児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年05月

今日5月24日は、高麗末の武官で李氏朝鮮という王朝を開いた李成桂(り せいけい)が、1408年に亡くなった日です。

1392年から1910年までのおよそ500年のあいだ、朝鮮半島に李氏朝鮮とよばれる王朝時代がありました。李成桂は、朝鮮をひとつにまとめて李王朝を開き、第1代目の王となった武将です。

1335年に、現在の北朝鮮の永興に生まれた李成桂は、少年時代から、馬に乗ることや、弓を射ることにすぐれていました。そのため、当時朝鮮半島をおさめていた高麗王に武士としてつかえ、戦ではつぎつぎにてがらをたてました。また、朝鮮のまわりの海にあらわれ、人びとが倭寇とよんでおそれていた日本の海賊を、たびたびうちやぶり、やがて軍司令官に任命されて、国の政治にまで力をもつようになりました。

同じころ中国では、明の国が起こり、それまで高麗王が従ってきた元は、しだいにおとろえつつありました。

ところが、高麗王朝は、いつまでも元にしたがうことをやめません。しかも明と戦いを始めた元に応援の軍をおくることをきめ、李成桂に兵をつれて明へ行くことを命令しました。

「これからの高麗は、明となかよくしなければいけない」

李成桂は、元のみかたをすることに反対でした。でも、国の命令であればしかたがなく、軍をひきいて明へ出発しました。

しかし、中国との国境まで行った李成桂は、明と戦うのがばかばかしくなり、そのままひき返して逆に高麗王の城を攻め、元に頭をさげようとする人びとを追いはらってしまいました。

「みだれている政治を改めて、国をたてなおすのだ」

李成桂は、新しい王をたて、自分が中心になって国の政治にとりくみ始めました。まず第1に土地の制度を改め、土地をぜんぶ国のものにして、貴族にも役人にも農民にも、国がきめた土地をわけあたえるようにしました。この制度の目的は、かってに領地を広げて勢力をふるっていた貴族たちの力を、すっかり弱めてしまうことにあったのです。

1392年、李成桂は、ついに王位につき、400年以上もつづいた高麗にかわって新しい王朝を開きました。また、その翌年には、国号を朝鮮と定め、1396年には、国の都を開京(いまのケソン)から漢陽(ソウル)に移しました。

李氏朝鮮国は、中国に始まった儒教を重んじ、農民をたいせつにしながら、すこしずつ栄えていきました。しかし、1408年に李成桂が死んで1世紀半をすぎたころ、外国から侵略されるようになり、国はふたたびみだれていきました。李成桂は死後に太祖とよばれ、朝鮮国建国の1ページをかざっています。


「5月24日にあった主なできごと」

1543年 コペルニクス死去…宇宙が太陽を中心として回転していると唱えた天文学者 コペルニクス が亡くなりました。

1949年 満年齢の採用…「年齢の唱え方に関する法律」が公布され、従来の「数え年」から、「満年齢」に変わりました。数え年は、生まれた年を1歳とし、新年をむかえるたびにひとつ歳をとる数え方に対し、満年齢は、生まれたときは0歳、誕生日がくると1歳を加える数え方です。

今日5月21日は、歴史書 『日本書紀』 が、天武天皇の皇子である舎人親王が中心となって、720年に編さんされた日です。

『古事記』 は712年に完成した歴史書で、歴代の天皇とそのエピソードが中心だったのに対し、『日本書紀』 は 『古事記』 をまとめた太安万侶ら数人の学者が協力した本格的なもので、資料として、古くから伝わる説話のほか寺院の縁起、諸家の記録、中国・朝鮮の史料などを広く用い、神代から持統天皇までを漢文の編年体で記し、巻数も古事記の10倍にもなる大がかりなものでした。

現在は使われていませんが、太平洋戦争前は皇紀とか、神武紀元といわれる独特な暦年がありました。これは、天皇の先祖といわれる神武天皇が即位した年を初年としたもので、西暦より660年も古いものでした。そのため1940年は、その2600年目にあたっていたため、建国2600年のお祝いをするほどでした。これも 『日本書紀』 に記されているためでした。こんなことが行なわれたのは、日本では、長い間この書の内容について、疑問をはさんだり、批判することが許されなかったためです。

1、2巻が神代巻で、国の成り立ちに始まる神話や伝説、3巻以後は神武天皇から持統天皇まで、代々の天皇を1代ごとに章をわけて、天皇を中心とする歴史の歩みを記しています。

『日本書紀』 の内容に、批判が下されるようになったのは江戸時代からで、本居宣長はこの本には、わが国本来の思想がゆがめられていると説き、新井白石や平田篤胤も、古代の姿に疑問を投げかけました。

しかし明治に入ると、『日本書紀』 にあらわされた神武天皇即位の日を太陽暦になおして、それが2月11日にあたるため 「紀元節」 とさだめました。それ以来、神話や伝説もそのまま歴史上の事実とみるようになりました。こうして日本の上代史の多くの部分にベールをかぶせ、天皇中心の国体観を国民に植えつけていったのです。


「5月21日にあった主なできごと」

1575年 長篠の戦い…甲斐の武田勝頼と、織田信長・徳川家康軍との間で、三河の長篠城をめぐる戦いがありました。この「長篠の戦い」で武田軍は、信長・家康の連合軍に完膚なきまでにやられてしまい、多くの勇将を失いました。

1927年 大西洋無着陸横断飛行…アメリカの飛行家リンドバーグは、前日ニューヨークを飛び立ち、この日の夜パリに到着しました。所要時間33時間30分、世界初の大西洋無着陸単独飛行でした。リンドバーグは、1931年には北太平洋を横断して日本にも到達し、大歓迎を受けました。

1928年 野口英世死去…世界的な細菌学者として活躍した 野口英世 がアフリカで黄熱病の研究中に発病して亡くなりました。

今日5月20日は、「ナポレオンは剣で、私はペンで!」とペンをふるい続け、『ゴリオ爺さん』『谷間の百合』『従妹ベット』など、90数編に及ぶぼう大な小説を書き上げ、その小説群を「人間喜劇」と総称したフランスの文豪バルザックが、1799年に生まれた日です。

オノレ・ド・バルザックは、1799年にフランスのトゥールに役人の子として生まれましたが、母親の愛にめぐまれず、生後間もなく乳母の手で育てられ、孤独な少年時代をすごしました。15歳の時に父の仕事がきっかけでパリへ引っ越し、生物学や生理学を学ぶようになりました。まもなくバルザックは創作活動をはじめますが、そんな視点から人間や社会を見るようになり、きれいごとで小説を飾ることをせず、ありのままに人間や社会を描く手法をとりました。そのためバルザックは、写実主義、自然主義の作家と評されています。

バルザックは、世間とは「だます人間とだまされる人間の集まり」であるといい、 (そのどちらにもならず、泥沼のような世間を見おろして、高次元の人生を生きよう) (上にへつらい、下にいばる、嘘だらけの哀れな人生だけはしたくない) というものでした。

しかし、生き方は破天荒なものだったようです。「世界の10大作家」にバルザックをあげたサマセット・モームによりますと、「著書を出す約束のもとに出版社から前金を受け取りながら、他に良い条件の依頼を受けると、前金の方をすっぽかして条件のよい方へ平気で渡す。そのために、契約違反で訴訟をおこされ、損害賠償をしなくてはならないために借金は増える一方だった。浪費癖も相当なもので、大きなアパートに住み、馬2頭、馬丁からコック、下男まで雇い入れ、食器も金銀のものをととのえ、勝手に他人の紋章で貴族出のものをしようした。(ちなみに名前にある「ド」も貴族をきどったもの) ……文字通り死ぬまで買い物をしつづけ、手当たり次第金を借り集めた。莫大な借金は、晩年に結婚したポーランド貴族の未亡人ハンスカ伯爵夫人の巨額の財産によって清算された」──とのことです。
 

「5月20日にあった主なできごと」

1498年 バスコ・ダ・ガマ新航路発見…ポルトガル国王にインド航路を開拓するよう求められていた バスコ・ダ・ガマ は、アフリカ南端の喜望峰を経て、この日インドのカリカットに到達しました。リスボンを出発からおよそ10か月でした。この航路発見により、ヨーロッパとアジアは船で行き来できるようになり、ポルトガルはアジアへ植民地を広げていきました。

1506年 コロンブス死去…スペインのイザベラ女王の援助を得て、ヨーロッパ人として最初にアメリカ海域へ到達したイタリア出身の探検家・航海者の コロンブス が亡くなりました。

今日5月19日は、徳川幕府6代将軍家宣(いえのぶ)に仕え、優れた文治政治を行なった儒学者の新井白石が、1725年に亡くなった日です。

悪名高き「生類憐れみの令」を出し、犬公方というあだ名のついた5代将軍綱吉は1706年に64歳で亡くなりました。子宝に恵まれなかったため、綱吉の兄の子である綱豊が家宣と改名し、48歳で6代将軍となりました。この綱豊が甲府藩主だった30歳の頃から、家庭教師的な役割をしたのが新井白石でした。10数年のあいだ江戸屋敷の綱豊のもとへかよって、中国の孔子がまとめたといわれる『詩経』や『書経』などを説きつづけました。家宣は政治の相談役として、心から尊敬する白石を起用したのです。

家宣はわずか3年で病死してしまいますが、7代将軍徳川家継の代にも引きつがれ、およそ8年間「正徳の治」とよばれる政治を行ないました。金銀貨幣の改良による経済の安定、長崎貿易の緊縮による金銀の海外流出の制限、儀式の簡素化などの幕政改革はほめたたえられ、8代将軍吉宗の「享保の改革」に引き継がれています。

有能な学者でもあった白石は、将軍に講義した日本政治史『読史余論』、漂流してきた宣教師シドッチから聞き出した西洋事情の書『西洋紀聞』、自叙伝『折りたく柴の記』などの著作を残しています。

なお、白石の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブックで公開している「せかい伝記図書館」第24巻「新井白石」をぜひご覧ください。


「5月19日にあった主なできごと」

1560年  桶狭間の戦い…織田信長は、尾張の国桶狭間 (おけはざま・現在の豊明市) で、わずか2千人ほどの兵力で4万5千の軍を率いる今川義元軍を打ち破って、いちやく戦国大名の中でも一目をおかれる存在になりました。

1645年 宮本武蔵死去…江戸時代初期の剣豪で、書画でも優れた作品を残した宮本武蔵が亡くなりました。

今日5月18日は、平安時代の中期に活躍した歌人で、三十六歌仙の1人といわれた紀貫之(きのつらゆき)が、945年に亡くなった日です。「男の書く日記というものを書いてみた」と女の立場で書かれた日記『土佐日記』を書いたことでも知られています。

天皇、または天皇の位をゆずった上皇、あるいは位をゆずったのちに出家した法皇たちの命令で作られた和歌集が、平安時代から室町時代にいたるまでのあいだに21あります。これが勅撰和歌集とよばれるものです。

紀貫之は、その勅撰和歌集のうち、いちばん初めの『古今和歌集』を中心になって作った、平安時代初めの歌人です。

紀氏は、古くから名の知れた武人の家がらでした。しかし貫之の父の時代には、勢いをのばし始めた藤原氏の力におされて、すっかり落ちぶれていました。そこで貫之は、若いころから、役人として出世することはあきらめて、歌人になるための勉強にはげみました。

20歳のころには、歌人貫之の名は朝廷でも知られるようになりました。やがて醍醐天皇から『古今和歌集』の歌を選ぶ歌人のひとりに任命されたときは、まだ30歳をいくつかすぎたばかりでした。

貫之は、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑と力を合わせて、およそ8年のちに、その時代までの無数の和歌のなかから120数人の歌人がよんだ約1100首の歌を選び、全部で20巻の『古今和歌集』を完成しました。また、古い歌のなかから、すぐれたものを選びだしただけではなく、和歌集の序文をしるし、和歌のおこりや歴史、それに歌の解説を書き残して、のちの歌論の基礎をつくりました。また、貫之の歌は、全体の約1割にあたる102首がおさめられました。

この和歌集を作りあげた貫之は、宮中の第1の歌人となりました。ところが、歌人としての名は高まっても役人の地位はあいかわらず低く、60歳ころから5年ちかくのあいだは四国の土佐国(高知県)へ下って、地方の役人暮らしのさみしさにたえなければなりませんでした。

しかし、貫之は任務をぶじに果たしました。そして、都へ帰ってくると、もうひとつ、すぐれたことをなしとげました。土佐を船出して都へ着くまでの50数日間の旅を『土佐日記』としてまとめたのです。

『土佐日記』は、日本で初めてかな書きで書かれた日記でした。そのころ、男の書く文章はみな漢字漢文で、ひらがなは女の人しか使っていませんでした。「男の書く日記」を女の立場で書いた体裁を取り、59首の和歌をもりこんだこの作品は、歴史に残るすぐれた日記文学のひとつに数えられています。

なお、『土佐日記』の全文は、オンライン図書館「青空文庫」で読むことができます。また、紀貫之の和歌のほとんども「千人万首」で解説付きで味わうことができます。


「5月18日にあった主なできごと」

1265年 ダンテ誕生…イタリアの都市国家フィレンツェ生まれの詩人、哲学者、政治家である ダンテ が誕生した日といわれています。代表作は彼岸の国の旅を描いた壮大な長編叙事詩『神曲』、および9歳の時にであった初恋の美少女ベアトリーチェをモデルにした詩文集『新生』。イタリア文学最大の詩人、ルネサンスの先駆者とされています。

1869年 戊辰戦争終結…明治維新で江戸城無血開城後、旧幕府軍をひきいて箱館(函館)の五稜郭を拠点に、蝦夷(えぞ)共和国を樹立した榎本武揚らが降伏し、戊辰(ぼしん)戦争が終結しました。

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