児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年05月

今日5月17日は、ソ連のスパイ組織が、日本国内でスパイ行為をしていたという「ゾルゲ事件」が公表され、1942年に大きく新聞報道された日です。5人のスパイのうちの一人が尾崎秀実(ほつみ)でした。尾崎は、近衛文麿内閣のブレーンとして政界に大きな影響を与えていた評論家で、軍部とも通じ、日中戦争を推進した元朝日新聞記者でもありました。

その報道の内容は、(スパイの指導者がドイツ人のリヒャルト・ゾルゲであること。ソ連のスパイ組織であるゾルゲや尾崎らのグループが日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていた容疑で、太平洋戦争開戦前の1941年9月から1942年4月にかけて、警視庁の特高が逮捕した) というものでした。

ゾルゲが日本でスパイ活動を行なうようになったのはそれより10年も前のことでした。ソ連共産党機密部員でありながらナチス党員ということで日本へ入国、ドイツ政治学博士の肩書きももっていて、そのスパイ行為はかなり手のこんだものでした。

ゾルゲが尾崎と知り合ったのは、尾崎が朝日新聞社の上海支局に1928年から3年余り勤務した時代で、尾崎の情報量の豊富さに加え、尾崎が完全な共産主義者であることで、共感するものがあったのでしょう。尾崎は、ゾルゲがソ連共産党の機密部員であることを知った上で協力したことは事実のようで、その諜報活動を、同僚はもちろん妻にさえ隠し通し、逮捕されるまで正体が知られることはありませんでした。

このショッキングな報道後、多くの人は尾崎を「売国奴」呼ばわりしました。そして、国賊の汚名を着ながら1944年11月に、ゾルゲとともに死刑となったのでした。

しかし戦後になって、一部の人たちは「1939年6月から9月にかけ、日本がソ連に戦闘開始しようとする動きに対し、その防止に全力をつくした尾崎の行為は、真の平和を求める愛国心から出たものである」という評価も生まれています。


「5月17日にあった主なできごと」

1749年 ジェンナー死去…種痘を発明し、天然痘という伝染病を根絶させたイギリスの外科医 ジェンナー が亡くなりました。

1890年 府県制の公布…現在の都道府県のもととなる府県制が公布され、地方自治のもとができあがりました。しかし当時は、府県の知事は政府によって決められていて、公選となったのは1947年に「地方自治法」ができてからです。

 今日5月14日は、鎌倉時代の第5代執権で、北条氏本家による独裁政治の基礎を確立した北条時頼が、1227年に生まれた日です。

大雪の夜、上野国佐野(群馬県高崎市)あたりで、ひとりの僧が、1軒のあばらやに一夜の宿をたのみました。すると家の主人は、貧しくてもてなしのできないのをわびながら「せめて、からだでもあたためてください」と、大切にしていた鉢植えの梅や松や杉の木を、いろりでたいてくれました。その主人は、いまはおちぶれていても、佐野源左衛門と名のる武士でした。

やがて、春になって鎌倉幕府が兵をあげようとしたときのこと、鎌倉へかけつけた武士のなかに源左衛門がいるではありませんか。また、源左衛門がふと見ると、幕府をおさめる執権のそばに、いつかの僧がいるではありませんか。この僧こそ、まえの執権北条時頼だったのです。時頼は、源左衛門を呼んで鉢の木をたいてくれた礼をいい、さらに、貧しくても鎌倉へかけつけてくれた武士の心をほめて、広い土地をあたえました。

これは「鉢の木」と題する謡曲に語り伝えられている話です。事実かどうかはわかりません。しかし、北条時頼が、人びとの暮らしぶりを知るために身分をかくして町や村をたずねるほど、細かい心くばりをする政治家であったことを、よく伝えています。

1227年に生まれ、3歳のときに父を失い、祖父の北条泰時にきびしく育てられた北条時頼は、病気の兄にかわって19歳で、鎌倉幕府の執権職を受けつぎました。このときは、もう、祖父も亡くなっていました。

執権になった時頼は、まず、執権職をひそかにねらっていた名越光時や、幕府のなかで大きな力をもつようになってきた三浦氏を、2年のうちに討ち、北条氏の権力をますます強いものにしました。そのうえ、1252年には、鎌倉幕府の第5代将軍源頼嗣をしりぞかせて、後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を征夷大将軍として鎌倉へ迎え、幕府を安泰にしました。

すぐれた政治の才能をもっていた時頼は、こうしてまたたくまに、北条氏の独占体制を固めました。ところが、執権職の位にあったのは、宗尊親王を迎えてから、わずか5年でした。29歳で執権職を北条長時にゆずり、出家してしまったのです。

しかし、出家したのちも、長時を助けて、人びとから信頼される幕府をつくるために、力をつくしました。自分からすすんで倹約しながら貧しい農民たちを救ったといわれ、「鉢の木」のような話が生まれたのも、時頼が、武士だけではなく町人や農民からもしたわれたからです。

時頼は、1263年36歳で病死しました。するとそのとき、おおくの武士が、時頼の死を悲しんで出家したと伝えられています。

鎌倉の建長寺は、禅宗を信仰していた時頼が建てたものです。


「5月14日にあった主なできごと」

1221年 承久(じょうきゅう)の乱…後鳥羽上皇はこの日、京都近隣の武士1万7千人を集め、鎌倉幕府執権の北条義時追討の命令を出しました。幕府軍は19万の軍勢でこれをむかえ討ち、敗って、上皇を隠岐島へ流しました。鎌倉幕府成立後、京都の公家政権との二頭政治が続いていましたが、この乱以降は幕府が優勢となり、皇位継承にまで影響力を持つようになりました。

1796年 ジェンナーの種痘…イギリスの外科医 ジェンナー は、牛痘にかかった人の膿を少年に接種 (種痘) し、天然痘という伝染病を根絶させるキッカケとしました。そのため、5月14日は「種痘記念日」に制定されています。

1839年 蛮社の獄…この日、江戸幕府目付の鳥居耀蔵は、田原藩士 渡辺崋山高野長英 らを逮捕しました。蛮社とは、洋学者を中心に町医者・藩士・幕臣等有志の者が海防目的で蘭学や内外の情勢を研究していた尚歯会(しょうしかい)を「野蛮な結社」と国学者たちがさげすんだことによります。崋山や長英らは、浦賀沖へ来航したアメリカ船モリソン号に砲撃を加えたことを非難。これへの反感からの逮捕でした。

1878年 大久保利通死去…明治維新をおしすすめた西郷隆盛、木戸孝允とともに「維新の三傑」とよばれ、明治新政府の土台をささえた最大の指導者 大久保利通 が暗殺されました。

1948年 イスラエル建国…イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しようという、ヨーロッパを中心におこった「シオニズム運動」の結果、紀元前のイスラエル王国にちなんだユダヤ人の国家イスラエルを、この日に建国しました。これに怒ったレバノン、シリア、ヨルダン、イラク、エジプトのアラブ連盟5か国は戦争を宣言、9か月にわたるパレチスナ戦争(第1次)がはじまりました。この戦争で、パレスチナを追われた100万人ものアラブ人は難民となり、いまだに「アラブ─イスラエル」対立の構図はなくなりません。

今日5月13日は、ハプスブルク家の女帝として40年間君臨し、現在のオーストリアの基盤を築いたマリア・テレジアが、1717年に生まれた日です。フランス王ルイ16世の妃となる マリー・アントワネット ら16人の子を産んだことでも知られています。

マリア・テレジアは、当時の王族としては珍しく夫フランツ・シュテファン(神聖ローマ皇帝フランツ1世)と恋愛結婚で結ばれました。父親であるカール6世の死後、23歳でオーストリア皇帝の座につき、全ハプスブルク家領を一括相続しました。しかし、周辺諸国フランス・スペイン・バイエルン・プロイセンはこの相続を認めず、8年間にわたるオーストリア継承戦争がおこりました。

オーストリアは、たび重なる長期間の戦争のため戦費も底をつき、援軍もなく窮地に追いこまれました。それでも、なんとかイギリス、オランダの支援を得て、最も強硬だったプロイセン王フリードリヒ2世と和解することに成功し、ほとんどの世襲領を確保しました。

マリア・テレジアは、さまざまな国内改革を進めました。これまであちこちに分散していた軍制や行政や財政、王領地管理を一本化したこと、他国に先がけて全土に均一の小学校を新設して義務教育を確立させたこと、徴兵制を実施することによってオーストリアの軍事力を格段に高めたことは、大きな功績といわれています。

1765年夫の死後は、それまで持っていた豪華な衣装や装飾品をすべて女官たちに与えてしまい、喪服だけの生活を送ったといわれています。1780年に亡くなるまで長男ヨーゼフ2世と共同統治をしましたが、ヨーゼフ2世の急進的な改革姿勢とはしばしば意見を対立させたようです。

マリア・テレジアは、心やさしい女王でもありました。シェーンブルン宮殿内に作られた庭園や動物園を一般市民に開放するなど、民衆から慕われる政策を実行に移し、苦境にあってもくじけない芯の強さを持っていました。そして、死の直前まで末娘でフランス王妃になったマリー・アントワネットの身を案じていたといわれています。


「5月13日にあった主なできごと」

1401年 日明貿易…室町幕府の第3代将軍 足利義満 は、民(中国)に使節を派遣し、民との貿易要請をしました。民は、遣唐使以来長い間国交がとだえていた日本との貿易を認めるかわりに、民の沿岸を荒らしまわっていた倭寇(わこう)と呼ばれる海賊をとりしまることを要求してきました。こうして、日明貿易は1404年から1549年まで十数回行なわれました。貿易の際に、許可証である勘合符を使用するために「勘合貿易(かんごうぼうえき)」とも呼ばれています。

1894年 松平定信死去…江戸時代中期、田沼意次一族の放漫財政を批判して「寛政の改革」とよばれる幕政改革おこなった 松平定信 が亡くなりました。

1930年 ナンセン死去…ノルウェーの科学者でありながら北極探検で多くの業績を残し、政治家として国際連盟の結成にも力をつくした ナンセン が亡くなりました。

今日5月12日は、群雄割拠といわれる戦国時代を走りぬけ、全国統一を目の前にして家臣の謀反に倒れた武将・織田信長が、1534年に生まれた日です。

「織田がつき羽柴(豊臣)がこねし天下もち坐りしままに食うは徳川」という狂歌があります。織田信長と豊臣秀吉が苦労してとった天下を、家康がらくらくと受けついだという意味がこめられています。

生涯のほとんどを戦いに明け暮れた信長は、勇猛果敢ではありましたが、冷酷傲慢な武将だったといわれます。しかし、戦のかたわら都市をつくり、交通や商業を盛んにし、キリスト教を保護してヨーロッパ文化の吸収につとめるなど、新しい社会の建設にもしっかり目を向けた信長の功績は、大きなものがありそうです。

4万5千の今川義元の大群をわずか2千の部隊で奇襲して勝利した「桶狭間の戦い」にはじまり、朝倉義景(越前)・浅井長政(近江)連合軍を打ち破った「姉川の戦い」、信長包囲網を画策する15代将軍足利義昭を追放して室町幕府を滅亡させ、武田信玄に「三方原の戦い」で敗れるも信玄の病死に救われ、逆に武田勝頼を下した「長篠の戦い」、加賀の一向一揆の制圧、そして豪華絢爛で壮大な安土城を都に近い琵琶湖のほとりに建設して天下統一する寸前まで駒をすすめた信長でしたが、1582年に家臣の明智光秀の謀反(本能寺の変)に、あえなく最期をとげてしまったのでした。まさに、討たなければ討たれるという戦国武将の典型でした。

なお、織田信長の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブックで公開している「せかい伝記図書館」第24巻 「織田信長」 をぜひご覧ください。


「5月12日にあった主なできごと」

1698年 青木昆陽誕生…江戸時代中期の儒学者・蘭学者で、日本じゅうにサツマイモを広めた功績者として有名な 青木昆陽 が生まれました。 

1820年 ナイチンゲール誕生…「クリミヤの天使」「愛の天使」と讃えられ、近代看護学の普及に尽力した ナイチンゲール が生まれました。5月12日は国際的にも「ナイチンゲール・デー」 と制定され、1991年から日本でも「看護の日」とされています。

1939年 ノモンハン事件…日本軍が実質的に支配する満州国とモンゴルの国境線にあるノモンハン付近では、両国の主張する国境線の違いから、ときおり小規模な紛争をくりかえしてきました。しかし、この日の紛争は大規模なもので、日本とモンゴル、モンゴルと軍事同盟をむすんでいるソ連軍がからんで長期戦となりました。戦闘は9月まで続き、日本軍は優秀な機械化部隊によるソ連軍の援軍に苦戦し、戦没者数を1万8000人ともいわれる敗北をきっしました。ソ連側も2万人を越える死傷者があったようで、同年9月15日に休戦協定がむすばれました。  

今日5月11日は、ほらふき名人といわれるドイツのミュンヒハウゼン男爵が、1720年に生まれた日です。男爵の語る奇想天外な話の数かずは、ラスペやビュルガーといったドイツ文学者が、男爵から直接聞いたと思われる人たちの出版物を中心に、新しい話もつけ加えられながらヨーロッパじゅうに広がっていきました。

中部ドイツのハーメルン近くの町に、名門貴族の5番目の子に生まれたミュンヒハウゼンは、15歳の時にある公爵のところに小姓として奉公に出されました。その後ロシアに住むこの公爵の兄の要請でロシアに移り住むことになりました。当時ロシアはトルコと戦争中で、ミュンヒハウゼンもこの戦役に加わり、その体験が「ほらふき男爵の冒険」のはじまりの章に出てきます。

さまざまな体験をした後、30歳になって故郷にもどってからは、親からゆずり受けた領地を治めながら、たずねてくる友人たちや客人を相手にほら話を、口からでまかせのように聞かせたため、「ほらふき男爵」の異名がついたといわれています。

たとえばこんな内容で、もちろん「私」が男爵です。

刈りを終えようとした私の目の前の湖に、カモが何十羽も泳いでいる。火縄銃には1発しか弾丸は残っていない。昼ごはんのベーコンが1枚残っているのを思い出した私は、そいつを麻なわの先に結びつけ、湖に投げこんだ。まさに思った通りのことがおこった。1羽のカモがベーコンを飲みこむと、ベーコンはすべっこいから消化不良のまま尻から出てきた。となりのカモがそいつを飲みこむ。出てきたヤツをその次のヤツがまた飲みこむ…。こうして長い麻なわについたベーコンは、1羽もあまさずカモの体内を通って、じゅずつなぎになった。

こいつは少し取りすぎたかと後悔しながら帰りかけると、生きていたカモたちはいっせいに羽ばたきをはじめた。いっしょに私も大空へ飛び立った。みなさんはびっくりして手を離すかもしれない。私は上着のすそでうまく舵をとって、わが家の真上へ到着させた。そこで1羽ずつカモの首を絞めると、私の身体はゆっくり降りて、わが家の煙突をつきぬけてかまどの中に落ちた。まあ、火の気がなくてよかったがね。料理人たちは、びっくり仰天しおったわ……。

ミュヒハウゼン男爵の冒険は続き、月・海底・地底旅行なども含めて、さまざまな場所に出かけては大活躍をします。死を目前にすること数限りなく、そのたびに冷静な判断と機知と幸運によって、危難を乗り越えます。韋駄天男、地獄耳男、千里眼男など、どれも昔話のひとつのパターンで、似たような話は、ドイツの民話を集大成した「グリム童話」にも、いくつか登場します。

上に紹介したカモのエピソードは、日本民話「かもとりごんべ」 (いずみ書房刊「せかい童話図書館」第20巻) とまさにうりふたつ。ぜひ比較してみてください。


「5月11日にあった主なできごと」

1891年 大津事件…日本訪問中のロシア皇太子ニコライ(のちの皇帝ニコライ2世)が琵琶湖見物の帰りに大津市を通ったとき、警備の巡査に突然斬りかかられました。この「大津事件」でロシアとの関係悪化を恐れた政府は、犯人の死刑判決を求めましたが、大審院(現在の最高裁判所)は政府の圧力をはねつけ「無期懲役」の判決を下しました。これにより日本の司法権への信頼が、国際的に高まりました。

1970年 日本人エベレスト初登頂…松浦輝夫と植村直己が日本人初となる世界最高峰エベレストの登頂に成功しました。

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