児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年02月

今日2月26日は、北海道の北にある樺太(からふと・ロシア語で「サハリン」)が大陸とはつながっていない島であることを発見した間宮林蔵が、1844年に亡くなった日です。

樺太が日本人に知られたのは、16世紀以降だと伝えられています。初めは松前藩の領地でしたが、のちに江戸幕府の直轄領となりました。そして、1855年の「日露和親条約」では国境を設けず、両国民の混住の地とすると決められました。その後1875年には千島との交換で日本は樺太を放棄、さらに日露戦争後の「ポーツマス条約」で、樺太の北緯50度線以南(南樺太)は日本領となり、第2次世界大戦後は実質的にソ連(現ロシア)領となっています。しかし、ソ連がサンフランシスコ講和条約に調印していないため、日本政府は南樺太を所属未定地であるとしています。

間宮林蔵が樺太を探検したのは、幕府直轄領の時代です。ロシアの侵入から日本の北辺を守ろうとする幕府の命を受けて、林蔵は、この未開の地をさぐったうえに海を越えて中国大陸へ渡り、大陸とのあいだにある海峡を発見、樺太が島であることを証明しました。

この海峡はのちにシーボルトによって「間宮海峡」と命名され、この名を地球上に永遠に残したのです。

1775年、常陸(ひたち・現在の茨城県)の農家生まれの間宮林蔵が、どのようにして幕府の役人となり、伊能忠敬らに測量術を学んで、樺太探険の末に歴史的快挙をなしとげたのか、林蔵の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第29巻「間宮林蔵」をぜひご覧ください。


「2月26日にあった主なできごと」

1609年 琉球征伐…薩摩藩の藩主島津家久は、この日大軍を率いて琉球王国に攻め入り、4月までに征伐しました。当時琉球王国は、中国や東南アジアと日本を結ぶ中継貿易で栄えていましたが、これを薩摩藩が独占することになりました。

1802年 ユゴー誕生…フランス文学史上屈指の名作といわれる『レ・ミゼラブル』を著わした作家の ユゴー が生まれました。

1815年 ナポレオンがエルバ島脱出…ヨーロッパ同盟軍に破れ、エルバ島に流されていた ナポレオン は、この日の夜7隻の船に大砲を積みこんで島を脱出、皇帝に返り咲きました。しかし「100日天下」に終わり、セントヘレナ島に幽閉され、その地で亡くなりました。

1936年 2・26事件勃発…陸軍将校ら1400人が首相官邸などを襲撃する事件が起きました。詳細につきましては、2008年2月26日ブログ を参照ください。

今日2月25日は、フランスの印象派の画家で、風景画や花などの静物画から人物画まで、日本をはじめ世界中でもっとも人気の高い画家の一人 ルノアールが、1841年に生まれた日です。

「目に見えた物を、ただ正確に美しく描くのではなく、見た瞬間に感じたことや印象に残ったことを、絵にしていこう。また、暗いアトリエから外にでて、明るい太陽の下で、きらめく色彩と光線をたいせつにして絵をかこう」

19世紀の半ばすぎから20世紀のはじめに、このような考えで、絵をかくことが盛んになりました。印象派とよばれる絵です。

1841年にフランス中部のリモージュで生まれたピエール・オーギュスト・ルノアールは、この印象派で世にでた画家です。

小学生のころ、授業中に絵ばかりかいて先生をおこらせたルノアールは、家が貧しかったため、13歳のときから陶器工場で皿に絵をかいてはたらくようになりました。そして4年ののちには、扇子に絵をかく仕事にかわり、家の暮らしを助けながら、少しずつ絵の勉強をつづけました。

ルノアールの画家への道は、このようにして自然に開け、22歳のときには、はやくも展覧会に入選しました。

「形式にとらわれず、自由な色で自由な絵をかこう」

やがて、モネやシスレーとともに印象派の絵をかくようになり、33歳のときからほとんど毎年のように印象派展を開いて、大成功をおさめました。ルノアールは、この印象派展に、街で楽しそうにあそぶ人びとを描いた『ムーラン・ド・ラ・ガレット』などの傑作を、数おおく出品しました。

しかし、皿や扇子に絵をかいていたころから、絵は自分の感ずるままに楽しんでかくのだ、と信じてきたルノアールは、40歳をすぎると印象派の人びととはなれ、自分だけの絵をかきつづけるようになりました。

そののち、とくにおおく描いたのは、あどけない少女や、自然のままの女のすがたでした。なかでも、ありのままの女は、豊かな色で、やわらかく、あたたかく描くことを、どこまでも追究して『泉のほとりの女』『髪をゆう娘』などの名画をたくさん残しました。

59歳のとき、すばらしい芸術がみとめられて、国から、フランス最高のレジオン・ドヌール勲章がおくられました。ところが、このころから、関節がいたみ始め、リューマチに苦しめられるようになりました。

しかし、ルノアールは、絵をかくことをやめませんでした。車いすを使い、開かない手に絵筆をしばりつけて制作にはげみ、1919年78歳で世を去るまで、絵をかき、楽しむことを忘れませんでした。そして生涯に、3000点以上の絵をかいたということです。

なお、2008.2.8号のブログで、ルノアールの「坐るジョルジェット・シャンパンティエ嬢」 を記述しました。参考にしていただければ幸いです。


「2月25日にあった主なできごと」

903年 菅原道真死去…幼少の頃から学問の誉れが高く、学者から右大臣にまでのぼりつめたものの、政敵に陥れられて九州の大宰府へ左遷された平安時代の学者 菅原道真 が亡くなりました。

1000年 一条天皇2人の正妻…平安時代中期、政治を支配していた関白の 藤原道長 は、長女の彰子(しょうし)を一条天皇に嫁がせ、孫を天皇にしようと画策していましたが、この日藤原定子(ていし)を一条天皇の皇后に、彰子を中宮として、ともに天皇の正妻としました。

1670年 箱根用水完成…5年にもわたるノミやツルハシでトンネルを掘る難工事の末、芦ノ湖と現在の裾野市を結ぶ1280mの用水路箱根用水が完成しました。幕府や藩の力を借りずに、延べ人数83万人余という農民や町民の手で作り上げ、現在に至るまで裾野市とその周辺地域に灌漑用水を供給している技術は、高く評価されています。

1945年 河口慧海死去…中国や日本に伝承された漢訳の仏典に疑問をおぼえ、仏教の原典を求めて単身ネパールや鎖国中のチベットに入った、仏教学者で探検家の 河口慧海 が亡くなりました。

1953年 斉藤茂吉死去…写実的、生活密着的な歌風を特徴とするアララギ派の歌人の中心だった 斎藤茂吉 が亡くなりました。

今日2月24日は、ドイツに伝わる民話を「グリム童話」として集大成したグリム兄弟の弟ウィルヘルムが、1786年に生まれた日です。

「グリム童話」とは、グリムが創作した童話ではありません。ドイツに伝わってきた口伝えの昔話や伝説(民話)を、主として兄のヤーコブが収集し、弟のウィルヘルムが美しい文章に書き上げたものです。

兄弟が民話の収集を開始したのは、1806年頃といわれています。ドイツは、まだ一つの国になっておらず、小さな国ぐにわかれていて、国内はナポレオンとの戦争にかきみだされていました。

当時のドイツには、「疾風怒涛」(シュトゥルム・ウント・ドラング)と呼ばれる文学運動が発生していて、ドイツ文学の見直しが叫ばれ、民話や民謡など、大衆がこしらえてきた民族遺産に注目が集まっていました。そのため、数多くの作品集が刊行されてはいましたが、あまりにも改作が多いのです。共に、古代ドイツ語の研究やドイツ語学の研究家として知られていたグリム兄弟はこれを嘆いて、資料の正確性を求めて民話の原話収集からはじめました。

「グリム童話」(正確には「子どもと家庭のための童話」)の85編を収録した「第1集」が刊行されたのが1812年、「第2集」(70編)は1815年で、これが初版とされています。その後、1819年に第2版が刊行されてから版を重ね続け、1857年の第7版では200編となっています。

初版では、兄弟が主に、無学の老婆からの聞き書きをそのままの形で表現したため、粗さがめだちました。2版以降は弟のウィルヘルムが中心になって、内容を洗練させ、文学性の高い作品に仕上げていきました。

いずれにせよ、兄弟の功績は、民族の無形の遺産ともいうべき「民話」を総合的に掘りおこしたこと、昔話・伝説・神話などを、「民話」という学問として打ち立てたことでしょう。

日本にグリム童話を初めて紹介したのは1924年、翻訳家の金田鬼一でした。これがきっかけとなり、楠山政雄らたくさんの人が翻訳に挑戦し、今では240編以上ものグリム童話を読めるようになっています。

なお、グリム童話は、いずみ書房のホームページで公開している「オンラインブック」で読むことができます。 「せかい童話図書館」 では 「ヘンゼルとグレーテル」 「ブレーメンのおんがくたい」 の2点、 「レディバード100点セット」 では 「小人と靴屋」 「魔法のかゆなべ」 「金のガチョウ」 「狼と7匹の子やぎ」 「ガチョウ番の娘」 「眠り姫」 「ラプンツェル」「ランペルスティルスキン」 「勇敢な小さな仕立屋」 「親指トム」 「白雪姫」 「白雪と紅バラ」 「王女とかえる」 の13点です。ぜひ、のぞいてみてください。


「2月24日にあった主なできごと」

1873年 キリスト教禁制撤廃…1612年以来禁止されてきたキリスト教を、明治政府も国禁にしてきましたが、この日「キリスト教国禁」の高札を撤去。欧米諸国の非難や、条約改正を妨げる一因をなしていることを知った政府は、キリスト教を黙認する決断をしました。 まもなく、横浜、神戸、東京、大阪などにあいついで教会が建設され、明治文化や教育の発展に大きな力となりました。

1933年 国際連盟総会で抗議の退場…日本の国際連盟代表の松岡洋佑ら代表団は、スイスのジュネーブで開かれた臨時総会で、議場からいっせいに退場しました。前年に日本が中国東北部に建設した「満州国」を国際連盟が認めず、軍を引き上げるよう求める勧告案を、賛成42、反対1、棄権1で採決したことに抗議したものです。この総会の後日本は、3月27日、正式に国際連盟を脱退、国際社会の中で孤立する道を歩みはじめました。

1784年の2月23日、福岡県の小島・志賀島(しかのしま)の農民が、田んぼの用水路で金印を発見し、黒田藩の殿様に差し出しました。そこには「漢委奴国王」(かんのなのわのこくおう)と彫ってありました。

昨日「吉野ヶ里遺跡」で記した「弥生時代」も、1世紀の頃になると生産力の発達にともなって、貧富の差があらわれはじめ、力の強い部族が弱い部族を滅ぼして、政治的な社会である「国」があちこちに出来てきました。

日本列島のことが、はじめて文献に記されたのは、中国の歴史書である『後漢書』です。当時「後漢」(25~220年)という王朝が中国を支配していました。その「後漢書」に「楽浪の海中に倭人有り。それ百余国となる」(今の北朝鮮の向こう側の海のかなたに、倭人というものがすんでいる。倭人は100以上の国に分かれている)、さらにその国々の中でも「奴(な)という国は、光武帝という皇帝に貢物をもってやってきた。お返しに、金印を授けた」とあり、それは紀元57年のことでした。

福岡市付近にあった「奴国」は、強大な権力を誇る中国の皇帝から、金印を授けてもらうことで、周囲の国々より優位に立ちたかったのでしょう。後漢の都は、中国北西部にある「洛陽」でした。日本の社会が、朝鮮や中国の先進文明をむさぼるように求めている姿がよくわかるようです。

黒田藩の学者は、この農民の見つけた金印が『後漢書』にある「光武帝が倭の奴国の使者に与えた印」と断定しました。一時は疑問視されましたが、やがてこれが定説になり、1952年に国宝に指定され、現在は福岡市博物館に展示されています。


「2月23日にあった主なできごと」

1685年 ヘンデル誕生…バッハと並びバロック音楽の完成者といわれ、ドイツに生まれイギリスに帰化した作曲家 ヘンデル が生まれました。

1836年 アラモの戦い…アラモの砦に立てこもる182人のアメリカ・フロンティア義勇軍に、3000人ものメキシコ正規軍が攻撃を開始、有名なデイビィ・クロケットらも義勇軍に加わりましたが13日後に全滅。ただし、メキシコ軍にも大打撃を与え、この地にテキサス共和国ができることになりました。そして1845年、テキサスはアメリカ合衆国と合併、テキサス州となりました。

1989年2月22日、佐賀県にある「吉野ヶ里遺跡」の発掘調査の結果が発表され、国内最大規模の弥生時代の環濠(かんごう)集落と大々的に報道されました。そのため2月22日は、「吉野ヶ里遺跡で大規模な環濠集落が発見された日」とされています。

「弥生時代」とは、およそ1万2千年前に氷河期が終わり、日本列島が大陸から離れて現在の姿になったころからおよそ1万年間続いた「縄文時代」に続く時代で、3世紀半ばにはじまる古墳時代までをさします。紀元前10世紀~5世紀ころに中国や朝鮮半島を経由して稲作が伝わったことから始まりました。

縄文時代までは、食糧は自分たちで作るものでなく自然から得るものでした。それが栽培の方法を見つけたことで、毎年ある程度の収穫ができることは、暮らしの上で大きな変革でした。

「弥生」という名称は、1884年に東京文京区にある弥生町の貝塚で発見された土器が、縄文時代の縄目のような模様がついた厚手の縄文(式)土器に対して、網目のない薄手で丈夫な土器だったため、発見地にちなんで弥生(式)土器と呼ばれたことから、このようにいわれるようになりました。

稲作によって、稲が収穫できるようになると、これを保存する場所が必要になりました。低いところにおくと、ねずみに食べられたり、湿気で質が落ちてしまうために、長い間保存のきく高床倉庫が作られました。

弥生時代の代表ともいうべき「吉野ヶ里遺跡」の広さは、およそ40ヘクタール、東京ドームの13倍もある規模で、濠(ほり)に守られた住居地区には、竪穴式住居や高床倉庫をもちろん、物見やぐらや貯蔵穴、土坑、青銅器製造工房などの跡もみつかっています。

さらに、多数の遺体がまとまって埋葬された甕棺や石棺、土坑墓は、一般の人の共同墓地だと考えられています。甕棺にある人骨には、ケガをしたり矢じりが刺さったままのもの、頭のないものまであるため、部落間のはげしい戦があったこともうかがえます。

現在の吉野ヶ里遺跡は、歴史公園として国がその一部を管理する公園となりました。物見やぐらや二重の環濠など、防御的な性格が強く残っているため、日本の城郭の始まりともいわれています。


「2月22日にあった主なできごと」

622年 聖徳太子死去…用明天皇の第二皇子で、推古天皇(叔母)の摂政として、「17条の憲法」「冠位十二階」の制定など、内外の政治を立派に整えた飛鳥時代の政治家 聖徳太子 が亡くなりました。

1732年 ワシントン誕生…イギリスからの独立戦争で総司令官として活躍し、アメリカ合衆国初代大統領となった ワシントン が生まれました。

1810年 ショパン誕生…「ピアノの詩人」といわれ、ピアノの形式、メロディ、和声法など、これまでにない表現方法を切り開いた作曲家 ショパン が生まれました。

1848年 フランス2月革命…フランスの首都パリで、2月革命と呼ばれる革命がおこりました。選挙改革を求める集会が禁止されたことに抗議した労働者や学生がデモ行進やストライキを行ったことで、国王が退位して、第2共和制がスタートしました。革命はヨーロッパ各地に伝わり、ナポレオンの失脚後の「ウィーン体制」(1789年のフランス革命以前の状態を復活させる) の崩壊につながりました。

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