児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年03月

今日3月2日は、ソビエト連邦最後の最高指導者となり、ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を進め、政治・経済・文化などの合理化・民主化を行って第2次世界大戦後の東西間の冷戦を終わらせたゴルバチョフが、1931年に生まれた日です。

ミハイル・ゴルバチョフは、北カフカスのスタブロポリ地方の村にあるコルホーズ(協同組合形式による集団農場)で、農民の子として生まれました。コンバインの操縦助手として働きながら上級学校に学び、優秀な成績をおさめたために推薦でモスクワ大学に入学、在学中に共産党に入党しました。

地元の青年共産同盟で、共産党の活動に従事しながら、スタブロポリ地方党委員会第一書記をへて、1971年には40歳の若さで党中央委員に選出されました。1978年に党中央委員会書記に抜てきされてモスクワに移り、1980年には49歳で党中央委員会政治局員に最年少スピード昇進をとげました。

そして1985年3月11日、ゴルバチョフは54歳で後任書記長に選出され、党の最高指導者となりました。当時のソ連は、さまざまなところでシステムの弊害が噴出していて、崩壊寸前の状態といってもよいほどでした。前政権は社会改革を行うこともなく終わり、ゴルバチョフに課題が回ってきていたのです。

書記長就任演説でゴルバチョフは、政治、経済、社会の改革を推進すると宣言しました。この改革は「ペレストロイカ」とよばれています。その背景に、ソ連国内の経済のいきづまりと、国民の共産党不信があり、その危機意識が、大改革をよぎなくさせたといってよいかもしれません。ペレストロイカは、憲法を改正し、共産党以外の政党をみとめ、大統領制を導入するところまで進んでいきました。

1930年以降、共産党の一党独裁しか認めず、そのため共産党の命令を守らなかったり、批判したりすることは厳しく罰せられるという自由のない社会で、特権官僚が国を支配し、支配者に都合のよいことしか国民に知らされなかったのです。

ゴルバチョフは、国民の不信をなくすために、さまざまな情報をありのまま国民に知らせることからはじめました。これを、「グラスノスチ」(情報公開)といいます。その結果、ソ連社会内部の欠陥や矛盾が明らかにされ、共産党への批判はさらに強まり、ペレストロイカの徹底を求める国民の声は、東欧諸国までもまきこんで一挙に広まり、東欧諸国のどの国でも共産党の権威は失墜していきました。

ソ連は、1990年3月、臨時人民代議員大会をひらいて、国家元首を大統領にすること、共産党の一党独裁をやめること、個人の土地や財産の所有、経済活動を認めることなどを定めた新憲法を採択し、初代大統領にゴルバチョフを選びました。

ソ連に劇的変化がおきたのは、1991年8月におきた保守派によるクーデターの失敗がきっかけでした。クーデター失敗後に解放されたゴルバチョフ大統領は、クーデターに反対しなかったソ連共産党中央委員会に対し、党を解散するよう求め、みずから党書記長職を辞任する意思を表明しました。これによって、ソ連共産党は事実上解散されることになりました。

これがソ連邦崩壊の第1歩となり、1991年12月、ロシア、ウクライナ、ベラルーシのスラブ系3共和国が「独立国家共同体」(CIS) を創設、まもなくカザフスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、キルギス、モルドバ、アルメニア、アゼルバイジャン、トルクメニスタン、グルジアの9か国が加わり、旧ソ連の12の共和国が、EU(ヨーロッパ連合) 型のゆるやかな国家連合体を形成しています。

ゴルバチョフは、ソ連消滅を受けて大統領を辞任しました。1990年にはノーベル平和賞を受賞するなど、日本を含む西側諸国ではとても人気があり、「ゴルビーの愛称」で親しまれましたが、ソ連崩壊後のロシアでは、「古き良き時代のソ連を崩壊させた人物」「アメリカに魂を売った売国奴」などといわれて不人気でした。そのため1996年6月にロシア大統領選挙に出馬したものの、0.5%の支持しか得られずに落選してしまいました。


「3月2日にあった主なできごと」

1894年 オパーリン誕生…生物の起源を科学的に説き明かしたソ連(現ロシア) の生化学者オパーリンが生まれました。

1943年 野球用語の日本語化…太平洋戦争の激化に伴って「英語」は敵性語であるとされ、この日陸軍情報部は、日本野球連盟に対し、野球用語を日本語化するよう通達を出しました。ちなみに、ストライクは「よし」+本数(1本・2本)。三振は「よし3本、それまで!」、アウトは「よし、退(ひ)け!」、フォアボールは「一塁へ」などとなりました。

1958年 南極大陸横断に成功…イギリスのフックス隊が、ウェデル海から南極大陸に上陸し、南極点を通ってロス海に到達するまで3360kmの行程を、99日間の苦しい旅の末に、この日横断に成功しました。

今日3月1日は、ちょうど100年前の1910年に朝鮮が日本の植民地になってから10年後の1919年、ソウルで 「独立宣言」 が読み上げられ、日本からの独立運動の口火を切った記念の日です。

日本に統治されるようになってから朝鮮の人たちの多くは、土地や自由を失いました。そのため、日本に反感を持つ人たちは、日本に武力でおさえつけられながらも、ひそかに独立をめざす人がありました。

1912年に第1次世界大戦がおこり、17年に終わると、戦争に敗れたドイツやオーストリアなどの国々におさえつけられていたポーランド、チェコスロバキア、ユーゴスラビアなどがあいついで独立しました。ロシアでは1917年に革命が成功して、帝政ロシア時代におさえつけられていた諸民族も解放されました。

そんな動きに、朝鮮の人たちの独立運動は、満洲やシベリアなど海外でさかんになりました。留日朝鮮人学生たちが東京・神田のYMCA会館に集まって「独立宣言書」を採択したといった情報が流れたり、やがて朝鮮にいる人たちの中にも拡がりをみせはじめていました。そんなおり、日韓併合の前に日本に反旗をひるがえして王位をおわれた高宗(李太王)が亡くなりました。

こうして、高宗の葬儀の行なわれる2日前の1919年3月1日、「3.1独立運動」が起こったのです。「独立宣言書」に署名した宗教指導者ら33名が、京城(現・ソウル)パゴダ公園(現・タプコル公園)に終結し、群衆の前で宣言書を読み上げると、興奮した群集は「万歳(マンセー)」を叫びデモをはじめました。

非暴力・無抵抗路線を予定していたデモも、3月から4月にかけて全朝鮮218郡のうち211郡の地方に飛び火して、延べデモ回数は1500回、参加人数は200万人をこえる人たちが立ち上がったといわれています。地区によっては暴徒化した民衆によって、焼き討ちや暴行・殺戮・強盗と騒乱状態へと拡大していきました。

これに対して日本側は、憲兵や巡査、軍隊を増強して銃火をあびせました。4月末にはデモはほぼ押さえつけられ、5月には鎮圧されました。この朝鮮民族による反日独立運動による死者は7500名、負傷者1万5000名、逮捕者4万6000名といわれています。

韓国では、この反日独立運動のあった3月1日を「三一節」として祝日にしています。


「3月1日にあった主なできごと」

1871年 郵便制度開始…これまでの飛脚制度にかわって、前島密 を中心に欧米の制度にならった郵便制度をとりいれ、日本に郵便制度をスタートさせました。

1892年 芥川龍之介誕生…『蜘蛛の糸』『杜子春』などの童話や、『地獄変』『河童』『奉教人の死』など百数十篇もの名作をのこした作家 芥川龍之介 が生まれました。

1954年 第5福竜丸被爆…南太平洋にあるビキニ環礁で行なわれたアメリカ水爆実験で、危険水域外で漁をしていたにもかかわらず、日本のマグロ漁船第5福竜丸の乗組員23人全員が放射能を浴びる「ビキニ事件」がおきました。9月には無線長の久保山愛吉さんが亡くなったことで、原水爆禁止運動が高まりました。第5福竜丸の船体は、東京・江東区にある「夢の島公園」に展示公開されています。

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