児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年05月

今日5月31日は、来月からサッカーのワールドカップが行なわれる南アフリカの地に、1910年「南アフリカ連邦」が成立した日です。

南アフリカのケープ地方は、17世紀の中ごろからオランダ人が開拓したところでした。入植した子孫たちはボーア人とよばれ、そこへイギリス移民の人たちが流れこんできて、ボーア人を追い払うようになりました。北へ逃げたボーア人は、新天地を求めてアフリカ大陸内部へ植民を開始し、1852年にトランスバール共和国、1854年にオレンジ自由国を設立し、黒人たちを使って農場を作ったり、鉱山をひらいたりしていました。

ところが、トランスバールに金鉱が、オレンジ自由国にダイヤモンド鉱山が発見されると、イギリスはまたボーア人の国々を奪おうとしました。ボーア人はこれに抵抗して1880年にイギリスに宣戦を布告、両国は戦争状態へ突入しました。優勢にみえたイギリス軍でしたが、土地勘のあるボーア人に敗れてしましました。(第1次ボーア戦争)

面目がつぶれたイギリスは、1899年の10月ごろから20万人もの大軍をこの地に集め、再度ボーア人へ戦争をしかけました。(第2次ボーア戦争) 人口50万兵力7万のボーア人ではとても太刀打ちできないと思われたものの、ボーア人たちはジャングルでゲリラ戦を挑んで抵抗を続けます。イギリスはさらに軍隊を45万人に増派し、3年半にわたる激戦の末ようやく両国を吸収し、金とダイヤモンドの産地を奪い取ることができました。しかし、非人道的な収容所や焦土作戦への国際的批判をあびたり、戦死者3万人を出し、払った犠牲は大きなものでした。

こうして、ボーア戦争の終了からちょうど8年後、南アフリカ連邦は成立しましたが、アフリカ原住民たちにとっては、支配者がボーア人から、イギリス人に代わっただけで、南アフリカの夜明けには、まだまだ遠い道のりがありました。


「5月31日にあった主なできごと」

1809年 ハイドン死去…ソナタ形式の確立者として、モーツァルトやベートーベンに大きな影響力を与え、104もの交響曲を作ったことで知られる古典派初期の作曲家 ハイドン が亡くなりました。

今日5月28日は、曾我十郎と曾我五郎の兄弟が父親の仇である工藤祐経(すけつね)を討った事件が、1193年におきた日です。

源頼朝 は、鎌倉幕府を開いた翌年のこの日、富士のすそ野で大がかりな狩りを開催しました。狩場を四方から取り巻き、動物を追いつめて捕らえる「巻狩り」という狩猟で、鎌倉幕府のためにてがらのあった工藤祐経も参加していました。

夜更けになって、雷鳴をともなう豪雨になりました。この激しい雷雨をついて、祐経の陣屋にせまる2つの影がありました。これが祐経をねらう曽我兄弟でした。兄弟はたやすく祐経の寝所に潜入することができました。祐経は友人と酒盛りの果て、熟睡におちいったばかりの時でした。兄弟は祐経の枕をけって「祐経どの、父の仇、お覚悟!」とさけびながら、祐経の首を斬り落としたのでした。

ところが、祐経と同じ寝所にいた者たちが叫びまわり、将軍頼朝の寝所もすぐ近くにあったため大騒動となりました。兄弟はここで10人斬りの働きをしますが、兄の十郎は見回りの武士に斬られ、弟の五郎は頼朝を殺そうと本陣めがけて進むうち、捕われてしまいました。そして、祐経の子である犬坊丸の命を受けた者が、わざと鈍刀を使って五郎の首を押し切ったのでした。このさまを見た人々は、あまりの残酷さに念仏をとなえて五郎の後生を祈ったと伝えられています。

そもそも、この仇討ちのきっかけとなったのは曽我兄弟の4代前からの土地をめぐる争いからで、曽我兄弟は父と祖父を失い、頼朝のさばきで土地を祐経に奪われたのでした。この仇討ち事件は、とても評判になって兄弟は「鎌倉武士の手本」といわれました。武士たちにとって、自分が土地争いにまきこまれて土地を失ったらどうなるのだろうと、落ちぶれた兄弟に同情よせたのでしょう。土地のうらみから、将軍にも手むかう兄弟へひそかに拍手を送ったのです。

「富士のすそ野の仇討ち」は、後に『曽我物語』として語られ、江戸時代になると能・浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵などの題材に取り上げられて民衆の人気を得ました。そして、赤穂浪士の討ち入り、荒木又衛門が助太刀した伊賀越えの仇討ちとともに、日本3大仇討ちの一つとされています。

 

「5月28日にあった主なできごと」

1634年 出島の建設開始…キリスト教の信者が増えることを恐れた江戸幕府は、ポルトガル人をまとめて住まわせるために、長崎港の一部を埋めたてた出島の建設を開始、2年後に完成させました。1639年にポルトガル人の来航を禁止してから無人になりましたが、1641年幕府はオランダ商館を平戸から出島に移転させ、オランダ人だけがこの島に住むことが許されました。そして鎖国中は、オランダ船が入港できた出島がヨーロッパとの唯一の窓口となりました。

1871年 パリ・コミューン崩壊…普仏戦争の敗戦後、パリに労働者の代表たちによる「社会・人民共和国」いわゆるパリ・コミューンが組織されましたが、この日政府軍の反撃にあい、わずか72日間でつぶれてしまいました。しかし、民衆が蜂起して誕生した革命政府であること、世界初の労働者階級の自治による民主国家で、短期間のうちに実行に移された革新的な政策(教会と国家の政教分離、無償の義務教育、女性参政権など)は、その後の世界に多くの影響をあたえました。

5月27日は、ルターと並び評されるキリスト教宗教改革・新教(プロテスタント)の指導者カルバンが、1564年に亡くなった日です。

ジャン・カルバンは、1509年フランス北部、ベルギーに近いノマイヨンという商業の盛んな町に弁護士の子として生まれました。早くから秀才ぶりを発揮して父親をこえるほどでした。パリ大学でルターの教えを信じる教授の影響から聖職者を目ざしましたが、父親の強い勧めで法律を学ぶことになりました。

大学を卒業するとまもなく、カルバンは ルター の教えの素晴らしさに気づき、これを広めることが使命であることをさとりました。ちょうどそのころフランス国王が、新教を禁止しはじめたため、カルバンはスイスのバーゼルという町に逃げ、そこで『キリスト教綱要』という本を著しました。この著書は、今も、新教のもっとも優れた教科書のひとつとなっています。

1563年、カルバンは旅の帰途にスイスのジュネーブ市を訪れました。この町は、牧師のファレルの努力で新教が広まっていましたが、ファレルは説教があまり上手ではありませんでした。カルバンは内気な人でしたが、議論をするとだれもかなわないほど説得力がありました。ファレルからジュネーブの宗教改革に協力するように要請されたカルバンは、およそ2年半ほどこの地にとどまり、請われて市政にもたずさわりました。しかし、まことにきびしい規則をこしらえたのと、教会勢力の拡大を恐れた市当局は、ファレルらと共にカルバンをジュネーブから追放してしまいました。

ところが、カルバンたちが去ってからも少しもよくならないジュネーブの治安に、カルバンを呼びもどそうということになりました。こうして3年半後、ジュネーブにもどったカルバンは、サン・ピエール教会の牧師兼ジュネーブ学院神学教授として、年間数百回もの説教と講義を続けたばかりか、亡くなるまで30年近くにわたって、ジュネーブ市の政治と教会改革を強力に指導しました。

カルバンは以前と同じように、きびしい規則を市会に要求しました。禁止させたものには次のようなものがありました。貴金属の飾り、はでな色の衣服を着ること、ばくち、ダンス、飲酒、讃美歌以外を歌うこと……等々。規則を破った者は重罪とし、死刑にすることさえありました。

いっぽうカルバンは、商工業に深い関心を持ち、絹織物工業や時計製造業者らに積極的に金を貸し出し、「人がまじめに働くならば、お金をもうけてもよい。利子をとるのもけっこう。でも、ぜいたくは神の教えにそむくもの」と説きました。

このようにカルバンの教えには、市民が経済的に豊かになる道が示されていたので、フランスやオランダ、イギリスの商工業者の間に急速に広まっていったのです。

特にイギリスの清教徒というカルバン主義者たちが、17世紀のはじめにアメリカに渡り、国を作る基礎を築いたことや、1649年にイギリス清教徒革命といわれる民主主義運動をやりとげたことは、特筆すべきでしょう。宗教改革者として後世に大きな影響を与えたのは、ルターよりむしろカルバンといえるかもしれません。
 

「5月27日にあった主なできごと」

743年 墾田永年私財法…奈良時代中ごろ、聖武天皇 は、墾田(自分で新しく開墾した耕地)永年私財法を発布しました。それまでは、3代まで私有地を認める「三世一身の法」を実施していましたが、開墾がなかなか進まないため、永久に所有を認めるものでした。これにより、貴族や寺社、神社などが積極的に開墾をすすめ、「荘園」といわれる私有地が増えていきました。

1910年 コッホ死去…炭疽(たんそ)菌、結核菌、コレラ菌などを発見し、細菌培養法の基礎を確立したドイツの細菌学者 コッホ が亡くなりました。

1904年 日本海海戦…日露戦争中のこの日、東郷平八郎の指揮する日本海軍の連合艦隊と、ロシアの誇るバルチック艦隊が対馬海峡付近で激突。2日間にわたる戦いで、ロシア艦隊は、戦力の大半を失って壊滅。日本側の損失はわずかで、海戦史上まれな一方的勝利となりました。当時後進国と見られていた日本の勝利は世界を驚かせ「東洋の奇跡」とさえいわれました。優位に立った日本は、8月のポーツマス講和会議への道を開きました。

今日5月26日は、10年以上も続いた日本最大の内乱といわれる応仁の乱が、1467年に本格的な戦闘に入った日です。

この戦乱の主な原因は、室町幕府8代将軍足利義政に仕える管領の細川勝元と山名持豊(宗全)ら有力守護大名の対立でした。

当時、守護大名たちは将軍よりも力をつけていました。15世紀のはじめころから、地方の村の武士(小武士)たちは、京都の公家や社寺の荘園の警備にあたっていましたが、一部の小武士の中に力の弱い公家や社寺の荘園を横取りしたり、年貢をごまかしたりするものが出てきました。困った公家や社寺は、そんな小武士たちににらみのきく守護大名の世話を受けるようになりました。はじめのうちは年貢のとりたてをしてあげたものの、次第に年貢の横取りや荘園をまきあげるようになる守護大名がいて、小武士たちを囲うようになります。幕府に力がないため、それを取り締まることができなかったためです。

足利義政は、わずか13歳で室町幕府8代将軍将軍になりました。父義教が殺され、父のあとをついだ兄義勝は病死したためです。しかし、幕府の実権をにぎっていたのは、細川勝元、山名持豊らの守護大名でした。そのうえ、ききんがつづいて農民たちの一揆がおこり、世は乱れていました。

義政は、自分の思いどおりの政治ができないばかりか、農民や貧しい人びとの借金を取り消す徳政令を何度もだして、世の中の経済をみだしてしまいました。そして、妻にむかえた日野富子や富子の兄の日野勝光までが、政治に口だしするようになると、将軍義政の存在は、ますます影のうすいものになっていきました。

やがて義政は、のんびり気ままな暮らしを求めて、将軍職を弟義視にゆずる決心をしました。ところが、富子が、義政の子義尚を生みました。富子は、持豊をうしろだてにして義尚をたて、義視をしりぞけようとしました。すると、ほかの守護大名たちも、自分の立場を有利にすることだけを考え、勝元側と持豊側に分かれて、対立するようになりました。

こうして、勝元側24か国12万の武士を集めた東軍12万と、持豊側西軍20か国9万が京都でぶつかりあいました。戦いは一進一退で勝負がつきません。20万戸といわれた京の町はほとんど焼き払われ、名品の数々も失われてしまいました。

この「応仁の乱」は10年余りで終わりましたが、この大乱の余波は、地方に燃え広がることになりました。やがて戦国大名たちが各地であらそう「戦国時代」に突入するのです。
 

「5月26日にあった主なできごと」

1180年 以仁王・源頼政の死…保元の乱、平治の乱を経て 平清盛 が台頭、平氏政権が形成されたことに対し、後白河天皇の皇子以仁王(もちひとおう)と源頼政が打倒平氏のための挙兵を計画。これが露見して追討を受け、宇治平等院の戦いで敗死しました。しかしこれを契機に諸国の反平氏勢力が兵を挙げ、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)が6年間にわたって続き、鎌倉幕府誕生の前哨戦となりました。

1877年 木戸孝允死去…西郷隆盛、大久保利通と並ぶ「維新の三傑」の一人で、明治新政府でも活躍した 木戸孝允 が亡くなりました。

1933年  滝川事件…京都帝国大学の滝川(たきがわ)教授の休職を、国が一方的に下す思想弾圧事件滝川事件がおきました。京大事件とも呼ばれます。

今日5月25日は、『椋鳥(むくどり)の夢』『竜の目の涙』『泣いた赤鬼』ほか人情あふれる多くの作品群が「ひろすけ童話」として親しまれている大正・昭和時代の童話作家 浜田広介が、1893年に生まれた日です。

山形県の農家に生まれた浜田広介は、早稲田大学英文科在学中に、「大阪朝日新聞」の懸賞おとぎばなしに、『黄金の稲束』が一等で入選。これがきっかけとなって、コドモ社の児童雑誌に童話を発表するようになりました。卒業後まもなくコドモ社に入社、雑誌の編集にたずさわりながら『花びらの旅』などを発表、ストーリー性よりも愛と善意など情緒性を重視したその作風に定評が得られるようになり、童話作家として一本立ちするまでになりました。

1921年に第一童話集『椋鳥の夢』を刊行以後、精力的に童話を発表し、小川未明とともに童話を文学の一ジャンルとして定着させました。1940年に日本文化協会児童文化賞、1942年に野間文芸奨励賞、1953年に文部大臣賞、1957年に産経児童出版文化賞を受賞しています。

代表作『泣いた赤鬼』の内容は、次の通りです。

赤おには、人間と仲よくくらしたいと考えますが、人間がこわがってだれも遊びにきません。すると、友だちの青おにがやってきて 「ぼくが村であばれるから、きみは、ぼくをなぐれ。そうすれば、人間はきみをほめて、遊びにきてくれる」 といいます。そして、そのとおりにすると成功しました。でも、友だちのことが心配になって青おにの家へ行ってみると、はり紙がありました。(ぼくがきみにあえば、人間はきみを疑うだろう。だからぼくは旅にでる…) と。赤おには涙を流しながら、2度も3度も、はり紙を読みかえしました……。

なお、この本を読んだ子どもたちの感想 (2006.4.12ブログ) を、ぜひご覧ください。


「5月25日にあった主なできごと」

1336年 楠正成死去…鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した河内の武将で、後醍醐天皇による「建武の新政」の立役者だった楠木正成 が亡くなりました。この日摂津国湊川(現在の神戸)で、九州から東上した足利尊氏の軍勢が、対立する楠正成・新田義貞軍と衝突(「湊川の戦い」)、尊氏軍が勝利して正成は自害しました。

1910年 大逆事件…信州の社会主義者・宮下太吉ら4名が明治天皇暗殺計画が発覚したとして、この日逮捕されました。この事件を口実に社会主義者、無政府主義者、思想家に対して取り調べや家宅捜索が行なわれ、20数人を逮捕。この政府主導の弾圧は「大逆事件」と呼ばれ、幸徳秋水 ら12名が処刑されました。

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