児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年07月

今日7月24日は、古代最大のクーデターともいうべき「大化の改新」を 藤原鎌足 とともに成し遂げた中大兄皇子(なかのおうえのおうじ)が、661年に母親の斉明天皇の死後、執政をはじめた日です。皇子は、後に天智天皇となります。

645年に大化元年と定め、都を、それまでの飛鳥から難波(いまの大阪市)へ移した中大兄皇子は、つぎの年の正月、歴史に残る「大化の改新」の4つの方針を発表しました。

第1に、天皇や豪族たちがもっていた土地や支配していた人民は、すべて国家のものとする。

第2に、全国をいくつもの国に、国のなかをさらに郡、里にわけ、それぞれに役人をおいて政治を進める。

第3に、すべての国民の戸籍を作り、6歳以上のものに国が土地をわりあて、死ねば返させるようにする。そしてそれぞれの土地の広さにあわせて、稲をおさめることを決め、これを租という税としておさめさせる。

第4に、新しい税の制度を定め、国民に、稲のほか布や鉄など地方でとれる産物も、税としておさめさせるようにする。

新しい国家をつくるための、この4つの考えは、隋のあとに中国で栄えていた唐の国の政治にならったものでした。ひとくちでいえば、国の権力をすべて天皇のもとに集める、というのが、皇子や鎌足が心からねがったことでした。

しかし、この新しい政治を実行していくことは、なかなかたいへんなことでした。とくに、自分が支配していた土地をとりあげられた豪族たちには、かわりに高い位の役人にとりたてられても不満をいだくものが、少なくありませんでした。

そして、地方でも朝廷でも「大化の改新」に賛成するものと反対するものが、しだいににらみあうようになっていきました。

そのうえ、皇子は、654年に孝徳天皇が亡くなって、皇極天皇だった自分の母がもういちど即位して、斉明天皇となったころから、農民たちにも、ためいきをつかせるようになってしまいました。

皇子には、国のなかのことだけではなく、海のむこうの朝鮮半島にも、気がかりなことが起こりました。

そのころ、朝鮮半島では、百済、新羅、高句麗の3つの国が争いをくり返していましたが、659年に百済が新羅に攻めこむと、新羅は、中国の唐に助けをもとめました。すると、唐は新羅に味方して大軍をだし、百済をうちやぶってしまいました。ところが、生き残った百済の武将たちは、もういちど国をたてなおすために、日本に応援をたのんできました……。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)19巻「中大兄皇子」の記述の一部を引用したものです。生涯に興味のある方は、ぜひアクセスしてみてください。


「7月24日にあった主なできごと」

1802年 デュマ誕生…フランスの作家で、『モンテクリスト伯』『三銃士』などを著した アレクサンドル・デュマ が生まれました。

1876年 ウェブスター誕生…「足ながおじさん」を著したアメリカの女流作家ジーン・ウェブスターが生まれました。( 2009年6月11日ブログ 参照)

1886年 谷崎潤一郎誕生…『細雪』『春琴抄』『痴人の愛』などの小説や『源氏物語』現代語訳を著した作家の 谷崎潤一郎 が生まれました。

1927年 芥川龍之介死去…『杜子春』『蜘蛛の糸』 『鼻』『河童』などの短編小説を著した大正時代を代表する作家 芥川龍之介 が、36歳の若さでなくなりました。

今日7月23日は、尾崎紅葉とともに「紅露時代」と呼ばれる時代を築いた作家の幸田露伴(こうだ ろはん)が、1867年に生まれた日です。

幸田露伴は、東京と名が改められる直前の江戸に生まれ、文明開化の波がうちよせる明治時代に活躍した小説家です。

小説家として露伴の名が世にでたのは、雑誌『都の花』に『露団々(つゆだんだん)』を発表した、22歳のときです。幕府にお坊主としてつかえてきた父のもとで育った露伴は、17歳のとき、電信技手として北海道へ行ったこともありました。しかし、学校へは満足に行けなくても、おおくの本をむさぼり読むうちに文学に心をうばわれ、小説の筆をとり始めたのです。

『露団々』につづいて、彫刻師の悲しい恋の苦悩をえがいた『風流仏』や、自分を芸術家へひきあげていく刀工の強い意志をえがいた『一口剣』などを書き、さらに『ひげ男』を読売新聞に連載すると、紅葉とともに「紅露時代」とたたえられるようになりました。

露伴の最高の傑作『五重塔』を発表したのは、44歳のときです。五重塔の建立に命をかける、ふたりの大工の情熱と争いと友情が、明治文学のなかでも最高傑作のひとつといわれる名文でえがきあげられました。

オンライン図書館 「青空文庫」 では『五重塔』 の全文を読むことができます。古文と会話文の入り混じった文体で書かれているため、とっつきにくいかもしれませんが、次の「あらすじ」を頭に入れながら、名文に挑戦してみてください。

江戸の感応寺に五重塔を建てることになりました。朗円上人は、本堂を建てた大工の棟梁の源太に仕事をさせようと思いました。ところが、「のっそり十兵衛」とあだ名されている風変わりな大工が、ぜひ自分にやらせてほしいと名乗り出ました。上人は、ふたりを呼んで相談して決めるようにいいます。たくさんの弟子をかかえて繁盛している源太、腕はよいが仕事が遅いため貧乏をしている十兵衛。源太は、いっしょに仕事をしようと十兵衛にいいますが、十兵衛は自分ひとりでやるといって譲りません。源太が腹を立てていることを知った弟子の清吉は、懸命に働く十兵衛の仕事場に殴りこみをかけ、大けがを負わせます。痛みをこらえながら仕事を続ける十兵衛。苦労の末、ついに五重塔は完成しました。落成式の前日、江戸は100年に1度という大嵐にみまわれました……。

露伴が亡くなったのは、『五重塔』を発表してから36年後です。小説『天うつ浪』のほか、歴史に目をむけた史伝や、西鶴や芭蕉などの古典の研究にも、すぐれたものをおおく残しました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)34巻「夏目漱石・野口英世」の後半に収録されている14編の「小伝」の一つ 「尾崎紅葉と幸田露伴」をもとにつづりました。


「7月23日にあった主なできごと」

1787年 二宮尊徳誕生…江戸時代後期の農政家で、干拓事業などで農村の復興につくしました。薪を背負いながら勉学にはげんだエピソードは有名です。( 2008年7月23日のブログ 参照)

今日7月22日は、オーストリアの司祭で、植物学研究を行い、メンデルの法則と呼ばれる遺伝に関する法則を発見したメンデルが、1822年に生まれた日です。

「親と子どもは、なぜ、よく似るのだろう」

むかしからのこの疑問を、エンドウ豆の実験でときあかしたのが、ヨハン・グレゴール・メンデルです。

メンデルは、1822年オーストリアの果樹園に生まれました。子どものころから父と母の仕事をてつだって、くだものや花を栽培するのが大好きでした。赤や黄色の花をとびかうミツバチを観察したり、果樹のつぎ木に工夫をこらしたり、楽しい幼年時代をすごしました。

ところが、メンデルが17歳になったとき、父が大けがをして、家はすっかり貧しくなってしまいました。そこで、メンデルは修道院に入ることにしました。食べるための心配をしないで、すきな学問ができると考えたからです。そして神父の勉強をしながら、大学を卒業して、中学校で理科を教えるようになりました。しかし、先生になる資格をもっていないため、正式の教師ではありませんでした。

メンデルは、正式の教師になるために、国の試験を受けました。でも、どうしたことか、試験には合格しませんでした。

「正式の教師にはなれなくても、研究はできる」

メンデルは、修道院の庭に草花を植えて、同じ植物の花でも色違いのものが咲く原因の研究を始めました。そして、ダーウィン が書いた『種の起源』という本を読み、こんどは草花のかわりにエンドウ豆を植えて、花粉のかけあわせによる遺伝の研究にむちゅうになりました。遺伝には、きっとひとつの決まりがあると考えたからです。

花や実の色や形が違うエンドウ豆を植え、その花粉をピンセットで移してやって、とれた種をまた植えるという実験を、8年ものあいだつづけました。

「2代め3代めにあらわれる、規則正しい性質がわかったぞ」

1865年、メンデルは、『植物雑種の研究』という論文をまとめて発表しました。ところが、名も知れず、正式の教師でもない男の研究など、だれも理解してくれませんでした。メンデルは悲しみました。

やがて修道院の院長になると、こんどは、修道院に税金をかけようとする国の権力とたたかいつづけて、1884年に、62歳でさみしくこの世を去りました。

メンデルの遺伝の法則が世界でみとめられたのは、それから16年ものちのことです。実験を続けた修道院には、いまでは大理石の像がたてられ、遺伝学の父とよばれるようになりました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)11巻「ナイチンゲール・シュリーマン・パスツール」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「メンデル」をもとにつづりました。

今日7月21日は、『日はまた昇る』『武器よさらば』『老人と海』などを著したアメリカの小説家ヘミングウェイが、1899年に生まれた日です。

アーネスト・ヘミングウェイは、シカゴ郊外のオークパークに生まれました。幼ないころから医者だった父から、釣りや狩猟の手ほどきを受け、山野をかけめぐりました。そんな子どもの頃の体験が、ヘミングウェイの生涯にわたる、釣りと狩猟、そして闘牛を徹底して楽しんだり、自由奔放な生き方を決定づけたようです。

1917年に高校を卒業すると、日雇い労働者などをへて地元紙の見習記者となりました。やがてはげしさを増した第1次世界大戦では、アメリカ赤十字社の野戦隊員としてイタリアに渡りましたが、1918年7月に砲弾をあびて重傷を負いました。やがて、この時の体験をもとにした小説『武器よさらば』をはじめ『日はまた昇る』『男だけの世界』などを書き、いちやくアメリカを代表する人気作家となりました。

その後も、スペイン内戦や、第2次大戦にも従軍記者として参加して活躍したり、アフリカへ狩猟に出かけるなど精力的に行動しながら『誰がために鐘は鳴る』『キリマンジャロの雪』などの小説を書きました。数多い作品のなかでも代表作といえば、1952年に発表した『老人と海』でしょう。

サンチャゴ老人は、メキシコ湾に小舟を浮かべ、魚をとってくらす漁師です。84日間も魚がとれない日がつづいたあと、ひとりメキシコ湾に遠出し、ついに自分の舟よりも巨大なカジキを釣り針にかけました。姿を見せないまま力強く舟を引き続ける大魚に、老人は知識と体力の限りを尽くして2日間も闘い続けました。海に出て3度目の太陽があがった朝、ついに老人は、巨大カジキに銛(もり)を打ちこみ、老人は勝利したのです。しかし、舟べりにしばりつけたカジキをサメが次々に食いちぎっていきます。カジキに愛情と尊敬さえいだいていた老人には、自分の身がえぐられているような気がするのでした……。

こうして、サメとの絶望的な闘いのなかで老人は、打ちのめされても敗れない人間の尊厳をみせるのです。巨大カジキとサメとの闘いを縦軸に、老人が手塩をかけて立派な漁師に育て上げた少年との涙あふれる友情を横軸に、ヘミングウェイは、老人の生き方を通して、生きることの意味、自分という存在は何なのかを確かめたかったに違いありません。こんな深い意味をもつ作品は、簡潔でとてもわかりやすく、小学上級から中学生でも理解できる内容です。3、4時間で読了できるので、ぜひ目を通されることをおすすめします。発表以来、作品への評価は高く、ピュリッツァー賞に続き1954年にはノーベル文学賞を受賞しました。
 
しかし1961年7月2日ヘミングウェイが、自宅で猟銃を口に当て自ら引き金を引いて命を絶つという衝撃的なニュースが、世界中を走りました。

今日7月17日は、江戸幕府の第3代将軍として、参勤交代制、キリシタンの禁制、鎖国などを断行して、幕府の全国支配体制を確立した徳川家光(とくがわ いえみつ)が、1604年に生まれた日です。

徳川家光は、2代将軍秀忠の次男として生まれましたが、兄は2年まえに亡くなっていたので、長男のように育てられました。とくに祖父の家康から、将軍家のあとつぎとして深くかわいがられました。

ところが、2年のちに弟の国松が生まれると、両親は、無口でおとなしい家光よりも、きびんで活発な国松をかわいがるようになりました。そして、およそ10年のちに、家康が「世つぎは家光にせよ」と秀忠にいいわたすまでのあいだは、この世つぎをめぐって兄弟でにらみあわねばなりませんでした。

1623年、秀忠は隠居して大御所となり、19歳の家光が天下を治める将軍の位につきました。

しかし、将軍にはなっても、それからの10年間は、将軍らしい権力をふるうことは、なにひとつできませんでした。1632年に大御所が亡くなるまでは、大御所をとりまく幕府最高職の老中たちが、すべての政治をとりしきったからです。

父の死後、28歳の家光は、初めて将軍として活躍するようになり、まず、老中から奉行まで幕府につかえる武士たちの位や仕事をととのえ、強い政治をおし進めるための幕府の体制を固めました。

つぎに、大名をしたがわせるために家康が定めていた「武家諸法度」の力を強めて、全国の大名をかわるがわる江戸によびつける参勤交代の制度を新しく作り、大名たちをさらにきびしくとりしまるようにしました。

いっぽう、豊臣秀吉から徳川家康へとひきつがれてきたキリスト教禁制にも目を光らせ、外国へ行っている日本人が日本へ帰ってくることも、日本の船が外国へ行くことも、ポルトガル船が日本の港へ入ることも、長崎のオランダ人が出島の外へ出歩くことも、すべて禁止してしまいました。外国といっさいまじわらない日本の鎖国を開始したのです。

生涯、家康を心から尊敬していた家光は、1636年には、ばく大なお金をつぎこんで日光東照宮を建て、家康をここにまつりました。そして、1651年46歳で亡くなったときには遺言で、自分のなきがらも、この東照宮にほうむらせました。

家光は、農民たちからは年貢をきびしく取りたてながら、自分はぜいたくな暮らしをして、やがては幕府の財政を苦しめるようになりました。しかし、祖父家康と父秀忠がきずいた幕府を、さらにしっかりしたものにした功績は、のちの将軍たちにたたえられました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)25巻「徳川家康・松尾芭蕉・近松門左衛門」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「徳川家光」をもとにつづりました。


「7月17日にあった主なできごと」

1795年 円山応挙(まるやま おうきょ)死去…江戸時代中期の絵師で、『雪松図屏風』(写真)など、写生を重視した日本画を完成した 円山応挙 が亡くなりました。

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1868年 江戸が東京となる… 明治天皇 は、幕府のあった江戸を東京と改め、首都としました。これまでの首都は京都にあり、東京は京都の東にあたるため「東京」となりました。

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