児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年01月

今日1月7日は、室町幕府の第8代将軍でありながら政治に興味がなく、11年も続く内乱「応仁の乱」をひきおこすきっかけをこしらえた足利義政が、1490年に亡くなった日です。しかし、国宝となっている銀閣寺を建てるなど、東山文化を遺した功績は高く評価されています。

足利義政は、わずか13歳で将軍になりました。父義教が殺され、父のあとをついだ兄義勝は病死したからです。しかし、幕府の実権をにぎっていたのは、細川勝元、山名持豊らの守護大名でした。そのうえ、ききんがつづいて農民たちの一揆がおこり、世は乱れていました。

義政は、自分の思いどおりの政治ができないばかりか、農民や貧しい人びとの借金を取り消す徳政令を何度もだして、世の中の経済をみだしてしまいました。農民たちのことを考えたからではありません。義政は意志が弱く、農民たちの強い訴えにいつも負けたのです。そして、妻にむかえた日野富子や富子の兄の日野勝光までが、政治に口だしするようになると、将軍義政の存在は、ますます影のうすいものになっていきました。

「勝元に助けさせて、弟の義視をつぎの将軍にしてしまおう」

やがて義政は、のんびりした気ままな暮らしを求めて、将軍職を弟にゆずる決心をしました。

ところが、義視に将軍の位をゆずる約束をしたよく年、富子が、義政の子義尚を生みました。母親が、わが子を将軍にしようとねがうのはとうぜんです。富子は、持豊をうしろだてにして義尚をたて、義視をしりぞけようとしました。すると、ほかの守護大名たちも、自分の立場を有利にすることだけを考え、勝元がわと持豊がわに分かれて、対立するようになりました。

1467年、将軍の座をめぐる争いは、細川氏と山名氏の勢力争いもからんで、京都を中心に、日本じゅうを戦乱のうずにまきこみました。これが、11年にもおよぶ内乱「応仁の乱」の起こりです。

義視をたてた義政は、勝元がわにつきました。でも、戦乱のようすを、ただ、ながめているばかりでした。つぎの将軍のことなど、どうでもよかったのかもしれません。

戦乱が始まって6年ご、義政は、義視との約束をやぶって義尚に将軍職をゆずり、趣味の世界へ心をよせていきました。そして、争いがおさまると、長い戦で京都の町は焼け野原になったというのに、東山に山荘を建てることを計画しました。1階を書院造風の住宅、2階を禅宗様式の仏堂とした銀閣です。

政治に無力だった義政は、幕府の権威をおとしました。しかし、のちの世に大きなものを残しました。義政の力が中心になって栄えた建築、生け花、茶の湯、連歌、能楽などの文化です。いまはこれを、金閣寺を建てた3代将軍 足利義満 の「北山文化」に対し、銀閣寺の地名から「東山文化」とよんでいます。

晩年を文化人として生きた義政は、54歳で亡くなりましたが、このとき、夢にえがいた銀閣は、まだ完成していませんでした。


「1月7日にあった主なできごと」

1835年 前島密誕生…日本の近代郵便制度の創設者で「郵便」「切手」「葉書」という名称を定めた 前島密 が生まれました。

1868年 征討令…1月3日~6日の鳥羽・伏見の戦いに勝利した維新政府は、この日江戸城にこもった 徳川慶喜 に征討令を出し、同時に諸藩に対して上京を命じました。征討軍の総帥は 西郷隆盛。そして4月11日、徳川家の謝罪を条件に江戸城・明け渡し(無血開城)が行なわれました。

1932年 スティムソン・ドクトリン…アメリカの国務長官スティムソンは、この日「満州における日本軍の行動は、パリ不戦条約に違反するもので、これによって生ずる一切の状態を承認することはできない」との声明を発し、日本政府を弾劾しました。これが、太平洋戦争に至るアメリカの対日基本方針となりました。

1989年 昭和天皇崩御・・・前年から容態が危ぶまれていた昭和天皇が、この日十二指腸の線がんで亡くなりました。皇太子明仁親王が即位し、昭和64年は平成元年となりました。昭和は日本の元号のなかでは最も長い62年と2週間でした。

今日1月6日は、鎌倉時代の初期、源頼朝の打ちたてた鎌倉幕府の実権を握り、北条氏の執権政治の基礎を築いた武将・北条時政が、1215年に亡くなった日です。

北条氏は、桓武天皇の流れをくむといわれた豪族でした。1159年の平治の乱で源義朝が 平清盛 にやぶれ、その翌年に義朝の子の 源頼朝 が伊豆へ流されてきたとき、時政は、これを監視する役につきました。

ところが、それから約20年の歳月が流れて40歳をすぎた時政は、平氏を討つために立ちあがった頼朝に味方をして、自分も兵をだしました。むすめの政子が、いつのまにか、ふかく愛するようになった頼朝とむすばれていたからです。

1185年、3月に平氏が壇ノ浦でほろび、10月に、頼朝と仲が悪くなった弟の 源義経 が兵をあげようとすると、時政は頼朝の代官として京都へ入りました。義経に力をかそうとした朝廷と公家を頼朝になびかせるのが、時政の任務でした。義経は兵を集めるのに失敗して京都を逃げだしました。

時政は、頼朝が開こうとする鎌倉幕府の目を全国に光らせるために、地方に守護、地頭の武士を新しくおくことに後白河法皇を説きふせて、鎌倉へ帰りました。

やがて鎌倉幕府が開かれ、時政は、頼朝の義父として大きな権力を自分のものにしました。しかし、61歳になったとき、時政の地位は危なくなりました。頼朝が死に、孫の頼家が将軍になると、頼家の妻の父に当たる比企能員(ひきよしかず)が、それまでの時政と同じように将軍の義父として権力をふるいはじめたのです。

頼朝が死んだあと、幕府の実権をにぎってしまうことを秘かに考えていた時政は、心がおだやかではありません。そこで、1203年、時政はついに比企一族をことごとく討ちほろぼしてしまいました。そのつぎの年には、将軍の地位をしりぞかせて伊豆の修善寺にとじこめていた頼家までも、家来に命じて殺してしまいました。このとき頼家は、まだ22歳でした。

1203年、時政は、頼家の弟で、わずか11歳になったばかりの 源実朝 を、鎌倉幕府の第3代将軍にたてました。

しかし、時政には実朝を将軍としてもりたてる心など初めからなく、政所別当として自由に政治をあやつり、幕府の実権をにぎってしまいました。これが北条氏の執権政治の始まりです。

時政は、その後、こんどは自分の娘のむこを次の将軍にたてることを考えて、実朝を殺してしまうたくらみをしました。ところが、この悪だくみがばれて、逆に自分が鎌倉を追われ、出家したのち77歳で、伊豆でさみしく死んでいきました。


「1月6日にあった主なできごと」

1412年 ジャンヌ・ダルク誕生…「百年戦争」 でイギリス軍からフランスを救った少女 ジャンヌ・ダルク が生まれました。

1706年 フランクリン誕生…アメリカ独立に多大な貢献をした政治家、外交官、また著述家、物理学者、気象学者として多岐な分野で活躍した フランクリン が生まれました。

1822年 シュリーマン誕生…少年時代 「子ども世界史」 という本で読んだ伝説だというトロヤ戦争が、ほんとうにあったことだと信じ、トロヤの遺跡を掘りおこした シュリーマン が生まれました。

1831年 良寛死去…自然や子どもを愛しながら、歌人・詩人・書家として生きた僧侶 良寛 が亡くなりました。

1884年 メンデル死去…オーストリアの司祭で、植物学研究を行い、メンデルの法則と呼ばれる遺伝に関する法則を発見した メンデル が亡くなりました。

1887年 シャーロック・ホームズ登場…イギリスの推理作家コナン・ドイルは、『緋色の研究』の中で名探偵シャーロック・ホームズを初めて登場させました。

1912年 大陸移動説…ドイツの地理学者ウェゲナーは、地球上の大陸は一つの大きな大陸が分裂・移動して生まれたという「大陸移動説」を学会で発表。長い間否定されていましたが、1950年代の磁力計の進歩によって、現在は定説となっています。

あけまして、おめでとうございます。

ところで、正月早々、お年玉をあげた孫に 「どうして、お正月はめでたいの ?」 とたずねられました。

「新しい年がくると、みんな今年もがんばろうという気持になるよね。それで、『おめでとう』というんだ」 といっても、不満そうな顔をしています。そこで 「きみは、お誕生日になると歳がひとつ増えるので、みんなから『おめでとう』といわれるよね。でも、おじいちゃんの子どものころは、数え年といって、お正月になると歳がひとつ増えたの。だから、『おめでとう』というようになったんだ」(注:1950年の1月1日から、満年齢に改正されました) というと、満足そうでした。

本来は、年の初めに、五穀豊穣と繁栄をもたらし、人びとに新しい活力を与えるとされる年神様を讃え、1年の無事を祈る言葉として「おめでとう」とあいさつを交わすものでした。むかしの日本では、種をまく農作業のはじまる春の正月が1年のはじまりと考えていたため、春が来て作物が芽吹くので、「芽出たい」というようになったという説もあります。

いずれにせよ、これからはじまる新しい年の健康を祈り、みのり豊かな年であってほしいという願いをこめ、心から 「おめでとう」 のあいさつをしたいものです。

今年も、内容のある記述をこころがけますので、よろしくおつきあいいただければ幸いです。

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