児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年03月

今日3月24日は、「グッド・クィーン・ベス」(すばらしい女王、エリザベス)という愛称で国民からしたわれるエリザベス1世が、1603年に亡くなった日です。

すぐれた知恵と強い意思をもったイギリスの女王・エリザベスが女王の位についたのは、16世紀なかばの1558年、25歳のときです。その後45年間イギリスをおさめ、おとろえかけていたイギリスを、世界にほこる大帝国にたてなおしました。

エリザベスは1533年に、国王ヘンリー8世の王女として生まれました。メアリーという17歳年上の姉がいて、エリザベスが20歳のとき、メアリーが女王になりました。キリスト教が、旧教(ローマ・カトリック)と新教(プロテスタント)の2つにわかれてあらそっていた時代です。メアリー女王は旧教でしたが、エリザベスは新教の国民たちに人気がありました。そのためメアリーは、エリザベスが国民たちから女王におされるのを、おそれていました。メアリーは、エリザベスをロンドン塔にとじこめ、その後、遠くのハットフィールド宮殿に追いやってしまいました。エリザベスはこの宮殿で3年余り暮らしました。このとき語学を勉強し、ギリシア、ラテン、イタリア、フランスなどの外国語をじょうずに話せるようになりました。

1558年、メアリー女王が亡くなると、エリザベスは、イギリス女王として国民のよろこびにむかえられました。このことを、ふゆかいに思ったのが、スペイン国王のフェリペ2世です。そのころのスペインは、旧教の代表国で、新教と旧教があらそっている国の旧教徒に手をかして、国を支配しようとしてしまいました。それまでのイギリスも、フェリペ2世の野望にあやつられていたのです。女王になったエリザベスは、スペインの口だしをきっぱりとことわり、国の宗教を、新教を中心にまとめました。野望をそがれたフェリペ2世は、1588年、スペイン無敵艦隊をイギリスにむかわせ、いっきょに征服しようとしました。無敵艦隊の名のとおり、ヨーロッパでもっとも強い海軍です。しかし、スペイン軍はドレーク船長の指揮するイギリス軍にうちやぶられてしまいました。

エリザベス1世の政治は、イギリス軍の力をいっそう強め、産業や文化の発展をはかり、国をさかえさせました。小さな島国のイギリスが、ヨーロッパの大国として、世界じゅうに名をひびかせたのです。女王は一生独身でしたから、あとつぎの子がなく、スコットランドのジェームズ国王に位をゆずりました。これによって、イングランドとスコットランドが合併し、連合王国となりました。


「3月24日にあった主なできごと」

1185年 平氏の滅亡…一の谷、屋島の戦いに敗れた平氏は、源義経 の率いる水軍を、壇ノ浦(山口県・下関市)で迎えうちました。この日の正午近くに戦闘が始まり、平氏は西から東へ流れる潮流にのって有利に戦いを進めていました。ところが、3時過ぎになって潮流が逆になると形勢は逆転。敗戦を覚悟した平氏は、次々に海に身を投げていきました。この「壇ノ浦の戦い」で平氏は滅亡、以後 源頼朝 の支配が確立しました。

1870年 本多光太郎誕生…明治から昭和にかけて、日本の科学の基礎をきずき、長岡半太郎と並んでその力を世界に示した物理学者 本多光太郎 が生まれました。

1905年 ベルヌ死去…「80日間世界一周」 「海底2万マイル」「十五少年漂流記」などを著し、ウェルズとともにSFの開祖として知られるフランスの作家 ベルヌ が亡くなりました。

今日3月23日は、『チボー家の人々』でノーベル文学賞を受けたフランスの小説家マルタン・デュ・ガールが、1881年に生まれた日です。

パリ郊外にあったデュ・ガール家は敬虔なカトリックで、代々法律を専門にあつかうブルジョワ家庭でした。

そのため両親はデュ・ガールに、法律の道を歩むことを望みましたが、17歳の時にロシアの文豪トルストイ『戦争と平和』に感銘を受けて、小説家になることを決意しました。デュ・ガールは両親の期待から逃れるため、古文書学校に入学しました。この時に身につけた厳密な考証法は、デュ・ガールの執筆のスタイルとして定着したといわれます。

古文書学校卒業してすぐに、執筆活動に入りましたが、なかなか世間に認められる作品を書けません。1913年32歳の時に発表した長編小説『ジャン・バロワ』で、ようやく文壇デビューを果たしました。ところが、まもなく勃発した第1次世界大戦に従軍、4年間にわたって、自動車輸送班として参戦しました。

代表作となる長編小説『チボー家の人々』は、復員後に取り組んだ大作です。1920年の時点で全てのあらすじを考え、1922年から1929年にかけて、計画通り第1部から第6部までを執筆、出版されました。第7部「一九一四年夏」は7年間のブランク後に出版され、これが評価されてノーベル文学賞を獲得しました。そして、最終巻の第8部「エピローグ」が出版されたのは、1940年1月、第2次世界大戦中のことでした。

『チボー家の人々』は、第1次世界大戦という未曾有の戦争を経てもなお、再び同じ過ちがくり返されようとしている不安定な時代におかれた、デュ・ガールの苦闘そのものでした。作者の分身ともいえるジャックとアントワーヌという兄弟を中心に、前半はキリスト教の新旧両教の対立と父の安楽死をテーマに、後半は戦争にのまれていく上流家庭の歴史を描いています。社会の動きや立場の違う人々の生きざまを大きく捕らえようとした作品は、大河小説とよばれ、20世紀前半の最高傑作といわれています。

物語は、次のようにスタートします。

次男のジャックに、中学校で居残りをさせられていると聞かされた父親のチボー氏は、長男アントワーヌを連れて中学校に迎えに行きます。ところが、居残りというのはウソで、教師から信じがたいものを見せられました。それは、一冊の灰色のノートでした。

ジャックと開放的な家に育った友人ダニエルとの心の交流が記された、秘密の交換ノートでした。日ごろから親や教師に反抗していたジャックは、教師がこのノートを自分の持ち物の中から無断で見つけ出して読んだことに激しく怒り、ダニエルを誘って家出を企てます。

カトリックの実業家で名門チボー家の息子が、プロテスタントの人間と家出まで企てたと知ったチボー氏は大激怒。全力をあげて行方を追いました。そして、二人はマルセイユで捕えられ、チボー氏は、ジャックを少年感化院にいれてしまいます……。


「3月23日にあった主なできごと」

1910年 黒沢明誕生…映画『羅生門』でベネチア国際映画祭でグランプリを獲得した他、『七人の侍』『生きる』『椿三十郎』など、数多くの映画作品の監督・脚本を手がけ、国際的にも「世界のクロサワ」と評された 黒沢明 が生まれました。

今日3月19日は、文化の灯から閉ざされたアフリカ原住民たちへ深い愛を注いだ、イギリスの宣教師で探検家のリビングストンが、1813年に生まれた日です。

デービッド・リビングストンは、スコットランドの貧しい家庭に生まれました。けれど、両親の愛につつまれた暖かい家庭でした。10歳になると紡績工場で働きはじめ、朝6時から夜8時までの仕事の後、夜学にかよって勉強をつづけるほどの頑張りやでした。

植物採集に興味を持ち、ひとりで山を歩いたり、人びとが近よらない古城を探検するなど、行動しながら学ぶという習慣を、しっかり身につけていきました。科学や宗教、旅行の本などを読むうちに、しだいに、外国の人びとの生活を真剣に考えるようになりました。

独学でグラスゴー大学へ進み、医学、神学を学び、宣教師となったリビングストンでしたが、医療伝道師として外国へ行きたいという夢を捨てきれず、1840年12月、ロンドンの港を出帆しました。当初行きたかった中国へは、イギリスと中国間の戦争(アヘン戦争)が起きたためにかなわず、めざしたのはアフリカ大陸でした。

5か月めにアフリカ南海岸に上陸したリビングストンは、2か月かかって、1000キロ奥のクルマンという村へたどりつきました。長い旅のつかれも忘れて、すぐ病気の黒人たちにあたたかい手をさしのべました。アフリカの言葉の勉強も始め、半年で黒人と話ができるようになると、さらに奥地へと入って行きました。

アフリカへきて4年目にリビングストンは、やはりこの地へきていたキリスト教宣教師の娘メアリーと結婚。ふたりで協力して小さな学校を建て、黒人たちに、神のことや、物を作ることや、数をかぞえることなどを教えました。

1852年、黒人たちと隊を組んだリビングストンは、本格的な探検を開始。これまでのアフリカの地図にはなかったザンベジ川、ヌガミ湖、世界最大のビクトリア滝などを発見したことで、世界的に有名になりました。

1866年、ナイル川の水源地を探るために3度目の探検に出かけた時、リビングストンは、ルアラバ川がナイル川とつながっていると予測して、詳しい調査を開始しました。ところが、長い探検生活からか体調を崩し、タンガニーカ湖のそばのウジジという村で静養を余儀なくされてしまいました。

その間、ヨーロッパをはじめ全世界に「リビングストンは死んだ」といううわさが流れていました。奴隷貿易反対をさけんでいたリビングストンに不満を持っていた人たちのデマでした。「アフリカの聖者」をこのままにはしておけないと、アメリカのニューヨーク・ヘラルド新聞社の記者スタンリーは、生死を確かめるため200名もの従者をひきつれて探索、1871年11月10日、ウジジで劇的な出会いを果たしたのでした。

なお、リビングストンの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第10巻 「リビングストン」 をぜひご覧ください。


「3月19日にあった主なできごと」

1838年 後藤象二郎誕生…土佐藩士で、坂本龍馬 に勧められた大政奉還を藩主山内容堂に進言し、その実現に寄与した後藤象二郎が生まれました。後藤は、明治新政府では参議などをつとめ、板垣退助 らと自由党を結成しました。

空気を強く圧縮すると高い温度になります。この原理を応用して、空気を圧縮した筒のなかに液体の燃料を噴射して自然発火させ、爆発力でピストンを動かすエンジンが、1897年に発明されました。今日3月18日は、そのエンジンを発明したディーゼルが生まれた日です。

ルドルフ・ディーゼルは、フランスのパリに生まれました。両親ともドイツ人で、父はパリの皮革工場の労働者でした。幼いころから機械がだいすきだったディーゼルは、ひまさえあれば技術博物館へ通って、あきずに機械をながめていました。

1870年の7月、フランスとドイツのあいだで普仏戦争が起こり、一家は危険をさけてイギリスへ渡りました。やがて戦争が終わると、ディーゼルは、ドイツのミュンヘン工業大学へ進むことになりました。父が、機械ずきのわが子の才能を、故国ドイツの大学でのばしてやろうと考えたのです。

「おとうさんありがとう。りっぱな技術者になってみせます」

ディーゼルは目を輝かせて勉強にはげみました。そして、蒸気機関では、石炭の熱エネルギーがわずか20パーセントさえ生かされていないことを知り、エネルギーをむだにしない新しい動力機関の研究にとりくみました。

大学を卒業すると、高い圧力やアンモニアを研究するために、パリへでて冷凍工場の技師になりました。そして、アンモニアの蒸気を使った蒸気機関をつくろうと考えましたが、この研究は実をむすびませんでした。

そのころ、同じドイツ人のダイムラーによって、ガソリンエンジンが発明され、ディーゼルは、このすばらしい発明に目をみはりました。でも、自分の発明はなげだしませんでした。

「ガソリンエンジンは、電気の火花で点火しなければならない。でも、点火させずにすむ方法があるはずだ」
ディーゼルは、もういちどドイツへ帰り、それから10年ものあいだ、何度も失敗をくり返しながら実験をかさねて、38歳のとき、ついに力強い新エンジンを発明したのです。

1912年に、ディーゼルエンジンをつけた世界で初めての船が造られました。ところが、そのよく年にイギリスのエンジン工場の視察にでかけたディーゼルは、船の上から、とつぜんすがたを消してしまいました。あやまって海に落ちたのか自殺したのか、それはいまも、なぞにつつまれたままです。

ディーゼルエンジンは、そのご重油という安い燃料の普及で、世界の乗り物や産業にひろく用いられるようになりました。
 

「3月18日にあった主なできごと」

724年 柿本人麻呂死去…飛鳥時代の歌人で、山部赤人らとともに歌聖と称えられている柿本人麻呂は生没年不詳ですが、亡くなったとされる日のひとつです。

1871年 パリ・コミューン…普仏戦争の敗戦後のこの日、パリに労働者の代表たちによる「社会・人民共和国」いわゆるパリ・コミューンが組織されました。正式成立は3月29日で、5月28日に政府軍の反撃にあってわずか72日間でつぶれてしまいましたが、民衆が蜂起して誕生した革命政府であること、世界初の労働者階級の自治による民主国家で、短期間のうちに実行に移された革新的な政策(教会と国家の政教分離、無償の義務教育、女性参政権など)は、その後の世界に多くの影響をあたえました。

794年から1869年までの千年以上も、日本の都として京都に平安京がおかれていました。今日3月17日は、この平安京を開いた日本の第50代天皇 桓武天皇が、806年に亡くなった日です。

桓武天皇は、光仁天皇の皇子として737年に生まれ、山部王とよばれました。しかし、初めは、天皇のあとをつぐ皇太子にはなれませんでした。母が渡来人の子孫で、純粋な日本人ではなかったからです。

ところが、皇太子の他戸親王が朝廷を追われる事件が起こり、山部王は36歳で皇太子になりました。そして8年後に、天皇の位についたのです。

桓武天皇は、才能のある人びとを重く用いて、秩序のととのった正しい政治を、力強く進めていきました。

「貴族や僧が自分の財産をふやすことばかり考え、国の政治が乱れている。都を移し、心をいれかえて新しい政治を始めよう」

天皇になって4年めの784年には、都を、それまでの大和国(奈良)の平城京から山背国(京都)の長岡京へ移して、新しい都づくりを始めました。でも、およそ8年後には、この長岡京の建設を中止してしまいました。都をつくる指揮をしていた藤原種継の暗殺、その暗殺事件にかかわっていたと疑われた、天皇の弟の早良親王の自殺、そのうえ、早良親王のたたりのように皇族の不幸や悪い病気の流行がつづいたからです。

793年、桓武天皇は平安京を新しい都に定めて、ふたたび大きな都市づくりを始めました。そして、翌年には早くも都を移し、それからおよそ10年、くる日もくる日も、宮殿、寺院、町、道路などの建設を進めました。

平安京をととのえながら、桓武天皇は、もうひとつ、大きな事業にとりくみました。そのころ東北地方では、むかしからそこに住む蝦夷が、朝廷にはむかって反乱を起こしていました。日本の統一を願った天皇は、3度にわたって軍勢を送り、3度めには 坂上田村麻呂 を征夷大将軍に任命して、蝦夷を討たせたのです。

しかし、桓武天皇は、805年には、都づくりも蝦夷との戦いも、やめてしまいました。

「国の大事業にかりだされるのは、いつも農民たちです。農民たちが国のぎせいになって苦しんでいます」

貴族の藤原緒嗣がこのように訴えると、天皇は、その忠告をすなおに聞き入れたのだといわれています。桓武天皇が亡くなったのは、こうして事業を中止した、つぎの年でした。


「3月17日にあった主なできごと」

1220年 サマルカンド征服…この日、モンゴルの征服者 チンギス・ハン は、インドから黒海に至る交通路を占めホラズム・シャー朝の首都(現・ウズベキスタン)として繁栄していたサマルカンドを徹底的に破壊し、数十万という人口の3/4が殺されました。

1836年 ダイムラー誕生…ドイツの技術者で、自動車開発のパイオニアと讃えられるダイムラーが生まれました。

1945年 硫黄島玉砕…2か月ほど前から小笠原諸島の南西にある硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間に生じていた戦闘は、この日、アメリカ軍は猛爆を加え、日本軍は守備兵力2万余名のほとんどが戦死、アメリカ軍に島を奪取されてしまいました。このため、アメリカ軍は日本本土空襲のの理想的な中間基地を手に入れ、東京大空襲(1945年3月10日)、名古屋大空襲(12日)、大阪大空襲(13日)を続けざまに実施、日本軍は、勝ち目のほとんどない絶望的な本土戦を余儀なくされました。

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