阿弥陀は、どんな悪人でも救ってくれる」──。

このように説く浄土真宗は、浄土宗を開いた 法然 の弟子の 親鸞 が開いた (死後、親鸞の阿弥陀をひたすら信じることを説く純粋性が人々をとらえ、浄土真宗の開祖といわれるようになったため) とされています。鎌倉時代の武士中心の政治によって、苦しめられ続けてきた貧しい町民や農民たちに支持されて、あっというまに国じゅうにひろまりました。

ところが、ほかの仏教を信じる僧や武士たちは、法然や親鸞を目の敵にするようになり、1207年に朝廷は、念仏ひとすじの教えを禁止し、法然は土佐へ、親鸞は越後に流されるほどの弾圧をうけたのでした。

そして、親鸞の死後おとろえていた浄土真宗の教えを、かな書きのやさしい言葉、わかりやすい表現でつづった手紙などで民衆の心をとらえ、浄土真宗を再興させたのが蓮如(れんにょ)でした。( 3.25ブログ「一向宗の蓮如」 参照)

一向宗徒は加賀ばかりでなく、1563年には三河の国で 徳川家康 と戦い、家康をもう一歩で滅ぼすところまでせめこみました。さらに、1570年から1580年まで、蓮如の流れをくむ石山本願寺門主の顕如が石山本願寺にこもって 織田信長 と戦うなど、この石山戦争に信長が10年かかったのをみても、一向一揆がどんなに強かったかを物語っているようです。


「6月9日にあった主なできごと」

1671年 ピョートル大帝誕生…ロシアをヨーロッパ列強の一員とし、バルト海交易ルートを確保した ピョートル大帝 が生まれました。

1781年 スチーブンソン誕生…蒸気機関車の実用化に成功したイギリスの技術者 スチーブンソン が生まれました。

1870年 ディッケンズ死去…「オリバー・ツイスト」 「クリスマスキャロル」 「二都物語」 など弱者の視点で社会諷刺した作品群を著しイギリスの国民作家といわれるチャールズ・ディケンズが、亡くなりました。(2008.6.9ブログ 参照)

1886年 山田耕筰誕生…『からたちの花』『赤とんぼ』『この道』などの作曲をはじめ、世界的に著名な交響楽団を指揮するなど、国際的にも活躍した音楽家 山田耕筰 が生まれました。
 
1923年 有島武郎死去… 志賀直哉・武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加し、『一房の葡萄』『カインの末裔』『或る女』などの小説、評論『惜みなく愛は奪ふ』を著した 有島武郎 は、この日軽井沢の別荘で雑誌編集者と心中、センセーショナルをまきおこしました。

今日6月8日は、フランスの気象学者ティスランが1902年、大気の層は性質の異なる2つの層 (対流圏と成層圏) に分かれていると発表した日です。

ティスラン・ド・ボールは、1855年パリに生まれた気象研究者で、1892年から1896年までは、フランス政府機関「気象管理センター」の所長をつとめました。退職後に、パリ近郊の自宅のそばに気象観測所をこしら、風船のような気球に温度計を取りつけては飛ばし、上空の気象状態を観測するというやりかたを、執ようなまでに取り組みました。

はじめのうちは温度計が太陽の日射により上昇して正しい温度が測れなかったりして苦労しましたが、太陽によるふく射の影響をなくするために夜間に実験することも含めて、300回以上も実験をくり返しました。その気球のうち、236個は地上11km、74個は14kmにたっしたそうです。

その結果、ティスランは、上空約11km付近に不連続面があることに気づきました。その不連続面より下では気温は高度が上がるほど低下し、雲や雨などの気象現象の大半がここで起きていること、それより上では気温はほぼ一定で、さらに上まで行くとわずかながら上昇しはじめることがわかってきました。

そこでティスランは、この不連続面より上では大気の成分自体が異なり、それより下で起きているような水分の循環が起きずにただ重なりあっているだけなのではないかと考え、不連続面を対流圏界面、それより上を成層圏、下を対流圏と名づけて研究成果を発表したのでした。

なお、今日までにわかっている、地球の大気圏(およそ上空1000km程度)の状態は、つぎの通りです。

対流圏 (0~12km程度)──この領域の大気には大量に水蒸気が含まれているため、暖められた水蒸気を含んだ空気が対流圏上部に上昇すると、温度低下によって水蒸気が飽和し、凝結して雲ができます。積雲(わたぐも)のような下層の雲は高さ1~2km、高層雲のような中間層の雲が高さ2~4km、絹雲(すじぐも)のような上層の雲が高さ8km程度にできます。ただし夏に生まれる積乱雲は下部は1km程度、上部は成層圏に到達することもあります。
 
成層圏 (12~45km程度)──この領域では上に行くほど温度が高くなります。それは成層圏の中に存在するオゾン層が太陽からの紫外線を吸収するためです。オゾンの濃度は成層圏の上部でかなり濃くなり、極地方には極成層圏雲という特殊な雲が見られ、その主成分は対流圏から運ばれた亜酸化窒素により作られた硝酸で、これが発達するとオゾンホールの原因になります。

中間圏 (45~85km程度)──この領域では上に行くほど温度が下がります。

熱圏 (85km以上)──この領域では上に行くほど温度が上がります。太陽からの短波の電子エネルギーを吸収するため温度が高いのが特徴で、2000℃まで上昇することがあります。100kmくらいまでを下部熱圏、その上を上部熱圏といい、上部熱圏でオーロラ現象が起きます。  


「6月8日にあった主なできごと」

632年 ムハンマド死去…キリスト教、仏教とともに世界3大宗教のひとつとされるイスラム教の開祖ムハンマド(マホメット)が亡くなりました。

1810年 シューマン誕生…「謝肉祭」 「子どもの情景」 などを作曲し、ドイツ・ロマン派のリーダーといわれるシューマンが生まれました。

1947年 日教組結成…奈良県橿原市で日本教職員組合(日教組)の結成大会が開かれました。戦後教育の民主化、教育活動の自由、教育者の社会的・経済的・政治的地位の向上をめざすとし、教師は、聖職者から教育労働者へと大きく転換していくキッカケとなりました。
 

今日6月7日は、毎年のように洪水に悩まされ「鉄砲川」と恐れられていた天竜川の治水工事と植林に生涯をかけた金原明善(きんばら めいぜん)が、1832年に生まれた日です。

天竜川は、長野県の諏訪湖を水源に、木曽山脈と赤石山脈の間をほぼ真南に下って流れ、静岡県の遠州灘にそそぐ、急流で有名な川です。

現在の浜松市の地主の家に生まれた金原明善は、幼い頃から天竜川の洪水に悩まされてきました。特に1850年、明善が19歳の時に発生した洪水は、堤防を決壊させ、いっしゅんのうちに生家のあたり一帯を水浸しにし、田畑をどろ海にしました。これは、明善にとって一生忘れられない災害だったようです。

天竜川沿岸に住んでいる人たちが毎年のようにおきる洪水に頭を痛めていた時、明治維新をむかえました。新しく生まれた政府が、治水に力を入れる方針だということを耳にした明善は、すぐに京都へ上って天竜川の治水の必要なことを民生局へ訴えたところ、「天竜川堤防ご用がかり」に任命されました。

こうして役人になったものの、まもなく洪水がおこり、工事をするどころか壊れた堤防を治すことで手一杯となりました。なんとか堤防の修繕をすませた明善は、洪水の被害を根絶させるために「天竜川治水25か年計画」をたてました。そして1874年には、政府の力だけをあてにしない「天竜川治水協力社」を同志といっしょに設立して事業にかかりましたが、思うようにはかどりません。

そこで1877年、全財産を投げ出す覚悟を決めた明善は、内務卿 大久保利通 に訴えでようと上京しました。一介のいなか役人が、内務卿と謁見することは至難なことでしたが、明善の長年にわたる、誠実でいちずな奔走ぶりの話が大久保利通の耳に入っていたのでしょう。会談は実現しました。

こうして、大久保との約束通り、先祖代々の田畑や山林をはじめ家屋敷から、家具類にいたるまで売り払って、総額6万3500円を投げだして事業に打ちこみました。政府もこれに応えて、年額2万5000円を天竜川事業に出すことを決定しました。

1883年「天竜川治水協力社」は、流域の住民の利害争いが原因で幕を閉じました。でもこれ以降は、明善の計画を基にして国や県が天竜川の治水事業を引きついでいったのです。

それからの明善は、「良い森林を作ることが、多くの人々の生命と財産を守る」という信念のもとに植林事業に力をそそぎ、1923年、治水と森づくりに捧げた91年の生涯を静かに終えました。
 
 
「6月7日にあった主なできごと」

1848年 ゴーガン誕生…日本の浮世絵やセザンヌの影響をもとに印象派の絵画を描くも、西洋文化に幻滅して南太平洋のタヒチ島へ渡り『かぐわしき大地』『イヤ・オラナ・マリア』などの名画を描いたゴーガンが生まれました。(2008.2.22ブログ 参照)

1863年 奇兵隊の結成…長州(山口県)藩士の 高杉晋作 は、農民、町民などによる「奇兵隊」という軍隊を結成しました。奇兵隊は後に、長州藩による討幕運動の中心となりました。

今日6月4日は、「本能寺の変」(6月2日ブログ参照) で主君 織田信長 の死を知った 羽柴(豊臣)秀吉 が、1582年に毛利家と和議を結んだ日です。

中国地方一帯を制覇した戦国大名毛利元就(もとなり)は、隆元・元春・隆景の3人の子を呼んで、3本の矢を示していいました。「この矢を1本ずつ折ることは、いともたやすいことだ。しかし、この3本を束ねたら、どうじゃ、これはとても折れるものではない」──と。この話は、「三矢(さんし)の訓」として有名です。一人ずつでは力は弱いが、3人が力をあわせれば、恐れるものではない。仲良く手を組んで助け合っていかなくてはならない、という教えでした。

そして元就は、毛利本家の家督を隆元に譲り、元春を吉川(きっかわ)家に、隆景を小早川家に養子縁組をして、毛利グループの同盟関係を密にしたのでした。

さて信長の命で、中国平定のための活動をしていた羽柴秀吉は、小早川隆景の部下である清水宗治のいる備中高松城を水攻めにしていました。小早川隆景は吉川元春とともに援軍にかけつけましたが近づけません。そのため、毛利側は和議をしようと近くの寺の僧侶になかだちを依頼し、秀吉側と条件面での詰めをしていました。

そんな6月3日の夜、秀吉軍があやしい農民風の男を捕らえました。男は明智光秀から毛利への隠密でした。男が持っていた密書には、信長を討ったことが書かれており、それにより秀吉はいち早く変事を知りました。

秀吉はただちに隠密を斬り、翌朝交渉にやってきた僧侶に、高松城を守る清水宗治一人が腹を切ればこの場は和議して兵を引くというものでした。こうして正式に毛利と和議の誓紙を交換するや秀吉はあわただしく、京都へむかいました。

まもなく毛利方に「本能寺の変」の知らせが届きました。吉川元春は秀吉にまんまとあざむかれたことを知り、秀吉追撃の準備を始めました。しかし、小早川隆景はかけひきは戦の常、結んだ和議は和議、これを守るべきと主張します。そして、「三矢の訓」を守り、こんな時こそ団結すべきであると兄を説得しました。

こうして秀吉は、背後の心配をせずにただちに引き返すことができ、6月13日摂津と山城の国境 「山崎の戦」で、光秀を討ったのでした。


「6月4日にあった主なできごと」

822年 最澄死去…平安時代の初期に、天台宗をひらいた僧 最澄 が亡くなりました。

1928年 張作霖爆殺事件…満州軍閥の張作霖が、日本の関東軍によって暗殺される事件がおこりました。 (2009.6.4ブログ参照)
 
1989年 六四天安門事件…言論の自由化を推進し「開明的指導者」として国民の支持を集めた胡耀邦(こようほう)の死がきっかけとなって、中国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対して、「中国人民解放軍」は戦車、装甲車を出動させ無差別発砲を行なって武力弾圧。中国共産党の発表は、死者は319人としていますが、数百人から数万人の多数におよんだといわれます。

今日6月3日は、ウインナーワルツの代表曲として有名な『美しき青きドナウ』『ウィーンの森の物語』『春の声』など168曲のワルツを作曲したオーストリアの作曲家ヨハンシュトラウス(2世)が、1899年に亡くなった日です。

ヨハンシュトラウスは、「ワルツの父」といわれる同姓同名の父親の長男として1825年、ウィーンに生まれました。弟のヨーゼフ、エドワルトもワルツの傑作を残していますから、典型的な音楽一家といってよいでしょう。

オーストリアには、古くからゆったりとしたテンポの3/4拍子の舞曲があって、地方の村々で踊られていました。18世紀の中ごろになると、ウィーンでも「レンドラー」(いなか踊り)として、場末の居酒屋や茶店などで演奏されるようになりました。このレンドラーを基に、もっとテンポの速い洗練された「ウインナーワルツ」を作り上げたのが、ヨーゼフ・ランナー(1801-1843)という人でした。自身のオーケストラで新曲を次々に発表し、ウィーンの人々の人気を集めるようになりました。

このランナーのオーケストラでバイオリンを弾いていたのが、「ワルツの父」ヨハンシュトラウス1世(1804-1849)で、ランナーのウィンナーワルツをさらに優雅に磨き上げた作品『ラデッキー行進曲』などを発表、ランナーから独立し、二人は華やかな「ワルツ合戦」を演じました。

父は、息子たちが音楽の才能に恵まれているのはわかっていましたが音楽家としての道を歩むことには反対でした。音楽の都ウィーンで激しい競争を続けながら生きぬいていくことが、どんなに大変なことか身をもって体験していたからです。そのため、ヨハン2世は大学で経済学を専攻させられました。

ところが、父親に愛人ができ、愛人のもとに走ってしまいます。ヨハン2世が作曲家として活動しはじめたのはそれがきっかけで、オーケストラを組織し、ウィーンの一流の酒場で演奏会を開いたところ大成功、陽気で愉快で楽天的な気分にさせる曲の数々に、たちまちウィーンの人気楽団になったのでした。

やがて父とも和解して、ライバル作曲家となりました。父親が他界してからは、いよいよ2世の独壇場となり、「ワルツ王」として君臨することになりました。

なお、ヨハンシュトラウス(2世)はワルツ以外にも、『こうもり』『ジプシー男爵』などのオペレッタを作曲し、ポルカや舞踏曲もあわせると生涯の作品総数は500曲にもなるといわれています。


「6月3日にあった主なできごと」
 
1853年 黒船来航…アメリカ海軍に所属する東インド艦隊司令長官 ペリー は、日本に開国をせまる大統領の親書をたずさえて、この日4隻の黒船で江戸湾浦賀(横須賀市浦賀)に来航。「黒船あらわれる」というニュースに、幕府や江戸の町は大騒ぎとなりました。翌年、ペリーは7隻の艦隊を率いて再来航、幕府はペリーの威圧に日米和親条約を締結して、200年余り続いた鎖国が終わりをつげることになりました。

1875年 ビゼー死去…歌劇『カルメン』『アルルの女』『真珠採り』などを作曲したフランスの作曲家 ビゼー が亡くなりました。

1961年 ウィーン会談…アメリカ大統領 ケネディ と、ソ連最高指導者 フルシチョフ は、オーストリアのウィーンで、東西ドイツに分裂・対立するドイツ問題についての会談を行ないました。フルシチョフが西ベルリンに西側の軍隊が駐留するのは侵略行為、侵略を阻止するためには戦争も辞さないと主張。ケネディは、どんな危険を冒しても西ベルリンを守りきると、2人の意見は完全に対立しました。これにより、東側は逃亡者を防ぐための (社会主義化した東ベルリンから、自由を求めて西ベルリンへ逃亡する人は400万人ともいわれました) 強固なベルリンの壁を建造し、ベルリンをめぐる東西間の緊張が一段と高まりました

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