児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年08月

今日8月7日は、『ギーターンジャリ』の詩でアジア初のノーベル文学賞を受賞し、東洋最大の詩人と讃えられたタゴールが、1941年に亡くなった日です。

 
インドの偉大な詩人ラビンドラナート・タゴールは、1861年に、インド北東部ベンガル州のカルカッタで生まれました。父は、たいへん信仰心が深く、人びとから聖人とあおがれた貴族でした。

14人兄弟の末っ子だったタゴールは、たいへんあまえんぼうでした。規則にしばられるのが大きらいで、学校や家庭教師をいやがり、家の人たちをずいぶんこまらせました。

その反面、自分のすきなことにはむちゅうになり、とくに自然のなかでいろいろなことを考えているときは、時間のたつのも忘れてしまうほどでした。8歳をすぎたころから、自然を愛するあたたかい詩を作りはじめました。15歳で詩集『野の花』をまとめたタゴールは、はやくも詩作の才能を注目され、ベンガルの詩人とよばれるようになりました。

「農民たちは、あまりにも貧しく、みじめすぎる。農民をすくわなければ、インドの国はよくならない」

30歳のとき、父に大きな農場のせわをまかせられて初めて身近に感じたのが、めぐまれない農民や暗い社会の問題でした。心を痛めたタゴールは、やがて村の子どもたちのために野外学校を開きました。また、そのころインドを支配していたイギリスがベンガル州を2つに分けようとしたときには、人びとの先頭にたって反対運動を起こし、インド独立のために戦いました。

運動は成功しました。しかし、各地で起こった闘争では、おおくの人がとらえられ、命をおとしました。

「みにくい政治にかかわるのは、もうたくさんだ」

タゴールは、独立運動から身をひき、真実に生きる人間のすがたをもとめて、清らかな詩の世界にひたるようになりました。

1913年、自分の心の苦しみを告白し、神への祈りをつづった詩集『ギーターンジャリ』によって、東洋で初めて、ノーベル文学賞を受賞しました。こののちタゴールは、世界の国ぐにをまわり、人間の罪や運命を見つめた詩や小説や劇を通じて、世界平和のための国際協力の大切さをうったえつづけました。

日本へも人類愛の意義を説くために、4度おとずれました。しかし、日本が中国へ戦争をしかけたときには、日本をはげしくひなんしました。

タゴールは、村の片すみで始めた学校を、すべての財産を投げだしてりっぱな大学に育てあげ、1941年に80歳の生涯を終えました。いま、タゴールの詩の1つは、インド国歌となって、人びとに口ずさまれています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)14巻「エジソン・ゴッホ・シートン」の後半に収録されている7編の小伝の一編「タゴール」をもとに記述したものです。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、タゴールの代表的詩集『ギーターンジャリ』(ギタンジャリ)103章からなる全文(高良とみ訳)を公開しています。

今日8月6日は、ビクトリア朝時代を代表するイギリスの詩人テニスンが、1809年に生まれた日です。

 アルフレッド・テニスンは、リンカンシャー州のサマズビーに牧師の子として生まれました。幼い頃から詩を作るのが好きで、ケンブリッジ大学に入学後の1827年には、2人の兄といっしょに『兄弟詩集』を刊行しました。

1832年に発表した『詩集』により詩人としての名声が高まり、友人の死を嘆いた長詩『イン・メモリアル』や叙事詩『王女』などで詩壇に確固たる地位を確立しました。1850年には、ワーズワースの跡を継いで王室付きの詩人で英国詩人の最高位である[桂冠詩人]となってからは収入も安定し、1859年から5年をかけてアーサー王伝説に取材した『アーサー王の死』など数々の詩集を発表しました。美しい言葉遣いと韻律には定評があり、英米人はもちろん、日本でも長い間愛読され続けています。

テニスンの代表作『イノック・アーデン』は、55歳のときに作られた物語詩で、あらすじは次の通りです。

『幼なじみで遊び仲間の3人の子どもがいました。船頭の息子で親を亡くしたイノック・アーデン、美少女アニイ・リイ、粉屋の一人息子フィリップ・レイ。イノックもフィリップもアニイに恋こがれていましたが、やがてたくましい漁師に成長したイノックが、アニイに求婚。二人は結婚して3人の子どもにめぐまれ、幸せな家庭を築きました。しかし、イノックがケガをしたことで家計が苦しくなり、イノックは妻子に楽をさせたいと、アニイが引き止めるのも聞かず、東洋貿易の船に乗りこみました。

つつがなく船旅を続けましたが、帰る途中暴風雨にあって船は沈没、イノックは常夏の無人島に取り残されてしまいました。故郷の妻子を夢見ながら、たった一人で暮らすこと10年あまり。ある日、運よく通りかかった船にすくわれ、港についたイノックは、ひたすら我が家へ急ぎました。ところが、住み慣れた家は、売家の札がかかっているのです。居酒屋のおばあさんは、イノックとは気づかず、アニイの話をするのでした。

イノックがいなくなってから、生まれたばかりの赤ちゃんが死んだこと、悲しむアニイをフィリップがなぐさめ、さらにアニイの苦しい暮らしも支えてあげた上、子どもたちを学校にかよわせたこと。10年経ってもイノックからの音信がとだえたためアニイは、イノックは死んだものとあきらめて、フィリップの求婚を受け入れたこと、そして子どもも生まれたこと──などを。

ある日の夕暮れ、イノックはこっそりフィリップの家を訪ねました。赤々と燃える暖炉のまわりで、楽しげにくつろぐアニイや子どもたちの姿をぬすみ見したイノックは、苦しみに荒野にのがれ、[妻子に帰国したことを知らせずに生きていける強い心を授けてほしい] と、神に祈るのでした……』

イノックが一人で暮らす南海の孤島の明るさ、それと対照的なイノックの望郷の思いの描写は、特に優れているといわれています。夏目漱石 は「イノック・アーデンが孤島に打ち上げられた時の有様を、テニスンは斯う書いてゐる。ここに人間がある。活きた人間がある。感覚のある情緒のある人間がある。是から見るとロビンソン・クルーソーの如きは山羊を食ふ事や、椅子を作ること許り考へている」と評しています。


「8月6日にあった主なできごと」

1945年 広島に原爆投下される…アメリカ空軍B29爆撃機が、人類初の原爆を広島に投下しました。[ 2007年8月6日ブログ 参照]

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 57]

今日も、ちょっと怖いお話ですよ。

むかし、ある村に一軒の飴(あめ)屋がありました。ある日の夜中のこと、戸をたたく音がします。飴屋のおばさんは、こんな時間に誰がきたのだろうと、戸を開けると、青白い顔をした女の人が立っていました。

「何のご用ですか?」「あのう、飴をひとつください」

おばさんが飴を包んで渡すと、女の人はお金を払って帰っていきました。はじめてあった人なので、不思議に思っていると、次の日の晩も女の人は飴を買いに来ました。それから、次の日も、また次の日も、夜になるとやってくるのです。

おばさんは、すっかり怖くなって、「私はもういやだよ、こんどはお前さんが出ておくれ」と、ご主人にたのみました。「よし、今度きたら後を追ってみよう」と、おじさんはいいました。

次の日の夜、おじさんは、飴を買いに来た女の人の後を、そっと追っていきました。女の人は、後ろを振り向くこともなく、飛ぶように歩いていきます。おじさんは女の人を見失わないよう必死になって追いかけました。すると女の人は、村はずれのお寺の前に立ちどまったかと思うと、ばっと姿を消しました。「やや、どこに消えた?」おじさんは、びっくりしてあたりを見回しました。そこは、大きな木に囲まれた墓地の中でした。でも、女の人の姿は見当たりません。

その時です。「ほぎゃぁ、ほぎゃぁ」という赤ん坊のか細い泣き声が聞えました。どうやら、お墓の方から聞えてくるようです。びっくりしたおじさんは、お寺に駆けこみました。「和尚さん、和尚さ~ん!」。わけをきいた和尚さんとおじさんは、いっしょにお墓へいってみました。「これは、ついこのあいだ亡くなった、松吉という男のおかみさんの墓だ」「とにかく、掘ってみましょう」 二人は鍬をもってきて、墓を掘りました。中から、まだ木はだの新しいお棺が出てきました。そのお棺を開けてみると……

「あっ!」二人は同時に声を上げました。死んだ女の人のそばに、まるまると太った赤ちゃんが眠っているのです。「あめを買いに来たのはこの人です」「そうか。このおかみさんは、赤ん坊をお腹に入れたまま死んでしまったのじゃ。きっと、この墓の中で子どもを生んで、飴を食わせて育てていたのじゃろう」。

赤ん坊のくちびるには、飴をなめたあとが、うっすらとついていました。

今日8月4日は、『アンネの日記』を書いたドイツ系ユダヤ人アンネ・フランクの一家が、オランダ・アムステルダムの隠れ家に潜行生活中の1944年、ナチスの秘密警察ゲシュタボに逮捕された日です。逮捕された後、アンネは家族とともにポーランドのアウシュビッツ強制収容所に移送されました。その後姉とともに送られたドイツのベルゲン・ベルゼン女子収容所で、1945年3月発しんチフスのため亡くなりました。病気と飢えと寒さが少女の命を奪って、わずか15年の生を閉じたのでした。

アンネ・フランクは、1929年ドイツの商業都市フランクフルトに、ユダヤ系ドイツ人実業家オットー・フランクの家庭に2人姉妹の次女として生まれました。

当時のドイツは、ナチ(ナチス)の略称で知られる国家社会主義ドイツ労働党が台頭していました。ヒトラー の率いるナチは、偏見に満ちた過激な思想を持っていました。ユダヤ人をはじめ黒人、ロマ(ジプシー)、心身障害者などは、一般社会で生きている資格がないといい、「とりわけユダヤ人は、なまけ者で欲が深く、ユダヤ人を野放しにしていたら、ドイツは滅びる」といい続けていました。

ユダヤ人が10万人も兵士として戦った第1次世界大戦に、ドイツは敗れました。莫大な賠償金を要求されたドイツは、敗戦後は荒廃して、失業者が国じゅうにあふれました。そんな苦しい時代に、ヒトラーが救世主のように現れました。ドイツ人の多くは、「ユダヤ人を追放すれば、ドイツは栄え、豊かな生活が約束される」というヒトラーの言葉を信じたのです。

ドイツで暮らすことが困難になったユダヤ人たちは、1933年には63000人もがドイツを離れました。フランク一家も、ドイツからオランダにわたったのでした。

アムステルダムで暮らすことになったアンネは、両親の愛情に包まれて育ち、自由な校風で知られるモンテッソーリ・スクールでのびのびとした学園生活を送っていました。ところが、1939年9月、ドイツ軍はポーランドに侵入すると、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告をして、第2次世界大戦が始まりました。さらに、1940年5月にはドイツ軍はオランダを占領し、ユダヤ人は職場を追われ、7月になると強制収容所に送りこむというのです。

『アンネの日記』は、アンネ・フランクが、13歳の誕生日に両親から日記帳を贈られたのをきっかけに、アムステルダムの隠れ家で1942年6月14日から1944年8月1日までの2年余りの生活をつづったものです。

日記は隠れ家の住人の援助者の一人によって居住跡からみつけだされ、ただ1人生還した父オットーの手に渡りました。1947年にオランダ語の初版が出版され、5年後に英語版が刊行されると世界的反響を呼びおこし、特異な生涯と、豊かな感受性と洞察力をもって、思春期をむかえた少女の心の動きが見事につづられた記録として各国語に翻訳され、人種差別や、ファシズムと戦争を告発する書として、世界的なベストセラーとなりました。舞台化や映画化もされて、いまも世界じゅうの人々に大きな感動と勇気を与えつづけています。

なお、『アンネ・フランク』の日記や、伝記を読んだ子どもたちの感想文を記した、2006年5月30日ブログ  「アンネの日記」をぜひご覧ください。


「8月4日にあった主なできごと」

1830年 吉田松陰誕生…佐久間象山 らに学び、1857年に私塾「松下村塾」を主宰し、幕末から明治にかけて活躍した 高杉晋作伊藤博文 らおよそ80人の門下生を育て、1859年に「安政の大獄」で刑死した長州藩士 吉田松陰 が誕生しました。

1875年 アンデルセン死去…『マッチうりの少女』『みにくいあひるの子』『人魚姫』など150編以上の童話を生み出し、「童話の王様」と讃えられる アンデルセン がなくなりました。

今日8月3日は、水力紡績機を発明するなど、イギリスにおこった産業革命の担い手となったアークライトが、1792年に亡くなった日です。

ほとんどの発明は、一人の人間がとつぜんにつくりだすものではなく、まえの人が考えたものを土台にして、改善されながら、新しい実をむすぶものです。紡績機を発明したアークライトは、身の回りにある機械の長所を大いにとりいれました。まず、手動の単純な紡績の機械を、水力式にして生産力を高め、さらに蒸気機関をとりいれ、紡績工場の近代化をすすめました。

リチャード・アークライトは、1732年イギリスのプレストンという小さな町に生まれました。子だくさんの貧しい家でしたので、アークライトは10歳の時、床屋へ小僧にだされました。18歳になると、独立してボストンに店をひらきました。毛ぞめ液をつくったり、かつらの毛を売り買いしたりして、たくわえもできるようになりました。アークライトが紡績機に関心をもちはじめたのは、かつらの毛を仕入れるために国じゅうを旅して見聞をひろめていたころです。

18世紀もなかば、世の中は産業革命によって、近代資本主義社会へうごきはじめていました。イギリスは、植民地から原料をはこんできて、それを製品にして輸出するために、商工業がめざましく発展してきました。とくに、インドの綿花を織る紡績業は、産業の中心です。しかし、織機の進歩にくらべて、糸をつむぐ紡績機が追いつきません。そのころつかわれていたジェニー機にしても、人力によるものでしたから、能率に限りがありました。アークライトは、何とかジェニー機以上にはたらく機械をつくろうと苦心しました。そして、床屋をやめて発明にうちこみ、ついに1769年、水力紡績機をつくりだしました。そのころは、飛躍的な時代の波に乗って、あわよくば大金をつかもうとする人が、たくさんいました。アークライトもすばやく特許をとりました。

アークライトは、1771年にダービーシャーに、新型機をそなえた紡績工場をたて、1779年には、紡績の中心地ランカシャーにも、イギリスいちばんの大工場をつくり、事業をふくらませていきました。蒸気機関ができると、すぐに水力式から蒸気機関にきりかえて、一気に生産力を高め、次から次へと新しい技術をとりいれ、紡績工業を近代化しました。アークライトは、家内工業を工場生産へ発展させるという産業革命への偉大な功績をあげて歴史に名をのこし、しかも一代でたいへんな財産を築きました。しかし、文明を発展させたアークライトに、不満の声もありました。便利な機械を発明することによって、数おおくの労働者から仕事をうばってしまったからです。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)6巻「ニュートン・フランクリン」の後半に収録されている14編の小伝の一編「アークライト」をもとに記述したものです。

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