児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年12月

今日12月25日は、[春の海ひねもすのたりのたりかな]などの俳句で名高い江戸時代中期の俳人で画家の与謝蕪村(よさ ぶそん)が、1783年に亡くなった日です。

蕪村は、1716年に、摂津国(大阪)の農家に生まれました。少年時代のことはよくわかりませんが、両親を早く亡くし、さみしさをまぎらすためか、いつも文学や絵に夢中になっていたと伝えられています。

20歳のころ、ひとりで江戸へでて、俳句と絵を学び始めました。ところが、5年のちに俳句の師とあおいだ夜半亭宋阿が亡くなると、50数年まえに俳人芭蕉が歩いたあとをしたって、気ままな旅にでました。そして、およそ10年のあいだ、自由に句を作り絵をかき、1751年に京都へおちついたときには35歳になっていました。

ふるさとに近い京都で、蕪村がまずうちこんだのは、学者や文人たちがおおくえがいたことから文人画とよばれるようになった、日本画でした。

「文人画の名人池大雅の絵とならぶ、傑作だ」

自然を深く見つけた絵は人びとの心をとらえ、45歳をすぎた蕪村は、おしもおされもせぬ文人画の大家になりました。

蕪村には、絵の師はいませんでしたが、名画を見て学び、心の目でものを見つめて、自分の絵を完成させたのです。

いっぽう、50歳をすぎてからは、ふたたび俳句の世界へもどり、54歳のときに、まわりの人びとにおされて夜半亭の2代めをひきつぎ、俳諧の宗匠になりました。

このころから蕪村は、絵をかく心と句を作る心をかさねて、まるで、目の前に美しい景色を見るような句をよむようになり、夜半亭にはおおくの門人たちが集まりました。

菜の花や月は東に日は西に/牡丹散りて打ちかさなりぬ二三片

こんな句を口ずさむと、夕暮れどきのまっ黄色の菜の花畑の美しさや、地に落ちた牡丹の赤い花びらのあざやかさが、まぶたの奥に広がってきます。しかし、美しさの裏がわに、さみしさと悲しさを秘めた句です。

蕪村は『野馬図』『四季山水図』などの名画と、およそ3000の紀行文に絵をつけた俳画も残して、1783年に、67歳の生涯を終えました。

つねに人生を見つめた芭蕉の句にくらべ、蕪村の句は、さほどのきびしさはありません。しかし、美しさとあたたかさにあふれ、今も、芭蕉の句とともにおおくの人に親しまれています。

 

「12月25日にあった主なできごと」

800年 カール大帝即位…カール大帝 (シャルルマーニュ)は、この日聖ピエトロ寺院で、ローマ教皇からローマ皇帝として戴冠されました。大帝は、ゲルマン民族の大移動以来、混乱した西ヨーロッパ世界の政治的統一を達成、フランク王国は最盛期を迎えました。

1642年 ニュートン誕生…万有引力の法則、数学の微積分法、光の波動説などを発見したイギリスの物理学者・数学者・天文学者のニュートンが生まれました。

1897年 赤痢菌の発見…細菌学者志賀潔は、この日赤痢菌の病原菌を発見したことを「細菌学雑誌」に日本語で発表しました。しかし、当時の学会はこれを承認しなかったため、翌年要約論文をドイツ語で発表、この論文で世界的に認められることになりました。

1926年 大正天皇崩御…1921年には当時20歳だった皇太子・裕仁親王が摂政に就任していましたが、この日大正天皇が亡くなり、裕仁親王が天皇の位を受けついで「昭和」となりました。

1928年 小山内薫死去…明治末から大正・昭和初期に演劇界の発展に努めた劇作家、演出家の小山内薫が亡くなりました。

1977年 チャップリン死去…イギリスに生まれ、アメリカで映画俳優・監督・脚本家・プロデューサーとして活躍したチャップリンが亡くなりました。


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本年もご愛読をありがとうございました。
新年は5日からスタートする予定です。
皆さま、良いお年を ! 

今日12月24日の夜は、クリスマス・イブです。12月25日がイエス・キリストが誕生した日といわれ、その前日の夜なのでクリスマス・イブといわれるわけです。

クリスマス(Christmas)とは、Christ(キリスト)の mass (ミサ、祭り) です。そのため、本来は、紀元前7~5年頃に、ユダヤの国ベツレヘム(イスラエルの首都エルサレムの約10km南)の馬小屋に生まれたイエス・キリストの誕生を祝う祭りでした。でも、キリストがいつ生まれたのか、正確にはわかっていません。12月25日とされるようになったのも、キリストが生まれてから350年以上もたったローマ時代のことです。

キリストの誕生は、いいかえるとキリスト教の誕生であり、その日を祝うクリスマスは、宗教的な深い意味を持つものです。でも、その祭りの風習には、当時のさまざまな民族が行なってきたしきたりが受けつがれています。現在の冬至は、12月21日か22日ですが、当時は24日か25日でした。秋の深まりとともに短くなった日が、この日を境に再び長くなりだし、弱まった太陽が新しく力をとりもどすのを盛大に祝うものでした。

こうして、クリスマスが冬至に行なわれるようになるとともに、天の太陽を祝う祭りは、この世のすべての人に光をもたらす、新しい太陽の祭りに変わったのでした。

教会の中だけで厳かに行なわれてきたクリスマスは、14,5世紀になると、クリスマス・ツリーとかサンタクロースといった楽しい要素がだんだん加わってくるにつれて、それは単に教会や寺院の祭りではなく、世界じゅうのキリスト教徒の祭りになり、やがてわが国にみられるように、キリスト教とは無縁の人たちまでもが楽しむ大切な行事になってきました。

その楽しみや喜びからすると、子どもたちの祭日といったほうがふさわしいのかも知れません。

なお、イエス・キリストの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第2巻 「イエス・キリスト」 をご覧ください。


「12月24日にあった主なできごと」

1524年 バスコ・ダ・ガマ死去…ポルトガルの航海者で、アフリカ大陸南端にある喜望峰まわりのインド航路を発見し、ポルトガル海上帝国の基礎を築いた バスコ・ダ・ガマ が亡くなりました。

1814年 ガン条約…ナポレオンの大陸封鎖に対抗し、イギリスはアメリカの海上を封鎖して、フランスとアメリカの交易を妨害したことで、英米戦争が勃発していました。この日ベルギーのガンで、両国は講和条約に調印(ガン条約)、アメリカとカナダとの国境が確定しました。

1953年 奄美群島返還協定…1972年の沖縄返還協定に19年先立ち、奄美群島(奄美大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島)をアメリカから日本に返還する調印が行なわれました。

今日12月22日は、明治政府が1885年、これまでの太政大臣制を廃止して、内閣制度を開始した日です。初代の内閣総理大臣に伊藤博文が就任、日本ではじめての内閣が発足しました。

明治維新によって、徳川幕府が幕を閉じ、1868年に明治新政府ができました。でも、内閣制というものはなく、太政大臣制といって太政大臣、左大臣、右大臣の3名の大臣をおき、実際に政治を動かすのは「参議」でした。

この参議には、明治維新で功績のあった薩長土肥(薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩)の人たちで構成されていましたが、その中心だった 木戸孝允西郷隆盛大久保利通 といった明治維新の指導者たちがあいついで世を去ると、政界の中心に出てきたのが、長州出身の伊藤博文でした。

板垣退助 らの自由民権運動におされて、憲法を作る必要を感じた博文は、ヨーロッパに調査にでかけました。博文は、日本をできるだけ早く文明国とするためには、天皇を中心とした政治の仕組みを整え、強固な政府をこしらえる必要性を感じていました。そのためプロイセン(現在のドイツ)の帝王中心の憲法を学んで帰国し、それを基に日本の憲法の作成に着手しました。そして、1889年2月「大日本国憲法」として制定にこぎつけ、翌11月に施行しました。それに先立つ1885年に、内閣制度を発足させて、自ら初代の内閣総理大臣となったわけです。その後、1901年までのあいだに総理大臣をあわせて4回つとめ、日本を世界の列強に近づけるための多くの努力をしました。

博文の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第32巻 「伊藤博文」 をご覧ください。


「12月21日にあった主なできごと」

1572年 三方が原の戦い…甲斐の 武田信玄 は、三方が原(浜松市付近)で、徳川家康織田信長 軍と戦い、勝利をおさめました。家康の一生で唯一の敗戦といわれています。

1848年 東郷平八郎誕生…日本海軍の司令官として日清、日露戦争の勝利に貢献した東郷平八郎が、生まれました。特に日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時屈指の戦力を誇ったロシアバルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集めたことでも知られます。

今日12月21日は、『点と線』『ゼロの焦点』など、社会派推理小説というジャンルを拓いた松本清張が、1909年に生まれた日です。今年は清張生誕100年にあたるため、さまざまなイベントが行なわれ、映画やドラマ化された作品のテレビ放映が多くみられます。

清張は、現在「清張記念館」のある福岡県の小倉生まれといわれますが、本人は広島市生まれ、幼児期から児童期は下関で育ち、小倉に定住したのは10~11歳ころと語っています。

二人の姉は幼くして亡くなったため一人っ子として育ちましたが、生家が貧しかったために高等小学校を卒業すると、電気会社の給仕をした後、印刷屋の石版工をへて、30歳のとき朝日新聞西部本社広告部に勤務しました。

1950年、41歳の時、勤務中に書いた処女作『西郷札』が「週刊朝日」の懸賞小説に入選し、1952年には『或る「小倉日記」伝』で、芥川賞を受賞しました。東京本社に転勤後、作家活動に専念するようになりました。

そして、1958年に発表した推理小説『点と線』は、犯罪の動機を重視し社会性を導入した「社会派推理小説」とよばれ、空前のベストセラーとなりました。続いて発表された『眼の壁』もベストセラーになったほか、『ゼロの焦点』『砂の器』など「清張ブーム」を引き起こし、推理小説を大衆に開放することに成功しました。

一方、現実の世界にも目を向け『日本の黒い霧』などのノンフィクションを著したり、『古代史疑』『昭和史発掘』など古代史や現代史へと創作の領域を広げ、82歳で亡くなるまで、驚異的な努力で独自の世界を構築していきました。その作品は長編、短編をあわせて1000編を越えるといわれます。

私の清張作品との出合いは、まだ20代だったころで、『張込み』に始まり、『点と線』『砂の器』『波の塔』『霧の旗』『ゼロの焦点』『黒い樹海』など、カッパブックスになっていたシリーズを片端から読んだ記憶があります。また、3年ほど前の正月休みに読んだ長編 『熱い絹』 の読後感は、本ブログに掲載していますので参考にしてください。

 

「12月21日にあった主なできごと」

934年 土佐日記…かな文字による日記のさきがけといわれる『土佐日記』は、『古今和歌集』の選者としても名高い歌人 紀貫之(きのつらゆき)が、土佐国守の任務を終えたこの日から、55日かけて京都にもどるまでの船旅の様子を記した、女性が書いたようにみせかけた文学史上重要な作品です。

1336年 南北朝時代…京都に室町幕府を開いた 足利尊氏 と対立し、京都の花山院にとじこめられていた 後醍醐天皇 は、ひそかに抜け出して吉野に新たな朝廷(南朝)を開きました。こうして、2つの朝廷に分かれて争う「南北朝時代」がはじまりました。

1854年 日露和親条約…日本とロシアの間で日露和親条約が、下田で結ばれました。この年の3月に結んだ日米和親条約に続く2番目の条約で、択捉島とウルップ島との間が国境に確定しました。したがって、択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島は日本の領土となっています。この条約により、下田、長崎、箱館(函館)が開港されました。

食べものや飲みものをとおして伝染し、高い熱とともに腹痛をおこして、血のまじった下痢便をするようになる赤痢。むかしは、この赤痢にかかると治療のしかたがわからず、たくさんの人が命を失いました。今日12月18日は、この病気をひきおこす赤痢菌を、世界で初めて発見したことで知られる細菌学者の志賀潔が、1870年に生まれた日です。

潔は、明治の初めに仙台市で生まれ、少年時代は昆虫がすきで野山をかけまわりました。12歳で入学した県立宮城中学(いまの仙台一高)では、成績はとくにすぐれてはいませんでした。でも、一歩一歩、努力をしていく生徒だったということです。

15歳のとき東京へでて大学予備門(のちの第一高等学校)に学び、やがて、東京帝国大学医科大学(いまの東京大学医学部)へ進みました。そして26歳で卒業すると、伝染病研究所へ入りました。研究所長の 北里柴三郎 を尊敬していたからです。

潔が柴三郎のもとで研究を始めた、つぎの年、日本じゅうに赤痢がはやって、患者は9万人ちかくを数えるようになりました。死者が1万人、2万人とふえていきます。

「1日も早く赤痢菌を見つけて、死者をくいとめなければ……」

潔は、患者の大便や、死亡者の腸からとりだしたものを研究室にもちこみ、顕微鏡をのぞきつづけました。そして、長さ千分の3ミリという小さな菌を発見すると、その菌を動物に注射して、実験をくり返しました。動物は、次つぎに病気になり、症状は赤痢患者と同じです。

「まちがいない、これが腹痛や下痢をおこす赤痢菌だ」

潔の研究成果は、1897年11月に開かれた大日本私立衛生会総会で発表され、さらに翌年には、論文がドイツの細菌学会雑誌をかざって潔の名はまたたくまに世界に広まりました。また、赤痢菌は、志賀の名をとって「シゲラ」と名づけられました。潔に、ねばりづよく努力していく性格があったからこそ、この大発見をなしえたのかもしれません。

その後の潔は、ドイツに留学して世界的な細菌学者エールリヒの教えをうけ、人体に菌に対する抵抗力をもたせるための免疫学や、アフリカで流行していた睡眠病の研究に大きな成果をあげました。そして、およそ5年の留学を終えて帰国してからは、北里研究所の創立に力をつくし、さらに、慶応義塾大学の教授などをつとめて若い医学生の指導にもあたり、1957年に86歳で世を去りました。日本の近代化のなかで、世界に通用する科学研究の成果をなしとげた尊い生涯でした。

 

「12月18日にあった主なできごと」
 
1779年 平賀源内死去…江戸中期の蘭学者、博物学者で、エレキテルの製作や燃えない布の発明、小説や戯作家としても活躍した平賀源内が亡くなりました。

1891年 足尾鉱毒告発…田中正造 はこの日の議会で、足尾鉱山の選鉱カスによる鉱毒、山林の乱伐、煙害や排水により、渡良瀬川の洪水と結びついて、沿岸一体の農地を荒廃させた「足尾鉱毒問題」をとりあげて、事態の重大性を訴え、銅山の即時営業停止と農民の救済を政府にせまりました。

1914年 東京駅開業…新橋─横浜間にわが国はじめての鉄道が敷かれて以来、東京では新橋が始発駅でしたが、この日東京駅の開場式が行なわれ、東海道本線と電車駅の始発駅は、東京駅となりました。

1956年 国際連合に加盟…この日、国際連合の総会が開かれ、満場一致で日本の国連加盟を承認し、80番目の加盟国になりました。1933年に国際連盟を脱退してから23年目にして、ようやく国際社会に復帰しました。

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