児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年06月

今日6月23日は、近代日本を代表する詩人・作詞家として、北原白秋と並び「白露時代」と称された三木露風が、1889年に生まれた日です。

「♪夕焼け、小焼の 赤とんぼ……」 日本人の誰もが知っている「赤とんぼ」を作詞したのが、露風です。 

1889年、兵庫県の龍野町(現・たつの市)に生まれた露風は、5歳の時に両親が離婚しました。幼稚園から帰ったある日、生母が弟を連れて島根の実家へ帰ってしまったことを知ったとき、露風のショックはどんなに大きなものだったでしょう。露風は、祖父のもとに引き取られて、育てられました。

小・中学生時代から詩や俳句、短歌を新聞や雑誌に投稿、17歳で処女詩集を、20歳で代表詩集『廃園』を出版するなど早熟の天才といわれて注目されました。やがて、高校中退後に上京し、早稲田大学、慶応大学に学びました。

1918年頃からは、鈴木三重吉の『赤い鳥』運動に参加して、童謡を手がけるようになりました。1921年に、童謡雑誌『樫の実』に掲載された「赤とんぼ」は、山田耕筰 によって作曲されて、広く知られるようになりました。この詩は、1916年から1924年まで北海道函館市に近い上磯町(現・北斗市)の「トラピスト修道院」で文学講師をつとめたときに生まれました。

露風は、この地で洗礼を受けましたが、修道院の窓の外を飛びまわる赤とんぼを目にし、子守娘に背負われながら見た幼い日の思い出を詩に綴ったと記しています。おそらく、母を慕った遠い日の記憶を重ね合わせたにちがいありません。

その後露風は、随筆『修道院生活』や『日本カトリック教史』などを著し、バチカンからキリスト教聖騎士の称号を授与されました。1963年には紫綬褒章を受章しましたが、その翌年、三鷹市の自宅に近いところでタクシーにはねられ、死去しました。

なお、1989年にNHKが募集した「日本の歌 ふるさとの歌」には、全国から65万通もの応募があり、5000曲以上もの歌の中で「赤とんぼ」が第1位に選ばれたそうです。


「6月23日にあった主なできごと」

1794年 水野忠邦誕生…江戸時代の末期に「天保の改革」を指導したことで知られる政治家 水野忠邦 が生まれました。

1908年 国木田独歩死去…『武蔵野』『牛肉と馬鈴薯』『源叔父』 などの著作をはじめ、詩人、ジャーナリスト、編集者として明治期に活躍した 国木田独歩 が亡くなりました。

1967年 壺井栄死去…『二十四の瞳』『坂道』『母のない子と子のない母と』などを著した女流作家 壺井栄 が亡くなりました。(2009.6.23ブログ 参照)

今日6月22日は、史上最大の死傷者を出した第2次世界大戦のうちでも「最大の戦い」といわれるドイツとソ連(独・ソ)戦が、1941年に開始した日です。

1939年9月にヒトラー率いるドイツ軍がポーランドに侵攻したのに対し、イギリスとフランス(英・仏)が宣戦を布告して第2次世界大戦は始まりました。開戦後のドイツは、周辺諸国を次々に占領し、1940年5月には北フランスに進軍し翌月には首都パリを陥れました。孤立した英仏軍はイギリス本土へ撤退、ドイツはフランスを降伏させました。この勝利に、イタリアもドイツ側にたって参戦しました。

こうして、ヨーロッパ17か国の軍隊をしたがえたドイツ軍は、2か月前に対ソ不可侵条約を結んだばかりのソ連に対し、何の宣戦布告することなく、2700機の空軍と400万の大軍を、北はバルト海から南は黒海まで攻めこみました。

このように当初は有利に展開させたドイツ軍でしたが、1942年から43年にかけてソ連第3の都市スターリングラード(現ボルゴグラード)でソ連軍の反攻にあって、劣勢に転じました。

3年間にわたる死闘のなかで、英仏ソ3国間の団結が強まり、1944年6月「史上最大の作戦」といわれる、17万6千人をノルマンディに上陸させるという秘密の作戦が功を奏し、3か月後にフランス国土の大部分を奪回しました。そして、1945年に入ると英仏連合軍はドイツ国内に侵攻し、4月にソ連がベルリンを包囲、ヒトラーの自殺ののち、5月にドイツは無条件降伏したのでした。


「6月22日にあった主なできごと」

1633年 ガリレオ終身刑…イタリアの物理学者 ガリレオ は、宗教裁判で終身刑を言い渡されました。当時、地球は動かず太陽が地球を回っているという「天動説」がローマ教皇庁の考えでした。しかし、ポーランドの天文学者 コペルニクス のとなえた「地動説」を支持、みずからの観測を重ねて本に著したことで、教会の怒りをかい、罰せられたのでした。(まもなくトスカーナ大公国での軟禁に減刑) 病身だったガリレオは、厳しい取調べに、天動説を認める書類に署名しましたが「それでも地球は動いている」とつぶやいたといわれます。なお、この判決が359年後の1992年、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、教会の誤りを公式に認めました。

1752年 雷は電気を証明…アメリカ独立に多大な貢献をした政治家、外交官、また著述家、物理学者、気象学者として多岐な分野で活躍したフランクリンが、たこを用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしました。これがきっかけとなって避雷針を発明します。

今日6月21日は、フランスの哲学者、小説家、劇作家、評論家として活躍したサルトルが、1905年に生まれた日です。

「人間は、たとえ人生がむだにあたえられたものであっても、自分の未来は自分でつくりだして、人生に価値を生みださなければいけない。自分の生き方は自分でえらびとるべきだ。自分の人生を自分でえらべるからこそ、人間は自由である。しかし、自由であるかわりに、自分が生きていることについては、すべて、自分が責任をもたなければならない」

ジャン・ポール・サルトルは、このような考えの実存主義をもとにして人間のあり方を追究した、フランスの知識人です。

サルトルは、海軍の技術将校だった父を2歳のときに失い、およそ10年後に母が再婚するまでは、祖父の家で育てられました。このとき、空想科学小説などを読みふけり、早くから、自分でも物語を書きはじめたということです。

19歳で、高等師範学校へ入学しました。サルトルが、その後ひとすじに愛しつづける女流作家ボーボアールにめぐりあったのは、ここで哲学を学んでいたときのことです。ふたりは、おたがいの自由をみとめあって、正式には結婚しませんでした。しかし愛情は、ふつうの夫婦以上に深かったといわれています。

師範学校を卒業したサルトルは、徴兵義務で2年ほど軍隊生活を送ったのち、高等中学校の教師になりました。そして、世界の名作を読みかさねて自分の思想をみがき、哲学の論文や短編小説を発表して、哲学者、小説家の道を歩みはじめました。

1938年、長編小説『嘔吐』を発表すると、サルトルの名はいちどに高まりました。実存主義に心をよせてきたサルトルは、この作品のなかで「人間の存在の意味」を、するどく追究してみせたのです。そして、数年後には『蠅(はえ)』『出口なし』などの戯曲も発表して、人間が生きていくために背負わなければならない問題を、さらに深く問いかけました。

いっぽう、1943年には、哲学の大著『存在と無』を著して、ここでも「人間は、どうしたら自己の存在をみとめることができるか」を、問いつめました。

第2次世界大戦が終わった1945年には教職をしりぞき、その後は、長編小説『自由への道』をはじめ戯曲『汚れた手』『悪魔と神』などを書きつづけました。そして1964年には、ノーベル文学賞の受賞者にえらばれました。しかし、人間の自由をたいせつにしたサルトルは、受賞をことわってしまいました。

「人間は、自分の意思と判断で、生きていかねばならない」

このことを訴えつづけたサルトルは、1980年に75歳で亡くなりました。人間とは何かを考えつづけながら……。


「6月21日にあった主なできごと」

1793年 林子平死去…江戸幕府の鎖国政策に対し、警告を発した海防学の先駆者 林子平 が亡くなりました。

1852年 フレーベル死去…世界で初めて幼稚園をつくるなど、小学校就学前の子どもたちのための教育に一生を捧げたドイツの教育者 フレーベル が亡くなりました。

1970年 スカルノ死去…オランダ植民地時代から民族主義運動、独立運動をおこし、独立宣言後インドネシア初代大統領となり、雄弁な演説とカリスマ性によって「国父」として今も愛されている スカルノ が亡くなりました。

今日6月18日は、ユゴー 『レ・ミゼラブル』、ロマン・ロラン 『ジャン・クリストフ』などの翻訳、『天下一の馬』『てんぐ笑い』などの童話を著した作家 豊島与志雄(としま よしお)が、1955年に亡くなった日です。

豊島は、1890年福岡県に生まれました。東京大学仏文科在学中に、芥川龍之介菊池寛、久米正雄らと第3次「新思潮」を刊行し、その創刊号に処女作となる『湖水と彼等』を寄稿し注目され、続いて「帝国大学」に『彼と彼の叔父』を発表して文壇に認められ、卒業後は小説家として一本立ちする決意をしました。

ところが、小説で生計を立てるまでにはいたらず、生活のためにユゴーの『レ・ミゼラブル』の翻訳をしたところ、これがベストセラーとなって、暮らしのゆとりは生まれました。でも、めざす創作ではなかなか目が出ません。

以後、法政大学、明治大学、東京大学で仏文学を講じながら、数多くの小説、童話を発表しました。代表的小説集に『生あらば』『野ざらし』『道化役』『白蛾(はくが)』があり、雑誌『赤い鳥』他に発表した童話集に『夢の卵』『エミリアンの旅』などがあります。

広く知られているユゴーの『レ・ミゼラブル』、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』の翻訳は、名訳としての高く評価されていて、今も版を重ねています。

なお、豊島与志雄の作品は、『レ・ミゼラブル』『ジャン・クリストフ』の翻訳を含め、300編をこえる作品をオンライン図書館『青空文庫』で読むことができます。
 

「6月18日にあった主なできごと」

1815年 ワーテルローの戦い…フランス皇帝 ナポレオン1世 は、イギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍に「ワーテルローの戦い」で敗れました。

1940年 レジスタンス… ヒトラー 率いるドイツとの戦いに敗れ、首都パリが陥落すると、フランス軍将軍の ド・ゴール はイギリスへ亡命することを決断。ロンドンのBBCラジオを通じて、対独抗戦の継続と抵抗(レジスタンス)をフランス国民に呼びかけました。

1945年 ひめゆり学徒隊集団自決…太平洋戦争の末期、沖縄では一般市民を巻きこんだ地上戦が行なわれていました。この戦いで、負傷兵の看護を行なってい女子学徒隊は、この日軍に解散命令が出されため、アメリカ軍に包囲された洞窟内で、49名が集団自決しました。さらに沖縄戦終了までに、生徒123人、教師13人が亡くなりました。その霊をなぐさめ、悲劇を二度とくりかえしてはならないという願いをこめた「ひめゆりの塔」が、沖縄県糸満市に建てられています。

今日6月17日は、アメリカの動物学者のモースが1877年に来日した日です。モースが、縄文時代の貝塚「大森貝塚」を発掘したことがきっかけとなって、日本に近代科学としての考古学がスタートしました。

1838年、アメリカの最東北部メイン州のポートランドに生まれたエドワード・モースは、学校の成績はかんばしくありませんでしたが、13歳ごろから採集しはじめた貝類の標本は、学者が見学にくるほど立派なものでした。その後も貝の研究に熱中し、1857年には新種のカタツムリを博物学協会誌に発表するほど、貝の研究家として注目されるようになりました。

高校に入ってからも入退学をくりかえすほど勉学には力が入らず、動物学者となるためには大学卒の肩書きが必要だといわれても意に介しません。そのうち、貝に関する弁舌さわやかな講演に人気が出て、その謝礼金で暮らしを立てるようになりました。

1867年、ピーボディという人の寄付を得て、3人の研究仲間といっしょに『ピーボディー科学アカデミー』(のちのピーボディ博物館)をマサチューセッツ州セーラムに開き、1870年まで軟体動物担当の学芸員を勤めました。こうして、大学卒の肩書きのないまま1871年にはボードイン大学教授を勤め、ハーバード大学の講師も兼ねるほど学者としての評価が高まって、アメリカ科学振興協会の幹事になるほどでした。

やがてモースは、腕足類の研究のためには、それが豊富に生息する日本行きを計画、1877年のこの日に横浜に到着したのでした。そして、横浜から新橋に向かう汽車の窓から、大森駅をすぎてまもなく線路左側に貝殻の層が露出している白っぽい丘を見つけ、それが古代の貝塚であると直感しました。

このモース到着の2か月前に東京大学が開設されていて、思いがけずモースは、東京大学動物学の教授になることを依頼されました。この幸運は、腕足類研究だけでなく、大森貝塚の発掘調査を行なう資金を保証されたことでもありました。

大森貝塚の発掘は9月から11月にかけて数回にわたって行なわれ、この貝塚が縄文時代後期の貝塚であることが判明しました。とくにモースの専門である貝の研究は詳細で、貝類の違いから年代の古さと環境の変化まで推定しています。

モースは、まもなく日本を去ってアメリカに帰国しますが、1882年に再来日して、半年ほど陶器と民俗資料の収集にあたりました。モースは、1880年からピーボディ博物館の館長を務めながら、日本に何度か訪れてさまざまな研究を重ね、現在の日本民俗学にとって重要な資料を遺しました。

モースは、1925年に亡くなるまで、終生日本と東京大学を愛しました。1923年に関東大震災で東大図書館が壊滅したことを知ると、自分の蔵書2500冊すべて寄贈することを遺言にし、実行されたのでした。


「6月17日にあった主なできごと」

1869年 版籍奉還…明治新政府は、藩の土地(版)と人民(籍)をこれまで治めていた藩から、天皇に返す「版籍奉還」を開始しました。

1972年 ウォーターゲート事件…ワシントンのウォーターゲートビルにあるアメリカ民主党本部に、盗聴器をしかけようとしていた5人組が逮捕されました。共和党のニクソン大統領が、次の大統領選に有利にするため、相手方の様子を知ろうとしたためとされ、1975年8月、ニクソンは大統領辞職に追いこまれました。

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