児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年01月

今日1月22日は、イギリス最大の詩人のひとりといわれるバイロンが、1788年に生まれた日です。

バイロンは、ヨーロッパじゅうが、ゆれ動き、混乱していた19世紀の初めに、ロマン派の代表的な詩人として活躍した人です。するどい感覚で、おおくの詩をつくり、名をあげましたが、とつぜん軍隊に加わって、戦闘の中で死にました。短い人生でした。しかし、いつも情熱を燃やしつづけ、自由を求める、はげしい生涯をおくりました。

バイロンは、ロンドンの貴族の家に生まれましたが、父は家を捨てて、旅にでてしまいました。そのため、のこされた家族は、スコットランドのいなかに、うつり住み、ひっそりと暮らしました。バイロンは、森や墓場をさまよっては考えをめぐらし、詩を読む生活をこのみました。足が生まれつき不自由だったことを気にして、たいへん神経質でした。しかし、人に弱味を見せたくないという、負けずぎらいの性格を持ち、野原を走り回ったり、川で泳いだりするほど活発な面もありました。

やがて、青年になったバイロンは、ケンブリッジ大学に入りますが、はげしい反抗心のため、とちゅうでやめてしまいます。バイロンの考え方は、ますます情熱的になり、21歳のとき、自由を求めて、イギリスをとびだしました。スペインから地中海沿岸の町まちをさすらいながら、詩をつくる毎日でした。もてあますほどの情熱をもっていたバイロンは、ある時、流れの急なダーダネルス海きょうを、泳いでわたりました。必死にとめる友人をむりやりふり切って、海にとびこみました。「泳いだのは、名誉のためだ」と、バイロンは詩に書いています。

旅は、2年にわたりました。バイロンは、旅行中のさまざまな感動を『チャイルド・ハロルドの巡礼』と題する長編詩にあらわしました。この作品で、バイロンはいちやく、すい星のように、文学の世界におどりでました。1812年のことです。人気詩人となったバイロンは、議員におされたり、はなやかな社交界でもてはやされたりしながら、つぎつぎに詩集を発表しました。『邪宗徒』『アビュドスの花嫁』『海賊』『コリントの包囲』などの物語詩です。

ところが、人気詩人として思いのままの生活をおくる傲慢なすがたが、しだいに評判を悪くして、イギリスに居づらくなりました。バイロンは、ギリシアへわたり、独立戦争に参加します。「詩人としての、ぼくの仕事は終わった」と言って、1824年に戦地へおもむきますが、重い熱病におかされ、急死してしまいました。まだ36歳という若さでした。

「死ぬことなど何とも思わない。でも、この世に愛するものを残していくのは何と心残りなことだろう……さあ、それでは眠ることにしよう」という臨終の言葉を残して……。


「1月22日にあった主なできごと」

1793年 大塩平八郎誕生…江戸時代後期の儒学者で大坂町奉行所の与力を勤めるも、窮民救済を叫んで反乱(大塩平八郎の乱)をおこして失敗した 大塩平八郎 が生まれました。

1905年 血の日曜日事件…ロシアの首都ペテルブルクで、労働者10数万人が皇帝へ請願のデモ行進をしていたところ、軍隊が突然発砲し3千人余りの人たちが死傷しました。当時は、日露戦争のさなかで、年初に旅順が陥落するなど、人々の生活の苦しさはピークに達していました。この事件をきっかけに、各地にソビエトが生まれたために「ロシア第1革命」ともよばれています。

今日1月21日は、ロシアの革命家で、世界で初めて成功した社会主義革命「ロシア革命」を主導し、ソビエト連邦、ソビエト共産党の初代指導者となったレーニンが、1924年に亡くなった日です。

ウラジミル・イリッチ・レーニンは、1870年に、ボルガ川のほとりのシンビルスクで生まれ、教師の父からは厳格に、文学や音楽を愛する母からは、やさしく育てられました。

そのころのロシアは、皇帝や貴族たちが政治の権力をにぎり、自由をうばわれた労働者や農民たちは、いつも貧しいくらしをおしつけられていました。国民のおおくは皇帝をにくみ、レーニンも、貧しい人びとのいなくなる国を夢にえがきながら成長しました。

16歳のときに父を亡くし、つぎの年には、皇帝暗殺の計画に加わっていた兄が死刑になり、レーニンの心は大きくゆれ動きました。

「労働者を賃金であやつる資本家をたおし、すべての人間が平等に豊かにくらせる社会主義を、うちたてなければならない」

マルクス主義に心をうたれ、国の政治に反対する学生運動に参加して大学を退学させられたレーニンは、同じ考えの人たちと手を結び、はたらく人びとの社会をきずくために闘い始めました。また、闘いのかたわら、大学卒業の資格試験に合格して弁護士になり、弱い人たちの味方になって活躍しました。

しかし、権力をもたない人たちの手で国の政治を変えることは、雲をつかむよりも、たいへんなことでした。

政府や警察ににらまれて、25歳のときには14か月も監獄に入れられ、さらに2年後には、3年間も遠いシベリアにとじこめられました。シベリアからもどってからも、いのちを守るために何度も国の外へにげださねばなりませんでした。レーニンの考えに反対する男に銃でうたれて、重傷を負ったこともありました。

レーニンは、どんなことにもくじけず、とらわれているときは本を読み、論文を書き、外国にいるときは新聞を発行して自分の考えを訴え、革命への灯を燃やしつづけました。1914年に第1次世界大戦がおこったときは、貧しい人びとを苦しめる戦争に反対して、国をくつがえす運動を広めていきました。

「レーニンばんざい。労働者ばんざい」

1917年、レーニンは人民委員会議長に選ばれて、革命はついに成功しました。そして、1922年には、ソビエト社会主義共和国連邦をつくりあげました。しかし、それからわずか2年後に、世界の労働者に惜しまれながら永遠の眠りにつきました。ソビエト国民のために生きた、はげしい生涯でした。


「1月21日にあった主なできごと」

1530年 上杉謙信誕生…戦国時代に武田信玄、北条氏康、織田信長らと合戦を繰りひろげた越後の武将 上杉謙信 が生まれました。

1793年 ルイ16世処刑…1774年にフランス国王となったルイ16世は、当初は人気がありましたが、1776年のアメリカ独立戦争を支援したことなどから財政が苦しくなって1789年にフランス革命を招き、前年に王権を停止され、この日ギロチンで処刑されました。 

1866年 薩長同盟…これまで抗争をくりかえしてきた薩摩藩と長州藩は、この日 坂本龍馬 や中岡慎太郎らの仲介により、薩摩の西郷隆盛らと長州の桂小五郎(のちの木戸孝允)が会談、協力して倒幕し、新国家建設を進めることを誓いました。

今日1月20日は、わずか43歳で第35代アメリカ大統領となったケネディが、1961年に就任した日です。この日の就任演説で「わたしは、人類の敵である悪い政治や、戦争や、貧しさや、病気などをなくすために戦います」 に続く次の2つのメッセージは、世界の人たちに大きな感銘を与えました。

「アメリカ同胞のみなさん、国があなた方のために何をしてくれるのかなどと問わず、あなた方が国のために何ができるかを自分に問いかけてほしい」
(My fellow Americans: Ask not what your country can do for You. Ask what you can do for your country.)

「世界の友たちよ、アメリカがあなた方のために何をしてくれるかではなく、人類の自由のため私たちは共に何ができるかを問おうではないか」 
(My fellow citizens of the world: Ask not what America will do for you, but what together we can do for the freedom of man.)

ケネディが大統領になった当時、アメリカとソ連との間は冷戦状態でした。ケネディは「ニュー・フロンティア精神」という[現状維持に固執するのではなく新しい未来への先駆者となろう]と積極的な政策をうちだし、当時にらみあっていたソ連との間に平和共存をとなえ、核戦争へ一触即発の危機にあった「キューバ危機」などを乗りこえることに成功しました。また、社会福祉政策を推し進め、特に人種差別の廃止のために、力強い働きをしました。

そんな若々しく行動的な大統領のケネディに対し、アメリカ国内ばかりでなく、世界各国から大きな期待をよせるようになりました。ところが、就任してから3年後の1963年11月23日、テキサス州のダラスで、暴漢に撃たれて暗殺されたのです。世界じゅうの人々は、任期半ばにして倒れた政治家の死を、心から悲しみました。

なお、ケネディの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第18巻 「ケネディ」 をご覧ください。


「1月20日にあった主なできごと」

1875年 ミレー死去…『晩鐘』や『落ち穂ひろい』などの名画で、ふるくから日本人に親しまれているフランスの画家 ミレー が亡くなりました。

1926年 ダイヤル式自動電話の設置…日本で初めてダイヤル式自動電話機が、東京・京橋電話局に設置されました。それまでの電話は、電話交換手に相手先を伝えて、接続してもらっていました。

1936年 救急車登場…警視庁消防部が東京都内に救急車6台を配備して、救急業務を開始しました。呼び出しの119番もこの時から始まりました。

1947年 学校給食…太平洋戦争後の食糧難で栄養失調となる児童を救うため、アメリカの慈善団体ララ(アジア救済連盟)から贈られた脱脂粉乳などの物資をもとに、全国主要都市の小学生およそ300万人に学校給食がはじまりました。

今日1月19日は、江戸幕府末期の開明的な幕臣として 坂本竜馬 ら幕末の志士を教育したり、咸臨丸で日本人だけの太平洋横断を指揮したり、幕府側代表として西郷隆盛と会見し江戸無血開城を実現させた勝海舟が、1899年に亡くなった日です。
 
1832年、江戸の貧しい旗本の家に生まれた勝海舟は、少年の頃から剣術を島田虎之助に学び、その代稽古を勤めるほど上達すると、島田の勧めで西洋兵学を志しました。その勉強ぶりは半端でなく、入手しにくい「兵書」という蘭書をその所有者の家に毎夜、半年間通って書写したというエピソードは有名です。1850年には、自宅で蘭学塾を開くようになりました。

勝は、時代の流れを見抜く先見性のある人物でしたので、すみやかに諸外国と交流してその文化を吸収し、日本の国を強い国に育てなくてはならないという信念を持っていました。1853年のペリー来航に際して幕府に意見書を提出するなど、貧しい旗本の子ではあっても、一目置かれる存在だったようです。そのために、攘夷派の志士から命をねらわれることにもなり、暗殺しようとやってきた 坂本龍馬 を、逆に説き伏せて弟子にしたこともよく知られています。

1855年には海軍伝習生として長崎の海軍伝習所へおもむき、オランダ人から航海術の訓練を受けました。そして1860年には、日米修好通商条約批准書を交換する使節団をのせた「咸臨丸」を指揮して、太平洋を横断して渡米しました。

アメリカでの体験から、日本がいかに遅れているかをさとった勝は、帰国後幕府内でも強い発言力を持つ立場になり、幕府の軍艦奉行に任命されました。倒れかかった幕府で近代海軍を建設する仕事にとりかかり、1862年には神戸に海軍操練所を設け、幕臣ばかりでなく、龍馬や龍馬に誘われた志士らを含め、広く人材を指導しました。この間に長州の桂小五郎(木戸孝允)や薩摩の西郷隆盛らと親しくし、世界の情勢や日本統一の大切さを説きました。

こうして、江戸幕府が新政府軍に囲まれたとき、主戦派の幕臣をなだめ、新政府側の 西郷隆盛 と3日間も会談して江戸の無血開城を実現させて江戸を火の海から、そして日本を外国の干渉から救ったのは、そんな勝の見識の表れといってよいかもしれません。

なお、勝の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第30巻 「勝海舟」 をご覧ください。


「1月19日にあった主なできごと」

1736年 ワット誕生…18世紀末頃からイギリスにおこった産業革命の原動力ともいえる、蒸気機関の改良をおしすすめた ワット が生まれました。

1839年 セザンヌ誕生…ゴッホ、ゴーガンと並ぶ後期印象派の巨匠、20世紀絵画の祖といわれる画家 セザンヌ が生まれました。

1862年 森鴎外誕生…安寿と厨子王の美しい愛情をえがいた『山椒太夫』、安楽死させた罪に問題をなげかけた『高瀬舟』、ドイツで交際した女性をモデルした『舞姫』など数々の名作を著した文豪 森鴎外 が生まれました。

1969年 東大安田講堂の封鎖解除…全共闘の学生によって、半年前から占拠されていた東大安田講堂へ、8500人の機動隊が前日から出動。2日間35時間にわたる激しい攻防の末、封鎖が解除されました。

今日1月18日は、司法・行政・立法という政治の三権分立をを説いたフランスの法理学者モンテスキューが、1689年に生まれた日です。

ヨーロッパは、暗く重苦しい封建社会から、ようやく脱け出そうとしていました。経済の進んでいたイギリスでは、どの国よりも早く市民革命がおきました。同時に合理的な物の見方、考え方が生まれ、周囲の国ぐにを刺激しました。そして、フランスにも新しい精神が芽生えるようになりました。

モンテスキューは、フランスのボルドーにほど近いラ・ブレードに生まれました。16世紀からつづく、古い貴族の家柄でした。大学で法律を学び、卒業後も勉強をつづけていましたが、27歳のとき、伯父が亡くなり、財産と地位を相続しました。高等法院の副長官となり、モンテスキューは若くして、安定した身分を得ることとなります。

あるとき『ペルシア人の手紙』という書物が町じゅうで評判になりました。当時の習慣やパリの文明をするどくみつめ、たくみに批判している本です。古いものをためらわずに、洗い流そうとする新鮮な感覚が、人びとの共感をよびました。作者の名前は、かくされていたのですが、すぐにモンテスキューだと見破られ、たちまち有名になりました。

絶好の機会でした。モンテスキューは不動の評価をかちとろうとパリに出ます。宮廷貴族の集まりに参加したり、軽い文学作品を書いたりしました。パリに住みつづけていたのは、いずれ名誉ある「アカデミー・フランセーズ」の会員になるつもりでいたからです。ところが、モンテスキューをこころよく思わない人の反対で、いつまで待っても目的を果たせません。しかたなくあきらめかけていたところ、話が急にすすみ、晴れて会員になることができました。

やがてモンテスキューは、自分の考えを深め、見聞を広げるために外国旅行を計画しました。ハンガリーの鉱山見学をふりだしにイタリア、ドイツ、オランダを回り、イギリスに渡って2年間滞在しました。イギリスでは、議会を見学し、おおくの書物を手に入れ、新聞を毎日たんねんに読むという、実りおおい生活を送りました。

フランスに帰国後は、法律と政治を論じたものを書き始めました。大がかりな計画をたて、法律、歴史、地理、経済、政治、思想といった各分野の勉強からとりくみました。広大な準備のすえ、完成したのは『法の精神』という本です。政治の三権分立を主張したこの作品は、フランス革命のよりどころとなったり、「人権宣言」やアメリカ合衆国の憲法に大きな影響を与えたりしました。


「1月18日にあった主なできごと」

1467年 応仁の乱…室町幕府の執権を交代で行なっていた斯波、細川と並ぶ三管領の一つである畠山家では、政長と義就のふたりが跡目争いをしていました。この日、義就の軍が政長の軍を襲い、京の町を灰にした11年にも及ぶ「応仁の乱」のはじまりとなりました。将軍 足利義政 の弟義視と、子の義尚の相続争い、幕府の実権を握ろうとする細川勝元と山名宗全、それぞれを支援する全国の守護大名が入り乱れる内乱となっていきました。

1657年 明暦の大火…この日の大火事で、江戸城の天守閣をはじめ江戸市街の6割以上が焼け、10万8千人が焼死しました。本郷にある寺で振袖供養の最中に、振袖を火の中に投げこんだ瞬間におきた突風で火が広がったことから「振袖火事」ともいわれています。

1882年 ミルン誕生…「くまのプーさん」シリーズを著したイギリスの童話作家・劇作家・エッセイストのミルンが生まれました。

1919年 パリ(ベルサイユ)講和会議…第1次世界大戦後の講和会議が、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本の5か国が参加してパリで開催されました。講和条約の調印式がベルサイユ宮殿で行われたことから、ベルサイユ会議とも呼ばれています。この条約により国際連盟が成立することになりました。また莫大な賠償金を強いられたドイツは経済破綻をおこし、ナチス党がおこるきっかけとなりました。
 
1957年 牧野富太郎死去…明治・大正・昭和の3代にわたり、植物採集や植物分類などの研究に打ちこみ、50万点にものぼる押し花や押し草などの標本と20数巻の書物を残した 牧野富太郎 が亡くなりました。

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