児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年08月

8月18日は、歌人として 正岡子規 に師事、写生の短歌を継承して斎藤茂吉らを育て、小説『野菊の墓』を著した伊藤左千夫が、1864年に生まれた日です。

伊藤左千夫は、現在の千葉県山武(さんむ)市の農家に生まれ、政治家をめざして明治法律学校(現明治大学)に学びましたが、眼病のために中退。ふたたび上京して牧場で働いたのち、実業家をめざして牛乳搾取業を営みましたが、1900年、正岡子規の短歌革新運動に共鳴して子規に師事、短歌の世界に生き甲斐を見いだして、次の歌を詠みました。

牛飼がうたよむ時に世の中のあらたしき歌おほいに起る

こうして、左千夫は歌人として本格的な活動をすることになりますが、この時すでに37歳。50歳でなくなるまで、歌人、作家として活躍したのはわずか13年にすぎません。この短い期間に短歌雑誌「馬酔木(あしび)」「アララギ」を創始し、門下から島木赤彦、斎藤茂吉、土屋文明らの歌人を輩出させ、アララギ派興隆の基礎をつくました。さらに、小説の筆もとり『隣の嫁』『分家』などを著しましたが、特に有名なのは、少年の頃のはかない恋を回想した『野菊の墓』。あらすじは、次の通りです。

『主人公の政夫は、15歳。いとこの民子は2歳上の17歳。政夫の母が病気がちなため、民子は、政夫の家へ家事の手伝いや看護のために来ていました。二人は、大の仲良しでいつも無邪気に遊んだりしていましたが、家の者たちや村人たちは二人の仲をうわさするようになります。政夫の母は、二人を呼びつけ、人の口がうるさいから、少しは気をつけるようにと小言をいいました。以来、民子は人が変わったように、政夫をさけるようになりました。ある日、政夫は母のいいつけでナスをもいでいると、民子がざるを持って政夫のうしろに立っていました。すでに二人の間に小さな恋心がめばえていたのでした。後日、綿畑で「野菊が好き」「りんどうが好き」という間接的な恋の告白をした日の晩遅く帰った二人に対し、理解の深かった政夫の母も、家の者たちの非難に負け、二人を引き離すために政夫を早々と中学に通うための下宿へおいやるのでした。政夫は町へもどる前日、自分がいなくなってから見てくれと、1通の手紙を民子に渡しました。翌朝、民子は小雨の降る「矢切の渡し」で、一言も言葉を交わすことなく、政夫を見送りました。これが、生涯の別れになることも知らずに。1年後の冬休みに家にもどった政夫は、民子が嫁に行ったことを知りました。さみしく学校へ戻った政夫のところへ、家から「スグカエレ」という電報がとどきました。民子が帰らぬ人になったというのです。死の床で、民子が胸にしっかり握っていた袋の中にあったのは、政夫からの手紙でした……』

当時 夏目漱石 は左千夫あての手紙で「自然で、淡白で、可哀想で、美しくて、野趣があって」こんな小説なら「何百篇よんでもよろしい」と評しました。この小説に感銘し、1955年に映画化した木下恵介監督の『野菊の如き君なりき』は、黒澤明 監督の『七人の侍』をおさえ、キネマ旬報年間最優秀賞に輝いています。
 

「8月18日にあった主なできごと」

1227年 チンギスハン死去…モンゴル帝国の初代皇帝で、モンゴルから中央アジア、西アジア、中国の一部までを征服した チンギスハン が亡くなりました。

1598年 豊臣秀吉死去…織田信長の後をついで天下統一を果たし、絢爛豪華な安土桃山時代を築いた武将 豊臣秀吉 が亡くなりました。


* ブログを9月中旬まで休載いたします。

上記の通り、2日遅れで8月18日のブログを掲載いたしました。

山梨新倉庫の建設にともない、山梨山荘にネット環境が整ったということで、アップを試みましたがコンピューターがいうことをきいてくれませんでした。本日、本社に出社してアップしましたが、ここしばらくは荷物の移動、整理などで時間がとれそうもなく、9月中旬までブログを休載することになりました。悪しからずご了承ください。

今日8月17日は、アメリカの技術者で発明家のフルトンが、1807年、ハドソン川で蒸気船の試運転に成功した日です。

フルトンは、初めて蒸気船をつくった人として知られています。しかし、フルトンのほかにも蒸気船をつくった人は、すでに何人かいました。けれども、実際の役に立ちませんでしたし、ねうちを理解する人もほとんどいませんでした。フルトンは、実用的な蒸気船を発明し、その便利さをおおくの人に伝えました。

フルトンは、1765年にアメリカのペンシルベニア州に生まれました。子どものころから、絵をかいたり、機械をいじったりするのが大すきで、学校の勉強はあまりしませんでした。父親が、早く死んでしまったので、フルトンは、自分の力で家族をやしないました。17歳になると、フィラデルフィアへでて、4年間、はたらきました。安定した収入を得るようになると、とくいだった絵を勉強して画家をこころざします。しだいに、絵の仕事もふえ、ゆとりのある生活になりました。そこで、イギリスへ留学して、さらに深く絵を学びました。

イギリスは、産業がめざましい発展をとげている時でした。フルトンは、アメリカでは見られなかった、めずらしい機械に心をうばわれ、ついには、絵筆をほうりだして、科学の研究のみの毎日をすごすほどでした。布を織る機械や、ロープを作る機械などをつぎつぎに発明し、蒸気船の開発にもとりくみ始めました。1803年、フルトンは、最初の蒸気船をつくりました。しかし、その船は、スピードがでなくて、実際には使えそうもありませんでした。フルトンは、あきらめず研究をつづけますが、まわりの人びとは「フルトンのばか」と言って、あざけるばかりです。でも負けずに、ねばり強く苦心を重ねた結果、新しい蒸気船を完成しました。船の両側につけた水かき車を蒸気機関のはたらきで回して、進むというしくみです。

1807年8月17日、フルトンは、大ぜいの人たちのまえで、蒸気船の試運転をしました。クラーモント号と名づけられた船は、まっ黒なけむりをもくもくとはきながら、ハドソン川を走りだしました。ニューヨークからオルバニーまでの242キロを、32時間というびっくりするようなスピードでした。そのころ使われていた、風の力で走る船は、同じきょりを走るのに48時間もかかっていたので、16時間も速く走ったわけです。何千人もの見物人は、おどろきの歓声をあげました。

その後、蒸気船はますます発達して、アメリカはもとより、ヨーロッパでも走り回るようになりました。産業の発展を、おおいに助けた発明でした。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)8巻「モーツァルト・ナポレオン・ベートーベン」の後半に収録されている7編の小伝の一編「フルトン」をもとに記述したものです。


「8月17日にあった主なできごと」

1949年 松川事件…東北本線の福島県松川市付近で、レールの釘がはずされていたため列車が転覆し、機関士ら3人が死亡する「松川事件」がおきました。この事件は、国鉄の労働組合や共産党が仕組んだものとされ、労働組合員ら20人が逮捕されました。1963年に判決がおり、全員が無罪となりましたが、この事件をきっかけに政府の労働組合への取り締まりが強化され、日本の労働運動は急速に弱まっていきました。当時おきた下山事件、三鷹事件とともに「国鉄3大ミステリー」といわれています。

今日8月12日は、『風神雷神図』 などを描いた江戸時代初期の画家俵屋宗達(たわらや そうたつ)が、1643年に亡くなったと思われる日です。

京都市東山区にある建仁寺に『風神雷神図』をえがいた国宝のびょうぶが残っています。鬼のような顔をした、風をつかさどる神と雷をつかさどる神が、雲に乗って空を飛んでいる日本画です。金色のびょうぶの右左にえがいた神は、いまにもあらしを起こしそうな迫力にあふれ、江戸時代の日本画の最高けっ作のひとつに数えられています。この名画をかいたのが俵屋宗達です。

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宗達は、この名画が物語るとおり、江戸時代初めのころの、すぐれた日本画家です。しかし、生涯のことは、ふしぎなほど不明です。生まれた年や死んだ年さえはっきりわかりません。絵のほかには、宗達のことを伝えるものが、ほとんどないからです。

宗達が初めのころにえがいたものは、扇、色紙、短冊、本などを飾った小さな絵でした。金銀の粉をとかした絵のぐでかいた、金銀泥絵とよばれるものです。書の名人本阿弥光悦が書く文字の下にえがいたものが有名ですが、数では扇絵がおおく、宗達は京都の町で扇屋を開く町絵師だったのだろう、と考えられています。

しかし、ただの町人絵師ではありませんでした。茶道の名人千利休の次男の少庵を茶の湯の会に招いたことが伝えられており、文化人とのまじわりのおおい、教養の深い人物だったようです。生活も豊かだったにちがいありません。

四季の草花、波、鹿などをおおくえがいた金銀泥絵のあと、やがて宗達は、大きな水墨画にいどむようになりました。

1621年に、京都養源院の、ふすま20面にえがいた松の絵、杉戸4枚にえがいた獅子や象の絵が、初めての大作です。そして、そののち10年ぐらいのあいだに『風神雷神図』をはじめ『松島図』『源氏物語関屋澪標図』などのびょうぶ図の名画を、つぎつぎにえがいていきました。

宗達は、生きているあいだに、朝廷から、すぐれた仏師とか僧、歌人、絵師、医者などにあたえられる、法橋という位をさずけられていましたが、この法橋という位を受けたのは、水墨画の大作をえがき始めたころとみられています。

初めは職人のような町絵師だった宗達は、それまでの日本画に、いかにも町人あがりらしい大たんな技術を加えて、自分だけの絵の世界をきずきあげたのです。

宗達には、金銀泥絵をかいていたころから、たくさんの弟子がいました。しかし、美しい広がりをもつ絵は、ほとんど、だれにもひきつがれませんでした。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)25巻「徳川家康・松尾芭蕉・近松門左衛門」の後半に収録されている7編の小伝の一編「俵屋宗達」をもとに記述したものです。


「8月12日にあった主なできごと」

紀元前490年 マラソンの始まり…ギリシアのマラトン(英語読みマラソン)で、1万人のギリシア軍と10万人のペルシア軍が戦いギリシアが勝利をおさめました。戦いに勝ったことを知らせるために、ギリシア兵のフェイディピデスが首都アテネまでの42,195mを休まずに走り続け「わが軍勝利」といって死んでしまいました。この逸話を記念して、1904年の第1回近代オリンピックから、マラソン競技としてとり入れられました。

紀元前30年 クレオパトラ死去…古代エジプト・プトレマイオス朝最後の女王 クレオパトラ が、毒蛇に身をかませて亡くなったといわれる日です。

1893年 「君が代」「日の丸」制定…「君が代」など8曲が小学校祝日唱歌に定められ、国民の祝典や学校の式では必ず歌われるようになりました。太平洋戦争後は、天皇を賛美する歌として強制されなくなりましたが、1999年「国旗国歌法」で正式に「日の丸」が国旗、「君が代」が国歌と定められました。国民の誰もがよろこんでうたえる国歌がほしいという声も根強いものがあります。

1962年 太平洋単独横断…堀江謙一が小型ヨット(全長5.8m 幅2m)で兵庫県西宮をたった一人で出発し、93日後のこの日アメリカのサンフランシスコに到着。日本人初の太平洋横断に成功しました。

1985年 日航ジャンボ機墜落…日航機123便が、群馬県御巣鷹山の南にある高天原(たかまがはら)山に墜落。死者520人という日本国内で発生した航空機事故では最多、単独機の航空事故では世界最多という大惨事となりました。「上を向いて歩こう」を歌い世界的ヒットをさせた歌手坂本九もこの犠牲者の一人。

今日8月11日は、1338年のこの日、室町幕府を開いた足利尊氏(あしかが たかうじ)が、北朝の光明天皇から征夷大将軍に任命されました。

1333年5月、源頼朝 が鎌倉に武士の政府を開いてから143年後、鎌倉幕府が滅亡しました。そのいきさつを振り返ると、次の通りです。

鎌倉時代の後期、執権の北条氏の政治のやり方に不満を持つ武士が多いのを知った 後醍醐天皇 は、武士に奪われた政権を自分たちのものにしようと、1331年に「元弘の乱」といわれる倒幕の兵をあげましたが失敗、天皇は、隠岐島にながされてしまいました。しかし、1333年の5月になると、幕府側の御家人である上野国の 新田義貞 や下野国の 足利高氏(のちの尊氏) らが幕府から朝廷へ寝返り、諸国の反幕府勢力を集めはじめました。

この動きを知った後醍醐天皇は隠岐島を脱出してふたたび倒幕の兵を挙げ、京都では、足利高氏の兵が六波羅探題(鎌倉幕府の出先機関)を滅ぼし、関東では、新田義貞の軍が挙兵し、北条高時ら北条氏一族283人を自害させ、鎌倉幕府が滅亡しました。

鎌倉幕府滅亡後は、1333年6月に、後醍醐天皇が「建武の新政」を開始しましたが、武士層を中心に不満がまきあがり、1336年には協力してきた足利尊氏が離反、新田義貞・楠正成 を中心とする天皇軍を湊川でうち破り入京を果たしました。さらに尊氏は、京都近郊の合戦で政府軍をほぼ壊滅させて、8月には光明天皇を擁立して室町幕府を開き、「建武式目17か条」を制定して、幕府の施政方針を確立しました。

1338年のこの日、尊氏は、征夷大将軍に任命されましたが、いっぽう、後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を建てて、その正当性を主張していました。そのため、政権としての室町幕府はなかなか安定せず、3代将軍 足利義満 の時代になって、ようやく機構的な体裁が整いました。

なお、足利尊氏の詳しい生涯は、いずみ書房のホームページで公開している「せかい伝記図書館」23巻「足利尊氏」をご覧ください。

今日8月10日は、江戸時代に「浮世草子」とよばれる庶民のための小説を数多く著した井原西鶴(いはら さいかく)が、1693年に亡くなった日です。

江戸時代も、5代将軍 徳川綱吉 のころになると平和がつづき、武士の権威はしだいに落ちていき、いっぽうで大商人がぞくぞくあらわれ、町人の世界はいちだんと活気をおびてきました。西鶴は、そういう町人の生活や感情をいきいきととらえ、すぐれた作品を数おおく残した江戸時代の代表的な小説家です。

西鶴は、大坂(大阪)の裕福な町人の子として、1642年に生まれたようですが、おいたちについてはほとんどわかっていません。15歳のころから俳諧をつくりはじめ、21歳のときに専門の俳諧師になりました。このころの俳諧は、貞門派といって用語のこっけいさを基本としたものでした。西鶴が30歳のころ、新しい俳諧をつくろうという一派が現われました。この派は、談林派といい、自由でユーモアのある誰にも親しめる俳諧をめざしました。貞門派の俳諧に不満をいだいていた西鶴は、談林派の中心となって活躍をはじめました。

さらに、俳諧は即興で作るべきだと考えた西鶴は、1677年1昼夜に1600句を制作してみせました。これは矢数俳諧とよばれるもので、2度目には4000句を、1684年におこなった3度目にはなんと2万3500句を、24時間ぶっとおしでよんでみせました。4秒間に1句という驚くべき想像力です。西鶴は、これを最後に俳諧をやめました。というのも、その2年前に『好色一代男』というはじめての小説を発表し、好評だったからです。

「ここには、浮世(この世)がみごとに写しだされている」

西鶴のこの小説は、のちに「浮世草子」とよばれるようになり、おりからの矢数俳諧の名声も手つだって、町人たちのあいだに爆発的に売れていきました。

西鶴は、それからの11年間に、たくさんの作品を書きました。自由な構想、奇ばつな描写、俳諧でみがかれた文体は、たいへんわかりやすいうえに新鮮で、登場人物は、みんないきいきしていました。

作品は大きく3つにわけられます。『好色一代男』をはじめ『好色五人女』『好色一代女』など、好色物といわれる作品群。『武道伝来記』や『武家義理物語』など武士の義理と人情や仇討ちなどをあつかった武家物。『日本永代蔵』や『世間胸算用』など町人たちのくらしぶりを描いた町人物です。

とくに町人物にすぐれた作品がおおいといわれるのは、やはり西鶴が町人の出で、町人の生活をよく知っていたからでしょう。その写実的な手法は、庶民文学の創始者として、近代文学に大きな影響を与えています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)27巻「本居宣長・杉田玄白・伊能忠敬」の後半に収録されている7編の小伝の一編「井原西鶴」をもとに記述したものです。

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