児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年11月

今日11月30日は、ミシシッピ川を背景に生き生きとした少年文学『トムソーヤの冒険』『ハックルベリーフィンの冒険』をはじめ、『王子と乞食』などユーモアのなかにするどい社会風刺をもりこんだ数々の作品を著し、アメリカの国民文学の成立に大きな足跡を残した作家マーク・トウェーンが、1835年に生まれた日です。

マーク・トウェーンというのはペンネームで、本名はサミュエル・ラングホーン・クレメンズ。長い名前なので、「サム」と呼ばれていました。

サムは、ミズーリ州のフロリダに誕生。4歳のとき、一家が移ったミシシッピ川沿いの町ハンニバルで冒険好きな少年として育ちました。この大自然に恵まれた町で過ごしたわんぱくな少年時代の思い出が、40年後の代表作『トムソーヤの冒険』『ハックルベリーフィンの冒険』を生み出したといわれています。

学校へ通うことなく、自由奔放に少年時代をすごしたサムは、12歳のとき父を失い、印刷屋の見習いとなって自活しました。各地を放浪したのち、22歳のときに、少年時代からの夢だったミシシッピ川の蒸気船の水先案内となりました。

主な仕事は、船のへさきに立って水の深さをはかって舵取りに教える役わりです。「マーク・2(トウェーン)」と、サムは叫びます。「マーク1」が水深およそ2mなので「マーク2」は4m、航行に安全を意味するわけです。この深さ4mというのをペンネームにしたわけですから、そのユーモア精神や人柄がわかるようです。

当時蒸気船上は、世界の縮図ともいうほどさまざまな人たちがいました。サムは、仕事をしながら人間をみる眼を養い、30歳になったころホラ話の傑作といわれる『ジム・スマイリーとその跳ね蛙』を著しました。これが大評判になって、作家生活に入りました。

マーク・トウェーンの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページに掲載しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第13巻 「マーク・トウェーン」 をご覧ください。

 

「11月30日にあった主なできごと」

1667年 スウィフト誕生… 『ガリバー旅行記』 などを著したイギリスの風刺作家スウィフトが生まれました。

1867年 チャーチル誕生…第二次世界大戦のとき、イギリス首相として連合国を勝利に導くのに大きな力を発揮した チャーチル が、生まれました。チャーチルは、1953年『大戦回顧録』の著書によってノーベル文学賞を受賞しました。

1892年 伝染病研究所設立… 北里柴三郎 は、福沢諭吉 の後援でわが国初の伝染病研究所を設立しました。ここで北里は、ペスト菌や赤痢菌発見などの功績をあげ、野口英世 志賀潔 らの人材を輩出しました。

1900年 オスカー・ワイルド死去… 『幸福の王子』 『星の子』 『わがままな大男』 などを著したアイルランド出身の作家オスカー・ワイルドが亡くなりました。 

今日11月27日は、江戸時代の中ごろに活躍した国学者で、本居宣長へ大きな影響を与えた賀茂真淵(かものまぶち)が、1769年に亡くなった日です。真淵は、万葉ふうの和歌をよんだ歌人でもありました。

真淵は、徳川綱吉が幕府を治めていた1697年に、遠江国(静岡県)浜松で生まれました。父は神社をあずかる神官でしたが、家は貧しく、家族は農業をして暮らしをたてなければなりませんでした。

幼いころから学問がすきだった真淵は、10歳のころから国学、漢学、歌を学びながら成長し、やがて30歳をすぎると京都へでて、国学者荷田春満(かだのあずままろ)の門に入りました。

ところが、数年ごに春満が亡くなり、先生を失った真淵は江戸に移って塾を開き、若い人びとへ講義をしながら国学の研究にはげむようになりました。また、49歳から63歳までの15年間は、江戸幕府8代将軍徳川吉宗の子の田安宗武にめしかかえられ、日本古代の研究を深めていきました。

「日本人のほんとうの心は、古典のなかにある。われわれは、日本の古い文学や歴史を見なおさなければだめだ」

真淵が考えたのは、中国から渡ってきた儒学の教えなどよりも、日本古代からの学問や文化を大切にして、日本という国を、もう一度しっかり、とらえなおそうということでした。

「日本人の心は、天皇から名もない貧しい人の歌まで、およそ4500首を集めた万葉集のなかに、いちばんよく表われている」

真淵は、万葉集の研究にとりかかりました。そして、歌の意味や、よんだ人の心を深く考え、ひとつひとつの歌に解説を加えた『万葉考』と題する本を出版しました。また、日本の古代からのことばや思想などについて考えた『文意考』『歌意考』『国意考』なども、次つぎに著しました。

いっぽう、国学の研究といっしょに歌もよみつづけました。とくに、上品さをたいせつにする新しい歌よりも、自分の心をそぼくに表わす古い形の歌をおおく作り、日本の和歌のほんとうの美しさを、人びとに見なおさせました。

国学と和歌ととおして日本を愛した真淵は、1769年に72歳で世を去りました。

しかし、国学の研究は、『古事記伝』を著した本居宣長 から、さらにその門人の平田篤胤へと受けつがれ、のちに、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤(あつたね)の4人を、国学の四大人とよぶようになりました。そして、この国学の思想は、そのごの日本人の心にはかりしれない影響をあたえ、やがては明治維新の志士を生む、大きな力になりました。

 

「11月27日にあった主なできごと」

1095年 十字軍の提唱…ローマ教皇ウルバヌス2世は、この日フランス中部クレルモンの宗教会議で、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪回するために、聖なる戦いを勧告。これにより、胸に十字の標識をつけた兵士・キリスト教徒が聖地にむけて出発する「十字軍時代」が始まりました。

1894年 松下幸之助誕生…パナソニック(旧松下電器産業)を一代で築き上げた日本屈指の経営者であるとともに、PHP研究所を設立して倫理教育に乗りだ出す一方、松下政経塾を立ち上げて政治家の育成にも意を注いだ 松下幸之助 が、生まれました。

1895年 ノーベル賞の制定…ノーべル は、ダイナマイトなどで得た莫大な財産を、人類の平和と科学技術に貢献したものへ賞として贈るという遺言書に署名。この遺言で、ノーベル財団が設立され、亡くなった5年後の1901年に第1回ノーベル賞授賞式が行なわれました。

1958年 皇太子婚約発表…皇太子明仁親王(現天皇)と正田美智子さん(現皇后)の婚約が、この日に発表され、美智子さんが民間から出た最初の皇太子妃となることで日本中がわきたち、ミッチーブームがおこりました。

1959年 デモ隊2万人が国会構内に突入…1951年に締結された日米安全保障条約(安保)は1960年に改定がおこなわれることになり、アメリカ軍の日本駐留・配備を続けること、その活動範囲を極東全域に拡大するといった内容でした。この日、改定に反対する学生や市民らが国会周辺に押しよせ、デモ隊2万人余りが国会構内に突入したものです。

今日11月26日は、白河天皇がわずか8歳のわが子を、1086年のこの日に堀川天皇として位を譲りました。上皇となった白河は、幼い天皇の後見役として政治の実権を握り続けました。上皇のいるところが「院」と呼ばれ、そこで政治が行なわれたために「院政」とよばれます。

白河上皇は、1107年に堀川天皇の子である孫を鳥羽天皇にしたあとも、ひまごの崇徳天皇までの3代43年間も院政を敷き続け、さらに鳥羽上皇、後白河上皇、後鳥羽上皇と院政は続きました。

院政は、形式としては江戸時代まで残っていましたが、1221年の承久の乱以降は形だけのものとなりました。そのため、白河上皇の1086年から平家滅亡の1185年ころまでは「院政時代」といわれています。


「11月26日にあった主なできごと」

1504年 イサベラ女王没…スペイン(カスティリア王国)女王のイサベラ1世がこの日53歳で亡くなりました。女王はイスラム教国グラナダを滅亡させたこと、コロンブス のアメリカ発見の援助者として有名です。

1906年 満鉄設立…日露戦争に勝利した日本は、ロシアが建設した東清鉄道を譲り受け、南満州鉄道(満鉄)として経営することになりました。満鉄は、鉄道事業を中心に広範囲にわたる事業を展開、日本の満州(中国東北部)進出の中核となりました。

1911年 小村寿太郎死去…日英同盟、日韓併合の立役者であり、日露戦争が終結したポーツマス講和会議の全権大使を務めた外交官 小村寿太郎 が亡くなりました。

1952年 ヘディン死去…87年の生涯を中央アジアの探検にそそぎ、砂にうずもれた楼蘭の町や、インダス川の水源や、ヒマラヤ山脈の北にあるもう1つの山脈トランスヒマラヤなどを探りあてたスウェーデンの ヘディン が、亡くなりました。

 今日11月25日は、慶応義塾を設立するなど、明治期の民間教育を広めることに力をそそぎ、啓蒙思想家の第一人者と評される福沢諭吉が、1876年に代表的な著書『学問のすすめ』最終巻を刊行した日です。
 
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず…」という有名な言葉などで、人間の独立と平等の精神を説いたのが『学問のすすめ』で、当時のベストセラーになりました。諭吉は、明治時代の初期に、この著書以外にも『西洋事情』などを著し、広く世界から知識を求めて、しっかり学び取らなくてはならないことを世間の人たちに訴え続けた先覚者でした。
 
諭吉は、1834年中津藩(大分県)の身分の低い武士の家に5番目の子として生まれました。2歳になる前に父が亡くなったため、貧しい暮らしを強いられ、しだいに封建的な身分制度を嫌うようになりました。そのため、当時の一般的な武家の子弟たちとは違って、神仏を敬うことへ反発するような子どもでした。14、5歳になって、ようやく自分だけ勉強をしないのも世間体が悪いということで漢書を読むようになりました。しかし、学問のおもしろさを知るようになるや、周囲のだれをもしのぐようになりました。
 
1854年、19歳で長崎へでて蘭学を学び、翌年大阪へ出て、緒方洪庵の適塾へ入りました。わかりやすい言葉で文章を書くこと、科学的にものごとを見ることの大切さなど、この塾で学んだ多くの体験が諭吉の血肉となりました。そして、3年後には適塾の塾頭になるほどでした。
 
1858年の冬には、江戸の中津藩に呼ばれ、そこで塾を開き蘭学を教えはじめました。これが、のちの慶応義塾です。ところが、ある日横浜へ出かけてびっくりしました。外国人の看板の文字が読めません。英語で書かれていたためでした。そこで、これからの時代は英語がわからなくては駄目だと悟った諭吉は、辞書と格闘し、独学で英語をものにしてしまいました。
 
1860年、勝海舟の率いる咸臨丸がアメリカへ渡ったとき、そのおともに付け加えてもらってから、1967年までに3度も通訳として外国へ渡り、見聞を広めていきました。その体験から書き上げたのが『学問のすすめ』や『西洋事情』でした。
 
なお、諭吉の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第31巻「福沢諭吉」をご覧ください。
 

「11月25日にあった主なできごと」
 
1890年 第一回帝国議会の開催…明治憲法発布翌年のこの日、帝国議会が開かれました。議会は、貴族院と衆議院の2院からなり、貴族院議員は皇族・華族、多額納税者などから選ばれました。衆議院の議員は、25歳以上の男子で国税15円以上を納める人に限られるなど、当時の人口のおよそ1パーセントが有権者であるにすぎませんでした。
 
1892年 オリンピック復活の提唱…クーベルタン男爵はアテネで古代競技場が発掘されたことに刺激され、スポーツによる世界平和を築こうとオリンピック復活の提言を発表、オリンピック委員会が作られました。

1970年 三島由紀夫割腹自殺…『仮面の告白』『金閣寺』『潮騒』などちみつな構成と華麗な文体で人気のあった作家三島由紀夫が、アメリカに従属する日本を憂えて自衛隊の決起をうながすも受け入れられず、割腹自殺をとげました。  

1987年 ハイビジョンの日…高精密度テレビ「ハイビジョン」の走査線が、従来のテレビの走査線525本に対し、1125本であることから、この日が「ハイビジョンの日」と制定されました。

今日11月24日は、イギリスの博物学者で、生物はみな時間とともに下等なものから高等なものに進化するという「進化論」に「自然淘汰説」という新しい学説をとなえたダーウィンが、1859年のこの日に刊行された『種の起源』の中で、たくさんの例をあげて解き明かしました。

聖書には、「この世のあらゆるものは神が造ったもの」とあります。そのため、キリスト教を信じる人たちの間で大騒ぎになりました。ダーウィンは『種の起源』の中では、自然淘汰による進化論をとなえましたが、人間の進化の問題にはほとんどふれてはいませんでした。でも、聖書の天地創造説を信じて疑わない人々に与えた衝撃は、大変なものだったのでしょう。

しかし、真理は何よりも強いもので、少しずつダーウィンの説に共鳴する人が増え、イギリスだけでなく世界じゅうの言語に翻訳されるようになり、19世紀後半には聖書についでよく読まれたといわれます。

チャールズ・ダーウィンは、1809年、イングランド西部のシュルズベルクに医者の子どもとして生まれました。でも、小中学校の成績は、普通以下で、ぐずな生徒と思われていたようです。

「課外時間は、わけもわからずカブト虫や鉱物を集めたり、化学の実験に夢中になって、仲間から<ガス>というあだ名をつけられた」と、少年時代のことを語っています。しかし、「私が一人前の仕事ができたのは、私の頑固さのおかげです。どんな問題にぶつかっても、どこまでもしんぼう強く考えぬく、これが私のくせでした」と綴っています。

そんなダーウィンの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」第10巻 「ダーウィン」をご覧ください。


「11月24日にあった主なできごと」

1849年 バーネット誕生…『小公子』 『小公女』 『秘密の花園』 などを著したイギリス生まれ、アメリカ育ちのバーネットが誕生しました。

1940年 西園寺公望死去…自由主義思想を支持し、2度総理大臣になるなど、明治・大正・昭和の3代にわたり活躍した最後の元老政治家といわれる 西園寺公望 が亡くなりました。

1944年 東京初空襲…アメリカ軍の爆撃飛行機B29が、東京へ初めて爆撃を敢行しました。航空機を製造する中島飛行機武蔵野工場が主な攻撃目標でしたが、やがて無差別爆撃へ戦術を変え、翌年3月10日には東京の下町を火の海にする大空襲を行いました。

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