児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年06月

今日6月30日は、大正、昭和初期に活躍した作曲家で、「靴が鳴る」「叱られて」「春よこい」など、数多くの童謡の名曲を遺した弘田竜太郎が、1892年に生まれた日です。

竜太郎は、中学校長を父に高知県安芸市で生まれました。幼い頃から一絃琴の名手だった母の影響を受けて音楽に親しみ、11歳で父親の転任にともない三重県の津市に転居、中学の頃から音楽的才能を認められるようになりました。

1910年、東京音楽学校(現東京芸術大学)に入学し、「赤い靴」「青い眼の人形」などの作曲家 本居長世に師事しました。在学中に歌曲『昼』を発表、文部省唱歌で作者不詳といわれてきた「こいのぼり」(♪いらかの波と 雲の波~) は最近、竜太郎が在学中に作曲したものとされています。卒業後は、母校の講師を経て教授となり、筝曲の 宮城道雄 や恩師本居長世らと新日本音楽運動に参加、日本舞踊に洋風伴奏を取り入れるという、画期的な活動が注目されました。

1918年、鈴木三重吉によって児童雑誌『赤い鳥』が創刊されると、まもなく「赤い鳥運動」に参加し、清水かつら等と組んで、1919年「靴が鳴る」、1920年に「叱られて」「雀のがっこう」 、1921年「春よこい」を発表しました。

1928年には、文部省在外研究員としてドイツに留学し、ベルリン大学で作曲やピアノの研究を深めました。広い分野での作曲活動を行い、童謡はもとより、歌曲『千曲川旅情のうた』、オペラ『西浦の神』、仏教音楽『仏陀三部作』、映画音楽『くもとちゅうりっぷ』など優れた業績を残しました。晩年はNHKラジオの子供番組の指導や児童合唱団の指揮にあたるなど幼児教育にたずさわり、1952年に60歳で亡くなりました。

いずみ書房の刊行する 「みんなのおんがくかい」 には、今も歌われる童謡の名曲を120曲収録していますが、「靴が鳴る」「叱られて」「雀のがっこう」「春よこい」のほかに「金魚のひるね」「お山のおさる」計6曲の弘田竜太郎作品をとりあげています。一級の童謡歌手による歌唱だけでなく、母親がわが子に、それぞれの歌の心を語ってきかせる言葉を、童謡絵本の中に添えているのが特徴です。


「6月30日にあった主なできごと」

1898年 日本初の政党内閣…それまでの内閣は、長州藩や薩摩藩などの藩閥が政権を担当していましたが、自由党と進歩党がひとつになった憲政党が、大隈重信 を首相に、板垣退助 を内務大臣に内閣が組織されたため、大隈の「隈」と板垣の「板」をとって隈板内閣(わいはんないかく)といわれました。しかし憲政党に分裂騒ぎがおき、組閣後4か月余りで総辞職を余儀なくされました。

1905年 相対性理論…20世紀最大の物理学者といわれるアインシュタインが、相対性理論に関する最初の論文「運動物体の電気力学について」をドイツの物理雑誌に発表しました。

今日6月29日は、20世紀前半に独特の童画風の絵をえがき、現代抽象画の世界に大きな影響を与えたスイス出身の画家・美術評論家 クレーが、1940年に亡くなった日です。

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パウル・クレーは、1879年スイスの首都ベルン郊外に生まれました。父親は音楽の教師、母親も歌が上手で音楽につつまれた家庭でした。幼いころからバイオリンに親しみ、11歳でベルンのオーケストラに籍を置くほどの腕前でした。そのため1898年、ドイツのミュンヘンに出て絵を志すまで、将来の道を決めかねていました。クレーにとっては生涯、音楽も絵も、自分を表現する手段として欠くことのできない存在でした。

美術学校に入学したクレーは、幻想的な絵をえがく教師の指導を受けました。その影響からか、幻想と怪奇を追い求めた画家たちに心を魅かれました。でも学校の画一的な教育はクレーにあわず、1年後には退学し、1901年から翌年にかけてイタリアを旅行して、ルネサンスやバロックの絵画や建築を見てまわりました。

ところが、誰もがほめたたえるルネッサンス期の巨匠たちの絵にはあまり興味がなく、古びた僧院の純粋さや、ステンドグラス、織物などから多くを学びました。さらに、クレーをとりこにしたのは、ジェノア港に集まってくるたくさんの船が出入りする眺めや、ナポリの水族館の水槽の中を夢のように泳ぐ魚たちの不思議さでした。クレーの作品に表れる軽やかな線は、こんな船や魚たちの動きを、自分の感情におきかえて表現したにちがいありません。

クレーは初期には風刺的な銅版画やガラス絵などを試み、またアカデミックな手法の油絵を残しています。その後はときどきパリを訪れて、セザンヌやゴッホ、ピカソやマチスらの作品に感銘して、その後のクレーの絵の抽象化や独自の画風を確立させる原点の一つとなりました。

さらにクレーの転機となったのは、1914年春から夏にかけてのチュニジア旅行でした。この旅行で、明るい太陽の世界と、あざやかな色彩が特徴のムーア人の美術、街の中に響くさまざまな音楽に刺激されました。それは、若い頃から親しんできたバッハのフーガの調べとが結びついて、絵と音楽の融合を意識した瞬間でした。この体験がクレーの作風を一変させたのです。クレーの代表作のほとんどは、この旅行以後のものだといってよいでしょう。

1919年ミュンヘンの画商ゴルツと契約を結んだことをきっかけに、ニューヨークやパリで個展が開かれ、現代美術の最前線に位置する画家の一人として、クレーの名は国際的に知られるようになりました。

いっぽう、ワイマールにできた生活の中に芸術をめざす「バウハウス」の教授となって、10年以上も造形や色彩、そして音楽との調和という独自の講義を行い、多くの理論的著作を残しました。

その後、デュッセルドルフの美術学校で教授をしていましたが、1933年のナチス政権の成立とともにはじまった前衛芸術の弾圧に、生まれ故郷のベルンへ移りました。帰国直後は創作もはかどりませんでしたが、1937年には復調して旺盛な創作意欲を見せ、1939年にはデッサンも含めた1年間の制作総数は1200点以上といわれています。しかし、重い病に手がうまく動かなくなり、1940年ロカルノ近郊の療養所で死去しました。

クレーの名は、死後ますます注目され、若い画家たちに「20世紀の明星」と慕われ続けています。

 

「6月29日にあった主なできごと」

1866年 黒田清輝誕生…『湖畔』『読書』などの作品を描き、わが国の洋画の発展に大きな功績を残した画家 黒田清輝 が生まれました。

1903年 滝廉太郎死去…『荒城の月』『花』などの歌曲や、『鳩ぽっぽ』『お正月』などの童謡を作曲した 滝廉太郎 が亡くなりました。

1932年 特高の設置…特別高等警察(特高)は、日本の主要府県警の中に設置された政治警察で、この日に設置されました。警察国家の中枢として、共産主義者はもとより、自由主義者や宗教人らにも弾圧の手をのばし、国民の目や耳や口を封じ、たくさんの人々を自殺においこみ、虐殺させた思想弾圧機構ともいえるものでした。

今日6月28日は、名もなく・貧しく・たくましく生きる庶民の暮らしを、みずからの体験をもとに描いた作品で名高い女流作家 林芙美子(はやし ふみこ) が、1951年に亡くなった日です。

1903年、林芙美子は山口県下関市 (北九州・門司 という説もあります) に生まれました。父は雑貨を売ってあるく行商人でした。やがて、父と別れることになった母キクは、6歳の芙美子をつれて行商の旅に出ました。この日から、芙美子の家は日によって泊まるところの変わる木賃宿になりました。芙美子は、木賃宿から小学校にも通いましたが、10数回も転校しなければなりませんでした。

芙美子も、母の仕事を助けて、行商に歩いたこともあります。木賃宿に泊っている社会の底辺に生きる人たちは、言葉づかいこそ乱暴でも、心は温かく、芙美子をいたわってくれました。

芙美子には新しい父もでき、11歳のとき、一家は尾道に移り住みます。間借りながらも家庭ができ、小学校へも落着いて通うことができるようになりました。海ぞいの美しい町は、芙美子の第2のふるさとになりました。

工場でアルバイトをしながら、芙美子は高等女学校に通いました。本も読みたい、勉強もしたい、仕事もしなければならない、1日が48時間あればいい、と思うような生活でした。そして、貧しい家の少女にとって、学校は楽しいところではありませんでした。でも、文学や詩について語ってくれる若い先生がいることと、図書室があることが芙美子にとってただひとつのなぐさめでした。

芙美子は18歳のとき、東京へ出ました。ここでも苦しい生活の連続です。工場、カフェ(喫茶店)、産院、毛糸屋、新聞社などいろいろなところにつとめました。はたらいても働いても、きざんだキャベツのおかずが1番のごちそうというような生活でした。芙美子は、そうした生活の悲しみや希望をかざらずに率直に『放浪記』として書きつづけました。それまで自分の書いた原稿を持って、新聞社、雑誌社を歩きましたが、ほとんど売れませんでした。ある日、疲れて帰ってきた芙美子は、玄関に1通の手紙が置いてあるのを見ました。

「めったに速達を受けるようなことのないわたしは、裏を返して見て急に狂人のように手がふるえてきました」

芙美子はへなへなとそこに、しゃがみこんでしまいました。『放浪記』を出版するという知らせでした。『放浪記』は暗い不景気の時代のなかに生きていた人びとに強い共感をもって迎えられ、たちまちベストセラーとなりました。

『うず潮』『晩菊』『浮雲』など、名もない雑草のような庶民の生き方をえがいた作品が、芙美子の代表作です。芙美子は、1951年、波乱にとんだ生涯を47歳の若さで閉じました。

なお、オンライン図書館 「青空文庫」 では、林芙美子の作品を50数点読むことができます。


「6月28日にあった主なできごと」

1491年 ヘンリー八世誕生…首長令を発布して「イングランド国教会」を始め、ローマ法王から独立して自ら首長となった ヘンリー8世 が生まれました。(2010.1.28ブログ 参照)

1712年 ルソー誕生…フランス革命の理論的指導者といわれる思想家 ルソー が生まれました。

1840年 アヘン戦争…当時イギリスは、中国(清)との貿易赤字を解消しようと、ケシから取れる麻薬アヘンをインドで栽培させ、大量に中国へ密輸しました。清がこれを本格的に取り締まりはじめたため、イギリスは清に戦争をしかけて、「アヘン戦争」が始まりました。

1914年 サラエボ事件…1908年からオーストリアに併合されていたボスニアの首都サラエボで、オーストリア皇太子夫妻が過激派に暗殺される事件がおこり、第1次世界大戦の引き金となりました。

1919年 ベルサイユ講和条約…第1次世界大戦の終結としてが結ばれた講和条約でしたが、敗戦国ドイツに対しあまりに厳しい条件を課したことがナチスを台頭させ、第2次世界大戦の遠因となりました。

今日6月25日は、北緯38度線を境にアメリカの支援する韓国と、ソ連・中国の支援する北朝鮮に分かれていた朝鮮半島で、1950年に3年半にわたる戦争が始まった日です。

1945年8月15日、第2次世界大戦での日本敗戦によって朝鮮は、1910年の「日韓併合」以来、日本の植民地から解放されました。しかし、自ら独立を勝ち取ることができず、朝鮮半島には、直後に北緯38度以北にソ連軍が進駐し、南半分は上陸してきた連合国軍(実質的にはアメリカ軍)の軍政下に入り、半島は38度線を境に南北二つの体制に移っていきました。

南朝鮮では連合国の軍政に対して朝鮮人が蜂起し、1948年8月15日に李承晩を初代大統領とする「大韓民国」(韓国) の樹立が宣言されました。いっぽう北朝鮮には、9月9日に 金日成 を初代首相とする「朝鮮民主主義人民共和国」が成立したため、朝鮮半島の分裂は決定的なものになりました。

その頃、中国大陸では国・共内戦の末、ソ連からの支援を受けて戦っていた 毛沢東 率いる中国共産党が勝利し、1949年10月1日に「中華人民共和国」が成立しました。敗北した蒋介石率いる中華民国政府は台湾に脱出しました。

朝鮮半島の主権をめぐって緊張状態をつづけていた韓国と北朝鮮でしたが、中華人民共和国を訪問し支援の約束を取りつけた金日成が、軍事境界線を越えて韓国へ侵攻したことで、戦争が勃発したのでした。

こうして韓国側には、アメリカ合衆国軍を中心にイギリスやオーストラリア、ベルギー、タイなどの国連加盟国で構成された国連派遣軍が、北朝鮮側には中国人民義勇軍(中国人民解放軍)が加わり、ソ連は武器調達や訓練などの形で援助しました。

開始当初、北朝鮮軍は朝鮮半島の南のはしまで国連派遣軍を追いつめましたが、アメリカは本土から援軍をおくって盛り返し、中国との国境近くまで、北朝鮮軍をおいこみました。やがて、両軍は38度線付近でにらみあいが続き、1953年7月やっと休戦協定が成立しましたが、平和条約を結ばないまま、軍事的緊張状態は今も続いています。

いっぽう日本は、アメリカが戦争に必要な品々を日本に生産するように要求し、それらを大量に購入してくれたため、戦後の大不況から奇跡の復興の足がかりを得ることができました。この朝鮮特需がなければ、「世界の奇跡」といわれる1950年代半ばから20年近くも続く高度経済成長も、規模の小さなものになったことでしょう。


「6月25日にあった主なできごと」

845年 菅原道真誕生…幼少の頃から学問の誉れが高く、学者から右大臣にまでのぼりつめたものの、政敵に陥れられて九州の大宰府へ左遷された平安時代の学者 菅原道真 が生まれました。

1734年 上田秋成誕生…わが国怪奇文学の最高傑作といわれる 「雨月物語」 を著した江戸時代後期の小説家・国学者・歌人の上田秋成が生まれました。

1956年 宮城道雄死去…琴を主楽器とする日本特有の楽曲(箏曲<そうきょく>)の作曲者、演奏家として世界に名を知られた 宮城道雄 が亡くなりました。

今日6月24日は、古代最大の内乱といわれる「壬申(じんしん)の乱」が、672年に始まった日です。

「大化の改新」以来、新しい政治をおこなってきた 中大兄皇子 は、668年都を近江に移し天智天皇となり、弟の大海人(おおあまの)皇子を皇太子に立てていました。しかし、病が重くなるにつれ、わが子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思をみせはじめました。

そんな気配に大海人皇子は本心を隠し、大友皇子を皇太子として推挙、自ら出家を申し出て吉野宮(奈良県吉野)に下りました。671年10月のことでした。まもなく天智天皇が亡くなると、大友皇子 (明治時代に入ってから「弘文天皇」の名が贈られました) が後を継ぎました。

天智天皇の死が伝えられると、反旗をひるがえした大海人皇子は吉野を出て、伊賀、伊勢国を通り美濃にある自分の領地にむかいました。吉野を出たときは、わずか20人余りだった人数が、大海人皇子に味方する者が続々集まり、二人の息子(高市皇子・大津皇子)もかけつけて、決戦の準備をすすめました。

軍勢を二手にわけ、大和と近江の二方面に送りだす大海人皇子。いっぽう大友皇子は、東国や西国に兵力動員を命じる使者を派遣しましたが、大海人皇子の部隊にはばまれたため、近い諸国から兵力を集めました。

こうして1か月にわたる戦いがはじまり、大海人皇子側が優勢のうちに戦を進め、7月22日の瀬田橋の戦で大勝すると、翌日に大友皇子を自害においこみ、乱は収束しました。

翌673年2月、都を飛鳥に移した大海人皇子は、天武天皇 として即位しました。そして、論功行賞と秩序回復のため、八色の姓(やくさのかばね)の制定、冠位制度の改定などを行い、天智天皇よりもさらに中央集権制を進めていきました。


「6月24日にあった主なできごと」

1611年 加藤清正死去…豊臣秀吉 の家臣として仕え、秀吉没後は 徳川家康 の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって熊本藩主となった 加藤清正 が亡くなりました。1562年に誕生した日でもあります。

1788年 田沼意次死去…江戸時代の中ごろ、足軽の子に生まれながら、側用人から老中までのぼりつめ、1767年から1786年まで 「田沼時代」 とよばれるほど権勢をふるった 田沼意次 が亡くなりました。

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