児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年07月

今日7月2日は、ロシアを代表する劇作家であり、短編小説家でチェーホフが、1904年に亡くなった日です。

「人間には、だれにだって、よろこびもあれば悲しみもある。だから人間は、たとえ苦しくても生きていかなければならない」

このような考えで、だれにでもわかる劇や小説を書いたアントン・パブロビッチ・チェーホフは、1860年に、ロシア南部のタガンログという港町で生まれました。

雑貨屋を営んでいた父はとても乱暴な人だったので、少年のころのチェーホフは、よくなぐられました。そのうえ、16歳のときに父が破産して家族はちりぢりになってしまい、少年らしい楽しみなど、1度も味わったことがありませんでした。

しかし、チェーホフはふしぎなほど希望を失わず、家庭教師をしながら中学校を卒業しました。そしてモスクワ大学へ入学して、医者になるための勉強をしながら、授業料と生活費をかせぐために、短いユーモア小説を書きはじめました。

300編もの短編小説が、つぎつぎに新聞や雑誌に発表され、大学を卒業するころには、小説を書くだけで母や兄弟を養えるほどになっていました。ところが、あるとき有名な老作家から、たくさん発表するよりもすぐれた作品を書きあげていくことのほうがたいせつだと、思いやりのある忠告を受けました。

チェーホフは反省しました。そして、それからは人間の生きかたを深くみつめた作品を書くようになりました。

精神病院の医者が、患者から逆に狂人あつかいされて死んでいくすがたを描き、ロシアの暗い社会をひにくった『6号室』。愛情をささげる人によって、自分の生きかたまで変わっていく女性を描いた『可愛い女』。平凡な人生のなかの小さな光を見つめた『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』「桜の園』は、のちにチェーホフの4大戯曲といわれるようになりました。

大学を卒業したころから結核におかされていたチェーホフは、これらの名作を、病気とたたかいながら書きました。生きることを愛するやさしい心は、どの作品にもあふれでています。

チェーホフは、小説を書きつづけたばかりではありません。医者としても、島に流された罪人や伝染病に苦しむ人びとのためにはたらきました。さらに、自分で学校を建てたり、ふるさとの小学校に本を寄付したりして、社会のためにつくしました。

チェーホフの劇をよく理解していた女優クニッペルと結婚したのは41歳のときです。ところが、それからわずか3年のち、結核が悪くなってドイツの温泉地で亡くなってしまいました。

チェーホフの作品は明治時代から日本人にも親しまれ、とくに日本文学や演劇の発展に大きな影響をあたえました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)13巻「ノーベル・マークトウェーン・コッホ」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「チェーホフ」をもとにつづりました。

チェーホフの作品は、オンライン図書館「青空文庫」で、数点を読むことができます。なお、今話題のベストセラーとなっている村上春樹の小説『1Q84』に、1890年にチェーホフが流刑地サハリンを訪問した際の紀行記『サハリン島』からの引用があり、ストーリーの重要な位置を占めるため、岩波文庫が急遽再刊になったり、中央公論社も、全集の中から『サハリン島』の部分を抜き出して再刊することになったと報道されています。


「7月2日にあった主なできごと」

1863年 薩英戦争…1862年に8月に、薩摩藩は横浜に近い生麦村で、島津久光の行列の先頭を乗馬で横切った英国人を殺傷する事件(生麦事件)をおこしたのに対し、英国は犯人の処罰と賠償金を要求。拒否した薩摩藩へこの日、イギリス東洋艦隊7隻が鹿児島湾へ侵入し、砲撃戦を開始しました。(2008年8月21日ブログ「生麦事件をおこした日」参照)

1950年 金閣寺炎上…この日の早朝に、21歳の大学生が放火して国宝の舎利殿(金閣)が全焼しました。犯人が病弱で、重度の吃音者だったこと、金閣寺の見習い僧侶だったことなどがわかり、三島由紀夫 は『金閣寺』を、水上勉は『五番町夕霧楼』『金閣炎上』を著すなど文学作品が話題となりました。

今日7月1日は、奈良時代に遣唐留学生として中国(唐)にわたり、唐朝の高官に登るも日本への帰国が果たせなかった歌人・阿倍仲麻呂(あべの なかまろ)が、770年に唐で亡くなったといわれている日です。

日本の朝廷は、630年から894年までの264年間に15回にわたって、中国で栄えていた唐の国へ、使節を送りました。遣唐使です。唐の、進んだ政治のしくみ、学問、文化などを学ばせるために、日本の僧や学生たちを留学させたのです。

698年に、朝廷につかえる役人の子として生まれた阿倍仲麻呂は、19歳のときに、この遣唐留学生にえらばれて唐へ渡りました。4隻の船に乗った人びとは500人をこえ、吉備真備 や僧の玄�ムなどもいっしょでした。

仲麻呂や真備が、遠い祖国をしのびながら学ぶうちに16年がすぎ、留学生たちは日本へもどって行きました。でも、そのなかに、仲麻呂のすがたはみあたりませんでした。唐の玄宗皇帝が、別れを惜しんで帰国を許さなかったからです。

唐に残った仲麻呂は、名を中国ふうに朝衡と改め、長安(いまの西安)の大学を卒業ののち、科挙とよばれた役人になるための最高の試験にも合格して、玄宗につかえました。そして、詩人の 李白 や王維とまじわりながら、さらに学問を深め、しだいに出世して唐の貴族と肩を並べるほどになりました。

しかし、日本のことを忘れることはできませんでした。

752年、真備がふたたび遣唐使として唐へやってきました。そして、仲麻呂と真備は19年ぶりに手をにぎりあい、仲麻呂はやっと帰国が許されて、つぎの年に日本への船に乗ることになりました。玄宗は、すでに54歳にもなった仲麻呂が、なみだを流しながら真備と語りあうのを見て、唐にこれ以上とどめておくのを、かわいそうに思ったのかもしれません。

天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも

仲麻呂は、唐をはなれるとき、いまも『古今集』に残るこの名句をよんで、日本をなつかしみました。

ところが、三笠の山にかかる美しい月を見る夢は、かないませんでした。船が沖縄を通過してまもなく大あらしにおそわれ、真備を乗せた船はかろうじて日本へついたのに、仲麻呂の船は鎮南(いまのベトナム)へ流されてしまったのです。

仲麻呂は、天をあおいで悲しみました。しかし、これも運命とあきらめて、ふたたび玄宗につかえました。そして、770年に、二度と日本の土をふめないまま、72歳の生涯をとじました。仲麻呂は、唐で学んだことを日本へ伝えることはできませんでした。しかし、日本人としてりっぱに生きたことで、日本と唐との親善に大きな役割を果たしました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)19巻「聖徳太子・中大兄皇子」の後半に収録されている14編の「小伝」の一つ 「阿倍仲麻呂」をもとにつづりました。


「7月1日にあった主なできごと」

1787年 寛政の改革…江戸幕府の老中 松平定信 は、8代将軍 徳川吉宗 の享保の改革にならい、この日から「寛政の改革」を行い、武芸や学問の奨励、緊縮財政、風紀取締りによる幕府財政の安定化をめざしました。一連の改革は、田沼意次 が推進した商業重視政策を否定したものでした。

1918年 赤い鳥創刊…日本には、わが子に読ませたくなるような作品がないことを残念に思った作家の鈴木三重吉が、童謡と童話の雑誌 「赤い鳥」を創刊しました。(2007年6月27日ブログ 「鈴木三重吉と赤い鳥」 参照)日本童謡協会は、「赤い鳥創刊」を記念して、1984年より7月1日を「童謡の日」と制定しました。

1997年 香港返還…アヘン戦争を終結させるため、清とイギリス間で結ばれた南京条約(1842年)により、イギリスに割譲された香港でしたが、この日、イギリスから中国へ返還され、特別行政区となりました。

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