児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年12月

今日12月3日は、島原・天草地方のキリシタンの農民たち37000人が、藩主の厳しい年貢の取立てとキリシタンへの弾圧を強めたことから、1637年に少年天草四郎を大将に、島原半島の原城に籠城した日です。

江戸幕府が開かれて34年めの1637年、島原半島(長崎)と天草(熊本県)の農民が、キリスト教信者といっしょに反乱を起こしました。 約5か月、はげしい戦いがつづいた「島原の乱」で、天草四郎は、このときの指導者です。でも、武将ではありません。キリスト教を信仰した、まだ16歳の少年です。

四郎の父は、もとは、この土地をおさめていた武将小西行長の家来でしたが、行長が1600年の関ヶ原の戦いに敗れて殺されてからは浪人となり、天草で農業をつづけていました。四郎がキリスト教を信仰するようになったのは、行長も、父も、キリスト教の熱心な信者だったからです。しかし、キリスト教の信仰は、四郎の生まれたころから、幕府の命令できびしくとりしまられるようになっていました。

いっぽう、天草地方には1634年ころから農作物の不作がつづき、農民たちは口に入れるものもないほど、追いつめられていました。でも、島原城主松倉重政は、きびしい年貢の取りたてを決してゆるめてはくれません。おさめきれない年貢のかわりに嫁を人質にとられ、その嫁を殺された農民もいました。

怒りを爆発させた農民たちが立ちあがりました。キリスト教の弾圧に苦しんでいた人びとも、立ちあがりました。これが乱の起こりです。四郎も、人びとの先頭に立った父や浪人といっしょに武器を取り、島原半島の原城にたてこもりました。

「神は、弱く貧しいものの味方になってくださるはずだ」

四郎は、神を信じました。そのうえ、四郎には神のような力がそなわっているという、うわさが広がっていたため、人びとから「この世を救うために天からつかわされた神の使者」に、まつりあげられてしまいました。このとき「神の使者」四郎の胸のうちがどんなものだったのか、それはわかりません。しかし人びとは、四郎のもとに、ひとつにまとまりました。

年が明けて1638年の正月、乱を静めるために幕府の命をうけた12万以上の大軍に、原城をとりかこまれました。幕府軍は、原城のたべものや弾薬がなくなるのを待とうというのです。

四郎は、城の中で、神に祈りをささげ、農民たちに神の教えを説きました。そして、2月の終わり、敵が城内へ攻めこんでくると最後まで戦い、農民たちといっしょに討ち死にしました。死後、首を落とされ、さらに反乱にくわわった人たちも皆殺しにされ、神の使いの役を果たすことはできませんでした。

この乱のあと、幕府のキリスト教禁止は、ますますきびしくなりました。四郎が原城に立てていた旗がいまも残っています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)26巻「新井白石他」の後半に収録されている7名の小伝の一編 「天草四郎」 をもとにつづりました。

 

「12月3日にあった主なできごと」

1552年 ザビエル死去…1549年に、初めて日本へキリスト教を伝えたカトリックの宣教師 ザビエル が、亡くなりました。

1872年 太陽暦の実施…この日旧暦(陰暦)から新暦(太陽暦)に変わり、旧暦明治5年12月3日のこの日が、新暦明治6年1月1日となりました。日本では、7世紀末以来1200年以上も陰暦が使われてきましたが、幕末から欧米諸国との交渉が始まると、太陽暦と1か月前後の差が不便になり、国際的に広く使われているグレゴリオ暦の採用が急がれていました。

1894年 スティーブンソン死去…冒険小説「宝島」によって名をなし 「ジキル博士とハイド氏」 「誘惑されて」 など独自の文学を開いたイギリスの作家スチーブンソンが亡くなりました。

今日12月2日は、アメリカ合衆国(アメリカ)の第5代大統領ジェームズ・モンローが、1823年の議会で、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉を提唱した日です。この提唱は「モンロー宣言」とよばれ、アメリカ外交の基本方針となりました。

1800年代がはじまったころ、フランスの ナポレオン がヨーロッパじゅうに勢力を伸ばしましたが失脚し、1814年に各国の代表がウィーンに集まって「ウィーン会議」を開きました。オーストリアの首相メッテルニヒが中心となって、何もかもナポレオン以前の姿に戻し、国民の自由や独立などをおさえつけようと「神聖同盟」をこしらえたのです。

ところが、中央アメリカや南アメリカ(ラテンアメリカ)では、主にスペインの植民地だった国ぐにが次々に独立の旗をあげました。1816年アルゼンチン、1818年チリ、1821年コロンビア、ペルー、メキシコというぐあいです。スペインは、これらの独立運動を鎮圧しようと、「神聖同盟」に助力を求めました。

メッテルニヒら「神聖同盟」は、ロシアやプロシア、フランスに働きかけて、ラテンアメリカの国ぐにの独立を押さえこもうとしました。このとき、世界の海運国の王者を自認していてたイギリスは、ラテンアメリカが独立すれば自国の市場とすることができると考えたのでしょう。独立を容認しよう、とアメリカに働きかけていました。

こういう背景のもとに、「モンロー宣言」が提唱されたのです。この提唱には、ヨーロッパ勢力と植民地間の戦争に対してアメリカは中立を保ち、植民地を新たにこしらえることや、アメリカ大陸の独立国家への干渉もアメリカへの敵対行為と見なすということも意味していました。

モンロー宣言は、いわばヨーロッパの列強に対するアメリカの「アメリカ大陸縄張り宣言」を意味していました。このモンロー主義は、その後の大統領にも引き継がれ、アメリカの国力のさらなる増大にともない、19世紀末には「モンロー主義は時代遅れ」といわれるようになりました。そしてアメリカは太平洋へ、世界じゅうへと勢力拡大に乗り出していくのです。

 

「12月2日にあった主なできごと」

1547年 コルテス死去…メキシコに高い文明を誇ったアステカ帝国を滅ぼした コルテス が亡くなりました。

1804年 ナポレオンの戴冠式…パリのノートルダム寺院において、ナポレオン が皇帝となる戴冠式が行なわれました。ナポレオンは、自らの手で王冠を頭上に置き、王妃の頭上にも置きました。王冠は、法王から授かれるものではなく、自分の手で獲得したものであることを強調したものでした。この華やかな模様は、ルーブル美術館とベルサイユ宮殿にあるダビッドの名画に描かれています。

1929年 北京原人の頭骨発見…北京郊外の周口店にある洞窟の中で、人類の頭蓋骨の化石が見つかり、北京原人と名づけられました。北京原人はアフリカ大陸に起源を持つ原人のひとつですが、現生人類の祖先ではなく、何らかの理由で絶滅したようです。この北京原人遺跡は1987年にユネスコの世界遺産として登録されました。

今日12月1日は、漬物の「たくあん漬け」を考えたといわれる禅宗の僧・沢庵和尚が、1573年に生まれた日です。

但馬国(たじま・兵庫県)に生まれた沢庵の父は、戦国大名・山名家の重臣でした。しかし、山名家は羽柴(豊臣)秀吉にせめられて滅亡したため、沢庵は10歳で出家させられ、21歳のときに京都の大徳寺に入り沢庵と名乗りました。

きびしい修業を重ね、権力に屈しない強さ、名声や金銭に対して無欲無心、衣食住の贅沢を厳しく戒める生きかたを追求していきました。そして、34歳の時に大徳寺第1首座となり、37歳のときには大徳寺の住持(じゅうじ・主のこと)にまで出世しました。

ところが沢庵は1628年、朝廷が僧に与えた紫の衣を徳川幕府がとりあげる法律(諸宗諸本山法度)に反対をとなえたことで、遠く出羽国(山形県)に流されてしまいました。3年余りを出羽で過ごした沢庵は、許されて江戸へ戻ってきました。

沢庵は、詩歌や書画にもすぐれていたため、その名声は徳川3代将軍家光にもきこえ、再三の要請で、家光の側近くで相談役を務め、品川に沢庵のために家光が建てた東海寺の住持になりました。でも、その質素な暮らし方は変わることはありませんでした。

着るものは綿、食事は朝一椀の粥と夜一椀の粥で十分、住まいは畳一畳でよい。衣食住に心を煩わされることがなければ、金銀などは必要なし、ともいっています。禅宗の僧侶としての沢庵の心構えがよくわかります。

なお、家光が東海寺に沢庵を訪れたとき、ダイコンのたくわえ漬を供したところ、家光はいたく気に入って「これは、うまい。たくわえ漬ではなく沢庵漬とせよ」と命名してから、たくあん漬とよばれるようになったといわれています。

沢庵は1646年、無欲の人生を、江戸で終えました。


「12月1日にあった主なできごと」

1789年 ギロチンの採用…フランス革命のころ、死刑執行のために使われた首切り器械のギロチン。ギロチンは、医師のギヨタンが提案してこの日の国民議会で採用されました。ルイ16世やその妃 マリー・アントアネット をはじめ何万人もの人が首を切られましたが、ギヨタンもまたギロチンで処刑されました。

1903年 小林多喜二誕生…『蟹工船』『不在地主』『党生活者』などを著し、日本プロレタリア文学の代表作家といわれる 小林多喜二 が生まれました。

1997年 京都議定書…「地球温暖化防止会議」が、この日から10日間京都で行なわれ、地球温暖化の原因となる温室効果ガスをだす量を、先進国が国別に目標値を定めてへらしていくことを決めました。この取り決めは「京都議定書」と呼ばれています。

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