児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年04月

今日4月8日は、清少納言 の「枕草子」と並び、随筆文学の傑作「徒然草」(つれづれぐさ)を著した僧侶で歌人の吉田兼好が、1350年に亡くなったとされる日です。

木のぼりの名人が、男を高い木にのぼらせて枝を切らせているときのこと。名人は、男が高い枝の危険な所で仕事をしているときは、なにもいわないで、男が下のほうまでおりてきたときになって「用心しておりろ」と言いました。すると、これを見ていた人が「これくらいなら、とびおりることだってできるじゃないか。どうして注意するのだ」と、たずねました。

名人は答えました。

「枝が折れそうであぶないあいだは、気をつけます。だから、なにも注意する必要はありません。ところが、あやまちは、もうわけはないという気になったときに、おこるものです」

これは『徒然草』に記されている話です。人間のゆだんが失敗につながることを、おもしろく、いましめています。

「つれづれなるままに、日ぐらしすずりにむかひて……」

(何もすることがないのにまかせて、1日じゅう、すずりに向かって)という書きだしにはじまる『徒然草』の作者吉田兼好は、鎌倉時代の末期から、南北朝の争乱、室町幕府の設立へと、歴史の流れが激しく変わる不安な時代に生きた随筆家です。

兼好は、京都の吉田神社の、神官の分家に生まれ、本名を卜部兼好といいました。若いころは、後二条天皇に仕え、御所を警備する左兵衛佐という位にまでのぼりました。

ところが、後二条天皇が亡くなると朝廷をしりぞき、30歳のころ、出家して僧になってしまいました。朝廷と鎌倉幕府との対立や、朝廷の中での持明院統と大覚寺統との政権争いなどがわずらわしくなり、心のよりどころを仏教にもとめたのだろう、といわれています。このとき名を音読みにして法名を兼好としました。そのご、本家の吉田神社の神道がさかんになると、吉田兼好とよばれるようになったということです。

出家してからの兼好は、京都で修行をつみ、また、関東などへ足をむけて自由な旅を楽しみ、そのかたわら、歌人二条為世のもとへ入門して和歌を学びました。そして、40歳をすぎたころには、二条派の和歌四天王の一人にあげられるほどになっていました。ものごとを心で見つめ、その感動を歌にしたのです。

晩年は、京都の仁和寺の近くに住み、深い教養を身につけた歌人、随筆家、古典学者として、人びとにしたわれました。しかし、なんといっても、兼好の名を歴史に残したのは、随筆文学の傑作とたたえられる『徒然草』です。仏教、学問、芸術、生活などをとおして、人間の生き方がさりげなく語られ、いまも、おおくの人びとに読みつがれています。


「4月8日の行事」

花まつり (シャカの誕生日)…今日4月8日は、今から二千数百年も昔、仏教を開いた シャカ(釈迦・しゃか)が誕生した日と伝えられ、灌仏会(かんぶつえ)、降誕会(ごうたんえ)、仏生会(ぶっしょうえ)などといわれます。また、花の咲きにおう春に行なわれたことから「花まつり」とよばれて、日本各地のお寺では、花で飾った小さなお堂の中に、釈迦の誕生仏を安置して、お参りにきた人は甘茶をそそいでお祈りをする、はなやかな仏教の行事になっています。


「4月8日にあった主なできごと」

1147年 源頼朝誕生…平安時代末期に源義朝の3男に生まれ、平治の乱で敗れて伊豆へ流されるも平氏打倒の兵を挙げ、関東を平定して、はじめて武士による政権となった「鎌倉幕府」を開いた 源頼朝 が生まれました。

1820年 ミロのビーナス発見…ギリシアのミロス島で、ひとりの農夫が両腕の欠けた美しい大理石の女神を発見。島の名にちなんで「ミロのビーナス」と命名されました。古代ギリシア時代の一級彫刻作品として、パリのルーブル美術館が所蔵しています。
 
1973年 ピカソ死去…スペインが生んだ世界的な画家・版画家・彫刻家・陶芸家 ピカソ が、この日92歳で亡くなりました。

今日4月7日は、『赤いろうそくと人魚』 『野ばら』 『月夜とめがね』 など1000編近い童話を著した小川未明が1882年に生まれた日です。

未明は、新潟県高田市の旧士族で神道の修行者のひとり息子として生まれました。子どもの頃に、祖母からさまざまなおとぎ話を聞かされて育ちますが、小学校も中学校も卒業しないまま19歳の時に上京、創立してまもない自由な雰囲気のあった東京専門学校(早稲田大学の前身)に入学し、坪内逍遙や小泉八雲らに学びました。

21歳の頃から本格的文学活動を始め、在学中に書いた小説のロマンチックな傾向を逍遙らが認め、23歳で卒業後作家としての地位を確立するのに成功しました。

しかし、20代後半から30代半ばまでは貧困に苦しんだために、社会主義的な傾向を強め、労働文学の雑誌に投稿したり、日本社会主義同盟の創立にも参加しました。

36歳の時、大正デモクラシー思潮に支えられて鈴木三重吉の『赤い鳥』が創刊されました。未明も以前に童話集『赤い船』を書いていましたが、これをきっかけに本格的に童話を書くようになり、やっと活躍の場を見いだすことができました。

39歳の時、東京朝日新聞に発表した『赤いろうそくと人魚』が評判となり、それからは童話ひとすじにおよそ800編もの作品を書き、日本児童文学界最大の存在となりました。

代表作『赤いろうそくと人魚』は、こんな内容です。

北の海に人魚が住んでいました。その人魚は冷たい海で暮らすのを不幸に思い、これから生まれる子どもには幸福になってもらいたいと、陸に上がって、ある神社の石段に女の赤ちゃんを産みおとしました。

町のろうそく屋のおばあさんに拾われて育てられた人魚の娘は、少しずつ大きくなって美しい少女になり、おじいさんのこしらえる真っ白いろうそくに、赤い絵の具で、魚や貝や海草を上手に描くようになっていました。

「絵のついたろうそくをおくれ」朝から晩まで子どもや大人が店先に買いにきます。やがて、そのろうそくをつけてお宮参りすると、船が沈まないと大評判になりました。

ある日、南の国から香具師(やし)がやってきて、娘が人魚であることを知りました。そこで娘を買いとって南の国へ連れて行き、見世物にしようと考えたのです。老夫婦は初めのうちはもちろん断っていましたが、しだいに大金にまどわされて鬼のような心になって、娘を売ることにしたのです。香具師は猛獣を入れるような鉄のおりに娘を入れるといいます。娘は泣きながら、自分の悲しい思い出の記念にと真っ赤にぬりたぐったろうそくを2、3本残して、連れていかれてしまったのでした。

その夜、ろうそく屋の戸をトントンとたたく音がした。おばあさんが出てみると、髪をぐっしょりぬらした青白い女が立っていました。「赤いろうそくを一本ください」。おばあさんは娘が残した最後のろうそくを女に売りました。

女が帰ってから、お金をよく見ると貝がらなのです。怒ったおばあさんが外に飛び出すと、どしゃぶりの雨が降りだし、たちまち嵐となりました。嵐はますますひどくなって、娘のおりを積んだ船も難破してしまいました……。

未明は、「日本のアンデルセン」「童話の神様」などと讃えられた時期もありましたが、一部の文学者から痛烈に批判され、いまだに評価が二分されています。しかし、巌谷小波の「おとぎ話」を「童話文学」に高めた功績は高く評価されています。


「4月7日にあった主なできごと」

1133年 法然誕生…平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶で「浄土宗」を開いた 法然 が生まれました。

1506年 ザビエル誕生…1549年、日本に初めてキリスト教を伝えたスペインのイエズス会宣教師 ザビエル がフランスとスペインとの国ざかいのナバラ王国(1512年にスペインにほろぼされた)に誕生しました。

1894年 宮城道雄誕生…『春の海』など、琴を主楽器とする日本特有の楽曲(箏曲<そうきょく>)の作曲者、演奏家として世界に名を知られた 宮城道雄 が生まれました。

1945年 戦艦大和撃沈…大日本帝国海軍が建造した排水量6万8千トンという当時世界最大の戦艦「大和(やまと)」は、この日沖縄にむけて出撃途上、屋久島沖でアメリカ航空機部隊386機の集中攻撃を受けて3000人の将兵とともに、海底深く沈没しました。

1947年 フォード死去…流れ作業による自動車の大量生産を成功させ、世界一の自動車会社を創立した フォード が亡くなりました。

今日4月6日は、江戸時代の中期、町人文化が栄えた元禄期を代表する画家 尾形光琳(こうりん)が、1716年に亡くなった日です。

光琳は、1658年京都の高級呉服屋として知られる雁金屋の次男に生まれました。当時、家はたいへんな金持ちでしたから、光琳はなに不自由なく育てられました。父は趣味のゆたかな人で、光琳はその感化をうけて、はやくから能を舞い、絵を学びました。しかし、最初から画家になる気はなく、本格的に絵の勉強をはじめたのは、20歳をすぎてからでした。

まず、狩野探幽の弟子の山本素軒に習いましたが、狩野派のかたくるしい画法に満足できず、のびのびした線や色をつかう土佐派の絵にひかれていきました。そのうちに、江戸初期の大画家 俵屋宗達 の絵を見て深く感動し、その絵を手本に勉強するようになりました。そして、しだいに工夫を加え、装飾的な明るくはなやかな独特の画風を生みだしていきました。

ところが、1697年ごろ、雁金屋の勢いがなくなってきました。大名たちに貸した金がとれなかったり、日ごろのぜいたくが過ぎたからです。光琳はやむなく、絵を売って生活することにしました。やがて、画家としての名声も高まり、1701年には当時画家として最高の名誉である、法橋の位を受けました。また、豪商中村内蔵助の援助を受けてますます活躍しましたが、はでな性格はすこしもなおらず、生活は苦しくなるばかりです。そのうち画家としてのゆきづまりを感じるようになっていきました。

1704年、光琳は江戸(東京)へ出ました。江戸には活気が満ちあふれていると聞いていたからです。しかし、期待はうらぎられました。江戸の文化はあらあらしく、光琳の肌にあいません。おまけに大名づかえの生活にはかなりの束ばくがありました。

「私の生命は、あと10年がせいぜいだ。1日も早く京都へ帰って、気のむくまま、自由に絵筆を遊ばせたい」

1709年、51歳の光琳は、逃げるように江戸を出て、京都へもどりました。そして、数かずの名作を残し58歳で他界しました。

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光琳は、生涯に実におおくの絵をかきました。そのなかで最高の名作といわれるのは、草花をあつかった屏風絵です。とくに『紅白梅図屏風』や『燕子花図屏風』は、傑作中の傑作といわれています。蒔絵にも名品をのこし『八橋蒔絵硯箱』が有名です。光琳の画風は、酒井抱一に受けつがれ「光琳派」と呼んで、日本画の大きな流れのひとつに数えられています。家系によって受けついできた狩野派や土佐派に対し、自主的に画風を受けついできた流派です。光琳の弟乾山もすぐれた陶芸家で、元禄時代の芸術家兄弟としても知られています。


「4月6日にあった主なできごと」
 
1483年 ラファエロ誕生…ルネサンス期を代表する絵画、建築はじめ総合芸術の天才といわれるラファエロ が誕生しました。1520年に亡くなった日でもあります。

1896年 第1回オリンピック開催…古代ギリシアで4年に1度開催されたスポーツ競技を復活させようと、フランスの クーベルタン による提唱で国際オリンピック委員会(IOC)が1894年につくられ、この日ギリシアのアテネで近代オリンピック第1回大会が開かれました。参加国14か国、競技種目43種目、選手数240人と、小規模なものでした。

1919年 非暴力・非服従運動…インド独立運動の指導者 ガンジー は、支配国イギリスに対する非暴力・非服従運動を開始しました。この日、反英運動への取り締まる法律が施行されたのに、断食をして抗議したのをはじめ、イギリス製品の綿製品をボイコットして、伝統的な手法によるインドの綿製品を着用することを自ら糸車をまわして呼びかけるなど、不買運動を行いました。

キリスト教の祝い日として、クリスマスと並んで重要な祭りがイースター(復活祭)です。十字架にかけられて死んだ イエス・キリスト が、3日目によみがえったことを記念するもので、聖書は復活のありさまを、次のように記しています。

キリストの死体は、十字架からおろされ、白い布に包まれ岩をくりぬいて造られた横穴に入れられて、大きい石でふたをされた。それは金曜日の夕方だった。それから、3日目の日曜日の朝早く、キリストの死体に油をぬろうと横穴にやってきた女性の弟子たちは、穴の入口が開いているのを見つけた。おそるおそる中をのぞくと、キリストの死体はなく、白い布だけが残っていた。誰かが死体を奪ったのかと思っていたところ、天使が現れ、キリストは生き返ったと知らせた。女弟子たちはほかの弟子たちのところへ走っていって、このことを告げたが、誰も信じなかった。しかしその午後、エルサレムの郊外を歩く2人の弟子の前にキリストが現れ、その後も弟子たちのところへキリストが姿を見せたため、弟子たちは師の復活をかたく信じるようになった……。

この記述によって、イースター(復活祭)は「春分の日のあとにくる満月の次の日曜日」と定められています。そのため、年によって異なり今年は4月4日、国や地域によっては、翌日の月曜日も休日にすることがあります。また、復活祭から50日間を「復活節」とよんで、熱心な信者は毎日お祈りをします。

欧米の今年のカレンダーの多くには、4月2日[Good Friday]、4日[Easter Sunday]、5日 [Easter Monday]と記されています。

なお、復活祭にかかわる習慣として、もっとも有名なものにイースター・エッグがあります。卵の殻に鮮やかな彩色をほどこしたり、美しい包装をしたゆで卵を出したり、卵を庭や室内のあちこちに隠して、子どもたちに探させるといった遊びが行なわれるところもあります。最近では、卵だけでなく、卵をかたどったチョコレートも広く用いられています。ヒナが卵から生まれることをキリストが墓から出て復活したことに結びつけたようで、冬が終わり草木に再び生命がよみがえる春の喜びをあらわしたものでもあるのでしょう。


「4月5日にあった主なできごと」

1976年 四五天安門事件…中国の首都北京にある天安門広場で、1月に亡くなった周恩来をいたむためにささげられた花輪を撤去されたことに対し、民衆と警察が衝突、政府によって暴力的に鎮圧された「天安門事件」がおこりました。1989年6月4日に起きた「六四天安門事件」と区別するため、第1次天安門事件ともいいます。

今日4月2日は、『居酒屋』『ナナ』『ジェルミナール』など、しいたげられた人々を守る考えを織りこんだ小説を遺し、フランス自然主義文学の最高峰と称されるゾラが、1840年に生まれた日です。

エミール・ゾラは、イタリア人土木技術の父とフランス人の母との1人息子として、1840年にパリに生まれました。少年時代を南フランスのエクス・プロバンスで過ごし、画家 セザンヌ とも交友しました。

18歳でパリにもどって大学受験するも失敗、出版社に勤めながら作家を志しました。1867年に発表した『テレーズ・ラカン』が話題となって小説家としての足場を固め、『居酒屋』で社会現象を起こすほどの大成功を収めました。ゾラのめざしていたのは、美しいと思うものを作品に書きつづる従来の作家に対し、人間のありのままの姿を描きながら、人生に新たな真実を見出そうとする自然主義文学でした。

晩年は、理想主義的、人道主義的傾向を強め、1894年におこった「ドレフィス事件」でのドレフィス擁護が注目されます。ドイツ大使館で発見された軍事上の情報の筆跡が、ドレフィスの筆跡と酷似していると軍法会議にかけられ、売国の嫌疑にかけられて終身禁固刑に処せられたのに対し、ゾラはドレフィスの無罪を信じ、敢然と擁護したことは、特筆されます。

「青年諸君、諸君が現在楽しんでいる自由を手に入れるために、諸君の親たちが耐え忍んだ苦悩と、厳しい闘いを忘れるな」と訴え、ゾラは勝ち、ドレフィスを無罪にしたのです。

しかし1902年9月、パリの自宅で一酸化炭素中毒のため死去しました。反対派から暗殺されたという説もあります。


「4月2日にあった主なできごと」

1805年 アンデルセンの誕生…「童話の王様」といわれる アンデルセン が、デンマークのオーデンセに生まれました。2008年4月2日のブログ を参照ください。

1956年 高村光太郎死去…彫刻家、画家、評論家であり、詩集『智恵子抄』を著した 高村光太郎 が亡くなりました。

2008年 石井桃子死去…創作童話「ノンちゃん雲に乗る」や「ピーターラビット」(ビアトリクス・ポター)「クマのプーさん」(ミルン)「うさこちゃん」(ブルーナ)シリーズなどの翻訳で、戦後のわが国児童文学界をリードしてきた作家・編集者の石井桃子が、この日101歳で死去しました。

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