児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年07月

おもしろ「言葉」のおこり 10

● 気の毒

もともとは、自分の心や気分にとって毒になること、気がもめたり気がかりになったりして腹立たしく思うこと、自分に苦痛があること──などを「気の毒」といったようです。このように、自分自身への言葉だったのが、たとえ他人の苦痛でも自分の心を痛めるということで、いつのまにか、他人への同情をあらわすものになりました。

● 手塩にかける

室町時代の頃から、膳の不浄を清めるとともに、各自の好みで料理の味かげんをするために、食膳に少量の塩が盛られるようになりました。つまり、自分の手で塩加減をしたわけですが、これがもとになって手にかけて世話をすることを「手塩にかけて」というようになりました。

● きざ

言葉、服装、態度などが気どっていて反発をかんじさせるときに「きざなヤツ」などといいますが、もともとは「気障り(きざわり)」からおこった言葉です。きにかかるということが、不快を感じさせるいやみなことへと変わってきたのです。

● くしゃみ

むかし、くしゃみをすると早死にするという言い伝えがあり、くしゃみをしたときは、「糞くらえ」などとまじないの言葉をとなえると、早死にが防げるといわれてきました。このクソクラエが、クサハメ(ハメは、食えの意)に、クソハメがクサメになり、このクサメがなまって、クシャミとなったようです。

このように言葉というのは、長い間に、少しずつ変わっていくものですね。短期間に変わってきたのを実感するのは「こだわる」という言葉です。些細なことにとらわれるといった、あまり良くない意味に使われていました。それが、最近では些細な点にまで気を配る──思い入れがあるというように、良い意味に変わってきています。それをみんなが使いだすと、辞書にも記されるようになったばかりか、そのうち「以前は、些細なことにとらわれすぎる」という意味に使われていた、などと注釈が出たりするのかもしれません。

おもしろ科学質問箱 19

プラスチックは、私たちの毎日の生活に欠かすことができません。プラスチックという言葉は「好きな形にできる」という意味の形容詞で、熱を加えるとプラスチックは粘土のようになり、冷えるとそのままの形を保つ性質があるために、こう呼ばれます。

プラスチックの本質は、分子にあります。分子というのは、物質の一番小さい粒子のことで、物質を小さく切りきざんでいったとき、もうこれ以上分けたら、その物質の性質がなくなってしまうぎりぎりの小さい単位のことです。化学者は、この分子を結びつけて、粒子の鎖の輪を作ることができます。

長い鎖となった分子は、たったひとつのときと違った性質を持って、新しい物質になります。分子がつながって鎖になることを「重合する」といいますが、時には、2つの違ったタイプの分子がいっしょになって重量体(ポリマー)とよばれる物質を作ります。

この重合体で作られた物質が、プラスチックのもとになります。重合する分子の種類や数をいろいろ変えていけば、必要な性質をもった新しいプラスチックを、いくらでも作り出すことができるのです。

プラスチックは、軽くて強くて、絶縁性や断熱性もあって、衛生的で、とても簡単に大量に製品をつくることが可能です。最近では、金属と同じような強さを持って熱や衝撃に強いプラスチックや、人間の皮膚のようにとても柔らかなプラスチックも開発されています。

プラスチックの原料は、石炭、石油、食塩、綿の繊維などさまざまです。一般に、たくさんの石油が使われているといわれますが、石油の全使用量のプラスチックの割合は、7%程度だそうです。

プラスチックは、公害性の強い素材としてのイメージがありますが、現在では、使用済みのプラスチックを焼却処理して、その熱エネルギーを暖房や温水などに利用したりしています。もういちど溶かしてクイやベンチなどの材料として再利用するなど、貴重なリサイクル資源として、効率よく利用されるようになってきています。

さらに、微生物によって分解されて土に戻るプラスチックも開発されていて、人と自然と環境に優しい素材として注目を集めているのです。

7月7日は、江戸時代初期の仙台藩主伊達政宗の家臣で、慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパへ渡航した支倉常長(はせくら つねなが)が、1622年に亡くなった日です。

1613年の秋、仙台の西の月ノ浦港から、1せきの大きな船がヨーロッパへむかって出帆しました。船には、仙台藩主伊達政宗のけらいの支倉常長と、およそ150人の武士や船乗り、それに神父ルイス・ソテロをはじめ日本へきていた40人ほどのスペイン人が乗っていました。

このとき42歳だった常長は、日本とスペインとの貿易を開くために、政宗の使者として、スペイン国王とローマ法王のもとへ旅立ったのです。船は、約3か月かかって太平洋を越え、さらに大西洋を渡って、スペインの港へ入りました。

スペインの首都マドリードにたどりついた常長は、国王に、政宗からの手紙を渡しました。そして、教会で洗礼を受けてキリスト教の信徒となり、やがてローマへ行って、ローマ法王に会いました。法王からは、ローマ市民権と貴族の称号があたえられました。

ところが、ローマ法王からも、スペイン国王からも、日本とスペインとの貿易は、許してもらえませんでした。そればかりか、スペイン政府は、船に乗ってきた日本人を、つめたくあつかうようになってしまいました。

政宗からの手紙には、日本でキリスト教をひろめることを許すかわりに、スペイン国と貿易させてほしい、と書いてあったのですが、ローマ法王もスペイン国王も、江戸幕府はキリスト教を禁じ、日本ではキリスト教信者が苦しめられていることを、知っていたのです。

「使者の役目は果たせなかったが、しかたがない」

常長は、暗い気持ちで船に乗り、マニラに2年ちかくとどまったのち、1620年に日本へ帰ってきました。月ノ浦をでてから7年の歳月がたっていました。

常長の苦労は、なにもなりませんでした。そのうえ、7年ぶりの日本は、キリスト教のとりしまりが、さらにきびしくなり、洗礼を受けてキリシタンになってもどってきた常長は、あわれにも政宗から見捨てられてしまいました。そして、やがて病にたおれ、日本へ帰ってきて2年めに、51歳の生涯をひっそりと閉じてしまいました。

支倉常長は、1571年に生まれ、少年のころから仙台藩につかえた、まじめな武士でした。21歳のとき、朝鮮との戦いでてがらをたてたこともありました。常長の一生は悲劇でしたが、荒海を越えて見知らぬ外国へのり込んだ勇気は、いまも高くたたえられています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)25巻「徳川家康・松尾芭蕉・近松門左衛門」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「支倉常長」をもとにつづりました。


「7月7日の行事」

今日7月7日は、何といっても「七夕」ですね。こんなロマンチックな中国の伝説が、もとになっています。

天の神様の娘の織女星(こと座のベガ)は、美しい織物を織る名手でした。とても仕事熱心なため、年頃になってもボーイフレンド一人作りません。かわいそうになった神様は、天の川のむこうに住む働き者の牽牛星(わし座のアルタイル)という若者と結婚させました。ところが、結婚すると二人は、あんまり毎日が楽しくて牽牛星は織物を織らなくなり、牽牛星も牛を追わなくなったのです。怒った神様は、天の川のこちらの岸に織女星を連れもどし、1年に一度の「七夕の夜」だけ向こう岸に行ってよいことにしたのです。7月7日の晩、空が晴れると、白鳥たちが天の川にたくさん舞い降りて、翼で橋を架けてくれます。織り姫はその白鳥たちの橋を渡って牽牛に会いに行くのです。

いっぽう日本には、「棚機つ女(たなばたつめ)」という民間信仰がありました。少女はこの日に、身を清めて衣を織り、機織り機の棚の上に置いて、神様をお迎えし、穢れを取り去ってもらうというもので、この伝統と中国の伝説がいっしょになって、7世紀の頃から宮中の行事になり、江戸時代の末期になって、一般の人たちもこの行事をはじめるようになったといわれています。


「7月7日にあった主なできごと」

1615年 武家諸法度発布…5月に大坂夏の陣で、豊臣氏を滅ぼした徳川幕府は、2代将軍の徳川秀忠の名で全国諸大名に「武家諸法度」13か条を発布しました。自分の領地と江戸とを1年ごとに毎年4月に参勤することを指示した参勤交代制、築城の厳禁、幕府による大名やその側近の結婚許可制などの統制令でした。

1937年 盧溝橋事件…北京に近い盧溝橋で、中国・国民党政府軍と日本軍との間に発砲事件がおこりました。日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となったこの事件をきっかけに、日本軍と中国は戦争状態に突入し、戦線を拡大していきました。

7月6日は、フランスの細菌学者、化学者のパスツールが、1885年に狂犬病ワクチンを初めて人体に接種した日です。パスツールは、ドイツの コッホ と並び、近代細菌学の開祖といわれています。

ルイ・パスツールはフランスのいなか町に、1822年皮なめし職人の息子として生まれました。地元の小学校、中学校に通いましたが、成績はあまりよくありませんでした。ただひとつだけ、先生をいつも感心させたことがありました。

それは、本を読んでいるときだけは、たとえ、なかまがそばでけんかを始めても気がつかないほど、真剣だったようで、このことが偉大なパスツールを生む大きな力になったのかもしれません。

やがてパリへでて、大学の付属中学校へかよい始めましたが、わずか3週間で家族のいる町へ帰ってきてしまうほど、気弱なところがあったようです。しかし、再び近くの中学校でがむしゃらに勉強をしなおすと、21歳のときにふたたびパリへでて、すばらしい成績で教育大学へ入学しました。このころから、パスツールの成績はぐんぐんよくなり、卒業してからも大学の化学研究室に残って、実験や研究をつづけるようになりました。

パスツールの研究には、酒石酸の性質の解明、低温殺菌法という手法でワインや牛乳、ビールなどの腐敗を食いとめたり、養蚕業の救済に取り組むなど、その功績は、数かぎりなくあります。

その中でも、最大の功績は、狂犬病を予防注射で防いだことでしょう。狂犬病はとても恐ろしい病気で、この病原菌を持った犬にかまれると、助からないほどでした。それを弱い病原菌(ワクチン)を人や動物に注射して、軽い病気にかからせて抵抗力をつけるという「予防接種」の方法を開発したのがパスツールでした。

この日、狂犬に13か所もかまれた子どもをだきかかえた母親が、パスツールのもとに飛びこんできました。このままでは、死ぬばかりと考えたパスツールは、狂犬病ワクチンを毎日1回ずつ注射して、14日間続けました。その結果、子どもは狂犬病の発病をまぬがれ、助かったのでした……。

なお、パスツールの詳しい生涯は、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい伝記図書館」11巻「パスツール」をご覧ください。

今日7月3日は、『変身』『審判』『城』など、孤独と不安に悩む人間が陥る非現実的な世界を描き、現代世界文学に大きな影響を与えたチェコの作家カフカが、1883年に生まれた日です。

プラハのユダヤ人の家庭に生まれたカフカは、プラハ大学入学、当初は哲学専攻を希望していましたが、父親から哲学では飯が食えないと反対され、法律を学んだといわれています。

大学卒業後は労災保険局に勤めながら作品を執筆しました。常に不安と孤独の漂う、夢と現実が入り混じったような独自の世界を描いた作品を数多く残しました。特に『変身』は、ある朝目覚めると巨大な虫になっていた男とその家族のてん末を描いた小説で、カフカの代表作といってよいでしょう。今も岩波文庫や新潮文庫で版を重ねており、3~4時間で読了できる作品ですので、ぜひ目を通されることをお勧めします。

1924年にオーストリアで、わずか40歳の若さで亡くなりますが、生前は『変身』など何冊か知られるだけでしたが、死後、友人によって未完の長編『審判』『城』などが発表されてから再評価を受け、ドイツ語で書かれたおかげて、1935年にはナチス政権下で困難にあいながらも「カフカ全集」の刊行が行なわれました。

カフカが世界的に有名になったのは、サルトル やカミュらフランスの実存主義の文学者が第2次世界大戦中に、カフカに注目してからです。特にサルトルは、実存主義文学の先駆者として評価し、カフカの国際的な名声は決定的なものとなりました。


「7月3日にあった主なできごと」

607年 遣隋使…聖徳太子は、小野妹子に国書を持たせ、隋(中国)に派遣させました。(2008年7月3日ブログ 「遣隋使の小野妹子」参照)

1549年 キリスト教伝来…スペインの宣教師ザビエルは、弟子のヤジロウを案内役として、日本にキリスト教を伝えるために、鹿児島に上陸しました。(2007年12月3日「日本にキリスト教を伝えたザビエル」 参照)

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