児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年11月

今日11月13日は、「ちいさい秋みつけた」「かわいいかくれんぼ」「わらいかわせみに話すなよ」などの童謡や、戦後大ヒットした歌謡曲「リンゴの歌」「長崎の鐘」などの作詞を手がけた、詩人・作家のサトーハチローが、1973年に亡くなった日です。

サトーハチローは、作家の佐藤紅緑の長男として、1903年に東京・市谷に生まれました。幼い頃に、鍋の熱湯を背中に浴びた大やけどのせいで、ハチローは、母親のハルの小さな背中に背負われて小学校へ通うほどでした。家でボンヤリ過ごすことが多いのをふびんに思ったハルは、自分の通う教会にハチローを連れ出しました。この教会で賛美歌にふれたことが、ハチローの詩心を刺激したと思われます。

中学に入学したころ、父は舞台女優と同棲するようになり、その浮気が原因でハルを離縁した父への反発から、ハチローは中学を落第、さらに退校、父から勘当され、留置場入りを重ねるような荒れた青春時代でした。

感化院のあった小笠原島で詩人の福士幸次郎と生活を共にする中で、大きな影響を受けながら詩作をするようになり、やがて福士の紹介により西條八十に弟子入りして童謡を作りはじめました。

1930年代からは童謡や詩だけにとどまらず、小説や映画の主題歌などもも手がけるようになり、日本コロムビアと専属契約を結び、第二次世界大戦中も妻子を千葉県に疎開させて、自身は東京に残って仕事を続けました。

そして1945年に終戦をむかえ、戦後初めてとなる映画「そよかぜ」の挿入歌に作詞をした「リンゴの唄」が大ヒットし、戦後の日本を象徴する歌となりました。

NHKのラジオ番組「話の泉」のレギュラーとなったり、NHKのラジオドラマ「ジロリンタン物語」の原作を執筆したり、1969年には、日本童謡協会をつくり、会長をつとめました。

母親への想いをうたった詩集「おかあさん」など叙情的な作風で知られる反面、私生活は放蕩、奇行が多かったようです。

なお、いずみ書房が刊行している 「みんなのおんがくかい」 は、日本を代表する120曲の童謡を中心に、12冊の絵本と12枚のCDで構成されていますが、サトウハチロー作詞による童謡は「おつきさまとぼうや」「かわいいかくれんぼ」「ちいさい秋みつけた」「パチリコパチリンなんだろな」「わらいかわせみに話すなよ」の5曲を収録しています。このシリーズの特徴として、全曲に、母親がわが子に、曲にまつわるちょっとしたお話をしてあげられるようなっています。ちなみに、「ちいさい秋みつけた」には、こんな言葉が添えられています。

ちいさい秋──これは「もう、秋になりましたよ」って教えてくれる秋のことなの。「鬼さん、こちら、手の鳴るほうへ」って鬼ごっこをしていたら、目かくした鬼さんの耳に、秋になったら木の枝でキョン、キチキチキチと鳴くモズの声が聞こえてきて、鬼さんは「あら、もうあきになったんだわ」って思ったのね。「鬼さん、こちら」って手をたたいていたみんなも、手をたたくのをやめて「ほんとうに、もう秋ね」って思ったの。
秋は、こんな鳥の声や、すずしい風や、お店に並びはじめるクリやブドウといっしょに、そっとそっとやってくるのよ。
でも秋がくるのを、いちばんよく知っているのは、虫たちかもしれないわね。だって、秋は、虫たちの楽しい季節でしょ。
長い夏休みが終わったら、学校では、みんなが赤い帽子をかぶって、白い帽子をかぶって、運動会の練習がはじまるわね。あれも、小さい秋かしら。


「11月13日にあった主なできごと」

1695年 お犬小屋設置…1687年に江戸幕府5代将軍 徳川綱吉 の出した「生類あわれみの令」で急増した野犬を収容するために、武蔵野国中野村(東京・中野区)に16万坪もの「お犬小屋」をこしらえ、10万頭もの野犬を収容しました。

1850年 スティーブンソン誕生…冒険小説 「宝島」 や古典的SF小説 「ジキル博士とハイド氏」 などを著したイギリスの作家R・スティーブンソンが生まれました。

1890年 ツベルクリン療法…結核菌を発見したドイツの細菌学者 コッホ は、ツベルクリンを注射して結核に対する免疫が体内にできているかを診断するツベルクリン療法を、論文に発表しました。

今日11月12日は、19世紀を代表する彫刻家で『考える人』『カレーの市民』『バルザック』などの名作を数多く残したロダンが、1840年に生まれた日です。
 
フランスの首都パリに生まれたオーギュスト・ロダンは、幼いころから彫刻が上手で、13歳の時に工芸学校へ入りました。卒業後は、芸術家の登竜門である官立美術学校へ進もうとしましたが3年続けて受験に失敗、それ以後は古代ギリシアの彫刻や、ミケランジェロの彫刻を手本に、独学で彫刻を学びました。
 
20歳のころには,彫刻家や建築家の助手になってはたらきはじめました。ところが23歳の時、ロダンの彫刻への一番の理解者だった姉が修道院で自殺したことにショックをうけ、見習い修道士として1年余りを修道院で過ごしました。
 
しかし、彫刻以外に生きる道がないとさとったロダンは、1864年に『鼻のつぶれた男』をサロンに出品しました。でも、作品はまったく評価されませんでした。当時の彫刻は、貴族たちの喜ぶ美しい彫刻が当たり前で、鼻のつぶれた醜い男をモデルにした彫刻など、ふざけているとしか思えなかったのでしょう。酷評にショックを受けたロダンは、12年もの長い間作品を発表しませんでした。
 
彫刻家の弟子として腕をみがき続けたロダンは、1877年に『青銅時代』という彫刻を展覧会に出品しました。この作品は、等身大の男性像で、あまりにもたくみにできているため、「人体から型を取ったのではないか」との疑いがかけられてしまいました。憤慨したロダンは、2年後に実物の人間よりもかなり大き目のサイズの彫刻を新たにこしらえてみせました。これにより、審査員たちの疑いは賞賛の言葉に変わり、ロダンの名は一気にフランス中に広まっていったのです。
 
ロダンの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開されているオンラインブック「せかい伝記図書館」第12巻 「ロダン」 をご覧ください。
 

「11月12日にあった主なできごと」
 
1866年 孫文誕生…「三民主義」 を唱え、国民党を組織して中国革命を主導、「国父」 と呼ばれている 孫文(そんぶん) が生まれました。
 
1871年 日本初の女子留学生… 岩倉具視 を団長に、伊藤博文、木戸孝允 ら欧米巡遊視察団48名がこの日横浜港を出港。そこに59名の留学生も同乗、その中に後に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立する6歳の津田梅子ら5名の女子留学生の姿がありました。
 
1898年 中浜万次郎死去…漂流の末アメリカ船にすくわれ、アメリカで教育を受け、アメリカ文化の紹介者として活躍した 中浜万次郎(ジョン万次郎) が、亡くなりました。
 
1948年 極東軍事裁判判決…太平洋戦争敗戦後、GHQ(連合軍総司令部)による占領政治が開始されると、満州事変以来の政府と軍部指導者の戦争責任をさばく極東軍事裁判(東京裁判)が1946年から31か月にわたっておこなわれました。この日に最終判決が下され、東条英機 ら7名に死刑、被告25名全員が有罪とされました。

今日11月11日は、645年におこった大化改新の事業を完成させ、革新の気風あふれた白鳳文化を生んだ天武天皇が、686年の死後2年余りたった688年のこの日に葬られたとされる日です。

天智天皇 (中大兄皇子) が亡くなって、つぎの年の676年6月、朝廷のなかが2つに分かれて、はげしい戦いが始まりました。のちに、壬申の乱とよばれるようになった戦いです。

天智天皇のあとには、天皇の子どもの大友皇子が即位することになりました。ところが、天皇の位をねらっていた、天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)が、おいの大友皇子を討つ兵をあげたのです。

役人も豪族たちも、2つに分かれ、戦いは、およそ1か月つづきました。そして、大海人皇子の軍が近江(滋賀県)の大津京をうちやぶり、大友皇子を、自害させてしまいました。

この大海人皇子が、第40代の天皇の天武天皇です。

「朝廷の力を固めて、しっかりした国家をきずこう」

天武天皇は、力で天皇の位をうばいはしましたが、天皇中心の国家をねがっていた天智天皇の心は、そのまま、ひきつぎました。

国の都を近江から飛鳥(奈良県)ヘ移すと、唐の国の「律令」にならった制度をとり入れて、まず、朝廷の官位の制度を改め、太政大臣、左大臣、右大臣などはおかずに、皇族中心の政治をおこなうようにしました。また、のちには、天皇に心からしたがう豪族には朝臣(あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)などの姓をあたえて、朝廷にそむかせないようにしました。

土地はすべて国のものとするという「大化の改新」の方針をつらぬき、天智天皇が豪族たちに返していた土地を、ふたたび朝廷にとりあげました。そのうえ、豪族たちに命じて国を守る兵の力を強めさせ、天皇の権力で国をおさめる政治を、ますます、おし進めていきました。

日本は天皇を中心にして栄えてきたことを、歴史に残すために、682年ころから、国史をまとめるしごとにもとりかかりました。しかし、この大しごとは、それから4年のちに天皇が亡くなるまでには、完成しませんでした。でも、これがもとになって、やがて奈良時代に『古事記』と『日本書紀』がつくりあげられ、古代日本のさまざまなすがたが明らかにされました。

天武天皇は、国をひとつにまとめるために、さまざまな制度を定めて、まわりの人びとがおそれるほど天皇の権力をふるいました。しかし、そのおかげで、やがて日本は、はなやかな奈良時代へとひらけていきました。天皇の死後、第3皇子の大津皇子は、天皇の位をねらうむほんを起こした疑いで捕えられ、自殺しました。天武天皇が、大友皇子を自害させたことを思うと、ひにくな運命というより、しかたがありません。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)19巻「聖徳太子・中大兄皇子」の後半に収録されている14名の小伝の一編 「天武天皇」 をもとにつづりました。


「11月11日にあった主なできごと」

1620年 メイフラワーの誓い…2か月前にイギリスのプリマス港を出航したメイフラワー号は、この日北メリカのケープコッドに到着。ピルグリム・ファーザーズ(巡礼始祖のことで、アメリカに渡ったイギリスの清教徒たち)と呼ばれる移民たちは船上で、自治の精神に基づき自由で平等な理想的な社会を建設することをめざす誓いをかわしました。こうして、1620年から1691年までの北アメリカにおけるイギリス植民地のさきがけとなるとともに、その精神はアメリカ民主主義の基となりました。

1840年 渋沢栄一誕生…幕末には幕臣、明治から大正初期にかけて大蔵官僚、実業家として活躍した 渋沢栄一 が、生まれました。

1881年 ドストエフスキー死去…「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」などを著し、トルストイやチェーホフとともに19世紀後半のロシア文学を代表する文豪・思想家の ドストエフスキー が、1881年に亡くなりました。

1918年 第1次世界大戦終結…前年アメリカ合衆国の参戦により、決定的に不利となったドイツは、この日休戦条約に調印。第1次世界大戦が終結しました。

1952年 ヘディン死去…87年の生涯を中央アジア探検にそそいだスウェーデンの探検家 ヘディン が、亡くなりました。

今日11月10日は、西洋の近代思想のもとを築き、哲学の父とよばれて、歴史に名をのこしたデカルトが、1619年のこの日「コギト・エゴト・スム」(われ思う、ゆえにわれあり)という独自の哲学の基本を決意したといわれます。

デカルトの思想は、すべてを疑うことから始めました。世の中のあらゆる物、できごと、考え方などを疑い、神すら疑ってみました。でも、疑っている自分自身の存在だけは、疑うことができません。「われ思う、ゆえにわれあり」と表現したデカルトのことばは、彼の考え方の基本となっています。

デカルトは、1596年にフランス中部のツーレーヌで生まれました。幼いころから勉強が大好きで、いつも優秀な成績をあげていました。そして、ポアチエの大学にすすみ、法律を学びました。しかし、古い書物の内容をそのまま受け入れるという、むかしながらの学問は、たいくつでしかたがありません。

そこでデカルトは、新しい世界を探そうと、オランダの軍隊に志願兵として入りました。軍隊には、さまざまな人がいます。まず、最高幹部は、数学を行動の根本において考えるほどの合理主義者でした。そして、科学的な考え方をとり入れようと、おおくの学者を集めています。兵器を改良するための研究、製図の技術や建築学の講義などが行なわれ、それらはデカルトの思想の土台を築きあげました。

やがて、実用のための学問から理論的な学問へ目をひらいたデカルトは、人間の生き方、学問への姿勢をもあわせて考え、まとまった意見をもつようになりました。そして数年ごに軍隊を離れ、しばらく旅をつづけたのちフランスへ戻りました。

パリでは、いろいろな人とはなやかに交際しました。学者たちと知り合い、ある時は、一人の女性をめぐり決闘までしたこともありました。ところが、ド・ベリュルという人から、あなたはしっかりと哲学にうちこんだ方がよいと忠告されて、パリを離れ、田舎のあちこちの土地をてんてんとします。住所をかくし、人と会うのをさけて生活しました。世間との交際を絶って、ますます自分自身の学問にうちこみ、おおくの重要な論文を書きました。哲学だけではなく、物理学から数学、天文学、化学、医学にまでわたりました。徹底的に疑い、正確で冷静な見方をいつでも失いませんでした。そして学問を総合的に研究して、数学的考え方を用いれば、知識全体のすがたをつかむことができると考えました。デカルトは、学問へのとりくみ方を『方法叙説』という有名な論文で述べています。

ものの考え方の道しるべをしめしたデカルトは、1650年旅先のスウェーデンで肺炎にかかり、この世を去りました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)6巻「ニュートン・フランクリン」の後半に収録されている14編の小伝の一編 「デカルト」 をもとに記述したものです。


「11月10日にあった主なできごと」

1483年 ルター誕生…ドイツの宗教家で、免罪符を販売するローマ教会を批判し、ヨーロッパ各地で宗教改革を推し進めた ルター が、生まれた日です。

1871年 スタンリーがリビングストンを発見…アメリカの新聞記者スタンリーは、行方不明になっていた探検家 リビングストン を追い、アフリカ奥地で236日ぶりに発見しました。

1873年 内務省の設置…明治政府の実質上の中枢である内務省が設置され、大久保利通 が初代内務卿に就任。警察、地方行政など対民衆行政のすべてを掌握することになりました。

1928年 昭和天皇即位…京都御所で、昭和天皇の即位式が行なわれました。27歳で即位した天皇は、60年以上の在位期間に、太平洋戦争敗戦、玉音放送、人間宣言など、激動の時代を歩むことになりました。

今日11月9日は、フランス建国史上最も偉大な指導者のひとりと評価されている政治家 ド・ゴールが、1970年に亡くなった日です。

シャルル・ド・ゴールは、1890年フランス北部の工業都市リールに生まれました。

「祖国フランスの名誉のために、生きなければいけない」

熱心なカトリック信者で学者の父に、このように教えられて育ったド・ゴールは、中学校を卒業すると、陸軍士官学校へ進みました。

1914年に始まった第1次世界大戦では、負傷して、ドイツ軍の捕りょになりました。しかし、ドイツ軍の降伏で戦争が終わると、さらに、陸軍大学校に学び、しだいに、フランス軍の指導者へ昇進していきました。

1939年に第2次世界大戦が始まり、つぎの年、ド・ゴールは、国防次官に任命されました。そしてついにフランスの名誉のために、立ちあがるときが、おとずれました。フランス軍は、強力な航空機と戦車をそろえたドイツ軍に敗れ、このときのフランス大統領は、あっけなくドイツに降伏してしまったのです。

「フランスは、ひとつの戦いには敗れたが、戦争に負けてしまったのではない。どこまでも、戦いをつづけよう」

ド・ゴールは、イギリスへのがれ、ラジオで、フランス国民によびかけました。そして、自由フランスの名をかかげた組織をつくり、祖国を占領したドイツへの抵抗をつづけました。

1945年、連合国軍の勝利で戦争は終わり、国の名誉を守った英雄としてたたえられたド・ゴールは、新しくうちたてた臨時政府首相の地位につきました。しかし、憲法問題で議会と対立としてわずか数か月で首相をしりぞき、指導政党を解散したのち、国の政治からはなれました。未来の平和を願って「世界大戦回顧録」を書き残したのは、このときです。

1958年、ド・ゴールは、ふたたび、国の指導者となりました。フランスの植民地アルジェリアでくすぶり始めた、革命の火を消すために、国民にのぞまれて、ふるい立ったのです。

「もう、植民地を、力でおさえつけておく時代ではない」

フランス共和国大統領となったド・ゴールは、植民地を次つぎに独立させました。アルジェリアの火も1962年に消しとめて、独立をみとめました。そして、それらの新しい独立国をまとめてフランス共同体をつくり、フランス国家の勢力を、さらに強いものにしていきました。

いっぽう外交にも力を入れ、ソ連、中国などとも、すすんで交わりました。はば広い外交による世界の平和を考えたのです。ド・ゴールは、1965年に大統領に再選されてからも、世界のどんなに大きな力にも屈しない独自の外交をおし進めました。

大統領として強い権限をふるったことには、ひはんもありました。しかし、祖国フランスのために生きた栄光の生涯でした。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)17巻「アインシュタイン・ヘレンケラー・チャップリン」の後半に収録されている7編の小伝の一編 「ド・ゴール」 をもとに記述したものです。


「11月9日にあった主なできごと」

1872年 太陽暦の採用…明治政府は、西欧の国ぐにならって太陽暦を採用すると、この日に決定しました。具体的には、明治5年12月3日を明治6年1月1日とすることで、太陽暦(新暦)に切りかわりました。これまでの日本の暦は、月の満ち干の周期をもとにした太陰暦(旧暦)が使われていました。

1876年 野口英世誕生…黄熱病・梅毒・狂犬病・蛇毒などの細菌の研究に、大きな成果をあげた 野口英世 が、誕生しました。

1989年 ベルリンの壁崩壊…第2次世界大戦に敗れたドイツの首都だったベルリンは、ソ連を中心とする社会主義国が管理する東ベルリンと、アメリカ、イギリス、フランスなどの資本主義国の管理する西ベルリンに分断されました。さらに1949年には、ドイツという国も社会主義国の「東ドイツ」と、資本主義の「西ドイツ」の2つに分かれてしまいました。1961年8月に作られた壁のために、行き来のできなくなった東西ベルリンでしたが、この日東ドイツ政府は通行を認めると発表。東西ドイツをへだてる象徴だった「ベルリンの壁」の崩壊がはじまりました。こうして、翌1990年10月3日にドイツは統一されました。

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