児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年12月

今日12月10日は、ダイナマイトを発明したものの、戦争に使われることに心をいためたスウェーデンの化学技術者 ノーベル が、1896年に亡くなった日です。「人間のためになると思って苦労して発明したものが、人々を不幸にしている」── そう気づいたノーベルは、死ぬ前に遺言を書きました。「財産をスウェーデン科学学士院に寄付するので、そのお金の利子を人類の平和と進歩のためにつくした人に賞として贈ってほしい」。こうしてノーベルの死後5年目の1901年から、遺志にしたがって、ノーベル賞を贈ることがはじまりました。そして、命日であるこの日が授賞式になりました。

現在、ノーベル賞は「物理学」「化学」「生理学・医学」「文学」「平和」「経済学」の6部門からなり、それぞれが世界的な権威を持った賞として人々に尊敬されています。特に、「物理学」「化学」「生理学・医学」の自然科学の賞は、科学分野における世界最大の栄誉であると考えられています。

これまでの、日本人のノーベル賞受賞者は、次の16名です。

1949年 湯川秀樹…中間子の存在を予想した「中間子理論」によるもので、日本人初の受賞。[物理学賞]

1965年 朝永振一郎…超多時間理論を応用した「くりこみ理論」を考案、量子電気力学分野の発展に貢献。[物理学賞]

1968年 川端康成…『伊豆の踊り子』『雪国』など、日本人の心情の本質を描いた、繊細な表現による叙述の卓越さ。[文学賞]
 
1973年 江崎玲於奈…半導体におけるトンネル効果の実験的発見。 [物理学賞]

1974年 佐藤栄作…沖縄の日本返還、非核三原則の提唱など。[平和賞]

1981年 福井謙一…量子力学の考え方を化学へ適用した理論的研究。 [化学賞]

1987年 利根川進…多様な抗体をつくる遺伝子的原理の解明。[生理学・医学賞]

1994年 大江健三郎…『万延元年のフットボール』など、詩的な言語を用いて現実と神話の混交する世界を創造。 [文学賞]

2000年 白川英樹…電気を通すプラスチックの発見と開発。[化学賞]

2001年 野依良治…左右の構造が反対の化合物質作り分ける技術。 [化学賞]

2002年 小柴昌俊…超新星爆発からの宇宙ニュートリノを検出したことなど。 [物理学賞]

2002年 田中耕一…たんぱく質などの質量を分析する法の開発。 [化学賞]

2008年 南部陽一郎…素粒子物理学における自発的対称性の破れの発見。 [物理学賞]

2008年 小林誠・益川敏英…共同論文で記した、CP対称性の破れの起源の発見による素粒子物理学への貢献。 [物理学賞]

2008年 下村脩…緑色蛍光タンパク質の発見と発光機構の解明。 [化学賞]

今日12月9日は、『坊ちゃん』『吾輩は猫である』『草枕』などの小説で、森鴎外 と並び近代日本文学界の巨星といわれる夏目漱石が、1916年に亡くなった日です。

夏目漱石は、東京の牛込(新宿区)に、1867年、8番目の子として望まれない生を受けました。そのため、生まれるとすぐに里子にだされるなど、愛情の薄い子ども時代をすごしました。そんな肉親の愛に恵まれなかった体験が、他人への愛に敏感な、内向的で非情な人間観が養われたといわれます。

漢文の好きな少年時代をすごした後、大学予備門(第1高等学校)に入学してから 正岡子規 と知り合い、漢詩文を通じて親交を結び、俳句の手ほどきを受けながら文学に親しむようになりました。そして、帝国大学(東京大学)英文学科に入学したころから、英文学研究を生涯の仕事と考えるようになりました。

大学卒業後は、松山や熊本で英語教師を勤め(松山での英語教師の体験は『坊っちゃん』に生かされています)、1900年に文部省から英語研究のためイギリス留学を命じられました。3年間の留学生活を送りながら、英文学者としての道を歩んでいきました。

帰国後、帝国大学の教師として英文学を教えながら『吾輩は猫である』を子規の主宰する俳句雑誌『ホトトギス』に発表しました。するとこれが大評判になり、さらに『坊っちゃん』『草枕』などの作品で作家としての地位をしっかり築きました。

その後は朝日新聞社に専属作家として入社し、『三四郎』『それから』などを掲載し、今も読みつがれている名作の数かずを生み出していきました。

なお、漱石の詳しい生涯につきましては、、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第34巻 「夏目漱石」 をご覧ください。

また、漱石の作品や評論などのほとんどは、オンライン図書館 「青空文庫」 で、読むことができます。

 

「12月9日にあった主なできごと」

1159年 平治の乱…当時源義朝らの源氏と、平清盛らの平氏の2大勢力がしのぎをけずっていました。この日、平治の乱がはじまり、源義朝は殺害され、その子の 頼朝 は捕えられて、平氏は全盛期を迎えることになりました。
 
1860年 嘉納治五郎誕生…講道館柔道の創始者であり、日本のオリンピック初参加に尽力するなどスポーツの海外への道を開いた 嘉納治五郎 が、生まれました。

1867年 王政復古の大号令…討幕派である薩長の武力を背景に、天皇親政をうたいあげた王政復古の大号令が発せられられました。幕府・摂政・関白を廃止し、総裁、議定、参与の3職をおき、神武天皇の昔にもどり、身分の別なく天下のために努力せよ、といった内容が盛りこまれていて、その後の政治の性格を規定するものでした。これにより、薩長は、徳川の実権を完全に奪い取ることに成功しました。

1945年 農地改革…連合国軍総司令部(GHQ)は、占領政策として経済構造の民主化をはかりましたが、そのひとつが、この日指令された「農地改革に関する覚書」(もうひとつは財閥解体)。47年から49年の間に、全国260万町歩の小作地のうち200万町歩が自作農に解放され、地主制はほぼ壊滅することになりました。

今日12月8日は、日本の連合艦隊がハワイ・オワフ島の真珠湾に停泊中のアメリカ太平洋艦隊を奇襲して、この日から3年6か月余にもおよぶ太平洋戦争に突入した日です。1941年のことでした。

この日の朝6時のラジオ放送は「(大本営陸海軍部発表)帝国陸海軍は、今8日未明西太平洋において、米英両軍と戦闘状態に入れリ」とさけびました。日本軍は、戦艦アリゾナをはじめ、アメリカの軍艦11隻を撃沈、航空機400機を壊滅させたのです。アメリカ軍の死者2000名、日本軍の死者100名足らず、損傷した飛行機も30機以下という成功をおさめました。

1時間後に、日本の駐米大使はアメリカに対して最後通牒を行って、太平洋戦争がはじまりました。しかし、日本の攻撃は戦争状態にない国に対してゲリラ攻撃を加えたことで、国際法に違反した卑劣な行為ということになってしまいました。こうして、アメリカは日本を国際法違反として非難し、「真珠湾(パール・ハーバー)を忘れるな」を合言葉に、国民の強固な結束をうみだしました。

それではどうして、この戦争はおこったのでしょう。

それには、日本が中国を侵略しはじめた1931年の満州事変までさかのぼらなくてはなりません。当時、国際的に武力を用いた紛争解決を原則として禁止する不戦条約が締結されていました。侵略戦争は国際法上で違法となっていました。この条約は、すでに植民地を所有していた欧米諸国に都合の良いものでしたが、わが国もこの条約を批准していました。

ところが、日本の関東軍は満州事変を起こして、満州を中国から実質的に奪い、どんどん占領地域を拡大していきました。こうした日本の行為に対し、国際連盟は調査団を送って、満州を中国に返還することを42対1で支持しました。このため、日本は1933年に国際連盟を脱退し、国際的な孤立を余儀なくされました。

さらに、1937年盧溝橋事件にはじまった日中戦争は、ドロ沼戦争といわれるほど困難をきわめました。あせった日本は、日中戦争が長引いているのは、アメリカやイギリスが蒋介石を支援しているからだと決めつけ、イギリスと戦って有利に戦争を進めているドイツと組むべきだという意見がいっきに高まって、1940年にドイツ・イタリアと三国軍事同盟を結んだのです。これは、英米との対立を決定的にするものでした。

こうして日本政府と最高指導本部の大本営は、アメリカとの戦争を検討していましたが、近衛文麿首相のあとを 東条英機 が引き継ぐや、ほかの軍部のかしらたちと開戦を推し進め、1941年11月には「アメリカとの開戦やむなし」との決定をして、アメリカとの交渉を進めながら、この日をむかえたのでした。

この真珠湾攻撃から半年ほどで、日本は東南アジアから南太平洋におよぶ地域を占領するなど戦争を有利に進めましたが、1942年6月のミッドウェー海戦で大敗してからは、敗戦に敗戦を重ねていきました。

そして、1945年8月、広島、長崎へ原爆を投下された後、終戦をむかえたのでした。中国との15年戦争やこの太平洋戦争で亡くなった日本人は、兵隊や一般市民をふくめ、310万人を越えると報道されています。


「12月8日にあった主なできごと」

BC441年 シャカの悟り…仏教を開いたインドの シャカ が、王宮の妻子の元を離れて6年目のこの日、悟りを開いたといわれます。 

1980年 ジョン・レノン射殺される…世界的なロックバンド、ビートルズの中心メンバーだったジョン・レノンが、ニューヨークの自宅アパート前で、熱狂的なファンにピストルで撃たれて亡くなりました。

今日12月7日は、大久保利通木戸孝允 と並び、徳川幕府を倒すために大きな功績のあった「維新の三傑」の一人西郷隆盛が、1827年に生まれた日です。

西郷は、薩摩藩(鹿児島県)の身分の低い武士の家に生まれました。当時の薩摩藩は、財政がとても苦しく、とくに身分の低い武士たちの暮らしは、3度の食事も満足にとれないほどでした。

しかし、貧しくても武士の子である西郷は、6、7歳のころから藩の学校へかよって、武士として必要なことを学びました。やがて、藩の仕事にはげむうち、農政改革を求める意見書で藩主島津斉彬(なりあきら)にその才能を認められ、しだいに重く用いられるようになりました。

ペリー 来航後の1854年には、斉彬の片腕となって、江戸や京都に出て活躍するようになりました。そのころ幕府では、第13代将軍徳川家定のあとつぎが問題になり、斉彬は、幕府老中の阿部正弘や土佐藩主の山内豊重らと、水戸藩主徳川斉昭の子の 一橋慶喜 を第14代将軍にむかえることを計画していました。そして西郷は、そのために力をつくすことを、斉彬に命じられていました。

ところが、この計画は大きくくずされたうえに、西郷の身に、危険がふりかかるようなことになってしまいました。井伊直弼 が幕府最高職の大老になると、直弼の力で、つぎの将軍には紀伊藩主の徳川家茂(いえもち)をたてることが決められ、さらに一橋家へ味方したものや、新しい政治を夢見て天皇中心の尊王攘夷をとなえる人たちへの、きびしい弾圧がはじまったのです。やがて1859年には、吉田松陰 や橋本左内らが死刑になった、安政の大獄という大事件にまで発展しました。

そのうえ、西郷には、もうひとつ大きな悲しみがふりかかりました。藩主斉彬の突然の死です。西郷は、大きな身体をふるわせて泣きました。そして、斉彬のあとを追って、自分も殉死することを考えました。同志である僧月照(げっしょう)と鹿児島湾に投身自殺を試みたのです。しかし、西郷は命を取りとめました。この事件で西郷は、これから自分がどのように生きるべきかを悟ったといわれています。

その後の西郷の歴史に残る活躍など、波乱に満ちた生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第30巻 「西郷隆盛」 をご覧ください。


「12月7日にあった主なできごと」

1867年 日本初の紡績工場…薩摩藩は、イギリスのプラット社から3600錘もの紡績機械を購入し、技師をつきそわせてこの日その荷が長崎に到着。まもなく薩摩藩は、バタンバタンの機織にかわる近代的な鹿児島紡績工場を操業させました。
 
1878年  与謝野晶子誕生…『みだれ髪』など明治から昭和にかけて活躍した歌人であり、詩人・作家・思想家としても大きな足跡を残した 与謝野晶子 が生まれました。

今日12月4日は、平安時代中期の貴族で、天皇にかわって摂政や関白が政治をおこなう「摂関政治」を独占してきた藤原氏の全盛期を生きた藤原道長が、1027年に亡くなった日です。

藤原氏は、中臣鎌足が、大化の改新の功によって天智天皇から藤原朝臣の姓をさずけられたのが始まりです。

藤原道長は、4人のむすめを天皇(長女彰子=一条天皇、次女妍子=三条天皇、3女威子=後一条天皇、6女嬉子=後朱雀天皇)のもとへ嫁がせ、朝廷の重要な官位をすべて一族で独占して天皇を自由にあやつり、政治の権力をほしいままにしました。

また、公地公民制を基礎とする律令制をくずして大きな土地を私有化し、その荘園から吸いあげたばく大な金によって、まさに生きながら極楽浄土にいるような栄華を楽しみました。

「この世をば わが世とぞ思う望月の 欠けたることもなしと思えば」という道長の和歌がありますが、(この世は、自分のためにある。夜空に輝く月の満ち欠けも自分の思い通りになるようだ)とは、日本史のなかでも、これほど思いあがった政治家はいないかもしれません。

しかし、道長の摂政政治による栄華をもとにした「藤原文化」が生み出されたことは特筆できることでしょう。浄土芸術をはじめ彫刻、絵画、建築などの優美な芸術が発達しました。さらに、紫式部の『源氏物語』をはじめ、和泉式部ら数々の才女たちを通して王朝文学が生まれました。

道長の晩年は、必ずしも心豊かなものではなかったようです。子どもたちに先立たれ、病気がちの日々でした。52歳で出家してからは、金色に輝く法成寺を建立し、来世へも極楽浄土の夢をつないで、62歳で生涯を終えました。

なお、道長の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第20巻 「藤原道長」 をご覧ください。
 

「12月4日にあった主なできごと」
 
1722年 小石川養生所…江戸幕府は、貧しい病人のための無料の医療施設として、現在も文京区にある小石川植物園内に小石川養生所を設立しました。第8代将軍 徳川吉宗 と江戸町奉行の 大岡忠相 が主導した「享保の改革」における下層民対策のひとつで、町医者の小川笙船が将軍への訴えを目的に設置された目安箱に投書したのがきっかけでした。幕末まで140年あまりも、江戸の貧民救済施設として機能したといわれます。この診療所の様子は、山本周五郎の小説『赤ひげ診療譚』、この原作をもとに 黒沢明 が映画化した『赤ひげ』でも知られています。

1890年 血清療法…ドイツの細菌学者 コッホ のもとへ留学していた 北里柴三郎 は、破傷風とジフテリアの免疫血清療法を発見したことを発表しました。

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