児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2010年01月

今日1月29日は、大正期を中心に活躍した政治学者・思想家で、大正デモクラシーの立役者といわれる吉野作造が、1878年に生まれた日です。

作造は、「民本主義」の思想家として知られています。民本主義は「デモクラシー」の訳語なので、「民主主義」と訳すべきなのですが、当時は、大日本帝国憲法のもとにあって、主権は天皇にありました。そのため、主権が「民」にあるという言葉をさけて「民本」という言葉を用いたといわれています。

作造は、いまの宮城県古川市の綿屋の長男に生まれました。仙台から仕入れてきた原綿を打ちほどいて売り出す商家でしたが、父親が教育熱心だったため、幼い頃から学問に打ちこんだために成績は中学・高校とトップクラスで、東京帝国大学政治学科に入学しました。

大学卒業後、欧米留学にでかけ、ドイツ、オーストリア、フランス・イギリス・アメリカで3年間政治学を学んだのち、母校の講師をつとめながら、新聞や雑誌にさまざまな政治論を発表しました。

その論文の多くは、キリスト教の立場から民主主義のありかたをといたもので、いかにして国民がよき政治主体となるかというより、いかによい執政者を選択し、監督するかという点にありました。そのためには多くの人たちに選挙権を与え、普通選挙を行なうことなどを強く訴えたものでした。当時、選挙権を持っているのは、税金を一定以上を払っている地主や金持ちたちに限られていたため、正しい政治を望むことなど夢物語という状況だったからです。

日本は天皇の治める国で、民主主義など危険な思想だと考える人たちは、作造の考えに反対して演説会にも妨害を加えたり、暗殺を企てる者さえあらわれました。でも、作造はひるむことなく論戦に挑み、大山郁夫や長谷川如是閑ら同時代の大正デモクラシーの理論的指導者や、東大の教え子たちの応援をうけながら、民主主義を広める努力を続けました。

やがて、1925年に普通選挙法が議会を通り、婦人を除く25歳以上の男子全員に選挙権があたえられることになったのです。大日本帝国憲法という天皇主権の時代に、デモクラシーが世界の大勢であることを、広く一般の人たちに向けて論じた作造の功績は、大いに評価されるべきでしょう。


「1月29日にあった主なできごと」

1866年 ロマン・ロラン誕生…『ジャン・クリストフ』『ピエールとリュース』『ベートーベン研究』などを著したフランスの理想主義的作家、思想家 ロマン・ロラン が生まれました。

1872年 初の人口調査…近代的人口調査を実施してきた明治新政府は、この日総人口3310万9826人と発表。この年から江戸時代の人別帳にかわる戸籍が作成されました。

1957年 南極に昭和基地…南極観測隊はオングル島に到達し「昭和基地」を開設しました。34名の隊員のうち、西堀隊長以下11名が初の越冬観測のためここに残りました。

今日1月28日は、チューダー朝のイングランド王ヘンリー8世が、1547年に亡くなった日です。

少しヨーロッパの歴史に詳しい人は、イングランド王へンリー8世が6回結婚したこと、さらに エリザベス女王(1世) の父親であることを知っています。そして、歴代のイギリス国王のなかで、ヘンリー8世ほどほめたたえられたり、憎まれたりした王はいません。

ほめたたえる人たちは、ヘンリー8世が喜んで貧乏人を助け、あらゆる階層の人びとと仲よくした立派な国王として評価します。ラテン語、スペイン語、フランス語を理解し、舞踏や馬上槍試合などのスポーツにも優れた才能を発揮したほか、音楽や詩などにも造詣が深く、機知に富み、知性的だったといいます。ところが歴史家の中には、国王の名に値しない野蛮な男であって、死ぬよりずっと前に、狂気ある男として幽閉するか投獄すべきだったとさえいいます。
 
イングランドは、当時カトリックの国でした。ヘンリー8世もまたカトリック信者で、当時ドイツを中心におこった「ルターの宗教改革」を批判するカトリック擁護の書を著すなど、ローマ教皇から「信仰の擁護者」(Defender of the Faith)の称号を授かるほどでした。

ところが、最初の妃と離婚し、後のエリザベス女王を生むことになるアン・ブーリンとの再婚をめぐる問題から教皇と対立しました。カトリックは離婚を厳格に禁じていたからです。ヘンリー8世のすごいところは、1534年に首長令を発布して、新しいキリスト教である「イングランド国教会」を始め、自らその長となりました。いっぽうローマ教皇からいただいた「信仰の擁護者」の称号は、ちゃっかり国教会の成立後も後継者に代々用いられていて、今のイギリス女王エリザベス2世の称号のひとつにもなっています。

そんなヘンリー8世の詳しい生涯につきましては、いずみ書房ホームページのオンラインブックで公開している「レディバード100点セット」94巻 「ヘンリー8世」 の参考訳をご覧ください。


「1月28日にあった主なできごと」

712年 古事記完成…太安万侶(おおのやすまろ)が元明天皇に「古事記」を献上しました。「古事記」は「日本書紀」と並ぶ古代の2大歴史書の一つで、稗田阿礼(ひえだのあれ)が記憶していた歴史を、安万侶がまとめあげたものです。

1582年 天正少年使節…九州のキリシタン3大名大友宗麟、有馬晴信、大村純忠は、伊東マンショら少年4名を「天正少年使節」として、ローマ法王に謁見させるため、長崎の港から送り出しました。

1687年 生類憐れみの令…第5代将軍 徳川綱吉 は、この日悪名高き「生類憐れみの令」を出し、亡くなるまでの23年間にわたり人々を苦しめました。犬や猫、野生の鳥獣保護ばかりでなく、食用の魚貝類やにわとりまでも飼育したり売買を禁止しました。

1912年 南極に日章旗…白瀬矗(のぶ)率いる南極探検隊が、南緯80度付近に日章旗をかかげ「大和雪原」と命名しました。のちに、この地は氷上であって、南極大陸ではないことが判明しました。

今日1月27日は、ハイドンやベートーべェンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人であるオーストリアの作曲家モーツァルトが、1756年に生まれた日です。

「あらゆる音楽家の中で、一人だけ天才をあげるとすると誰を選びますか」という人気投票をクラシックファンに呼びかけたとしたら、間違いなくトップにあがるのは「モーツァルト」でしょう。わずか35年の生涯に交響曲41曲、ピアノ協奏曲27曲、バイオリン協奏曲7曲、弦楽四重奏曲23曲、歌劇20曲、ミサ曲20曲など等……そのどれもが高水準なのですから、驚き以外のなにものでもありません。

ベートーベンもまた天才といわれます。しかし、ベートーベンの楽譜には、たくさんの修正のあとがあるのに対し、モーツァルトの楽譜にはそれがほとんどないといわれます。ベートーベンが苦労しながら曲をしぼりだしたのに比べて、モーツァルトは天から聞こえてくる曲の調べを一気に書き記したからなのでしょう。

ところが、そんなモーツァルトの晩年の数年間は、とても悲惨なものだったようです。病気の妻を温泉に行かせるのに、質屋からお金を工面せねばならないほどで、その貧しさからのがれないまま生涯を終えました。モーツァルトの墓は、ウィーンの聖マルクス墓地にありますが骨は埋められていません。遺骨は共同墓地に捨てるようにほうむられ、やがて、骨1本さえ行方不明になってしまったようです。

しかし、モーツァルトの生涯は、誇り高いものだったと信じます。私たちは今も、CDやコンサートなどで、明るく気品に満ちた名曲の数々を、芸術家の魂のほとばしりを、深い感動とともに聞けるのですから。「死ぬということは、モーツァルトが聞けなくなること」と、モーツァルトを唯一の生き甲斐にして逝った人の言葉は、私の胸に深く、そして強烈に残っています。

なお、モーツァルトの詳しい生涯につきましては、いずみ書房ホームページのオンラインブック「せかい伝記図書館」第8巻 「モーツァルト」をご覧ください。また、「レディバード100点セット」83巻「大作曲家1」にバッハ・ベートーベンとともに参考訳を公開しています。


「1月27日にあった主なできごと」

1219年 源実朝死去…鎌倉幕府の第3代将軍で、歌人としても著名な 源実朝 が、兄の2代将軍頼家の子公暁に暗殺されました。公暁も殺され、源氏の血が絶えてしまいました。

1832年 キャロル誕生…イギリスの数学(幾何学)者でありながら『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』 などファンタジーあふれる児童文学作品を著したキャロル(本名ドジソン)が生まれました。

1902年 八甲田山遭難事件…日本陸軍の歩兵隊が青森県八甲田山で冬季訓練中に遭難し、訓練への参加者210名中199名が死亡。軍の無謀な訓練が問題になりました。

1945年 野口雨情死去…『十五夜お月さん』『七つの子』『しゃぼんだま』などの童謡や『波浮の港』『船頭小唄』などの歌謡の作詞家として、今も歌われる名曲の数々を残した野口雨情が亡くなりました。

今日1月26日は、7世紀末に建立され世界最古の木造建築として国宝に指定されている法隆寺の金堂が1949年の火災で、壁画12面が焼失した悲しみの日です。

この法隆寺金堂の壁画は、8世紀はじめに金堂が再建されたときに描かれ、インドのガンダーラ美術やアジャンタ壁画によく似た鉄線描とよばれる描法が用いられた、芸術的な価値の高いものでした。

そのため、日本の文化財の調査や保護が開始された明治初期から、かなり劣化が進んでいる壁画をどのようにすれば後世に伝えていけるかが検討され、1940年頃からは当時の一流画家を動員して壁画の模写事業が開始されました。この模写事業は太平洋戦争後も続けらていましたが、この火災原因が、模写をしていた人の電気座布団の漏電といわれ、何とも皮肉な結果となりました。

かけつけた消防の迅速な対応のおかげで、建物の全焼はまぬがれましたが、壁画は火にあぶられた上、水をかけられたり、消化の際に穴があけられたり、完膚なきまでに痛めつけられて、その芸術的な価値は永遠に失われてしまいました。

でも、1935年に撮影されたという京都の業者によるカラー写真がしっかり残されており、興味のある方はネットで公開されている「法隆寺金堂壁画ギャラリー」にアクセスしてみてください。

なお、この火災の経験から、「文化財を火災から守ろう」という運動がおこり、1955年から文化庁と消防庁が、1月26日を「文化財防火デー」に制定しました。今日は、全国の神社や寺院など各地で、文化財の消火訓練が行なわれます。


「1月26日にあった主なできごと」

1788年 囚人の移民…イギリスから、初めてオーストラリアに移民団がポートジャクソン湾(現シドニー)から上陸しました。このうち約半数は、犯罪を犯した囚人たちでした。これにちなんで、「オーストラリアの建国記念日」となりました。

1948年 帝銀事件…帝国銀行(現在の三井住友銀行)の東京豊島区にあった椎名町支店で、「近くの家で赤痢が発生したので予防薬を飲んでもらう」と偽って銀行員12名を毒殺、現金16万円などが強奪される事件がおこりました。8月になって画家平沢貞通が逮捕され、死刑が確定しましたが執行されないまま1987年に獄死。支援者はいまだに冤罪を叫び、再審請求を続けています。

今日1月25日は、『赤い鳥小鳥』『あわて床屋』『からたちの花』など800編もの童謡の作詞を手がけた詩人・歌人の北原白秋が、1885年に生まれた日です。

福岡県の南部に、柳川という、むかしの城下町があります。いくすじもめぐる水路に柳が影をうつす、美しい町です。

詩人北原白秋は、その柳川の古い土蔵の倉が並んだ大きな造り酒屋に生まれました。

白秋は、少年時代から文学がすきでした。小学生のころから『竹取物語』や『平家物語』などを読みふけり、中学校へ進むと、詩集を愛するようになりました。16歳のときには、友人と詩や短歌の雑誌を作りました。隆吉というほんとうの名まえのかわりに、白秋という名をつけたのは、このころです。

やがて、投稿した短歌が新聞や雑誌にのるようになり、白秋は、文学の道へ進むことを、はっきり心に決めました。

ところが、白秋に家をつがせることを考えていた父は反対でした。でも、どんなに反対されても決心は変わりませんでした。

中学校の卒業が目の前にせまった、ある日、白秋は、ついに学校を退学して東京へ旅立ちました。このとき、母と弟は、父にかくれて、荷づくりをてつだってくれました。

19歳で東京の空の下に立った白秋は、早稲田大学へ入りました。しかし、およそ1年後には、退学してしまいました。大学の雑誌の懸賞で1位になった詩が、そのころの大歌人与謝野鉄幹にみとめられ、文芸雑誌『明星』を発行する新詩社にむかえられたのです。そして『明星』に詩や短歌を発表するようになると、またたくまに、みずみずしさをたたえた詩人として、広く注目されるようになりました。

そのごの白秋は、高村光太郎谷崎潤一郎石川啄木 らといっしょに、美の世界を深く見つめる新しい文学運動をつづけながら、『邪宗門』『思ひ出』『水墨集』などの詩集を、次つぎに発表していきました。

また1918年に、鈴木三重吉によって児童文芸雑誌『赤い鳥』の発行が始まると、新しい詩人の指導にあたりながら、自分も童謡を書くようになりました。生涯のうちに書いた童謡は『赤い鳥小鳥』『あわて床屋』『雨』『ちんちん千鳥』『からたちの花』など、800編をこえています。これほどたくさんの童謡を作れたのは、けがれのない童心をたいせつにする心が、白秋のなかに、いつもあったからでしょう。英語圏に伝わるわらべ歌ともいうべき『マザーグース』を、日本に初めて紹介したのも白秋の功績です。

詩と童謡を愛した白秋は、31文字でつづる短歌も深く愛しつづけ『桐の花』『雀の卵』などのすぐれた歌集も残して、日本が太平洋戦争を始めた翌年の1942年に、57歳で亡くなりました。美しいことばを自由にあやつった詩人でした。


「1月25日にあった主なできごと」

901年 菅原道真左遷さる…右大臣として活躍していた「学問の神様」として名高い 菅原道真 は、左大臣藤原時平のたくらみにより、「東風吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れぞ」の句を残し、京都から筑紫の大宰府に左遷されました。

1212年 法然死去…平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶で、南無阿弥陀仏をとなえれば、人間はだれでも来世で極楽浄土に生まれかわることができると説く「浄土宗」を開いた 法然 が亡くなりました。

1858年 御木本幸吉誕生…「真珠王」と呼ばれ、真珠の養殖とそのブランド化に成功した 御木本幸吉 が生まれました。

1907年 湯川秀樹誕生…日本で最初にノーベル賞にかがやいた理論物理学者 湯川秀樹 が生まれました。

1957年 志賀潔死去…赤痢菌を世界で初めて発見したことで知られる細菌学者 志賀潔 が亡くなりました。

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