児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年02月

今日2月12日は、プロイセン王国(ドイツ)出身の哲学者、思想家として活躍し、最も影響力の大きな近代哲学者の一人といわれるカントが、1724年に生まれた日です。

18世紀後半のドイツ哲学は、考え方が固定され、独断主義とよばれていました。人間にそなわっている知性や能力を批判したり、疑ったりせず、そのままの純粋な思考だけで真理を発見できるという考え方です。カントは、その古い思想をのりこえ、批判哲学という哲学体系を確立して、精神面を重視したドイツ観念論の代表的思想家となりました。

イマヌエル・カントは、毎日聖書を読む、静かな家庭に育ちました。信仰の厚い両親のもとで、つつしみ深い生活をおくり、寛容と道徳を身につけました。やがて、青年になると地元のケーニヒスブルク大学に進み、哲学を学びますが、数学や物理学などにも熱心にとりくみ、成果をあげました。カントが最初に書いた論文は『活力の真の測定についての考察』という物理学の研究です。卒業ご、数年間は家庭教師をして、生活していきました。しばらくすると、母校ケーニヒスブルク大学に講師として招かれました。数学、科学などの問題を講義して、15年めに教授へ昇進しました。カントは、こつこつときまじめに勤めつづけ、学長に選ばれたこともありました。

毎日規則的な生活を送り、朝は必ず5時に起床し、夜10時には床に入りました。1日の生活は、すべて計画にしたがって行動しました。散歩の時間まで時計のように正確に決めて、自分自身にきびしく義務づけました。

カントは、教授になってから10年あまりは、特に大きな活躍をしませんでした。でも、57歳になると『純粋理性批判』という論文を出版して、批判哲学の基礎をつくり、つづけて『実践理性批判』『判断力批判』を発表しました。カントの名は学問の世界に知れわたり、確かな地位を得ました。

そのころのヨーロッパの思想は、理性によって物の本質をとらえようとする合理主義と、経験によってみきわめようとする経験論と、2つの流れがありました。カントは、冷静に考え、理性でも、経験でもわりきれない精神的な世界があり、それが、道徳や宗教につながっていることを説きました。そして、科学と道徳、あるいは物と心をむすびつけるのは、判断力である、というふうにまとめました。カントの考えかたには、当時のヨーロッパにひろがっていた啓蒙主義の思想も、強くはたらいています。

カントは、一生だれとも結婚しませんでした。弱い体で1804年、80歳まで生きることができたのは、質素で、規則正しい生活をおくったからなのでしょう。


「2月12日にあった主なできごと」

1603年 江戸幕府開かれる…1600年の関が原の戦いで勝利して全国を制覇した 徳川家康 は、この日征夷大将軍に任命され、江戸幕府が開かれました。

1809年 リンカーン誕生…第16代アメリカ合衆国大統領となり、「奴隷解放の父」と呼ばれた リンカーン が生まれました。

1809年 ダーウィン誕生…生物はみな時間とともに下等なものから高等なものに進化するという「進化論」に「自然淘汰説」という新しい学説をとなえた『種の起源』を著したイギリスの博物学者 ダーウィン が生まれました。

1912年 清朝の滅亡…中国清朝最期の皇帝である7歳の宣統帝・溥儀(ふぎ)が退位して、初代の太祖から12世297年にわたる清王朝の統治が終わりました。なお、溥儀は20年後、日本軍に満州国皇帝にされ、はかない役割をになわされました。その生涯は1987年公開の映画「ラストエンペラー」に描かれ、第60回アカデミー賞作品賞を受賞しています。

1954年 明治から昭和にかけて、日本の科学の基礎をきずき、長岡半太郎と並んでその力を世界に示した物理学者・本多光太郎 が亡くなりました。

1984年 植村直己消息不明…世界初の5大陸最高峰単独登頂をはたした冒険家の植村直己は、北アメリカ最高峰マッキンリーの初厳冬期登山に成功した翌日、消息を絶ちました。この日は、1891年の誕生日でもありました。

1996年 司馬遼太郎死去…『梟の城』で直木賞を受賞した後、『国盗り物語』『竜馬がゆく』『坂の上の雲』など戦国・幕末・明治を扱った作品を数多く遺した作家の司馬遼太郎が亡くなりました。『街道をゆく』など文明批評家としての評価も高いものがあります。

今日2月10日は、日本政府が大国ロシアに対し1904年、宣戦布告をした日です。

日露戦争は、日本とロシアが、中国東北部の満州と朝鮮半島を、どちらが支配するかの争いでした。

1902年に、日本はイギリスと「日英同盟」という秘密同盟を結んでいました。どちらの国かが他の1国と戦争を始めた場合は、一方は中立を守る。2国以上と戦争した場合は、同盟国に味方をして参戦するというものでした。この同盟のおかげで、ロシアを含む2か国以上と戦争をしなくてもよくなった日本は、2日前の2月8日、中国の旅順と朝鮮の仁川に停泊していたロシア艦隊を奇襲し、戦争がはじまりました。

この戦争での主戦場は、旅順と大連を含めた遼東半島にロシア軍が築いていた要塞をめぐるものでした。乃木大将率いる陸軍は大苦戦、6万人の死者を出しながらも要塞を落とすことができません。そのため、本部から派遣されてきた児玉源太郎は作戦を変え、203高地という小高い山から攻めることにより、ようやく要塞を攻略することに成功しました。

もうひとつの戦場は日本海で、海軍司令官の東郷平八郎が率いる連合艦隊が、世界屈指といわれたロシアのバルチック艦隊を一方的に破りました。巨船の多いロシア船を狭い湾におびきよせることに成功したことが勝因といわれています。

戦争を有利に進めていた日本でしたが、軍事面でも財政面でも限界に近づいていました。そこで日本は、アメリカに戦争を終わらせるための仲だちをたのみました。国内で革命運動が高まりはじめていた相手のロシアもこれに応じ、1905年8月にアメリカのポーツマス軍港で、ロシアと話し合いをすることになりました。アメリカの大統領セオドア・ルーズベルトの調停で、ポーツマス講和条約を締結、終戦をむかえたのでした。

こうして日本は、ロシアとの支配権争いに勝利して、朝鮮半島での優越権ができた上、南満州鉄道(満鉄)の獲得など満州における権益を得ることができました。そして、明治維新のころからの課題だった不平等条約改正の達成に大きく寄与しました。

ところが、ポーツマス条約で賠償金が取れないことを知った国民は、大勝利を疑わなかったため、この結末に納得しません。死傷者500人以上も出した「日比谷焼打事件」をはじめ各地で暴動が起こり、戒厳令がしかれるほどの混乱でした。1年4か月にわたった日露戦争は、日本にとっても困難な戦いだったのです。

 

「2月10日にあった主なできごと」

1657年 新井白石誕生…江戸時代中期に活躍した旗本・政治家であり、歴史、文学、言語学、政治、地理、兵法、考古学、民俗学などに通じる博学の学者だった 新井白石 が生まれました。

1763年 イギリスがカナダを獲得…イギリスとフランスとの間で争われた植民地7年戦争が終わり、パリ条約が結ばれて、フランスはカナダをはじめ、ミシシッピー川以東のルイジアナをイギリスに譲渡し、北アメリカの領土を失いました。英国はすでにインドのフランス植民地も得て、いわゆる「太陽の没しない大帝国」を築き上げました。

1851年 水野忠邦死去…江戸時代の末期に「天保の改革」を指導したことで知られる 水野忠邦 が亡くなりました。

今日2月9日は、大正から昭和初期の政治家だった井上準之助が、1932年に「血盟団」という右翼組織の青年によって暗殺された日です。

第一次大戦のころの特需が終わってからの日本の経済は、高騰していた株価が急落するなど、少しずつ不況がひろがっていました。それが1923年におこった関東大震災によって、大量の不良債権が発生して、深刻な事態にまでおちいっていきました。さらに追い討ちをかけるように、1929年10月アメリカのニューヨークウォール街にある証券取引所で株式の価格が大暴落、不景気が世界じゅう広がる「世界恐慌」のうずの中にまきこまれていきました。

1929年7月、田中内閣のあとをうけて成立した浜口内閣は、その対策をとらざるを得ません。大蔵大臣だった井上準之助は、経済低迷の原因を構造問題の結果などとして、金輸出解禁や緊縮財政を行なったところ、ゆるやかなデフレ傾向だったのが、いっぺんに10%を越えるまでにデフレが進み、「昭和恐慌」といわれる深刻な不況の大きな原因をつくってしまいました。

やがてこのような失政の責任を追及する声が高まり、その責任者だった井上準之助がねらわれたのです。

事件の真相を究明するうち、犯人の青年が「血盟団」という急進的な国家改造運動をするグループで、当時の社会的危機の打開をファシズムに求め、政界や財界の要人を暗殺する手段を強行したのでした。

この事件は、日本がファッシズムの嵐に巻きこまれるきっかけのひとつだったことに間違いありません。


「2月9日にあった主なできごと」

1152年 源頼朝が捕われる…保元の乱から3年、政治権力をめぐる争いは、平清盛方と源義朝方に分れて戦う平治の乱となりました。この日初陣の13歳の 源頼朝 は、父義朝とともに東国へのがれる途中捕われの身となり、伊豆の小島で流人の生活がはじまりました。

1856年 原敬誕生…日本で初めて政党内閣を組織し、爵位の辞退を表明したため平民宰相といわれた明治の政治家 原敬(はら たかし) が、生まれました。なお、原敬は1921年、首相在任中に暗殺されました。

1881年 ドストエフスキー死去…「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」などを著し、トルストイやチェーホフとともに19世紀後半のロシア文学を代表する文豪・思想家 ドストエフスキー が亡くなりました。

1956年 原水爆実験中止決議…第2次世界大戦で広島・長崎に原爆被害を受けたわが国は、1954年南太平洋にあるビキニ環礁で行なわれたアメリカ水爆実験で、第5福竜丸が死の灰をあび、久保山愛吉さんの死亡したビキニ事件がおこりました。これがきっかけとなって、原水爆禁止運動がさかんとなり、国会はこの日原水爆実験中止を決議、アメリカ、ソ連、イギリス政府に実験中止の申し入れをしました。

今日2月8日は、ロシアをヨーロッパ列強の一員とし、バルト海交易ルートを確保したピョートル大帝が、1725年に亡くなった日です。

ピョートル大帝は、頑丈な体と何ものにも負けない強い意志を持ち、ロシアの近代化をすすめました。ピョートル大帝が1672年に生まれたころのロシアは、たいへんおくれた国でした。政治のすすめ方が古く、そのため産業や文化、教育など、あらゆる点で西ヨーロッパにおくれをとっていました。

ピョートルは、少年時代を宮廷ではなく、モスクワに近いあるいなかの村でひっそり暮らしていました。高い身分にもかかわらず、近所のふつうの住民と自由に交際することができました。同じ土地に外国人ばかり住んでいる所があったので、ロシア人のまだ知らない、進んだ知識をたくさん耳にしました。ピョートルの胸はときめきました。数学や建築、航海術をはじめとして、工作、印刷まで幅広く知識を修得しました。また、いなかの子どもたちと兵隊遊びをして、野や山をかけまわる活発な少年でした。この兵隊遊びは、のちに本格的な軍隊となり、ロシアの軍事政策の中心となります。

ピョートルは、22歳の年から、皇帝としての仕事を始めます。国力をのばそうと、すぐれた計画をたて、すばやく実行しました。

トルコにあるアゾフというとりでは、ロシアが外交政策をすすめるのにじゃまなところです。さっそく、自分の支配におこうとしましたが、戦力不足で失敗してしまいます。そこで、ピョートルは、有名な外人技術者と腕のよい職人を国じゅうからかき集め、海戦のために軍艦をつくらせました。ピョートル自身が現場で監督し、寒さと重労働にたえられずに倒れる者には、むちの雨をふらせ働かせました。1696年、再びアゾフを攻め、占領に成功すると、勢いにのって、ますます海軍の強化につとめました。

疲れを知らぬ行動力で、必要な知識や技術は、自分自身の手で学びとり、吸収しました。1697年には、名前を変え、皇帝の身分をかくして、海外を視察に行きました。オランダは、造船の技術が進んだ国です。ピョートルは、職人の見習いとして、アムステルダムの造船所にもぐりこみ、基本から勉強しました。汗と油にまみれ、へりくだったすがたは、皇帝とは思えませんでした。一方、政治や経済についても、西ヨーロッパの進んだ考えをとり入れ、各方面の学者や専門家を連れ帰って、ロシアの根強いおくれを解決しました。

ピョートル大帝は、人なみ以上の体力と気力の持ち主でしたが、おぼれている部下を助けようとして、つめたい海に飛びこんだのがもとで体を弱らせ、死んでしまいました。


「2月8日にあった主なできごと」

1828年 ベルヌ誕生… 『80日間世界一周』 『海底2万マイル』 『地底探検』 『十五少年漂流記』 などを著し、ウェルズとともにSFの開祖として知られるフランスの作家ベルヌが生まれました。

1834年 メンデレーエフ誕生…ロシアの化学者で、物質を形づくっている元素の研究をつづけ「元素の周期律表」を作成した メンデレーエフ が生まれました。

今日2月5日は、豊臣秀吉の命令により、カトリック信徒二十六名が、1597年に長崎で処刑された日です。

1549年、キリスト教イエズス会の宣教師 フランシスコ・ザビエル によって日本にもたらされた「キリスト教」は、スペインやポルトガルからやってきた多くの宣教師たちが、初等教育のセミナリヨや高等教育のコレジオと呼ばれる学校、病院、孤児院をこしらえるなど、地道な努力や布教活動が実って、信者を増やしていきました。

仏教の僧侶たちを心よく思っていなかった 織田信長 は、海外との貿易をさかんにしたいとの考えからキリスト教を保護しました。信長のあとをうけた 豊臣秀吉 もまた、はじめのうちはキリスト教の布教を許していました。

ところが秀吉は1587年、突然キリスト教を禁止する「バテレン(宣教師)追放令」を出したのです。その真意はよくわかっていませんが、おそらく、天下を統一した秀吉は、より強い封建社会を築きあげるために、キリスト教の掲げる人間の自由や平等という考えは、邪魔になると考えたのでしょう。でも、禁止令を出しても、本格的な取締りまでにはいたりませんでした。

1596年、サン・フェリペ号というスペイン船が土佐国に漂着した事件がおこりました。船荷を没収された船長が、その腹いせに「キリスト教の信者が増えれば、日本に軍隊を送りこみ、領土を広げる」といったとのうわさを聞きつけた秀吉は、キリスト教の信者26名をとらえ、京都の町中を引きまわした上、キリスト教が最も盛んだった長崎に送って、はりつけの刑に処しました。

26人は後にカトリック教会によって聖人とされましたが、これが日本のキリスト教受難の歴史のはじまりでもありました。
 

「2月5日にあった主なできごと」

664年 玄奘死去…中国・唐の時代の高僧で、中国の仏教を発展させた 玄奘(げんじょう) が亡くなりました。玄奘三蔵の著した旅行記「大唐西域記」は、のちの民の時代に、三蔵法師が、孫悟空、猪八戒、沙悟浄をしたがえて、さまざまな苦難を乗り越えて天竺へ経を取りに行く物語「西遊記」として描かれ、世界的に有名になりました。

1869年 小学校設置の奨励…明治政府は、小学校設置令を公布して小学校を設置するように全国に働きかけました。翌年に学制が発布され、1873年1月設置の東京師範学校附属小学校を皮切りに、1875年には約2万4千校の小学校が全国各地に設置されました。

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