児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年07月

今日7月31日は、1943年に発表されて以来世界じゅうの子どもやおとなに愛され続けている『星の王子さま』をはじめ、『夜間飛行』『人間の土地』などの飛行機の小説を書いた飛行家のサン・テグジュペリが、1944年に亡くなったと思われる日です。

アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリは、1900年にフランスのリヨンに生まれました。20歳の頃から、志願兵として飛行機に乗りはじめ、やがて民間航空界に入り、夜間飛行の先駆者となりました。同時に小説を書きはじめ、飛行士としての体験をもとにした作品を書き続けました。そして、第2次世界大戦中の今日、連合国軍の飛行士としてコルシカ島を飛びたったまま、消息をたってしまいました。

代表作である『星の王子さま』のあらすじは、次の通りです。

サハラ砂漠に不時着した飛行士には、1週間分の水しかありません。孤独で不安な夜を過ごした翌日、飛行士は、ふしぎな男の子に出あいます。その少年は、ふつうの家ほどしかない小惑星に住んでいる王子さまでした。飛行士は、王子と友だちになって、王子からさまざまな話を聞きます。

王子の星には、3つの火山と、たえず手入れをしないと星をこわしてしまいそうなバオバブの木と、4つのトゲのある1本のバラの花がありました。王子はバラの花を美しいと大切に世話していましたが、ある日バラの花と仲たがいをしたことをきっかけに、他の星の世界を見に行く旅に出たのだといいます。王子は地球にくるまでに、いくつかの星を訪れました。

命令することしか知らない王様の星、他人に賞賛されることしか耳に入らないうぬぼれ男のいる星、酒を飲むことが恥ずかしくてそれを忘れるために酒を飲む男のいる星、計算ばかりしているビジネスマンの星、1分間が1日で点燈夫が1分ごとにガス灯を点けたり消したりしている星、部屋にとじこもって本ばかり調べている地理学者の星、どこかへんてこりんな大人ばかりでした。そして、6番目の星で出あった地理学者のすすめで地球へおりてきたのだといいます。

地球の砂漠に降り立った王子は飛行士に出あうまでに1年近くもいて、大きな火山、数千本のバラの群生、ドクヘビ、キツネらにあいました。遊んでほしいと頼む王子に、キツネは仲良くならないと遊べないといいます。「仲良くなる」とは、あるものを他の同じようなものとは違う特別なものだと考えるからだと聞いた王子は、自分が美しいと思って世話をしたバラが愛おしくなりました。そして、自分に愛情の足りなかったことを悟った王子は、ある日砂漠から姿を消すのでした。

ほんとうのこととは? ほんとうの愛とは? うわべや作りごとでない純粋な心とは? 飛行士は、王子のさまざまな話から教訓を学ぶことで、不時着という危機を切りぬける勇気を獲得するのでした……。


「7月31日にあった主なできごと」

1875年 柳田国男誕生…『遠野物語』を著すなど日本民俗学の開拓者といわれる 柳田国男 が生まれました。

今日7月30日は、19世紀半ばのイギリス文壇に花開いたブロンテ3姉妹シャーロット・エミリー・アンのうち、『嵐が丘』を著したエミリーが、1818年に生まれた日です。

孤児として暗い環境に育った家庭教師ジェーンの半生を語りながら、おさえつけられた女性の、愛と自立と自由への訴えをえがいた『ジェーン・エア』。

風のふきすさぶ荒野を舞台に、2つの家の、3代にわたるのろわれた恋と復讐をえがいた、悲劇『嵐が丘』。

『ジェーン・エア』の作者、シャーロット・ブロンテと、その妹で『嵐が丘』の作者エミリー・ブロンテは、1816年と1818年にイギリスのヨークシャーで生まれました。父は牧師でした。

兄弟は6人でした。しかし上のふたりは10歳をすぎると短い生涯をとじてしまい、残された4人の兄弟は、伯母に育てられました。荒れはてた土地と、さびしい家での生活には楽しいことは少なく、兄弟は、毎日、本を読み、本にあきると夢や空想を語りあい、その夢や空想を詩や物語に書いてすごしました。

シャーロットもエミリーも、いちばん下の妹のアンも、20歳のころから、学校の先生や家庭教師になりました。そして、やがては、自分たちで小さな学校を開く計画をたてました。でも、この計画は、たったひとりの男の兄弟ブランウェルが、酒と麻薬でふつうの生活ができなくなってしまったことや、生徒が集まらなかったことで、実現しませんでした。

3人の姉妹は、4年ごとの誕生日に、それぞれ書いたものを出しあう約束をして、詩や小説を書き始めました。ところが詩集は、わずか数冊しか売れませんでした。

3人は、けっしてがっかりしてしまうことはなく、こんどは小説にとりかかりました。

それから1年、シャーロットは『ジェーン・エア』を、エミリーは『嵐が丘』を、アンは『アグネス・グレー』を出版しました。国じゅうの人びとは、3人の姉妹がそろって本を出したことに、おどろきました。しかしなかにはシャーロットが妹たちの小説も書いたのだろう、と疑う人もありました。

姉妹は、またたくまに有名になりました。でも、兄弟がよろこびあえたのは、たった1年。本を出版した翌年にはブランウェルとエミリーが病死しました。そしてアンもまたつぎの年に、シャーロットも6年ごに、39歳の若さでこの世を去ってしまいました。

姉妹の一生は、けっして幸福とはいえませんでしたが、それにも屈せず、永遠の名作を残したのです。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)10巻「リンカーン・ダーウィン・リビングストン」の後半に収録されている7編の小伝の一編「ブロンテ姉妹」をもとに記述したものです。


「7月30日にあった主なできごと」

1863年 フォード誕生…流れ作業による自動車の大量生産に成功し「世界の自動車王」といわれる実業家 フォード が生まれました。

1898年 ビスマルク死去…プロイセン王の右腕として鉄血政策を推進し、1871年ドイツ統一の立役者となった ビスマルク が亡くなりました。

1911年 明治天皇死去…王政復古をなしとげ、近代国家の形を整えた 明治天皇 が亡くなり、大正天皇が即位しました。

1947年 幸田露伴死去…『五重塔』などを著し、尾崎紅葉とともに「紅露時代」と呼ばれる時代を築いた作家 幸田露伴 が亡くなりました。

1965年 谷崎潤一郎死去……『細雪』『春琴抄』『痴人の愛』などの小説や『源氏物語』現代語訳を著した作家の 谷崎潤一郎 が亡くなりました。

今日7月29日は、明るく力強い『ひまわり』など、わずか10年の間に850点以上の油絵の佳作を描いた後期印象派の代表的画家ゴッホが、1890年に亡くなった日です。

オランダに生まれフランスで活躍した画家ゴッホ。若くして画才を認められ、その才能を着実に開花させた画家がほとんどなのに対し、ゴッホが絵かきをめざしたのは1880年、27歳になってからでした。

1886年、33歳になったゴッホは、弟テオの世話でパリに出ます。日本の浮世絵のみごとな単純化を知っていた彼は、パリで印象派の画家につきあうと、いっぺんに色が明るくなりました。そして、ゴッホの絵が大きく開花するのは、1888年、南フランスの明るいアルルにいってからでした。15か月間のアルル生活で描いたゴッホの作品はおよそ190点、ひまわり、花さく果樹園、つり橋、オリーブ畑、糸杉など、どれもこれも傑作ぞろいといってよいでしょう。

『アルルのゴッホは、春は果樹園や畑に立ちつくし、夏は燃える太陽にからだをさらして、花、木、道、川、橋、空、太陽を描きつづけました。それは、野にあふれた光と色を、すべて自分のものにしてしまわなければ気がすまないような、激しさでした。夜も町へでて星空の下の町かどをかき、昼も夜も目に見えるものならなんでも絵にするゴッホを見て、アルルの人びとは半ば笑い、半ば驚きの声をもらしました。

やがてゴッホは、パリで知りあった ゴーガン をよびよせました。そして、ゴッホが用意した黄色い家で、芸術を語りあう楽しい生活を始めました。ところが、いつまでもつづくはずだったふたりの生活は、わずか2か月でやぶれてしまいました。性格と、芸術にたいする考えかたのちがいから、ついにクリスマス・イブの日に、ゴッホはカミソリを持ってゴーガンを追いかけまわしてしまったのです。そして、錯乱状態のまま、ゴッホは、自分の左耳の一部をそぎ落としてしまいました。

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ゴーガンはアルルを去り、顔にほうたいを巻いたゴッホは、精神病院にとじこめられました。テンカンの発作がおきただけで、気が狂ったわけではありませんでしたが、それでも、ときどきおそってくる発作と闘わなければなりませんでした。

しかし、絵をかくことはやめませんでした。病室では部屋にころがっているものや、窓から見えるものを片っぱしから描き、半年ごに退院すると、ふたたび太陽の下で絵筆をとりました。でも、それはもう、燃えつきようとするろうそくが、最後の光を放っているようなものでした。

発作の不安から完全にのがれることのできなかったゴッホは、1890年の夏に美しいオーベールの村に移ってまもなく、ついに、太陽がふりそそぐ緑の丘で、自分の胸にあてたピストルの引き金を引いてしまったのです。そして病院に運ばれて2日の後に、テオの手をにぎりしめたまま、37歳の生涯を閉じました。

ところが、まるで、兄弟ふたりのたましいがたがいに呼びあったかと思われるように、テオも、それから半年の後にゴッホのあとを追うかのように、亡くなってしまいました。

ゴッホほど、自分の情熱を燃えあがらせた画家は、ほかにいないかもしれません。また、これほど人びとから理解されなかった画家も、ほかにいないかもしれません。自分が生きているあいだに売れた絵は、たったの1枚だけでした』

『』内の記述は、いずみ書房のホームページ・オンラインブックで公開している「せかい伝記図書館」第14巻「ゴッホ」の一部を引用したものです。ゴッホの詳しい生涯を知りたい方は、ぜひアクセスしてみてください。

なお、2007年10月26日のブログ では、ゴッホ「アルルの寝室」について綴っています。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 56]

今夜は「四谷怪談」といわれる、こわ~いお話。これを聞けば、暑い夜も少しは涼しくなるかな ?

今の東京が、江戸といわれていた頃、江戸四谷左門町(さもんちょう)に、田村 伊右衛門(いえもん)という侍がいて、お岩というひとり娘がありました。気の毒にもお岩は、3歳のときに母親を亡くし、5歳の時に疱瘡(ほうそう)という病気にかかって、みにくいあばた顔になってしまいました。

そのため、年頃になってもお婿さんになってくれる人がありません。病にふせた父親は、娘をあわれに思い、知り合いの人に婿(むこ)さがしを頼みました。まもなく、知人は一人の浪人を連れてきました。浪人というのは、殿様のいない侍のことです。貧乏暮しにいやけがさした浪人は、ひどい顔のお岩でも、婿になっていいといったのです。

婿は父親によく仕え、お岩も大切にしました。そして父親が亡くなってからは、父親の名前と同じ「伊右衛門」を名のり、まじめに働いて田村家のあとをしっかり守りました。おかげで、殿様の役所の上役たちにも大変好かれました。

特別に目をかけて、家へもよく招いてくれる上役に、伊藤 瀬左衛門(せざえもん)という人がいました。そして何度も伊藤家に招かれているうちに、伊右衛門はその屋敷にいる美人のお琴が好きになりました。お琴も、まじめで男らしい伊右衛門が好きになっていました。でも伊右衛門は、もしお岩と別れたら、もとの貧乏な浪人にもどらなければなりません。恋しい女と一緒になれない伊右衛門は、みにくい顔のお岩が嫌でたまらなくなりました。そしてそのうちに、家財を売りとばしては酒を飲み、仕事もさぼるようになってきたのです。困ったお岩は、瀬左衛門のところへ相談に行きました。

ところが、伊右衛門とお琴の関係を知っていた瀬左衛門は、可愛がっている伊右衛門とお琴をいっしょにしてやろうと思い、お岩に「いったんどこかに身をかくしていなさい。伊右衛門によくいい聞かせて改心させた後、きっと迎えにやらせるから」といいました。お岩は瀬左衛門の言葉をありがたく聞いて、さっそく遠くの侍屋敷に女中として出ました。喜んだ伊右衛門は「お岩はわしを捨てて、どこかへ行ってしまった」といいふらし、堂々とお琴と夫婦になったのです。

伊右衛門が迎えに来る日を楽しみに待っていたお岩でしたが、何年たってもは迎えに来てくれません。そんなある日のこと。お岩のいる侍屋敷へ、以前、お岩の家にも出入りしていた、茂助というたばこ売りがやって来ました。茂助は、お岩に伊右衛門の様子を聞かれて、いいにくそうに、新しい奥さんのこと、子どもが生まれたことを話しました。

それを聞いたお岩は、みるみる青ざめて「うらめしや、よくも私をだましたのね!」と、素足のまま飛び出していきました。茂助は、あわててお岩を追いかけましたが見失ってしまい、行方知れずになってしまいました。

ところがそれからというもの、伊右衛門のまわりにつぎつぎと奇怪なことがおこりました。伊右衛門とお琴が寝ていると、お岩の幽霊がやって来て、恨めしそうにじっと見つめているのです。伊右衛門は、刀を抜いてお岩を斬りつけましたが、手ごたえがありません。やがて生まれた子どもは急に病気になり、そのまま苦しんで死んでしまいました。そしてお琴の美しい顔が、だんだんとお岩の顔のようになってきました。二人は恐くて怖くて夜も眠れません。とうとう頭が狂って相ついで死んでしまいました。さらにお岩をだました瀬左衛門もその家族も、お岩にのろい殺されてしまったのです。

それ以来、お岩の家の跡に住む人は、かならず原因不明の病気で死んでしまうので、たたりを恐れた人々は、家の跡にお稲荷さんを建ててお岩の供養をしました。おかげでようやく、お岩のたたりはなくなったということです。

今日7月27日は、小説『路傍の石』『真実一路』や戯曲『米百俵』など、生命の尊厳や人間の生き方についてやさしい文体で書かれた作品を多く残した山本有三(やまもと ゆうぞう)が、1887年に生まれた日です。

「たったひとりしかいない自分を、たった1度しかない一生を、ほんとうにかがやかさなかったら、人間は、生まれてきたかいがないじゃないか」

名作『路傍の石』のなかで、このように語っている山本有三は、人間が人間らしく生きることを訴えつづけた小説家です。

栃木県で、小さな呉服商をいとなむ家に生まれた有三は、15歳で高等小学校を卒業すると、父のいいつけで東京の呉服屋へ奉公にだされました。しかし、お客の前だけ笑顔をつくってねこなで声をだす商人たちの生活がいやになり、1年もたたないうちに家へ帰ってしまいました。

幼いころから芝居と文学がすきだった有三は、上の学校へ進んで、もっと勉強したくてしかたがありませんでした。でも、がんこで考えの古い父は、ゆるしませんでした。

18歳になったとき、やさしい母のとりなしで、やっと進学の夢がかなえられ、東京へでました。そして、4年ごには第一高等学校へ、さらに25歳で東京帝国大学へ進んで、芥川龍之介や菊池寛らとまじわりながら文学の世界へ入っていきました。

学生時代は、小説よりも戯曲を書くことにむちゅうになりました。しかし、大学を卒業して数年たっても舞台で上演されるようなものは書けず、なんども、自分の無力さに泣きました。

ところが、33歳になったとき、劇作家山本有三の名は、いちどに広まりました。「よし、みとめられなくても、おれの言いたいことを書いてやろう」と心に決めて書いた『嬰児殺し』が大評判になったのです。わが子を貧しさのため殺さなければならない社会の悪を訴えたこの物語に、観客も読者もなみだを流さずにはいられませんでした。そののちは『坂崎出羽守』『同志の人びと』『米百俵』などを書いて劇作家の地位をかためました。

40歳をすぎてからは、長編小説『波』『女の一生』『真実一路』『路傍の石』などを、次つぎに新聞や雑誌に連載して、こんどは、小説家山本有三の名を高めました。

人間は、命をたいせつにして、真実ひとすじに生きねばならない、と説きつづける有三の小説に、軍隊や警察は怒りました。しかし、有三は文学者の権利を守って、屈しませんでした。

58歳のときに日本の敗戦を迎えた有三は、そのごは、国語国字問題の研究にも力をつくしました。また、6年のあいだ参議院議員もつとめ、1965年に文化勲章を受賞して、9年のちに、87歳で世を去りました。美しい理想をかかげて生きた有三は、子どものために『心に太陽を持て』という本も書き残しています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)35巻「与謝野晶子・石川啄木」の後半に収録されている14編の小伝の一編「山本有三」をもとに記述したものです。

ところで、当社のある三鷹市には「山本有三記念館」があります。玉川上水のほとりに建ち、山本有三が1936年から1946年まで居宅としていた跡で『路傍の石』は、ここで書かれました。大正末期の本格的な欧風建築と、南側の有三記念公園は必見。記念館内部も一昨年に生誕120周年を記念して改装されました。ただ、入場無料のはずが、ここ1年半ほどは企画展が続いて有料なのが残念。

なお、有三の戯曲『米百俵』は、幕末から明治初期にかけて活躍した長岡藩の藩士小林虎三郎による教育にまつわる故事をもとにしています。戊辰戦争で敗れた長岡藩は財政が窮乏し、この窮状を見かねた長岡藩の支藩が米百俵を贈りました。ところが小林虎三郎は、贈られた米を藩士に分け与えず「百俵の米も食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」とさとして米を売却した上で学校設立の費用とすることを決定するのでした……。小泉純一郎元首相が、組閣後の所信表明演説で「米百俵」の精神を引用し、2001年の流行語になったのはよく知られています。

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