児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年12月

今日12月17日は、『交響曲第5番』(運命)『交響曲第9番』(合唱)などの交響曲、『月光』『悲愴』などのピアノ曲のほか、管弦楽曲、歌劇、声楽曲など各方面にわたるかずかずの作品を遺した、クラシック音楽史上最も偉大な作曲家の一人であるドイツの作曲家ベートーベンが、1772年に生まれた日です。その作品群は、古典派音楽の集大成、ロマン派音楽の創始者とされています。

ベートーベンの作品のひとつに『エリーゼのために』という有名なピアノ曲があります。この曲は、ピアノを学びはじめた人が必ず弾きたくなる曲といわれ、甘くもの悲しい主題のメロディのくりかえしが、とてもよい気分にさせてくれます。家庭的にも経済的にもめぐまれず、悲しく苦しい日々を送ったとされるベートーベンの曲は、どちらかというと激しく、悲愴なイメージを思いうかべる人が多いと思いますが、こんな清らかで美しい曲も生み出しているのです。

この曲は、ベートーベン40歳ころの作品だといわれています。ベートーベンは28歳くらいから両耳が不自由になり、31歳の時には自殺さえも考えています。40歳のころは鳥のさえずりも、人の話も、楽器の音も、ほとんど聞えないほどになっていました。ベートーベンはピアノから流れる音を、心の耳でとらえながら『エリーゼのために』を作曲したにちがいありません。

ベートーベン以前の作曲家は、パトロンといわれる宮廷や有力な貴族に仕え、その要望に応えて作曲されたものがほとんどでした。ベートーベンの偉大さは、そうしたパトロンとの主従関係を拒否し、あくまで一般大衆のための芸術作品としての創作をめざしたことでした。

その作品の数々は、ワーグナー、ブラームス、ドボルザークチャイコフスキーら後世の作曲家たちに大きな影響を与えています。

なお、ベートーベンの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第8巻 「ベートーベン」 をご覧ください。

また、いずみ書房のホームページで公開中の「レディバード100点セット」第83巻 「大作曲家(1)」には、モーツァルト、バッハ と並んでベートーベンの参考訳が掲載されています。


「12月17日にあった主なできごと」

1903年 世界初飛行…アメリカの ライト兄弟 は動力をつけた飛行機で、人類ではじめて空をとんだ記念すべき日です。

1945年 女性に参政権…衆議院議員の選挙法改正案が公布され、女性が参政権を獲得しました。翌年4月10日に行なわれた総選挙では、82名の立候補者のうち39名の女性が当選をはたしました。

今日12月16日は、イングランドの政治家クロンウェルが、1653年イングランド共和国の初代護国卿になった日です。護国卿とは、王権に匹敵する最高統治権を与えられた職名です。

ルターやカルバンの宗教改革以後、ローマ教皇の支配をうけない新しいキリスト教を新教(プロテスタント)といい、これまでの教会を中心とする教えを旧教(カトリック)といいます。そしてイギリスでは、新教の信者を清教徒(ピュリタン)とよびました。

クロンウェルは、1599年イングランド東部の小さな村に生まれ、清教徒である母親の影響をうけながら育ちました。17歳のとき、ケンブリッジ大学に入りましたが、1年ほどで中退してしまい、ロンドンへでて司法学院に学びました。クロンウェルは、29歳で下院議員にえらばれ、イギリス議会に登場します。

当時イギリス国王のチャールズ1世は、王の権限は神から与えられたもので、国民は政治に口をだしてはならないといって独裁支配を行なっていました。信仰のうえでもイギリス国教を強制して、清教徒をおさえつけ、王の権力は高まる一方です。

そのころのイギリス議会は、王や貴族とむすびついた旧教の議員と、商工業者や農民の利益を代表する清教徒の議員が、はげしく対立し、宗教の争いが、そのまま政治の争いに結びついてにらみあっていました。

やがて、国民のための政治をとなえる清教徒議員の力が大きくもりあがり、国王の横暴をおさえる「権利の請願」という法案を成立させました。議会の同意なしに税をかけたり、不法に国民を逮捕したりしないという法律です。

しかし、国王は清教徒議員を逮捕し、議会を解散してしまいました。そのご11年ものあいだ議会をひらかず、言論や信仰をきびしくとりしまり、重税を国民におしつけました。1640年、国王はお金に困って1度だけ議会をひらきます。でも、国王の無法ぶりにおこった清教徒議員の攻撃にあい、すぐに議会を解散してしまいました。そして国王は、軍隊をむけてきました。

議会も革命軍をつのり、王の軍隊にたちむかいました。こうして1641年「清教徒(ピュリタン)革命」の火の手があがったのです。クロンウェルは、革命軍の副司令官として、先頭に立って戦いました。勝利をおさめたクロンウェルは、共和政を宣言し、初代護国卿となって議会のとりまとめに力をつくしました。

しかし、思うようにはかどらず、しだいに自分の考えだけで政治を動かし始めました。あらゆる権力を、すべて自分のものにして、しだいにきびしい独裁政治となりました。人びとの楽しみとする、芝居や競馬まで禁止したので、たいへん評判をおとしてしまいます。人びとの心は離れて行き、1658年にクロンウェルが死ぬと、ふたたび王政にもどったのでした。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)6巻「ニュートン・フランクリン」の後半に収録されている14編の小伝の一編「クロンウェル」をもとに加筆したものです。

なお、クロンウェルの生涯のより詳しい内容は、いずみ書房のホームページで公開中の「レディバード100点セット」第92巻 「クロムウェル」 の参考訳をご覧ください。

 

「12月16日にあった主なできごと」

1773年 ボストン茶会事件…この日の夜、インディアンに変装したボストン市民が、港内に停泊中のイギリス東インド会社の船に侵入。342箱の茶を海に投げ捨てました。この事件がキッカケとなって、イギリス本国と植民地の関係が急速に悪化、1年4か月後にアメリカ独立戦争が勃発しました。
 
1859年 グリム弟死去…兄弟で力をあわせ、ドイツに伝わる民話を集大成した グリム兄弟 の弟ウィルヘルムが亡くなりました。なお、グリム童話は、いずみ書房のホームページで公開している「オンラインブック」で読むことができます。 「せかい童話図書館」 では 「ヘンゼルとグレーテル」 「ブレーメンのおんがくたい」 の2点、 「レディバード100点セット」 では 「小人と靴屋」 「魔法のかゆなべ」 「金のガチョウ」 「狼と7匹の子やぎ」 「ガチョウ番の娘」 「眠り姫」 「ラプンツェル」 「勇敢な小さな仕立屋」 「親指トム」 「白雪姫」 「白雪と紅バラ」 「王女とかえる」 の12点です。ぜひ、のぞいてみてください。

1864年 奇兵隊の挙兵…11月の第1回長州征伐に敗れた長州藩でしたが、高杉晋作 の率いる足軽・百姓・町人の有志で組織された「奇兵隊」がこの日挙兵して、藩の主導権を握りました。

1932年 白木屋デパート火災…東京日本橋の白木屋デパート(現在の東急デパート)で火災がおこり、地下2階、地上8階の建物の4階から8階までを全焼。この火災で客や店員ら14人が死亡、500人余りが重軽傷を負うなど、日本初の高層建築物火災となりました。当時の女子店員はまだ和服だったために、行動が不自由で逃げ遅れた人が多く、この惨事がキッカケとなって、洋服を着る女性が多くなったといわれています。

今日12月15日は、アニメキャラクター「ミッキー・マウス」を生みだし、いまや世界的なエンターテイメント企業となったウォルト・ディズニー・カンパニーを創業したディズニーが、1966年に亡くなった日です。

ディズニーの名前は、アンデルセン グリム と同じように、世界じゅうの子どもたちに最も知られています。アンデルセンやグリムが、ペンで紙の上に書いたものを、ディズニーは、動く絵と音楽で、スクリーンに描いた童話作家といえるのかもしれません。

また、ディズニーは、世界最大規模の遊園地「ディズニーランド」をこしらえた事業家でもありました。自分の夢を追い続け、世界の子どもたちに笑いと夢を運んだ栄光の生涯でしたが、20歳のころ友人アブと会社を設立し、自動車小屋を改造したスタジオで数本のアニメをこしらえましたが、倒産させてしまう挫折もあじわっています。

でも、その失敗にもめげずに、兄のロイや友人たちにはげまされながらアニメ映画に挑戦しつづけ、26歳のとき制作した「ミッキーマウスの蒸気船ウィリー号」が大ヒット。その後の大功績の礎となりました。ディズニーの遺した功績をいくつか整理してみましょう。

(1) アニメ映画のトーキー化、カラー化、長編化という偉業を達成するとともに、想像力を駆使して、アニメ映画を娯楽の一ジャンルに高めたこと。

(2) 家内工業的だったアニメ映画制作を、多数の専門的な人々を総動員する、大規模な工業システムに切り替えたこと。

(3) アニメの主人公の動きに、人間のさまざまな性格の特徴を盛りこみ、現実世界から夢の世界へ導くさまざまな工夫をこらしたこと。

(4) 映画に初めて立体音響の効果を応用し、音楽を映画で表現したこと。

(5) 野生動物の生態をそのままカメラに収め、自然の驚異をていねいに記録したこと。

なお、ディズニーの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第18巻 「ディズニー」 をご覧ください。


「12月15日にあった主なできごと」
 
1859年 ザメンホフ誕生…世界でおよそ100万人の人が使用している人工言語、エスペラントの創案者 ザメンホフ が生まれました。

1868年 蝦夷共和国…榎本武楊ら旧幕府軍は、箱館(函館)の五稜郭で「蝦夷(えぞ)共和国」の成立を宣言、榎本を総裁に選出しました。しかし、翌年5月新政府軍の攻撃を受けて降伏しました。

1945年 婦人参政権…この日の帝国議会で、男女同権の新選挙法を可決、翌日公布されました。翌年4月、戦後初の衆議院選挙の結果、日本初の女性議員39名が誕生しました。

1965年 宇宙ランデブー…アメリカの二人乗り有人衛星ジェミニ6号と7号が、グアム島上空付近で近接し、史上初のランデブーに成功しました。

今日12月14日は、イギリスからの独立戦争で総司令官として活躍し、アメリカ合衆国初代大統領となったワシントンが、1799年に亡くなった日です。

ジョージ・ワシントンは、1732年、当時イギリスの植民地だったバージニア州で豊かな農園主の家に生まれました。その頃の地主の子どもは、イギリスで教育を受けることがふつうでしたが、11歳のときに父親が亡くなったため、地元で初等教育をうけただけで、独学で測量技術の勉強をし、19歳で測量士の免状をとりました。

ワシントンが20歳のとき、父親から農園主をひきついでいた義兄が亡くなりました。義兄は、すぐれた軍人でもありました。ワシントンは、そのあとをうけて、バージニア州の義勇軍の少佐になり、農場主もひきつぎました。

その頃の北アメリカは、イギリスとフランスが植民地の奪いあいをしている最中でした。そのため、ワシントンも部隊を率いて、フランス軍や原住民と苦しい戦いをつづけました。そんな数かずの戦いの中で、ワシントンの勇気ある行動に評価が高まり、26歳の時には、植民地軍の総司令官に任命されるほどでした。

翌年に戦争は終わり、農園での平和な生活にもどりました。ところが、フランス戦には勝利したものの、7年にわたる戦争にばく大なお金をつかったイギリス本国は、アメリカに重い税金をかけるようになりました。でもこれは、植民地の人びとの反抗で改められました。

税金をやめたかわりにイギリス本国は、値段の高いお茶をむりやりアメリカにおしつけてきたのです。植民地の人びとは怒り、1773年の末、インディアンに変そうした人びとが、ボストンに入港したイギリス船にしのびこみ、積んであった茶をすべて海へ投げすててしまいました。この「ボストン茶会事件」をきっかけに、イギリス本国は軍事力でボストンを占領しました。

それからまもなく、アメリカ独立戦争の火ぶたが落とされました。ワシントンは、13州の代表者が開いた大陸会議で、アメリカ軍総司令官にえらばれ、ふたたび軍をひきいて立ちあがったのです……。

その後のワシントンの活躍や、その詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第7巻 「ワシントン」 をご覧ください。


「12月14日にあった主なできごと」

1702年 赤穂浪士の討ち入り…赤穂藩(兵庫県)の藩主だった浅野長矩(ながのり)が、江戸城の松の廊下で、吉良義央(よしなか)に侮辱を受けたために斬りかかった前年3月の事件で、浅野は切腹、藩はとりつぶしになったのに対し、吉良には何のとがめがありませんでした。この日の深夜、浅野の元家臣だった 大石良雄 ら赤穂浪士46名は、吉良邸に討ち入り、主君のあだを討ちました。浪士たちは翌年2月切腹を命じられましたが、人びとは浪士たちの行動に拍手かっさいし、『忠臣蔵』として今も芝居やドラマになって、語り継がれています。

1911年 アムンゼン南極点に到達…ノルウェーの探検家 アムンゼン は、4人の隊員とともに世界で初めて南極点に立ちました。

2003年 フセイン大統領の身柄確保…アメリカ軍は、イラク戦争で民家に隠れていたイラクの元大統領サダム・フセインの身柄を確保しました。裁判の結果、3年後の12月30日、死刑となりました。

 今日12月11日は、後醍醐天皇 による建武新政府に反旗をひるがえした足利尊氏は、1335年のこの日、箱根・竹ノ下の戦いで新田義貞軍を破りました。この戦いをきっかけに、南北朝内乱時代がはじまりました。
 
1333年に鎌倉幕府を倒して成立した建武政権でしたが、天皇は武士たちを政治に近づけようとはしません。天皇が皇族や貴族ばかりを重視します。武士たちは不満を募らせ、全国の旧北条氏所領で北条の残党の蜂起が相つぎましたが、特に信濃で蜂起した北条時行は、各地の不満武士たちの勢力を吸収して、尊氏の弟である足利直義を追い出し、鎌倉を占領する勢いを見せました。
 
足利尊氏は、時行を討たせてくれるように後醍醐天皇に要請しましたが、 尊氏が自立することをおそれた後醍醐天皇は許可しません。しかたなく尊氏は、天皇に無断で関東に出兵、時行軍を鎌倉から追いだしました。
 
京都へ帰る命令を出したにもかかわらず、鎌倉からもどらない尊氏に腹をたてた後醍醐天皇が、新田義貞に尊氏討伐を命じたことで箱根・竹ノ下の戦いがおこりました。
 
尊氏は義貞を迎え撃った上、逃げる義貞を追って都へ入りました。ところが、京都を占領できたのは、わずか半月たらずでした。力をもり返した義貞の軍や、天皇の命をうけた北畠顕家らの軍にやぶれ、こんどは自分が都を追われて、遠く九州へのがれなければなりませんでした。
 
九州の地で時期を待ち、尊氏が兵をあげたのは、それから数か月後でした。摂津国(兵庫県)の湊川では、天皇に命じられた楠木正成、新田義貞の軍がまちうけていました。これに対し、九州、四国、中国の武士を味方につけた尊氏は、弟直義と力をあわせ、正成を自害させ、義貞を追いちらして、堤防をきった大水のようないきおいで、京都へなだれこみました。身の危険を感じた後醍醐天皇は、比叡山へのがれて建武政権は崩壊、南北朝時代へ突入していくのです……。
  
 
「12月11日にあった主なできごと」
 
1223年 運慶死去…国宝となっている東大寺南大門の「仁王像」などの仏像彫刻を残した、鎌倉時代初期に活躍した仏師・運慶 が亡くなりました。
 
1485年 山城国一揆…日本最大の戦乱といわれる応仁の乱(1467-77)の主な原因は、8代将軍足利義政に仕える守護大名畠山持国の実子義就(よしなり)と、養子政長の家督争いでした。この争いが、乱後も続いたため、この日住民たちは大規模な一揆をおこし、平等院に集合して、8年もの間、山城国の政治を自治的に運営しました。
 
1688年 名誉革命…イングランド王ジェームズ2世を王位から追放し、ジェームズ2世の娘メアリーとその夫でオランダ統領のウィリアム3世をイングランド王位に即位させたクーデター。この日、議会から追われたジェームズ2世は、フランスに逃げこみ、流血を見ずに変革が行なわれたことから「名誉革命」と呼ばれ、イギリスの立憲君主制が確立されるキッカケとなりました。
 
1834年 岩崎弥太郎誕生…三井財閥と並ぶ財閥「三菱財閥」の基礎をつくった実業家 岩崎弥太郎 が生まれました。
 
1843年 コッホ誕生…炭疽(たんそ)菌、結核菌、コレラ菌などを発見し、細菌培養法の基礎を確立したドイツの細菌学者 コッホ が生まれました。
 
1946年 ユニセフ創立…この日の国連総会の決議により、ユニセフ(国際連合児童基金)が設立されました。世界中の飢餓や貧困に苦しむ子どもたちや妊産婦に対し、直接の援助を目的とするものです。
 
1950年 長岡半太郎死去…原子核の存在を予見したり、磁気にひずみあることの研究など地球物理学、数理物理学の発展に貢献した物理学者 長岡半太郎 が亡くなりました。

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