児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年03月

今日3月9日は、アメリカ大統領のルーズベルトが世界恐慌を克服しようと「ニューディール政策」を、1933年に発表した日です。

1920年代に空前の繁栄をもたらしたアメリカでしたが、1929年10月にニューヨーク証券取引所で株価の大暴落がおこると、銀行や工場が次々と閉鎖される大恐慌に陥りました。さらにアメリカの金融界が、世界各国へ投資していた資金を引き上げたことから、恐慌は世界じゅうに拡がっていったのです。

1933年3月4日にアメリカ大統領に就任したばかりのフランクリン・ルーズベルトは、世界恐慌対策として、この日より100日間に、銀行および破産直前の会社や個人の救済、TVA(テネシー川流域開発公社)などの公共事業、CCC(民間資源保存局)による大規模雇用などの全国民的な経済活動「ニューディール政策」(新規まき直し政策)をスタートさせました。

この政策は、これまでの歴代政権がとっていた市場への不介入という方針を転換したもので、第二次世界大戦後の資本主義国の経済政策にも大きな影響を与えるものでした。

これらの政策によって1930年代中ごろには経済に回復の兆しは現れましたが、失業者は急激には減少せず、雇用も実質GNPにも目立った変化は見られませんでした。

アメリカ経済が完全に恐慌以前の水準に回復したのは、1941年に第2次世界大戦へ参戦し、軍需が増大したためで、ニューディール政策が成功したかどうかの賛否は分かれています。


「3月9日にあった主なできごと」

1888年 梅原龍三郎誕生…豊かな色彩と豪快な筆づかいで独自の世界を拓き、昭和画壇を代表する梅原龍三郎が生まれました。

1934年 ガガーリン誕生…人類として初めて宇宙飛行をなしとげたソ連の宇宙飛行士ガガーリンが生まれました。

今日3月8日は、飼い主が亡くなった後も、渋谷駅で主人の帰りを待ち続けたという「忠犬ハチ公」が、1935年に亡くなった日です。渋谷駅前にある「忠犬ハチ公」の銅像の前は、待ち合わせ場所として有名です。

1923年に大館で生まれた秋田犬のハチ公は、翌年から東京帝国大学(現・東京大学)の上野英三郎農学部教授に飼われることになりました。

教授の家は、現在の東急百貨店本店のあたりにあって、ハチ公は、教授が大学に出かけるときは渋谷駅まで必ずお供をし、夕方帰る時間になると、また駅へ迎えに行ったそうです。時には、帰りの遅くなる日があったのに、ハチ公はどんなに遅くなっても、必ず駅前で待っていました。

ところが、ハチ公が飼われてから1年半後の1925年5月、教授は大学で講義中に脳溢血で倒れて亡くなってしまったのです。

でも、ハチ公には教授が死んでしまったことがわかりません。主人が帰るのを、毎日渋谷駅前で待ち続けました。

「なんとかハチ公の悲しい事情を人々に知らせてもっといたわって貰いたいものだ」と思った人が、朝日新聞に投稿したところ、1932年10月の記事に『いとしや老犬物語、今は世になき主人の帰りを待ちかねる七年間』という見出しに写真入りで掲載され、一躍有名になりました。人々は大きな感銘を受け、ハチ公は、「忠犬」と呼ばれるようになりました。駅員や売店の人たちも急に可愛がるようになり、雨の降る日などは、ハチ公を駅の中で寝かせてあげるようになりました。

さらに、ハチ公のがんばる姿に感動した人々は、1934年4月に銅像を建てました。そして、その翌年の今日、銅像の下で亡くなったのでした。

現在のハチ公の銅像は、第2次大戦後に再建されたものだそうです。


「3月8日にあった主なできごと」

1917年 ロシア(2月)革命…1914年に第1次世界大戦が始まると、経済的な基盤の弱かったロシア帝国は、深刻な食糧危機に陥っていました。この日、首都ペトログラードで窮状に耐えかねた女性労働者たちのデモがストライキを敢行、兵士たちもこれを支持しました。事態を収拾できなくなったニコライ2世が退位して、ロシア帝国は崩壊。この「2月革命」により、新しく生まれた臨時政府と各地に設置されたソビエトが対立することになりました。こうして10月に、ソビエトが臨時政府を倒して政権を樹立し、世界で初めての社会主義国家が誕生するのです。

今日3月5日は、私たちが日ごろ一番よく目にする地図「メルカトル図法」の考案者として知られるメルカトルが、1512年に生まれた日です。

グラルドゥス・メルカトルは、ベルギーのフランドル地方にあるルペルモンドで生まれました。フランドル地方は古くから商業の中心地として栄え、貿易の中継地として発展しつつありました。

メルカトルは、幼い頃に両親が亡くなったため、親類に育てられながらレーベン大学に入学しました。天文学、地理学、幾何学などを学んで卒業すると、まもなく印刷、地球儀や日時計など科学機器を製造する仕事に従事しました。やがて、地図や海図にも興味をもちはじめました。

ところで、マルコ・ポーロ の「東方見聞録」などに描かれた東洋の富にあこがれたヨーロッパ諸国は、オスマントルコが支配する陸路ではなく、海を渡ってアジアに到達する道をさぐっていました。その中心はポルトガルで、エンリケ航海王子は、アフリカ西部の探検を推し進めました。エンリケ亡き後も探検は引きつがれ、1488年にはディアスがアフリカ南端の喜望峰に到達しました。続いて バスコダ・ガマ は喜望峰を回って、1498年にインド西岸のカリカットに到達しました。

一方、ポルトガルに刺激されたスペインは、イサベラ女王の支援を受けた コロンブス が1492年にアメリカを発見して以来アメリゴ・ベスピッチの大陸探検、さらにスペイン王の援助を受けた マゼラン の艦隊は1519年に西回りの航海の末、太平洋を横断してフィリピンに到達、1522年に帰港して世界周航に成功しました。中南米への進出も本格化させ、1521年にコルテスはアステカ王国を、1533年ピサロはインカ帝国を滅ぼして植民地としました。

メルカトルが活躍した時代は、天文学や地理学の発達に加え、羅針盤が実用化されたことで、「大航海時代」を支える技術的な下地があったのでした。

メルカトルの名前を歴史に残したのは、1569年に考案した「メルカトル図法」(正角円筒図法)です。この図法は、経線と緯線(子午線)が地図の上で直角に交わっているのが特徴。地球儀を縦に置き、立てた円筒に投影し、その円筒を切り開いて平面にした地図といってよいでしょう。この地図は、緯度が高くなるにつれて距離や面積が大きく拡大されてしまうという欠点はありますが、方角は正しくあらわされているため、船の針路を直線で示すときなどにはとても便利で、大航海時代を支える発明の一つとなりました。


「3月5日にあった主なできごと」

1858年 ペリー死去…アメリカ海軍の軍人で、1853年に軍艦をひきいて浦賀沖に来航、江戸幕府に開国をせまった ペリー が亡くなりました。

1929年 山本宣治暗殺…山本宣治は大正・昭和初期の政治家で、山宣(やません)の愛称で親しまれていました。1928年に第1回普通選挙が行われた際、宣治は共産党系の労働農民党から立候補して当選しました。ところが、田中義一内閣は、全国千数百人もの労働農民党員を捕らえ、党の解散を命じたばかりでなく、共産主義者は死刑・無期刑にするという治安維持法の改正をくわだてました。宣治は敢然と反対を叫びましたが、改正案が衆議院を通過したこの夜、宣治の宿泊先に右翼を名乗る男が押しかけ、宣治の胸を刺しました。

1953年 スターリン死去…ソ連の独裁者、共産党指導者、首相、大元帥として活躍した スターリン が亡くなりました。

今日3月4日は、江戸の刑場だった小塚原(現・東京荒川区)で行なわれた死体解剖を、蘭学医の杉田玄白、前野良沢、中川淳庵が、1771年に見学したとされる日です。

江戸幕府の8代将軍 徳川吉宗 は、鎖国時代にもかかわらず蘭学書の輸入を解禁しました。その輸入された書籍の中に、ドイツ人の学者クルムスの書いた人体解剖書を、オランダ語に訳した『ターヘル・アナトミア』という医学書がありました。

この『ターヘル・アナトミア』の図版を手にしながら腑分け(五臓六腑の内臓を分解する)を見ていた3人は、その解剖図がきわめて正確なのに驚きました。これまで見てきた中国や日本の医書の誤りをさとるとともに、ヨーロッパ医学の素晴らしい発展ぶりと、医者として人間の身体のほんとうの構造を知らなかったことを恥じて、この本を日本語に訳すことを決意するのでした。

死体解剖を見学した翌日、オランダ語を700語ほど知っていた良沢の家に集まった玄白、淳庵らは、さっそく翻訳にとりかかりました。オランダ語の辞書もなかったころのこと、「鼻」とか「眉」という簡単な言葉の意味もわからずに何日もかかったほどの大苦戦でした。

しかし、コツコツと4年間もかけて翻訳を続けたすえ、1774年に日本で初めての西洋医学書の日本語訳『解体新書』(本文4巻、付図1巻)として刊行しました。

杉田玄白は後に、この『解体新書』を翻訳するまでのいきさつ、翻訳作業の苦労話、発行に至るまでの経緯などを『蘭学事始』という回想録にして出版しました。明治に入って、福沢諭吉 の手で出版された『蘭学事始』は、玄白が書きつづったものをまとめたもので、一般の人たちが読めるきっかけになりました。

なお、玄白の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第27巻 「杉田玄白」 をぜひご覧ください。


「3月4日にあった主なできごと」

1053年 平等院鳳凰堂…藤原頼通は、父 藤原道長 からゆずり受けていた宇治の別荘を「平等院」とし、極楽浄土といわれる鳳凰堂(阿弥陀堂)を完成させました。

1697年 賀茂真淵誕生…江戸時代の中ごろに活躍した国学者で、本居宣長へ大きな影響を与えた 賀茂真淵 が生まれました。

1788年 寛政の改革…江戸幕府11代将軍家斉は、白河藩主として評判の高かった 松平定信 を老中首座・将軍補佐とし、定信は「寛政の改革」を実施して幕政の改革をはじめました。8代将軍吉宗の「享保の改革」をめざしたものでしたが、あまりに堅苦しいものだったため、成功にはいたりませんでした。「白河の清きに魚の住みかねて元の濁りの田沼恋しき」と 田沼意次 時代を懐かしむ狂歌に詠まれるほどでした。

1878年 有島武郎誕生…絵のぐをぬすんだ生徒と、その生徒をやさしくいましめる先生との心のふれあいをえがいた児童文学『一房の葡萄』や『カインの末裔』『生まれ出づる悩み』『或る女』など社会性の高い作品を数多く残した白樺派の作家 有島武郎 が生まれました。

今日3月3日は、江戸城外桜田門近くで江戸城に向かう大老・井伊直弼と約60人の行列に、水戸浪士ら18名が行列に切りこみ、かごの中の井伊の首をはねる「桜田門外の変」が、1860年に起きた日です。

1853年にアメリカの ペリー が黒船4隻をともなって浦賀に来航し、日本に開国をせまりました。翌年の3月3日に、今度は7隻の軍艦をひきいて再来日したため、徳川幕府は「日米和親条約」を結んで、鎖国を解き、下田(静岡県)と箱館(現・函館)の2港を開きました。ただし、この条約は燃料や食糧の補給を許可しただけで、貿易をするまでには至っていませんでした。

1858年、アメリカ総領事のハリスは、日本に貿易をするように強く要求をしてきました。この時の徳川幕府の最高権力者である大老が 井伊直弼 でした。井伊は、朝廷をはじめたくさんの反対意見を無視し、「日米修好通商条約」を結んでしまったのです。この条約で、箱館、新潟、神奈川、兵庫、長崎の5港を開港しました。この条約は、治外法権(日本の法律や裁判権の支配を受けない特権)と関税自主権の放棄という、不平等なものでした。しかも、幕府はアメリカに引き続きイギリス、オランダ、フランス、ロシアとも同様な条件で、結ばざるをえませんでした。

13代将軍家定の跡継ぎ問題で、紀州藩主の徳川慶福(のちの14代将軍家茂)を推す井伊は、「安政の大獄」という大弾圧を引き起こしました。弾圧されたのは尊皇攘夷派や一橋派大名(一橋慶喜を推すグループで、水戸徳川斉昭、島津斉彬、松平慶永ら)、公卿、志士(吉田松陰、橋本左内らは処刑)、連座した人たちは100人以上にのぼりました。

こうした井伊の独断的なやり方に不満やうらみを持つ者は多く、脱藩した浪士らが大雪の降るこの日「桜田門外の変」をおこしたのです。

屋台骨を失った徳川幕府は動揺し、いっきに体制が崩れ、尊王攘夷運動も激しさを増して「明治維新」につながっていきました。


「3月3日の行事」

ひなまつり…女の子のすこやかな成長を祈る年中行事「ひなまつり」の日です。「耳の日」でもあるこの日の行事について綴った 2009年3月3日のブログ を参照ください。

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