児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年04月

今日4月15日は、アメリカ合衆国16代大統領 リンカーン が、南北戦争の終わった5日後の1865年4月14日の夜、ワシントンの劇場で南部出身の俳優にピストルで撃たれ、翌15日の早朝56歳の生涯を閉じた日です。

エブラハム・リンカーンは1809年に、アメリカ合衆国東部のケンタッキー州で生まれました。家は貧しい農家だったため、幼い頃から農業の手伝いをさせられ、小学校へ通ったのはわずか6か月ほどだけでした。

9歳のときに母親が病死し、まもなく新しい母親がやってきました。継母ではあっても、リンカーンにとてもやさしく、学校に行けないリンカーンのために、自分の持ってきた本を読ませてくれました。リンカーンは夢中になって読みましたが、同じ本をくりかえすばかりです。やがて、人から手当たりしだい借りてきては読んでいました。

そんなある日、近所の親切なおじさんが『ワシントン伝』を貸してくれました。初代大統領となったワシントンは「アメリカ建国の父」といわれる立派な人物です。リンカーンはこんなに夢中になったことはありませんでした。ところが、夜、寝ているあいだに、外は嵐になり、丸太の家はいたるところで雨もりがしています。リンカーンははねおきて枕元の『ワシントン伝』をとりあげると、びっしょりぬれてぶくぶくふくらんでいました。リンカーンは泣きたくなりました。でもおじさんのところへとんでいくと、正直にあやまって、おわびに3日間、働かせてもらうことにしました。すると、3日目に、うれしいことが待っていました。リンカーンの行為に感心したおじさんが、その本をプレゼントしてくれたのです。自分の本を持ったのは、これがはじめてです。リンカーンは、このときのことを、生涯、忘れませんでした。

リンカーンはやがて、店員、行商人、船乗り、郵便局員などさまざまなことをしながら苦しい生活を続けましたが、かたわらにはいつも『ワシントン伝』がありました。その後どのようにしてリンカーンが大統領になったか、「どれい廃止令」を出したことがきっかけとなって、奴隷制を支持する南部が独立して「南北戦争」という内戦がおこり、5年間にわたる戦いの末に北部が勝利して「どれい解放」にいたったかなど、リンカーンの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブックで公開している「せかい伝記図書館」第10巻 「リンカーン」 をぜひご覧ください。
 

「4月15日にあった主なできごと」

905年 古今和歌集完成…古今和歌集(古今集)は、日本で最初の勅撰(天皇の命令で和歌などを編集)和歌集で、醍醐天皇の命によって 紀貫之 ら4名によって編まれ、この日、約1100首、20巻が醍醐天皇に奏上されました。「枕草子」を著した 清少納言 は、古今集を暗唱することが平安中期の貴族にとって教養とみなされたと記しています。

1452年 レオナルド・ダビンチ誕生…ルネッサンス期に絵画・建築・彫刻そして自然科学にも通じていた万能の天才と讃えられる レオナルド・ダビンチ が生まれました。

今日4月14日は、戦後経済民主化の一環として「独占禁止法」が、1947年に公布された日です。

太平洋戦争に敗れ、1945年8月に降伏した日本は、アメリカを中心とする連合国軍総司令部(GHQ)の占領下におかれました。GHQ最高司令官のマッカーサーは日本の民主化をはかるために、たくさんの改革や政策を指示しました。経済の民主化のひとつは、「財閥解体」で、三井、三菱、住友、安田の四大財閥をはじめ、戦争によって利益を得ていた財閥が解体されました。(四大財閥はのちに復活)

そして、経済の民主化の2つめが「独占禁止法」でした。正式には、「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」というもので、私的な独占の禁止、公正取引の確立をめざし、その管理任務を「公正取引委員会」(公取)という役所に負わせることにしました。

独占には、カルテル(企業間で価格や生産数量、販売地域などを協定することで、「談合」もそのひとつ)、トラスト(企業合併をすることで、競合他社を減らしてシェアを高める企業経営形態)、コンツェル(親会社が子会社をグループ化する行為で、財閥やホールディングス、持ち株会社がその代表)の3種類があるといわれてきましたが、現在では、トラストやコンツェルは、「業界再編」の名のもと、海外の会社との競争等に打ち勝つためにはある程度必要とされ、むしろ積極的に行なわれるようになっています。

「公取」は、企業間で健全な競争が行なわれているか、消費者の利益が害されていないかといったことを調査しながら、法律を基準に企業の動きを監視していて、健全な競争を妨害すると判断したときはまず勧告をし、それに従わない場合は審判手続きを行なうことができる権限が与えられています。


「4月14日にあった主なできごと」

1759年 ヘンデル死去…バッハと並びバロック音楽の完成者といわれ、ドイツに生まれイギリスに帰化した作曲家 ヘンデル が亡くなりました。

1867年 高杉晋作死去…江戸時代の末期、長州藩に非正規軍「奇兵隊」を組織して幕府軍と戦った志士・高杉晋作 が亡くなりました。

1912年 タイタニック沈没…イギリスの豪華客船タイタニック号が、処女航海の途上、カナダ・ニューファンドランド沖で氷山に衝突して沈没、死者1500人以上の惨事となりました。

1917年 ザメンホフ死去…世界でおよそ100万人の人が使用している人工言語、エスペラントの創案者 ザメンホフ が亡くなりました。

今日4月13日は、「はたられど はたらけど なおわがくらし 楽にならざり じっと手をみる」などたくさんの短歌や詩、評論を残し、民衆歌人、天才詩人といわれた石川啄木(たくぼく)が、1912年にわずか26歳で亡くなった日です。

1886年、岩手県盛岡市に近い村の住職の長男として生まれた石川啄木は、少年のころから利発な子で、中学時代には 与謝野晶子 の歌集『みだれ髪』などの影響を受けて、短歌や詩を作りはじめました。そして、中学を中退して上京してからの10年間に、郷里→東京→郷里→北海道→東京と、いくたびか転々としました。職業も文学者、新聞記者、村の小学校の代用教員、新聞社の校正係とさまざまでした。

でも、どれもなかかな認められず、病気や貧困に苦しみながら、その生活を短歌や詩にし、歌集『一握の砂』『悲しき玩具』に著しました。だれにもある生活、だれにもある気持を、だれにもわかる言葉で表現した作品の数々は、死後に認められて、日本人の、若者たちの心をとらえ続けています。

そんな、啄木の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブックで公開している「せかい伝記図書館」第35巻 「石川啄木」 をぜひご覧ください。また、啄木の主要作品は、オンライン図書館「青空文庫」で読むことができます。


「4月13日にあった主なできごと」

1592年 文禄の役…1590年に全国統一をはたした 豊臣秀吉 は、中国の「民」を支配下におこうと、この日第1次出兵として加藤清正や小西行長らの率いる兵16万人を釜山に上陸させました。これは「文禄の役」といわれ、その後ソウルを陥落させましたが、ともに攻めあぐね、よく年休戦をしました。

1612年 巌流島の決闘… 宮本武蔵 と佐々木小次郎が、山口県の巌流島で、この日決闘を行ないました。武蔵は、約束の時間に遅れて小次郎をいらだたせ、「小次郎敗れたり」と叫んで相手の動揺を誘い、舟の櫓で一撃のもとに小次郎をたたきのめしたといわれています。この有名なシーンは、小説、映画、テレビドラマなどでおなじみです。

1743年 ジェファソン誕生…第3代アメリカ合衆国大統領で、イギリスからの独立宣言文を書いた ジェファソン が生まれました。

1818年 伊能忠敬死去…江戸時代後期の測量家で、16年もかけて日本全土の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」を完成させた 伊能忠敬 が亡くなりました。

今日4月12日は、アメリカ合衆国の第32代大統領ルーズベルトが、1945年に亡くなった日です。ルーズベルトはアメリカ政治史上でただ一人4度大統領になりました。大統領は2度までが慣例でしたが、第2次世界大戦中という有事であることが理由でした。

フランクリン・ルーズベルトは、1882年、ニューヨークで実業家を父に生まれました。

少年時代のルーズベルトは、家庭教師について学びながら、なに不自由なく育てられました。でも、けっして弱よわしい子どもだったわけではなく、学校ではスポーツに熱中しました。そのため成績は、あまりよくありませんでした。

ハーバード大学とコロンビア大学で、政治や法律を学び、25歳で弁護士になりました。政治の世界へ足をふみ入れたのは、28歳のときでした。学生時代に、第26代の大統領セオドア・ルーズベルトのめいにあたる女性と結婚したルーズベルトは、妻にはげまされ、ニューヨーク州の上院議員に立候補して当選したのです。

1913年、31歳の若さで合衆国政府の海軍次官に任命され、第1次世界大戦に活やくして名を高めました。そして、1920年の大統領選挙には、民主党から副大統領候補に指名されました。しかし、落選しました。そのうえ、つぎの年にはとつぜん小児まひにおそわれ、左下半身が不自由になってしまいました。

数年たっても、松葉杖がなければあるけません。母は、政治からしりぞくことをすすめましたが、ルーズベルトは、妻の愛に支えられて、病気と闘い、政治への夢を捨てませんでした。

1928年、ニューヨーク州知事にえらばれ、4年ごには、ついに大統領に当選しました。ルーズベルトの強い意志が、病魔に打ち勝ったのです。

そのころのアメリカは、大きな不景気にみまわれ、銀行や会社がつぎつぎにつぶれて、町には失業者があふれていました。

「勇気をもって、いますぐ行動を!」

ホワイトハウスへ入ったルーズベルトは、「ニューディール」と名づけた政策の実行に全力をそそぎました。まず、仕事のない人びとを救うために産業を盛んにしました。銀行をたてなおして、国の経済のみだれをととのえました。また、新しい制度を定めて、貧しい労働者たちの権利が守られるようにもしました。ルーズベルトの心にもえていたのは、大統領は国民のために生きる政治家でなければならない、という信念でした。

きびんな政治力と、あたたかい人格がたたえられたルーズベルトは、1941年に第2次世界大戦が始まると、連合国側の指導者として活やくをつづけ、戦争が終わる数か月まえに、63歳の生涯を終えたのでした。


「4月12日にあった主なできごと」

1573年 武田信玄死去…戦国時代の武将として名高い甲斐の 武田信玄 が亡くなったといわれています。信玄は好敵手越後の上杉謙信と5度にわたる川中島の戦いや、三方が原の戦いで徳川家康を破り、その勢いで織田信長をせめる途中に病死してしまいました。

1861年 南北戦争勃発…アメリカ合衆国の南北戦争は、北部23州と、南部11州の意見の食い違いからはじまりました。黒人のどれいを使うかどうかが主な対立点で、工業の発達していた北部はどれい制廃止、大きな農場主の多い南部はどれい制維持です。1860年にどれい制廃止を叫んだ リンカーン が大統領に当選すると、南部は、北部と分れて「アメリカ連邦」を設立して、4年に及ぶ内戦がはじまりました。

1961年 人類初の宇宙飛行…ソ連(現ロシア)の宇宙飛行士 ガガーリン が、宇宙船ボストーク1号に乗り1時間48分かけて地球を1周。人類初の宇宙飛行に成功しました。「地球は青かった」という感想の言葉は世界じゅうをかけめぐりました。

今日4月9日は、『友情』『愛と死』『真理先生』などの小説、人生賛美あふれる人生論を著した 武者小路実篤 が、1976年に亡くなった日です。

武者小路実篤は1885年、江戸時代以来の公卿の家系の第8子として、東京麹町に生まれました。

学習院初等科、中等科、高等科を経て、1906年に東京帝国大学哲学科に入学。1910年には、学習院高等科出身の文学グループを中心にして『白樺』という文芸雑誌が創刊されました。その中心になったのが武者小路実篤と 志賀直哉 で、ふたりともまだ東京帝国大学の学生でした。実篤は、直哉よりふたつ年下ですが、直哉が学習院の中等科で2度落第したため同級になり、しだいに親交を深めていきました。

実篤は若いときに トルストイ に夢中になり、かたかなのトという文字を見ただけで興奮してしまうというほれこみようでした。「からだを使って労働するのは人間の義務である」というトルストイの主張は、食べるのに困らない貴族の家に生まれた実篤に大きなショックを与えました。みんなが皆のために働くというトルストイの思想を旗じるしにして、実篤は、1918年36歳のときに、理想的な調和社会・階級闘争のない世界(ユートピア)の実現をめざして「新しき村」を創設しました。

宮崎県の山中に同志が集まり、農作業や芸術創造に打ちこむ生活は、当時の人びとの注目を集めました。ここで『幸福者』『友情』などの代表作を世に出しました。しかし、はじめに予測したほど順調な進展をみせず、実篤は6年あまりの努力ののち、同志を九州に残したまま村を離れ、いったん奈良に落ちついて文筆生活に専念します。村はのちに埼玉県毛呂山町に移され、今も活動を続けています。

『白樺』では美術館建設を計画し、1936年に欧米旅行してルーブル美術館などを訪ねて以来、美術にも関心が深く、たくさんの評論を著しています。また、晩年には、自ら絵筆をとり、人々に親しまれている独特の野菜や花などの絵に「この道より 我を生かす道なし この道を歩く」「仲良きことは美しき哉」「君は君 我は我なり されど仲良き」などの文を添えた色紙をこしらえたことは有名です。

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「4月9日にあった主なできごと」

752年 奈良大仏開眼…聖武天皇 の発案により完成した奈良の大仏の開眼供養会(魂入れの儀式)が行なわれました。1万人の僧がお経読む、盛大な儀式でした。

1865年 南北戦争終結…アメリカ合衆国の南北戦争は、1861年に北部23州と、南部11州の意見の食い違いからはじまりました。黒人のどれいを使うかどうかが主な対立点で、工業の発達していた北部はどれい制廃止、大きな農場主の多い南部はどれい制維持です。1860年にどれい制廃止を叫んだ リンカーン が大統領に当選すると、南部は、北部と分れて「アメリカ連邦」を設立して、戦争がはじまりました。当初は南部が優勢でした。1861年リンカーンは「どれい解放令」を出すと形勢逆転、1863年7月のゲッティスバークの戦いで決定的な勝利をした北部が主導権をにぎり、この日南部は北部に降伏し、5年にわたる南北戦争が終結しました。

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