児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年11月

今日11月20日は、『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』などの長編小説や随想録『人生読本』で名高いロシアの作家トルストイが、1910年に亡くなった日です。平和主義者としても知られ、『イワンの馬鹿』など民話の再話も有名です。

レフ・トルストイは、1828年に、モスクワ郊外のヤスナヤ・ポリャーナという村に、貴族出身の両親の4男として生まれました。家は700人もの農民をかかえる大地主でしたが、幼少期に両親を亡くし、叔母さんに育てられました。

16歳のとき、カザン大学へ入りましたが、途中で退学、やがてモスクワへ出て軍人となりました。さまざまな戦に加わるうちに、戦争の恐ろしさやその悪を身をもってさとって、文学をこころざすようになりました。特に1854年、クリミア戦争に将校として従軍した体験は、トルストイが平和主義を展開する背景となりました。そしてその頃、はじめての小説『幼年時代』を発表して、認められるようになりました。

1856年に軍隊を退くと、ふるさとに落ち着いて学校を建設したり、自分の土地を貧しい農民に与えたりしました。そして1864年から5年がかりで書き上げた『戦争と平和』、さらに3年をかけて『アンナカレーニナ』という長編小説を完成させました。それぞれ、戦争による人々の悲惨な暮らしや、19世紀末のロシア農民の悲惨な暮らしぶりを描きながら、理想の社会を追い求める姿勢は、世界じゅうの人々に感動をあたえました。

その後トルストイは、自身の幸福な境遇や、たずさわってきた芸術がどれほど人々に役立っているのか、自分の求めている理想と現実のくいちがいはどうしてなのか、といったことを内省するようになり、少しずつ教訓や宗教性のある作品を書くようになっていきました。

82歳の年、良心にはじない生活を送ろうと、家族や財産を捨てて家出をしました。家を出てから40日にも満たない日に、小さな駅で倒れ、さみしく生涯を閉じたのでした。

なお、トルストイの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第12巻 「トルストイ」をご覧ください。
 

「11月20日にあった主なできごと」

1179年  後白河法皇を幽閉… 平清盛 は、院政を行なっていた後白河法皇をこの日、鳥羽殿に幽閉。まもなく孫を安徳天皇にし、平氏の独裁体制を築いていきました。

1858年  尾崎行雄誕生…明治・大正・昭和の3代にわたり、憲法に基づく議会政治を擁護し、清廉な政治家として活躍した 尾崎行雄 が、生まれました。

1945年 ニュールンベルク裁判開始…第2次世界大戦の戦犯を裁く国際軍事裁判が、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連から選ばれた裁判官のもとに、ドイツのニュールンベルクで始まりました。この裁判で史上初めて「戦争犯罪」という考え方が明確に打ちだされました。

2001年 イチロー大リーグMVP獲得…アメリカの大リーグマリナーズのイチロー外野手は、日本人初のMVP(最優秀選手)に選ばれました。あわせて、新人王、盗塁王、アメリカンリーグ首位打者、ゴールドグラブ賞にも輝く活躍でした。

今日11月19日は、『ぼだい樹』『野ばら』『アベ・マリア』など600曲以上もの歌曲や、『未完成交響曲』などの交響曲や室内楽曲、ピアノ曲などを作曲したシューベルトが、1828年31歳の若さで亡くなった日です。
 
シューベルトは、1797年オーストリアの音楽の都ウィーン郊外に、小さな小学校の校長だった父の4男として生まれました。シューベルトは、小学校へ入るとまもなく、音楽がすきな父と兄たちから、楽譜の読み方から声楽、バイオリン、ピアノを習いはじめました。
 
家が貧しかったために、11歳の時、学資のかからないコンビクト(寄宿制王立神学校)の採用試験に合格して合唱隊員になりました。ここでは当時一流の作曲家の教えを受けるかたわら、友人のシュパウンが組織した学生管弦楽団のバイオリン奏者、のちには指揮者を務めました。また、学校の休暇には父や兄たちと弦楽四重奏曲を楽しみ、たくさんの音楽体験を重ねました。
 
神学校を去る16歳までに、すでに交響曲、弦楽四重奏曲、歌曲などを作曲するほどでした。家にもどったシューベルトは、師範学校に通ったのち、父の学校で教員になりました。でも、内気な性格のためか、先生の仕事は好きになれません。子どもに教えるかたわら、暇をみつけては作曲にはげみました。18歳の時には、歌曲『さすらい人の夜の歌』『野ばら』『魔王』など1年間に100曲以上もこしらえました。作品に魅せられた友人たちが集まって、シューベルトの音楽に親しむ会も行われるようになりました。
 
でも、いなか教師のシューベルトの暮らしは、あい変わらず貧しいものでした。そんなシューベルトのようすをみかねた親友のシュパウンは、いっしょに暮らして音楽に打ちこまないかと提案しました。こうしてシューベルトは教師をやめ、自由に作曲活動に打ちこめるようになったのです。
 
シューベルトの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第9巻 「シューベルト」をご覧ください。
 
 
「11月19日にあった主なできごと」
 
1805年 レセップス誕生…地中海と紅海を結びインド洋へとつながる海の交通の要・スエズ運河を建設した レセップス が生まれました。
 
1827年 小林一茶死去…江戸時代後期の俳人で、子どもや動物、自然を愛して素朴な歌を読み続けた 小林一茶 が亡くなりました。
 
1863年 リンカーン歴史的演説…南北戦争中のこの日、アメリカの リンカーン はゲティスバークで「人民の人民による人民のための政治」という演説を行ないました。これはデモクラシーの理念を明確に示すものとして、世界的に有名になりました。
 
1956年 東海道本線全線電化…米原、京都間がこの日電化され、東海道本線が全線電化。電化完成により、東京、大阪間を走る最速特急が7時間半となりました。これを記念し、1964年からこの日を「鉄道電化の日」としています。

今日11月18日は、『丘を越えて』『影を慕いて』『青い背広』など、日本人の心にふれるメロディで、今も口ずさまれているたくさんの歌謡曲を作った作曲家 古賀政男が、1904年に生まれた日です。美空ひばりの歌で大ヒットした『柔』や『悲しい酒』も古賀政男の作品です。

古賀政男は、福岡県に生まれました。父は、せと物を売り歩く商人でした。政男が6歳のとき、父は病気で亡くなり、母のせつは、政男や弟をつれて朝鮮(今の韓国)の仁川に渡りました。長男の福太郎や次男の時太郎たちが、仁川の金物問屋ではたらいていたので、それをたよって行ったのです。

政男は音楽の好きな少年でした。仁川で朝鮮の労働者のうたう民謡に思わず聞きほれました。そのころ、はやりはじめた大正琴に夢中になって、じょうずにひいて人をおどろかせたりもしました。やがて、京城に自分の店を開くようになった兄の福太郎は、こうした政男に感心しませんでした。苦労して一人前になった兄は、音楽など生活の上でなんのたしにもならないと考えていました。それで、政男も将来は自分といっしょにはたらかせようと考えて、商業学校に入れました。

政男は18歳のときには、大阪にできた兄の支店ではたらきました。しかし、東京に出て自分の才能をためしてみたいという希望をすてることはできません。ある日、政男はわずかばかりの貯金とマンドリン1つを持っただけで、店をとび出しました。こうした政男をかげながらはげましてくれたのは、母のせつでした。母はとぼしいお金をはたいて送ってくれました。政男ははたらきながら、明治大学予科に通いました。大学には、できたばかりのマンドリンクラブがあり、ここに入った政男は、演奏に指揮にすぐれた腕を見せました。

政男の作曲ではじめて注目されたのは、自分で詩も書いた、『影を慕いて』です。この曲がマンドリンクラブの演奏会で歌われると、会場は割れんばかりの拍手でした。政男が大学を卒業した年、この曲はレコードとして売り出され、大好評で全国に流行しました。つづいて作曲した『酒は涙か溜息か』も、100万枚を突破し、政男は一躍、人気作曲家となりました。

「いい詩をみると、からだがふるえるような気がする」

それでも、その詩にぴったりの曲が心にうかんでくるまで、政男は作曲にかかりません。作曲してからも、マンドリンを手にして自分で歌いながら、わるいところをなんどでも直して、うたいやすく、おぼえやすいものにしていきます。そこにヒットの秘密があるのでしょう。生涯に5000曲以上も作曲した政男は、1978年病に倒れましたが、「古賀メロディ」は今も生きつづけています。

死後まもなく、前年756号ホームラン世界新記録達成した王貞治に続き、2人目の国民栄誉賞を受賞しています。


「11月18日にあった主なできごと」

1901年 八幡製鉄所操業…福岡県北九州市に建設された八幡製鉄所が操業を開始しました。近代化を推し進めていた明治政府が、殖産振興・富国強兵をもとにしたわが国初の本格的な製鉄所で、日露戦争、第1次世界大戦での鉄鋼需要の急増で、急速に発展しました。

1903年 パナマ運河条約…太平洋とカリブ海を結ぶパナマ運河は、スエズ運河をひらいた レセップス が開発に着手しましたが、難工事のため断念。アメリカ合衆国はパナマとの間でパナマ運河条約を結び、10年以上もかけて建設を進めて、1914年に開通させました。そのため長いあいだアメリカによる支配が続いてきましたが、1999年末、パナマに完全返還され、現在はパナマ運河庁が管理しています。

1928年 ミッキー・マウス誕生… ディズニー が制作したアニメ映画「蒸気船ウィリー」がこの日ニューヨークの劇場で上映されました。主役は、ディズニーが可愛がっていたネズミをモデルにしたミッキー・マウス。初めてのトーキー・アニメ映画だったこともあって大評判になりました。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 58]

むかしあるところに、とてもけちな男がいました。いつまでたっても、嫁さんをもらわないので、知り合いたちは心配して「いいかげんに、嫁をもらったらどうだ」といいました。すると男は、「もらってもいいが、ものを食わない女がいたら世話をしてくれ」といいました。みんなはあきれて、もうだれも、嫁の話はしなくなりました。

ある日のことです。この男の家に、髪の長い美しい女がたずねてきて、一晩泊めてくれないかといいます。「泊めるのはいいが、あんたに食べさせるものはないよ」というと、「私は、ものを食べない女です」「ほんとに、何も食べないのか?」「はい、これまでに、ものを食べたことがございません」

こんな女なら、嫁にしたいものだと思っていると、女は朝ごはんの用意や、家のあとかたずけまで、てきぱきとやってくれます。男はすっかり気に入って、嫁にもらうことに決めました。(まったくいい嫁をもらったものだ)と、さっそく友だちのところへ行って自慢をしました。「ものを食わない女なんて、そいつは人間じゃない。しっかりしないと、今にひどい目にあうぞ」「ばかをいえ、うちの女房がきれいなので、うらやましいんだろ」と、男は腹をたてて、帰っていきました。

ところが、不思議なことがおこりました。嫁さんはものをひと口も食べないはずなのに、家の中の米やみそがどんどんへっていくのです。そこで男は、町へ出かけるといってこっそり家の天井裏にかくれ、ようすをうかがうことにしました。そんなこととは知らない女は、大釜でごはんを炊きはじめました。炊きあがると、にぎりめしをたくさん作り、大なべではみそしるを作りだしました。

(あんなにたくさん、にぎりめしやみそしるを作ってどうするんだろう)と思っていると、女は、長い髪を真ん中からほどいて分けると、何と頭のてっぺんから大きな口があいたのです。男がびっくりしていると、女はにやりと笑いながら、頭の口の中へ、にぎりめしをつぎつぎにほうりこみました。こんどは、大きなひしゃくでみそしるをすくうと、みそしるを頭の口へ流しこんだのです。(やや、あいつは化けものだ!)

男は、そっと天井裏からおりると、はだしのまま友だちのところへ逃げていきました。「だからいわないこっちゃない。でも、今日は知らないふりをして帰れ。正体が知れたことがわかれば何がおこるかわからない」「必ず助けにきておくれ」と、男はこわごわ家に帰りました。

家に帰ると、女は頭が痛いと寝ています。「そりゃいかん。薬でも飲んでみるか」「いいえ、薬は大きらいです」「それじゃ、まじない師にきてもらおう」と、男は友だちを呼んできました。まじない師に変装した友だちは「頭が痛いのは、にぎりめしと、みそしるの食いすぎだ」といいました。すると、女はぱっと飛び起きると「見たな!」と叫ぶや、みるみる目がつりあがり、口は耳まで裂け、いきなり友だちの頭をガリガリかじりはじめたのです。

「キャー、人食い鬼だーっ!」悲鳴をあげながら男は、山へ向かってどんどん走りました。鬼は、すぐに男を追いかけます。男は必死で逃げました。捕まりそうになったとき、頭の上の木の枝にひょいと飛びつきました。うまいぐあいに、鬼は気がつかずに走って行きます。ところが、男が木から下りると、鬼がもどってきました。あわてて男は、しょうぶのたくさん生えている草むらにかくれると、鬼は歯をむき出してとびかかってきました。そのときです。「ワァーっ」と鬼は、目をおさえてひっくりかえりました。しょうぶの葉の先で、両目を刺してしまったのです。目をつぶされた鬼は、うなり声をあげながら、あばれまわっています。

そのすきに、男は逃げて逃げて、命だけは助かりました。

こんな話から、しょうぶが男の子にとって縁起の良い植物とされて、家の軒下につるしたり、枕の下に置いて寝たり、端午の節句にしょうぶ湯に入るようになったそうです。

今日11月16日は、江戸幕府が急増する江戸市民の水を補うために、1653年のこの日に玉川上水を完成させた日です。

徳川家康が、1603年に江戸(東京)に幕府を開き、政治の中心となって発展していくにつれて、困った問題がおこってきました。人口の急激な増加のために、飲料水が不足してきたのです。

以前の江戸は、海だったところが多く、そのため井戸を掘っても良い水がでません。そこで、1629年 3代将軍 徳川家光 の時代に、井の頭池(三鷹)から「神田用水」(神田川) を引きましたが、これでも足りません。

そこで幕府は、1653年1月、利水技術にすぐれていると評判の玉川兄弟(庄右衛門、清右衛門)に建設を命じました。着工は同年4月、多摩川上流の羽村から四谷までおよそ50kmに水を通すという計画でした。

しかし、羽村から四谷までの標高差はわずか100mしかなかったこともあって、工事は困難を極め、工事費として渡された6000両は高井戸付近で底をつき、それ以上の資金を出さない幕府にかわって、玉川兄弟は家屋敷を売却するなどして自腹で資金を調達し、8か月後にようやく四谷大木戸まで、溝を掘りきることができました。

その後この水は、大木戸の水門から、地下にうずめられた木製の水道管を通って江戸市中に配られました。すべてが終了したのは翌年の6月20日のことで、工事開始から1年以上もかかりました。これにより、江戸の飲料水の4分の1は「神田用水」、4分の3は「玉川上水」でまかなうようになりました。

農民だった玉川兄弟は、この功績により200石の武士にとりたてられ、玉川姓を許されて玉川上水役のお役目を命じられました。羽村のとり入れ口には、玉川兄弟の銅像がたてられています。

なお、わが住まいは玉川上水沿いにあり、今も清流に鯉や鴨が遊び、側道は四季折々の自然が楽しめる散歩道としてたくさんの人に愛され、私にとっても愛着が深く、まさに「俺家(おらんち)の川」といった感覚です。


「11月16日にあった主なできごと」

1523年 インカ帝国皇帝捕えられる…15世紀から16世紀にかけてペルー南部に栄えたインカ帝国は、クスコを中心に石造建築や織物、金銀細工など優れた文明を築きましたが、この日スペインの ピサロ は、帝国のアタワルバ皇帝をだまして捕えました。翌年インカ帝国は滅亡、スペインは南アメリカ大陸のほとんどを長い年月支配することになりました。

1614年 高山右近 国外追放…織田信長、豊臣秀吉、徳川家康につかえた高山右近は、築城術もたけ茶道にも長じたキリシタン大名でしたが、禁止されたキリスト教を捨てなかったためにこの日国外追放、40日後にマニラで亡くなりました。

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