児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年01月

今日1月15日は、幕末の1862年のこの日、老中安藤信正が江戸城の坂下門外で、水戸浪士ら6人に襲われた日です。

水戸浪士らは、1860年3月に桜田門外の変を起こして、大老・井伊直弼 を殺害しています。直弼が、1858年に朝廷の許可を得ないまま、アメリカと「日米修好条約」を結び、箱館(函館)・新潟・神奈川・兵庫・長崎の5港の開港したばかりでなく、治外法権・領事裁判権・関税自主権の放棄といった不平等条約を結んだこと。これに反発する 吉田松陰 や橋本左内らを処刑したほか、大名や学者らを処罰する「安政の大獄」を引き起こしたことが、直弼殺害の要因でした。

直弼のあとをうけたのが、老中安藤信正でした。優秀な人材が次々と幕府を去り、もはや幕府には時局を乗り切れるだけの指導力がなくなっていました。そこで安藤は、公武合体を構想しはじめました。つまり、皇室の権威を利用して幕府の権力を回復しようというものです。そして孝明天皇の妹である和宮を、1859年10月に14代将軍家茂の妻とするために江戸城へ迎えることに成功しました。

そんな信正のやり方に憤慨した尊王攘夷派の志士たちは、みだりに皇室を利用するものとして、その暗殺を企てたのが「坂下門外の変」でした。しかし、幕府は、直弼の轍はふみません。かごの周囲には警護の武士が50名あまりもいて、桜田門外のような奇襲攻撃を許しませんでした。暗殺者6名はみな切り殺され、信正は背中に軽い傷を受けただけでした。でもこの事件を起こした責任を問われ、信正は4月に老中を罷免されました。

こうして、幕府の力はしだいに弱まり、文武に優れ家康の再来といわれた 徳川慶喜 が1866年に15代将軍につくも、時期が遅すぎました。その翌年大政奉還し、264年続いた江戸幕府の幕を閉じたのです。


「1月15日にあった主なできごと」

1918年 ナセル誕生…スエズ運河の国有化、アスワン・ハイ・ダムの建設につとめ、第三世界(アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの発展途上国)の指導者として活躍したエジプトの ナセル が生まれました。

1939年 70連勝成らず…大相撲春場所4日目、69連勝中の横綱双葉山はこの日、関脇安芸の海に敗れ、70連勝をのがしました。当時の大相撲は、1月と5月の1年2場所・10日制で、現在の1年6場所・15日制と、条件の違いはありますが、69連勝という記録は、いまだに破られていません。

今日1月14日は、イギリスの数学(幾何学)者でありながら、『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』 などファンタジーあふれる児童文学作品を著したドジソン(筆名ルイス・キャロル)が、1898年に亡くなった日です。

『不思議の国のアリス』 は、こんな内容です。

少女アリスは、ふいに現われたウサギを追いかけて穴に飛びこみました。するとそこは、「不思議の国」でした。アリスは、見失ったウサギを探しているうちに、広間に出ました。ところが、部屋には戸口がたくさんあるのにカギがかかっています。なんとかカギを見つけたのに、小さすぎてどのドアにも合いません。たったひとつあいた戸口も40cmくらいなので、アリスには小さすぎて入れません。テーブルの上にあった「お飲みなさい」と書いてある水を飲むと、何とアリスはどんどんちぢんで25cmほどのちょうどよい高さになりました。ところが、テーブルの上においたカギを置き忘れてしまいました。こんどは小さすぎてしまったために、テーブルに手がとどきません。床の上にあった小さなガラスの箱の中のケーキに、干しブドウで「お食べなさい」とがあるのに気づいたアリスは、それを全部食べてしまうと、どんどん大きくなって天井に頭がぶつかってしまいました。こんな災難続きに、アリスはとうとう泣き出してしまいました。すると、大つぶの涙で池が出きてしまいました……。

その後、自分の涙の池で泳いだり、ありそうもないこと、おかしなこと、奇妙な動物や人間が次から次と登場します。たとえば帽子屋は、自分の出したナゾナゾにみんなが答えられないので大威張りですが、実はそのナゾナゾには答えがないのですからむちゃくちゃです。でも、そのむちゃくちゃの中にも、読みこんでいくうち、深いあじわいのある内容がこめられています。子どもたちばかりでなく、たくさんの大人たちに読みつがれているのはそのためでしょう。

いずみ書房のオンラインブックのひとつ「レディバード100点セット」には、『不思議の国のアリス』 の参考訳を掲載していますので、ぜひ目を通してみてください。


「1月14日にあった主なできごと」

1602年 狩野探幽誕生…400年も続いた日本画を代表する狩野派の、江戸幕府代々の御用絵師として栄える基礎を築いた 狩野探幽 が生まれました。

1843年 新島襄誕生…同志社を設立するなど、明治の初期に教育者・宗教家として活躍した 新島襄 が生まれました。

1875年 シュバイツァー誕生…アフリカの赤道直下の国ガボンのランバレネで、生涯を原住民への医療などに捧げたドイツの神学者・医師 シュバイツァー が生まれました。

1925年 三島由紀夫誕生…ちみつな構成と華麗な文体で人気のあった作家でありながら、アメリカに従属する日本を憂えて自衛隊の決起をうながすも受け入れられず、割腹自殺をとげた 三島由紀夫 が生まれました。

1950年 ベトナム民主共和国再独立宣言…1945年9月、ホーチミンを大統領とするベトナム民主共和国は独立を宣言し、東南アジア最初の共産主義国家として独立しました。しかし、翌年支配国だったフランスが待ったをかけ、8年にもわたる第1次インドシナ戦争に突入、1949年6月には、ベトナム国をサイゴンに成立させました。この日ホーチミンは、前年に独立した中華人民共和国の援助を受けて、改めて独立を宣言しました。

1953年 チトー大統領…独立まもないユーゴスラビアは、この日ユーゴ解放の国民的英雄チトーを大統領に選びました。チトーの指導のもとに、非同盟中立という、社会主義国ばかりでなく資本主義国とも手をつなぐという独自の方針を貫き、6つの共和国をまとめあげました。しかし、1980年チトーの死とともに、共和国間の紛争があちこちでおこり、1991年クロアチア、マケドニア、スロベニア、1992年ボスニア・ヘルツェゴビナが独立、2003年ユーゴスラビアの国名は消滅し、セルビア・モンテネグロとなって独立(2006年セルビア、モンテネグロに分離)しました。

今日1月13日は、はじめて武士による政権となった鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)が、1199年に亡くなった日です。

平安時代の中期以降、天皇や貴族が治めていた摂関政治、院政の世に、武士が力を強めてきたのは、1156年におこった「保元の乱」がきっかけだといってよいでしょう。この戦は、天皇側と上皇側との争いでしたが、武士の源氏(棟梁・源義朝)と平氏(棟梁・平清盛)は、後白河天皇に味方して勝利をおさめました。

源頼朝は、この源氏の棟梁だった源義朝の3男として1147年に生まれました。

ところが「保元の乱」で勝利した後白河天皇は、清盛にばかりに目をかけたために、義朝は気に入りません。その3年後の1159年に、両者の戦いとなる「平治の乱」がおこって、義朝は清盛に敗れてしまいました。そして、敗れた義朝は鎌倉に落ちのびる途中で殺され、13歳で参戦した頼朝も捕えられてしまいました。処刑されるはずの頼朝でしたが、清盛の継母にあたる池禅尼に懇願された清盛は、頼朝を伊豆の小島に島流ししました。

ライバルを討ち負かした清盛の勢いは、「平家にあらずんば人にあらず」というほどの権勢を誇りましたが、「おごる平家は久しからず」の言葉通り、長くはつづきませんでした。

天皇から上皇となった後白河法皇が、1177年、平家を倒す計画が漏れた事件「鹿ヶ谷密談」などが契機となって反平氏運動が高まり、やがて1180年には法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)による平氏討伐の命が、伊豆に流されていた頼朝のもとに届きました。

豪族たちに監視されて、20年もの間ひっそりと暮らしていた頼朝でしたが、その豪族のひとりである北条時政の娘政子と結婚して、北条氏を味方につけた頼朝は立ち上がることにしました。

でも、この時の頼朝の兵はわずか300名ほどだったため、たちまち敗れて安房・館山に逃げ落ちました。頼朝はこの地で、保元の乱のときに父義朝の家臣となっていた武士をはじめ、関東の多くの地にいた武士をときふせながら、ついに数万もの大軍を率いて鎌倉に入り、平氏に対抗するようになりました。

驚いた清盛は、すぐに平維盛を総大将とする大軍を関東に進軍。頼朝はこれを迎えうつために静岡の富士川の東岸に対陣しました。ところが、平氏軍は深夜の水鳥の羽音を、夜襲と勘違いして逃げ出したのです。(1180年富士川の戦い) 戦わずして勝利した頼朝は平氏を深追いせず、関東に地盤を固めて、鎌倉に幕府の基礎を確立しました。

この戦い以来、源平の戦はあちこちで続き、北陸では木曽義仲(源義仲)が挙兵し、平家軍を敗って京都に進軍していきましたが、義仲がそこで乱暴を働くとみるや、頼朝は義仲を討ちました。さらに弟の源義経 を大将にして平家を攻めさせて、一の谷、屋島の合戦でやぶり、1185年3月に壇ノ浦まで追いつめ、ついに平氏をほろぼしました。

この戦勝により義経は、頼朝の指示を受けることなく、朝廷から官位を受けるなど、後白河法皇に利用されはじめました。頼朝は、兄弟を仲たがいさせようとする朝廷の陰謀を知り、義経に警告しました。でも義経はそれを理解できず、反対に後白河法皇へ頼朝追討の院宣を出してもらったのです。しかし、義経のもとに集まる兵力は少なく、都から奥州藤原氏を頼って逃げました。

当時の奥州は藤原秀衡(ひでひら)が統治していました。秀衡は、頼朝の義経引渡しの要求に応じませんでしたが、1187年に亡くなると、後継者の藤原泰衡は、翌年4月に義経を衣川の高館で殺害しました。頼朝はこの泰衡の行為に怒り、藤原氏が義経をかくまったことを責めて、大軍を率いて奥州征討を開始し、9月に藤原氏は滅び、頼朝は全国の支配権を手にしました。

こうして、頼朝は1192年に征夷大将軍になり、鎌倉幕府を開いたのでした。

なお、頼朝の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第21巻 「源頼朝」 をご覧ください。

頼朝は、自分に厳しくまた周囲の者にも厳しい人でした。そのため、弟の義経や範頼をはじめ手柄のあった者も殺しています。これが頼朝の失敗だったのでしょう。その後の政治を継いだのは、妻の政子とその一族の北条氏でした。結局、頼朝が長い苦労の末に築き上げた源氏による幕府は、わずか3代でその幕を閉じてしまいました。

 

「1月13日にあった主なできごと」

1653年 玉川上水…江戸幕府は急増する江戸市民の水を補うために、町人(玉川)清衛門、庄衛門兄弟に建設を命じました。多摩川上流の羽村から四谷まで50km余に水を通す出す大規模な難工事で、翌年6月、江戸市内に流れこんだ清流に、江戸市民は躍り上がって喜びました。江戸の人口は、17世紀末には100万人に達し、ロンドンやパリを越えて世界一だったそうです。

1860年 咸臨丸出港…江戸幕府のオランダから購入した洋式軍艦咸臨丸は、この日品川沖からアメリカに向けて出港しました。勝海舟 を艦長に、福沢諭吉中浜万次郎 らをのせて、初の太平洋横断に成功しました。
 
1864年 フォスター死去…「オールドブラックジョー」「故郷の人々」など数多くの歌曲を作曲したアメリカを代表する作曲家 フォスター が亡くなりました。

1935年 ザールがドイツ復帰…ドイツとフランスの国境にあり良質な石炭に恵まれ鉄鋼業や工業が盛んだったザール地方は、第1次世界大戦後ドイツ本国から分離され、フランスの保護領になっていました。この日の住民投票の結果、ドイツへ復帰、ヒトラーはこれをナチスの勝利として、さらに領土拡大のために軍備を整えていきました。

今日1月12日は、スイスの片田舎で孤児や貧民の子らへの教育に従事するなど、子どもたちへの愛の教育を貫いたペスタロッチが、1746年に生まれた日です。

従来の初等教育は、教壇に立つ先生が、文字を教えたり聖書の言葉を覚えさせるといったものでした。ペスタロッチはそんな教育に背を向け、麦を栽培させたり織物を織ったり、手仕事や労働を行うことを通して、一人ひとりの子どもが、自発的・主体的に行動しながら、個性豊かに、人間らしい人間として育つことを願ったものでした。子どもたちが生まれつき持っている能力の芽を、愛の力で伸ばすことの大切さを、理論を口にするのでなく、みずから子どもの中に飛びこんでいって実践をくり返し、その実践をとおして教育の本質を解明していったところに偉大さがあります。

その教育理念は、フィヒテや フレーベル らが継承しました。近代的な教育の礎は、ほとんどペスタロッチによって築かれたといっても過言ではありません。ペスタロッチの教育論は、日本にも明治10年代に紹介され、やがて大正時代花開いた、新初等教育の展開を促進するうえで強い影響を及ぼしました。

ぺスタロッチの82年の人生には挫折が多く、今でこそ教育思想家、教育実践家として高く評価されていますが、生きている間は、報われなかった一人です。そんなペスタロッチの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第7巻 「ペスタロッチ」 をぜひご覧ください。


 
「1月12日にあった主なできごと」

1628年 ペロー誕生…「長靴をはいたねこ」「眠り姫」「サンドリヨン(シンデレラ)」など、ヨーロッパに伝わっている民話を題材に11のお話を「ガチョウおばさんの物語」という本に著したフランスの詩人、童話作家のペローが生まれました。

1866年 河口慧海誕生…中国や日本に伝承された漢訳の仏典に疑問をおぼえ、仏教の原典を求めて単身ネパールや鎖国中のチベットに入った、仏教学者で探検家の 河口慧海 (えかい)が生まれました。

1914年 桜島が大噴火…鹿児島の桜島が大爆発をおこし、流失した30億トンという大量の溶岩で、これまで島だった桜島は対岸の大隈半島と陸続きになりました。

今日1月8日は、ベネチアの商人で、元(中国)に17年も仕え 『東方見聞録』 を遺した旅行家 マルコ・ポーロ が、1324年に亡くなった日です。

1298年に、口述筆記によって書かれたといわれる 『東方見聞録』 によりますと、マルコの父ニコロと叔父のマテオは、1260年コンスタンチノープルから黒海を渡り東方への商売に向かいました。

商売は順調でしたが、1261年から2年間続いたモンゴルの戦乱に巻きこまれて、コンスタンチノープルに戻れなくなってしまいました。しかたなく2人は戦乱を避けて東へすすみ、とうとうカラコルムにたどり着きました。

そこはモンゴル帝国の首都で、フビライ・ハンが治める都でした。フビライはキリスト教に興味を持ち、2人に「キリスト教に精通している賢者100人を送ってほしい」「エルサレムのイエス・キリストの墓に灯されているランプの聖油を分けてほしい」という手紙を、ローマ法王に届けてほしいとたのみました。
 
1271年にベネチアにもどった2人は、約束の100人の賢者を連れて行くのは果たせませんでしたが、わずか17歳のマテオの息子マルコポーロを連れ、ランプの聖油を持参して出発しました。

3人は、中央アジアを経て、3年半もの辛く厳しい旅をのりこえ、元の大都(現在の北京)にたどり着きました。フビライ・ハンは礼を尽くして3人を迎えました。特に若いマルコが気に入って、外交官として召しかかえました。約17年間の勤務のなかで、中国各地を旅行するなどの体験を記したのが『東方見聞録』で、1271年から1295年にわたるマルコの冒険の記録といってよいでしょう。
 
マルコの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第3巻 「マルコ・ポーロ」 をご覧ください。
  
「ほんとうに見たことの半分も書けなかった」というマルコの旅行記ですが、わずか1世紀後のルネサンスの人びとに唯一の世界旅行記として注目されたばかりでなく、ヨーロッパ人として初めてアメリカを発見したコロンブスがこの本に記されている「黄金の国ジパング(日本)」をめざして大航海に出たと伝えられています。さらに、20世紀になってからも、スタインや ヘディン といった探検家は、生きた手引書としてこの本を携え、やけつく砂漠を横切っていったといわれています。


「1月8日にあった主なできごと」

1642年 ガリレオ死去…イタリアの物理学者、天文学者で近代科学を拓いた功績者 ガリレオ が亡くなりました。

1646年 徳川綱吉誕生…江戸幕府の第5代将軍で、当初はすぐれた政治を行ないましたが、やがて「生類憐みの令」をはじめ、悪政といわれる政治を次々とおこなうようになった 徳川綱吉 が生まれました。

1918年 平和原則14か条…アメリカのウィルソン大統領は、秘密外交の廃止、海洋の自由、軍備縮小、民族自決、国際連盟の設立など、平和原則14か条を発表しました。この提唱が基になって、2年後に国際連盟が設立されました。

1941年 戦陣訓…日中戦争中のこの日、陸軍大臣 東条英機 は、全陸軍兵に軍人としてとるべき行動規範を示した文書「先陣訓」を通達しました。このなかに示された「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という一節が、多くの兵士に死を強いることになりました。

1961年 アルジェリア自決投票…フランスの植民地支配に対するアルジェリアの独立戦争は、1954年から長い間行なわれてきましたが、この日フランスの国民投票で、ドゴール大統領のアルジェリア自決政策が多数の支持を得ました。これがきっかけとなって、100万人もの犠牲者を出した戦争は終結。1962年3月、アルジェリア人民共和国が成立しました。

↑このページのトップヘ