児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年06月

今日6月16日は、江戸時代後期に活躍した蝦夷地(北海道・樺太・千島など) 探検家の近藤重蔵が、1829年に亡くなった日です。

1771年に、江戸・駒込で与力(警察を司る役人)の家に生まれた重蔵は、幼いころから神童のほまれ高く、8歳で四書五経をそらんじ、17歳で私塾を開くほど学才がありました。

19歳で父にかわって与力を務め、23歳の時には湯島聖堂の学問の試験を受け、最優秀の成績で合格するほどでした。そして、長崎奉行手付出役、支払勘定方、関東郡代付出役と栄進していきました。

当時の蝦夷地は、北海道南部の松前地方以外は、道などもなく、どんな人が住み、どんなくらしをしているかなどほとんどわかっていませんでした。千島列島にはロシア人が入りこんでいること、このままではロシアの領地になってしまうことを知った重蔵は、27歳のとき、幕府に北方調査の意見書を提出しました。これがきっかけで、松前蝦夷地調査の出張を命ぜられ、開拓に従事し、貿易商人の高田屋嘉兵衛にクナシリからエトロフ間の航路を調査させるなど、実績をかさねました。

幕府普請役で探検家の最上徳内とともに、千島列島やエトロフ島を探検し、同地に「大日本恵土呂府」の木柱を立てたことは有名です。

こうして重蔵のみごとな働きぶりに、幕府はそののちも北海道から千島へつかわすこと12回にもおよびました。松前藩の欠点を指摘して、蝦夷地を幕府の直轄地にしたり、1807年には「札幌の都をおき、小樽に港を開いて交通の便をはかるべきだ」という意見書を提出するほど、先見性がありました。

1808年、江戸に帰国してからは「江戸城紅葉山文庫」の書物奉行となり、12年間書庫の整理をしながら、著作にもはげみました。特に辺境の地理を記した『辺要分界図考』、幕府の外国関係の資料を集めた『外蛮通書』など、新井白石 の著書と並んで評価されています。

しかし、晩年の重蔵は悲しいものでした。自信まんまんで豪気な性格が見とがめられたのか、大坂勤奉行に左遷されました。1826年には長男が町民を殺害したことで八丈島に流罪となり、これに連座して近江国大溝藩に預けの身となり、獄中で病死してしまいました。


「6月16日にあった主なできごと」

756年 楊貴妃死去…中国・唐の時代、玄宗皇帝の妃となりましたが、安禄山の反乱(安史の乱)を引き起こしたため「傾国の美女」と呼ばれる 楊貴妃 が亡くなりました。

1699年 河村瑞賢死去…江戸の大火事の際、木曾の材木を買い占めて巨富を得、事業家として成功した 河村瑞賢 が亡くなりました。

1924年 三民主義…現代中国の生みの親ともいわれる 孫文 は、民族・民権・民生主義を総合する「三民主義」の革命理論を、国民党の軍幹部を養成する学校の開校式で系統的な講演をし、孫文指導下の国民運動は最高潮に盛り上がりました。しかし、翌年3月「革命なおいまだ成功せず」の遺言を残し、60年の生涯を終えました。

1963年 女性初の宇宙旅行…ソ連(ロシア)の宇宙飛行士テレシコワは、ボストーク6号で地球を48周、70時間以上の宇宙飛行に成功しました。地上基地との通信「わたしはカモメ(ヤー・チャイカ)」は流行語になりました。

今日6月15日は、明治維新の100年近くも前に生まれながら、国学、儒学、蘭学、動・植物、天文、地理、測量など広い学問に通じ、明治以降の日本のすがたを明確に予想した学者 佐藤信淵(さとう のぶひろ)が、1769年に生まれた日です。

出羽国(秋田県)の佐藤家には、なん代もまえから、農業、産業、地理、博物学、医学などについての、とくべつの学問が伝わっていました。信淵が、この学問を受けついだのは、当然です。

少年時代の信淵は知識欲がたいへん強く、15歳で父を失うと、家に伝わる学問を、自分の力でまとめようと決心しました。そして、江戸へでて蘭学、動物学、植物学、天文学をはじめ、測量の技術や外国の歴史なども学び、さらに20歳になったころからは九州、四国、山陰をまわって、それまで学んできたことを自分の目でたしかめながら、さらに知識を深めました。

江戸へもどった信淵は、医者として生活をたてるかたわら、国学者の平田篤胤から、日本のむかしからの文化を重んじる学問を学び、自分の考えを理想的な国家の建設という方向でまとめていきました。

信淵が頭にえがいた政治のすがたは、江戸幕府のように大老、老中、若年寄、目付、奉行などの人が中心になって組織されたものではなく、もっと近代的なものでした。

たとえば、政府には、農事府、開物府、製造府、融通府、陸軍府、水軍府および大学校をもうけ、地方にも、政治や教育をつかさどる役所をおいて、りっぱな統一国家として国をおさめていくことを考えました。これは、幕府の下に、たくさんの藩がばらばらに独立していた江戸時代のすがたにくらべると、たいへん進んだものでした。

信淵は、とくに、農業を中心にして国の繁栄をはかっていくことのたいせつさを、強く訴えましたが、これも、日本の国のすがたによくあったものでした。

しかし、このようなことを、幕府や藩にまねかれて説いても、ほとんど受け入れられませんでした。封建時代の武士たちにとっては信淵の考えが新しすぎたうえに、すぐ実行できないことが多かったからです。けっきょく信淵は、8000巻というぼう大な著作を残しただけで1850年に81歳で亡くなりました。

「佐藤家には、ほんとうに、なん代も伝わった学問があったのだろうか。信淵には大きなことを口にするくせがあったのだ」

こんな批判もあります。でも、新しい時代を見通したすぐれた学者であったことはまちがいなく、明治以後に多くの学者の注目を受け、その多くが出版されました。


「6月15日にあった主なできごと」

774年 空海誕生…平安時代に中国から真言密教をもたらして真言宗を開き、高野山に金剛峰寺を建てた 空海 が、生まれました。空海は弘法大師の名で親しまれています。

1215年 マグナカルタ成立…イギリス憲法の聖書ともいわれる「マグナカルタ」(大憲章)に、横暴だったジョン王が署名し、王も法に従うという原則が定められ、イギリス立憲政治の出発点となりました。

1242年 北条泰時死去…鎌倉時代の3代目の執権となり、、武士の初めての法律『御成敗式目』(貞永式目)をこしらえ、16代続いた執権政治の基礎をきずいた 北条泰時 が亡くなりました。

今日6月14日は、戦国時代に全中国地方と四国の一部を支配し、毛利家の最盛期をつくった毛利元就(もうり もとなり)が、1571年に亡くなった日です。

元就は、1497年に、安芸国(広島県)で生まれました。父の弘元は郡山城主でした。

4歳で母を亡くし、9歳で父を失い、少年時代の元就は、城主の子とはいっても、たいへん不幸でした。そして、父のあとをついだ兄も、さらにそのあとをつぐはずだった兄の子も、つぎつぎに亡くなり、元就はいつのまにか、毛利家のあとをつぐことになっていました。

元就は、26歳で、郡山城の城主になりました。しかし、このころの毛利氏はまだ力が弱く、そのうえ、周防・長門(山口県)の大内氏、出雲(島根県)の尼子(あまこ)氏にはさまれ、いつも、敵の侵略におびえていなければなりませんでした。

孤立していては危険です。元就は、初めは尼子氏に従い、のちには、長男の隆元を人質に送って大内氏と手をむすびました。また、次男の元春を吉川(きっかわ)氏の、3男の隆景を小早川氏の養子にして、しだいに安芸全体に力をのばしていきました。

1551年、大内義隆が陶晴賢(すえ はるかた)の反逆によって討たれ、大内氏は滅んでしまいました。晴賢は、義隆に仕えていた武将です。4年ご、元就は晴賢を討つ兵をあげました。これが「厳島の戦い」です。このとき58歳の元就は、あらしの夜、わずか3000の兵で、せまい厳島へさそいだしたおよそ2万の敵を討ち、晴賢を自害させてしまいました。

元就は、こうして周防を手に入れ、さらに備中(岡山県)備後(広島県)にも兵をだし、69歳のときには、4年にもわたる戦いののち尼子氏を討ち滅ぼして、ついに中国地方7か国をおさめる戦国大名になりました。

「1本の矢はかんたんに折れる。しかし3本たばねた矢は、なかなか折れるものではない。おまえたち3人もひとつになれ。兄弟が力をあわせれば、毛利家が滅びることはない」

これは、元就が、自分の死が近づいたとき、家をつがせる隆元、それに元春、隆景の3人の子をよびよせ、3本の矢をしめして語ったと伝えられる話です。しかし、たとえこの話が伝説でも、元就が、毛利家が栄えるために、一族のものみんなに強い団結をさとしつづけたことは事実のようです。

元就は、1571年に74歳で亡くなるまでに220回をこえる合戦をしたといわれ、ほとんど戦いに明け暮れる生涯でした。ところが、和歌をよみ、連歌もつくりました。歌集さえ残しています。元就がたった一代で大きな大名になることができたのは、心に、歌を愛するほどのゆとりをもっていたからかもしれません。


「6月14日にあった主なできごと」

1811年 ストー夫人誕生…キリスト教人道主義の立場から、黒人奴隷の悲惨な境遇に心を痛め『アンクル・トムの部屋』を著したアメリカの女流小説家ストー夫人が生まれました。同書刊行から9年後に南北戦争がおきたため[戦争を巻きおこした小説]といわれるほど人々の支持を受けました。(2007.6.14ブログ 参照)

1910年 『遠野物語』発刊…古くから庶民のあいだに伝え受けつがれてきた民話、生活のすがたや文化などを研究する学問「民俗学」を日本に樹立した学者 柳田国男 が代表著作『遠野物語』を刊行しました。この本で、岩手県遠野地方に伝わる民話が全国的に広まりました。

今日6月11日は、大正から昭和の初期に活躍した漫画家 岡本一平が、1886年に生まれた日です。一平の妻は、歌人で小説家の岡本かの子、ふたりの長男が著名な画家・彫刻家の岡本太郎です。

1886年、北海道の函館に生まれた一平は、7歳の時に東京・京橋に移り住みました。祖父が漢学者、父は書家という血を受けた一平は、文学者をめざしましたが、父のすすめで日本画を習いました。しかし、洋画にひかれて東京美術学校西洋画科に進学、当時の洋画の第一人者黒田清輝や藤島武二らに学びました。

卒業後、美術学校の同級生を通じて知り合った歌人かの子と結婚し、京橋の岡本家に同居しました。しかし、まったく違う環境で育ち性格の異質な芸術家夫婦が共同生活をすることは、とても困難なことでした。なんとか愛情と理解を保ちながら精進しつづけ、1911年長男太郎が生まれました。

その翌年、一平はくらしをたてるために夏目漱石の推せんを受けて朝日新聞社に入社し、漫画をかきはじめました。そのころの漫画はポンチ絵といわれて、あまり評価の高いものではありませんでしたが、一平の描く洗練された画調と、絵に添えられた人間味あふれるユーモラスな文章は、人気を集め、「総理大臣の名は知らぬものはあっても、一平の名は知らないものはない」といわれるほどになりました。今日一般化した社会・政治風刺の漫画、戯画の先がけとなる功績を残したばかりでなく、こども漫画、家庭漫画、漫画小説、随筆などたくさんの作品をのこしました。

こうして、収入が増大するにつれて一平の放蕩がはじまり、夫婦の危機が訪れました。電灯も切られ家計はどん底に陥る中で、かの子は長女を出産しました。精神的におかしくなって、自殺を思うまでになりました。でも、幼い太郎を見るにつけ決行できず、病院の精神科に入院しました。

一平は妻を狂気に追いこんだ非を悔いあらため、家庭をかえりみるようになりました。しかし、かの子は自分を裏切った一平を愛することができず、早稲田の学生と恋に落ちました。一平は寛大さを見せ、不倫相手と同居させるも、内面では苦しさのあまり、家出をするなど家庭は崩壊寸前までいきました。やがて夫婦は、鎌倉建長寺に参禅するなど仏教の信仰に入りました。禅の影響は、一平の漫画にもかの子の和歌にもあらわれるようになりました。

1922年、一平は世界一周の旅をすることで作品に新しい魅力を加えるようになり、1930年から3年間は、かの子と太郎を連れて一家でヨーロッパ旅行をし、太郎をパリに残して帰国しました。

その後、かの子は仏教研究家となり、やがて小説をつぎつぎに発表して人気作家となりました。世間的な名声にあきてきた一平は第一線をしりぞき、かの子の盛り立て役に終始するようになりました。

1948年、かの子に先立たれた一平は波乱の人生を終えますが、漫画を芸術に高め、社会的にも広く支持者をあつめ、近藤日出造、杉浦幸雄、清水崑ら後継者を育てた功績は、高く評価されています。


「6月11日にあった主なできごと」

1899年 川端康成誕生…「伊豆の踊り子」 「雪国」 など、生の悲しさや日本の美しさを香り高い文章で書きつづった功績により、日本人初のノーベル文学賞を贈られた作家 川端康成 が生まれました。

1916年 ジーン・ウェブスター死去…手紙形式で書かれた名作『あしながおじさん』を著したアメリカの女流作家ジーン・ウェブスターが亡くなりました。(2009.6.11ブログ 参照)

今日6月10日は、平安時代中ごろの天台宗の僧で、『往生要集』を著して浄土教を広め「恵心僧都(えしんそうず)」と讃えられた源信が、1017年に亡くなった日です。

源信が、まだ15歳のころ、仏教を深く学んでいることがみとめられて朝廷へまねかれ、法華経の講義をしてたくさんのほうびをもらいました。源信は、その喜びを母へ伝えました。すると、母からの返事には、きびしいことばがつづられていました。

「あなたの名が高まるのを望んではいません。修行をつみ、世を救えるりっぱな僧になってくれることだけを願っています」

源信は、母のこのことばに心をうたれ、そののちは自分の欲望を捨てて、修行ひとすじにうちこんだということです。

源信は、942年に大和国(奈良県)で生まれると、7歳で父を亡くし、その父の遺言で9歳のとき比叡山にのぼり、延暦寺の僧良源の弟子になりました。生まれつきすぐれた才能をもっていた源信は、またたくまに山のような仏教の本を読みつくしました。そして、まだ10歳をすぎて数年もたたないうちに、その名は朝廷にまでとどき、僧としての出世の道は大きくひらかれました。

しかし、ここで母からの手紙が源信の歩む道をかえさせたのです。母のいましめで心を入れかえなかったら、たとえ地位の高い僧になることはできても、のちの世まで名僧とたたえられるようには、ならなかったかもしれません。

そののちの源信は、延暦寺の北の恵心院にこもって、一心に、仏の道をさぐりました。源信が恵心僧都とよばれるのは、ここで修行と勉強にはげんだからです。

985年、43歳の源信は、全部で3巻の『往生要集』という本を著わしました。それは数限りないお経の本から、地獄と極楽のありさまを示したところをぬきだして、極楽浄土に生まれかわることのありがたさを説き、その極楽浄土へ行くためには、なぜ念仏をとなえなければならないのか、また、念仏はどのようにとなえるのがよいのかを教えたものです。

「ひたすらに念仏をとなえれば、だれでも極楽へ行ける」

貴族も民衆も、この教えにとびつきました。また、この『往生要集』は中国へもおくられて、宋の人びともすぐれた内容におどろき、源信をうやまったということです。

62歳のときには、朝廷から権少僧都の位がおくられましたが、栄誉をのぞむ気持ちはなく、その位は朝廷へ返しました。源信は『往生要集』のほかにも、人を極楽へみちびく本をいくつも書いて、75歳で生涯を終えました。そののちの鎌倉時代には浄土教がさかんになりましたが、そのもとになったのは『往生要集』で、浄土宗、浄土真宗の聖典の一つとされています。


「6月10日にあった主なできごと」

1628年 徳川光圀誕生…水戸黄門の名でしたしまれ、徳川家康の孫にあたる第2代水戸藩主の 徳川光圀 が生まれました。

1863年 緒方洪庵死去…大阪に適々斎塾(適塾)を開き 福沢諭吉 や大村益次郎らを育てた教育者として、また蘭医として種痘を広め天然痘の予防に尽力した 緒方洪庵 が亡くなりました。

1920年 時の記念日…「日本書紀」によると 天智天皇(中大兄皇子) が「漏刻」という水時計を作り鐘を打った日と記されています。東京天文台と生活改善同盟会はこれを記念して「時間を大切にすることを、改めて考え直そう」と呼びかけ、6月10日を「時の記念日」に制定しました。

↑このページのトップヘ