児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年03月

今日3月16日は、難破したオランダ商船「リーフデ号」が、1600年に豊後国(大分県)の臼杵に漂着した日です。

自力では上陸できなかった乗組員は、小舟でようやく日本の土を踏みました。このことはすぐに大坂城の豊臣秀頼に知らされ、五大老の首座にあった 徳川家康 は、大坂に護送するように指示しました。

リーフデ号の船員代表ウイリアム・アダムスやヤン・ヨーステンらと会見した家康は、彼らがキリスト教を広めるためではなく、オランダ国の命を受けて平和な貿易をするために日本に来た目的を知りました。そして、オランダやイギリスなど新教国とポルトガル・スペインら旧教国とのあいだの紛争など、国際情勢を的確に説明するアダムスが特に気に入りました。しばらく乗組員たちをを投獄した後、江戸に回航するように命じました。

江戸での家康は、アダムスの地理、天文、数学、測量、航海、造船など幅広い知識や技術に注目しました。やがて、米や俸給を与えて、外国使節との対面や通訳をさせるなど、外交顧問としてとりたてるようになりました。

江戸湾にあったリーフデ号が沈没すると、造船術を身につけているアダムスの経験を買って、西洋式の帆船を建造するように命じました。アダムスは、さっそく80トンの帆船の建造にとりかかり、1604年に完成すると、家康は大喜びで、今度はもっと大きな船を建造するように求めました。1607年に120トンの船が完成するとアダムスは、この船を利用して関東一帯の海面調査や測量などにたずさわり、期待通りの成果をあげました。

功績をほめたたえた家康は、帰国を願うアダムスを慰留するため、250石どりの旗本に取り立て、帯刀を許したばかりでなく三浦按針(按針は水先案内人の意味)と名乗らせ、家康の御用商人の娘と結婚させました。

アダムスは、家康の保護のもとで、外交上でもオランダとの貿易などさまざまな活躍をしましたが、家康の死後、2代将軍秀忠のころになると鎖国も厳しくなり、重用されることもなくなり、1620年に平戸で56歳の生涯を閉じました。


「3月16日にあった主なできごと」

1934年 国立公園…日本で初めて、瀬戸内海・雲仙・霧島国立公園の3か所が指定されました。現在では、阿寒・大雪山・支笏洞爺・知床・利尻礼文サロベツ・釧路湿原・十和田八幡平・磐梯朝日・陸中海岸・日光・富士箱根伊豆・秩父多摩甲斐・南アルプス・小笠原・尾瀬・中部山岳・伊勢志摩・上信越高原・白山・吉野熊野・山陰海岸・大山隠岐・足摺宇和海・阿蘇くじゅう・西海・西表石垣国立公園が加わり、計29か所になっています。なお国立公園とは、国が指定し保護・管理をする自然公園のことです。

今日3月15日は、古代ローマの政治家で終身執政官となるも、「ブルータス、お前もか!」という有名なセリフを残して暗殺されたシーザー(カエサル)が、紀元前44年に亡くなった日です。

ジュリアス・シーザーが、どこに生まれどのように育ったかについては、詳しいことはわかっていません。ローマの名門貴族の家に生まれながら権力争いに敗れて、ロードス島に逃げのび、そこで学問や雄弁術、武力を身につけたといわれています。

ローマにもどったシーザーは、叔母の関係で、平民派に加わりました。当時のローマは、貴族派と、平民派があって権力のうばいあいで争っていました。シーザーが選挙に当選し、平民派の若い統領としてその名が知られるようになったのは、20代の後半でした。

当時ローマでもっとも勢力のあった軍人は、貴族派のポンペイウスでした。地中海の東部の国ぐにを征服してからは、これを快く思わない貴族派に腹をたてたポンペイウスは、平民派にくらがえすると、若いシーザーと手を結びました。クラッススをなかまにひき入れた二人は、しだいに貴族派をおさえつけ、ローマの政治を動かす中心となりました。これが「ローマの三頭政治」です。

クラッススが死去して三頭政治が崩れたのち、シーザーは北方のガリア(現フランス)へおもむいて戦争を指揮、ガリアをローマの支配下におきました。この時の記録が『ガリア戦記』で、簡潔に表現された内容は高く評価されています。その後、シーザーはエジプトも従えたため、その名はローマじゅうになりひびきました。

シーザーの名声を恐れたポンペイウスは、シーザーを追放しようとしましたが、BC49年『賽は投げられた』といって「ルビコン川」を渡ってローマに帰国すると、ポンペイウスは逃亡しました。

BC48年にポンペイウスを討ち破ったシーザーは、独裁官に就任、ローマの政治と軍事を握って事実上の君主となりました。さらにエジプトに出兵してクレオパトラを女王の座につけ、アフリカ北部や小アジアも転戦して、BC46年にローマにもどりました。

帰国後シーザーは、終生執政官に就任。エジプトの太陽暦をもとにした『ユリウス暦』をこしらえたり、貧困者政策を行なったりしましたが、シーザーの独裁に反対するブルータスらの勢力によって暗殺されたのでした。

なお、シーザーの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第2巻 「シーザー」 をご覧ください。


「3月15日にあった主なできごと」

1928年 3.15事件…日本共産党は、第1次世界大戦後に秘かに党を結成して、労働者の政治運動をさかんに行なっていました。そして、1928年2月の第1回普通選挙で、共産党を含む無産政党から8名の当選者を出しました。これに脅威を感じた田中義一内閣は、共産党を含む左翼団体の関係者千数百名を捕らえ、治安維持法違反の罪で処罰しました。これが「3.15事件」で、これ以降共産党や労農党は結社を禁止されました。この時逮捕された徳田球一や志賀義雄らは、1945年10月にGHQの指令で釈放されるまで18年間、獄中につながれたままでした。

今日3月12日は、奈良にある大仏で有名な東大寺の二月堂で、十一面観音に供える「お香水(こうずい)」をくみ上げる由緒ある儀式が、深夜に行なわれる日です。

「お水取り」として知られる行事は、現在3月1日から2週間にわたって行われていますが、もとは旧暦の2月1日から行われていたので、二月に修する法会という意味で「修二会」(しゅにえ)と呼ばれるようになりました。

奈良時代の752年に、東大寺を開いたといわれる良弁僧正の弟子にあたる実忠和尚(じっちゅうかしょう)によってはじめられたこの行事は、毎年欠かさずに続けられ、今年は何と1258回目となるそうです。

正式名称は「十一面悔過(けか)」という法要で、練行衆と呼ばれる11名の僧侶が、人々に代わって苦行を引き受け、十一面観音に「天下泰平」「五穀豊穣」「万民快楽(けらく)」などを祈ります。

そして、3月12日深夜(13日午前1時半頃)に、若狭井(わかさい)という井戸から観音さまにお供えする「お水取り」の儀式が行われるのです。11人の練行衆の道明かりとして、大きな松明(たいまつ)が10本以上も灯されるため「お松明」とも呼ばれています。

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「3月12日にあった主なできごと」

1925年 孫文死去…「三民主義」 を唱え、国民党を組織して中国革命を主導、「国父」 と呼ばれている 孫文 が亡くなりました。

1945年 アンネ・フランク死去…『アンネの日記』( 2006.5.30ブログ 参照) を書いたアンネ・フランクが、ナチの収容所で亡くなりました。

今日3月11日は、イタリア・ルネッサンス期の画家で『ビーナスの誕生』や『春』を描いたボッティチェリが、1444年に生まれたとされる日です。

サンドロ・ボッティチェリの本名は、アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・ディ・バンニ・フィリペーピ。名前のアレッサンドロは省略されていつのまにかサンドロになりました。それからボッティチェリは「小さい樽」の意味で、ボッティチェリの兄さんが太っていたためにこのあだ名がつき、やがて家族じゅうがボッティチェリを名乗りだしたということです。

皮なめし職人の子として、フィレンツェに生まれたボッティチェリは、父が教育熱心だったために、基礎教育をしっかり受けました。そして、金細工や絵を描くことに能力を発揮しだし、15歳で有名な工房を開いていたフィリッポ・リッピに弟子入りしました。

フィリッポはすぐにボッティチェリの才能に気づき、宗教画、神話画などの作品の手伝いをさせました。その後、フィレンツェを離れたフィリッポの紹介で、20歳の時にベロッキオ工房に移りました。

二人の著名な師の影響を受けて、ボッティチェリの腕は磨かれ、表情や視線、手の仕草など、独自のしっとりした気品のある描き方を身につけていきました。

フィレンツェの実質的な支配者として君臨していたメディチ家と親密な関係になり、ロレンツォ豪華王や弟ジュリアーノの主宰する知識人サークル「プラトン・アカデミー」にもよく出入りしていました。

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ボッティチェリが芸術家として、最もすばらしい時期に制作したのは『春』『ビーナスの誕生』などを描いた1480年代の前半だといわれています。『春』はテーマとしても前例のない、等身大のギリシア神話を描いた名画です。『春』『ビーナスの誕生』につきましては、ブログ (2007.8.30) (2007.8.31)を参考にしてください。

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バザーリという伝記作家によると、ボッティチェリは「非常に愉快な人物」で、友人や弟子たちに悪ふざけをしたりするユーモアあふれる人だったようです。しかし、サボナローラという宗教家の、説教壇から激烈な言葉でフィレンツェの腐敗ぶりやメディチ家による実質的な独裁体制を批判する宗教家に共鳴したことから、精神的な悩みに苦しみだしました。

まもなく、親友ロレンツォ豪華王が亡くなってパトロンを失ったばかりか、サボナローラが処刑されると、ボッティチェリは精神的にも社会的にも孤立したばかりか、制作意欲をなくして1510年、さみしくこの世を去りました。

ボッティチェリが再評価されだしたのは、死後400年もたった19世紀末、『オフィーリア』の絵で有名なミレイらイギリスのラファエル前派に注目されたことから名声が広まったのでした。


「3月11日にあった主なできごと」

1582年 武田氏の滅亡…信長・家康軍に挟みうちされた武田勝頼はこの日に自刃、19代400年にもわたって甲斐の国(山梨県)を支配してきた武田氏は滅びてしまいました。

1955年 フレミング死去…青かびからとりだした物質が大きな殺菌力をもつことを偶然に発見し、ペニシリンと命名して世界の医学者を驚かせたフレミングが亡くなりました。

今日3月10日は、天智天皇(中大兄皇子) の4女である元明天皇が710年に、藤原京から奈良の平城京に都を移し、奈良時代がはじまった日です。

奈良時代は、「あおによし奈良の都は咲く花の匂うがごとく今さかりなり」と歌われたように、794年に桓武天皇が京都の平安京に遷都するまで、たいへん栄えました。

618年、隋に代わって中国を統一した唐は大帝国を築き、周辺諸地域に大きな影響をあたえていました。首都の長安は国際都市として繁栄し、日本をはじめ周辺諸国も唐と深く交わり、漢字・儒教・仏教などさまざまな文化を共有していました。

平城京は、そんな唐の都である長安をモデルにした立派な都で、北には皇居といえる平城宮から南に朱雀大路という幅70mもある大通りがまっすぐに5kmも走り、この大通りを軸に垂直に交わる縦横の道路があって、東西約6.3km、南北約4.7kmに及ぶ、碁盤の目のような整然とした街を造りました。現在の奈良市の5~6倍もの広さで、人口20万人近くもあったといわれています。

ただし、こんな立派な都であったにもかかわらず、この時代の一般庶民の暮らしはかなりつらいものがありました。農民たちは、租・庸・調という重い税金にくるしんでいたばかりでなく、防人という北九州の警備にあたらされるなど軍役を課せられることもありました。

人々は、律令国家によって戸籍と計帳で良民と賎民にわけられ、賎民には自由がなく、賎民のうちでも奴婢は家畜と同じ扱いで、市場などで売買されるというひどいものでした。

いっぽう、たびたび遣唐使を唐に送って、大陸の文物を導入したり、全国に国分寺を建て、東大寺に大仏をこしらえるなど、仏教的な天平文化が栄えました。『古事記』『日本書紀』『万葉集』などの史書や文学が生まれたことも特筆できることです。

なお、平城宮跡は、東大寺(正倉院を含む)、興福寺、春日大社、薬師寺、唐招提寺などとともに世界遺産の文化遺産(奈良の文化財)として、1998年に登録されました。


「3月10日にあった主なできごと」

1945年 東京大空襲…第2次世界大戦の末期、東京はアメリカ軍により100回以上もの空襲を受けましたが、この日の空襲はもっとも大規模なものでした。2009.3.10ブログ「東京大空襲のあった日」を参照ください。

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