児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2009年06月

今日6月9日は、日本語の美しい言葉を活かしたメロディーで『からたちの花』『赤とんぼ』『この道』など多くの作品を残し、世界的に著名な交響楽団を指揮するなど、国際的にも活躍した音楽家・山田耕筰(やまだ こうさく)が、1886年に生まれた日です。

「からたちの花が咲いたよ、白い、白い、花が咲いたよ」

この 北原白秋 の詩『からたちの花』の作曲者として知られる山田耕筰は、明治時代のなかごろ、東京で生まれました。父も母も、キリスト教を信仰するクリスチャンでした。

家でオルガンや賛美歌を聞いて育った耕筰は、幼いころから音楽がすきでした。町を軍楽隊が通るときは、心をはずませて、どこまでもついて行きました。

耕筰が9歳のときに父が亡くなると、父がいい残したことを守って、印刷工場と夜学校がひとつになったキリスト教の勤労学校へ入れられました。母ともはなれて、ひとりぼっちです。毎日、小さなからだではたらきつづけ、つらくなったときは学校のまわりのカラタチの垣根のかげで、そっと泣いたということです。このときの思い出が、のちに名歌曲『からたちの花』を生んだのでしょうか。

13歳のとき病気になり、家へ帰りました。そして、まもなく、イギリス人のもとへ嫁いでいた岡山の姉のもとへ行き、義兄から、音楽や英語を学び始めました。

耕筰が、ほんとうに音楽の道へ進むことになったのは、18歳の年に母を亡くしてからです。母は、耕筰が胸のなかで音楽家への夢をあたためていることを、早くから知っていました。その母の、亡くなるときのこころざしで、東京音楽学校(いまの東京芸術大学)へ入学することができたのです。

1908年に、すばらしい成績で音楽学校を卒業した耕筰は、2年ごには、日本人で初めてドイツのベルリン国立音楽学校へ留学して、4年のあいだ作曲を学びました。そして、28歳で帰国したときには、すでに、歌曲、交響曲、歌劇曲などに才能をしめす、すぐれた音楽家になっていました。

1915年には、日本で初めての交響楽団「東京フィルハーモニー会管弦楽部」を結成しました。また、1917年にはアメリカへ渡り、カーネギー・ホールでニューヨーク交響楽団などを指揮して、自分の曲の発表をおこない、大成功をおさめました。

耕筰は、日本の交響楽や歌劇の発展に力をつくしました。しかし、最大の夢は、日本のほんとうの国民音楽を育てあげることでした。日本人の心にしみる『からたちの花』『赤とんぼ』『この道』などの歌曲や童謡のなかに、そのねがいがあふれています。耕筰は、日本の美しいことばでつづる、美しい日本の歌を愛しました。1965年に79歳で世を去った耕筰は、日本近代音楽の父として、日本の歴史に大きく名をとどめています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)35巻「与謝野晶子・石川啄木」の後半に収録されている14編の「小伝」の一つ 「山田耕筰」をもとにつづりました。


「6月9日にあった主なできごと」

1870年 ディッケンズ死去…「オリバー・ツイスト」 「クリスマスキャロル」 「二都物語」 など弱者の視点で社会諷刺した作品群を著しイギリスの国民作家といわれるチャールズ・ディケンズが、亡くなりました。( 2008年6月9日ブログ 参照)
 
1923年 有島武郎死去… 志賀直哉・武者小路実篤 らとともに同人「白樺」に参加し、『一房の葡萄』『カインの末裔』『或る女』などの小説、評論『惜みなく愛は奪ふ』を著した 有島武郎 は、この日軽井沢の別荘で雑誌編集者と心中、センセーショナルをまきおこしました。

今日6月8日は、キリスト教、仏教とともに世界3大宗教のひとつとされるイスラム教の開祖ムハンマド(マホメット)が、632年に亡くなった日です。ムハンマドは、マホメットと呼ばれていましたが、最近では標準アラビア語の発音に近い「ムハンマド」と表記される傾向があるようです。

イスラム教は、ユダヤ教やキリスト教と同じように、唯一神教で、偶像崇拝を徹底的に排除し、神への奉仕を重んじて信徒同士の一体感を重んじるところに大きな特色があります。

10億人以上もの信徒(ムスリム)があると推定されていて、世界で2番目に多くの信者を持つ宗教です。ムスリムが居住する地域はほとんど世界じゅうに広がっていて、とくに西アジア・中東諸国では国民の大多数がムスリムです。

ムハンマドは、571年ごろ、アラビア半島中西部の中心都市メッカの町で生まれました。父親はムハンマドの誕生する数か月前に死に、母も幼い頃に亡くなったため、ムハンマドは祖父と伯父のもとで育てられました。

少年のころから隊商に加わり、成長後も一族の者たちと同じように商人となり、25歳の頃に、15歳年上の妻とと結婚し2男4女をもうけましたが、男子は2人とも成人を待たずに死んでしまいました。

610年の頃、悩みを抱いてメッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想にふけっていたムハンマドは、そこで大天使に出会い、唯一神(アラー)の啓示を受けたとされています。その後も啓示は次々とムハンマドに下され、預言者としての自覚に目覚めたムハンマドは、近親の人たちに啓示の教えを説きはじめ、やがて、公然とメッカの人々に教えを説きました。しかしメッカが、アラビア人伝統の多神教の聖地でもあったため、メッカの支配者たちは、ムハンマドの教えに従う者がふえるのは面白くありません。

そんな折、メッカより300キロほど北にある町ヤスリブの信徒からムハンマドへ、なんども秘密のさそいがかかりました。ムハンマドはヤスリブ移住することを決意して、70人の信徒を何人かにわけて先に行かせました。そして、622年、ムハンマドがメッカを離れようとしたとき、秘密の計画がもれて、ヤスリブに通じる道は、すべてふさがれてしまったのです。さらに、メッカは刺客を放ってムハンマドの暗殺を試みましたが、ムハンマドらは10日ほどかけてヤスリブに無事にたどり着きました。のちにこの年は、イスラム暦元年と定められています。

ムハンマドは、その後も多くの苦難の末に政治力と軍事力をととのえ、メッカをイスラムの聖地と定め、異教徒を追放し、アラビア半島をイスラムによって統一しました。そして、632年、メッカへの大巡礼をおこない、五つの行(信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼)を定めると、自分の死後もコーラン(死後にまとめられたイスラム教の聖典)に従うようにという遺言をのこして亡くなりました。

「ムハンマド」の詳しい生涯につきましては、いずみ書房ホームページで公開中のオンラインブック「せかい伝記図書館」3巻「マホメット」をご覧ください。


「6月8日にあった主なできごと」

1947年 日教組結成…奈良県橿原市で日本教職員組合(日教組)の結成大会が開かれました。戦後教育の民主化、教育活動の自由、教育者の社会的・経済的・政治的地位の向上をめざすとし、教師は、聖職者から教育労働者へと大きく転換していくキッカケとなりました。

今日6月5日は、鎌倉時代の初期、禅宗の日本臨済宗をひらいた僧・栄西(えいさい「ようさい」ともいいます)が、1215年に亡くなった日です。栄西は、茶の習慣を日本に伝え、茶の湯のもとをきずいたことでも知られています。

座禅によってさとりを開こうとする、仏教のひとつの流れを、禅宗といいます。栄西は、曹洞宗をひらいた道元とともに、この禅宗を日本でおこした、鎌倉時代の僧です。

1141年に備中国(岡山県)で生まれた栄西は、14歳のころ比叡山にのぼって、最澄が伝えた天台宗の教えを学び始めました。

しかし、仏教の本をどんなに読んでも満足できませんでした。そのうえ、日本の仏教全体にさえ疑問をもつようになり、27歳のときには半年、46歳のときには4年、2度も中国(宋)へわたって天台山へのぼり、臨済宗(禅宗のひとつの派)を学びました。

宋から帰国した栄西は、まず九州へくだって禅の教えを広めました。ところが、比叡山の僧が朝廷を味方にひき入れて、禅宗が広まるのを妨害するようになりました。

栄西は『興禅護国論』を書き、禅こそ国を守る宗教だと説いて反論しました。そして、鎌倉へ行って幕府に臨済宗の教えを伝え、鎌倉に寿福寺を建てたのち、京都へのりだしました。幕府が禅宗の教えに心を動かし、栄西の活動をうしろから応援するようになったのです。

そののちの栄西は、京都六波羅に、僧が修行する道場として建仁寺を建て、若い僧の教育と、臨済宗を広めることに力をつくして、1215年に寿福寺で亡くなりました。74歳でした。

栄西のもうひとつの業績は、1211年に『喫茶養生記』を著し、お茶を日本に広めたことです。この本は、上下二巻からなり、茶の効用からどんなところが茶の栽培に適しているか、製法にいたるまで、細かく記されています。中国での生活の中で、茶の効力を認め、その不眠覚醒作用が禅の修行に必要だと考えたからにちがいありません。


「6月5日にあった主なできごと」

1864年 池田屋騒動…京都三条木屋町の旅館・池田屋に、京都の治安組織で近藤勇の率いる新撰組が、公武合体派の守護職松平容保(会津藩主)らの暗殺を計画していた長州藩・土佐藩などの尊皇攘夷派の志士を襲撃、およそ2時間にわたり斬り合い、志士数名を殺害、20余名を捕らえました。

1882年 柔道道場… 嘉納治五郎 は、東京下谷の永昌寺に柔道の道場(のちの講道館)を開きました。

今日6月4日は、満州軍閥の張作霖(ちょうさくりん)が日本の関東軍によって暗殺される事件が、1928年におこった日です。

満州軍閥の頭だった張作霖は、日露戦争で日本に協力したことから、日本の関東軍に支援されて力をのばしてきました。日本政府や関東軍は、この張作霖を利用して満州を中国本土から分離して、実質的に支配しようともくろんでいました。

ところが張作霖は、そんな日本のねらいを無視して1927年には北京に進出、大元帥となって北京政府をこしらえ、反日的な政策を展開しはじめました。さらに、蒋介石(しょうかいせき)の指導する南京国民政府と衝突するようになりました。

そんな折、張作霖が国民政府軍と戦って敗れ、北京から満州に逃げてくるという情報が、関東軍に入りました。もはや張作霖には利用価値がないと見た関東軍は、奉天郊外で、列車もろとも爆破して、張作霖を殺したのです。

田中義一内閣は、この事件は国民政府軍のしわざと発表しましたが、調査が進むにつれて、首謀者は関東軍参謀の河本大作ということがはっきりしてきました。何人かの中国人に機密費を渡し、2人のアヘン中毒者が列車爆破させたように装った経緯がわかってきたのです。この事件処理をめぐって昭和天皇から注意を受けた田中義一内閣は、翌年7月に総辞職に追いこまれました。

この事件により、日本は国際的な批判をあびました。張作霖の後をうけついだ息子の張学良は、国民政府と和解して合流するなど、日本に敵対的な行動を取るようになりました。また、南満州鉄道(日露戦争後の1906年に日本が設立した会社)のすぐそばに新しい鉄道路線を建設するなど、安い輸送単価で南満州鉄道と経営競争をしかけました。これに危機感をいだいた関東軍は、満州を軍事的に占領する計画をねりはじめました。

そして、事件から3年後の1931年9月、関東軍は南満州鉄道の線路を爆破した柳条湖事件をおこして、満州全土を占領(満州事変)、中国との15年戦争に突入していったのです。

 

 「6月4日にあった主なできごと」

822年 最澄死去…平安時代の初期に、天台宗をひらいた僧 最澄(さいちょう)が、亡くなりました。( 2008年6月4日ブログ 参照)
 
1989年 六四天安門事件…言論の自由化を推進し「開明的指導者」として国民の支持を集めた胡耀邦(こようほう)の死がきっかけとなって、中国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対して、「中国人民解放軍」は戦車、装甲車を出動させ無差別発砲を行なって武力弾圧。中国共産党の発表は、死者は319人としていますが、数百人から数万人の多数におよんだようです。

今日6月3日は、歌劇『カルメン』『アルルの女』『真珠採り』などを作曲したフランスの作曲家ビゼーが、1875年に亡くなった日です。

ジョルジュ・ビゼーは、おさないころから、すばらしい音楽の才能をもっていました。父は声学教師、母はピアニストでした。1838年にビゼーがパリの近くで生まれたときには、すでに大音楽家になる運命をせおっていたのかもしれません。ビゼーがわずか9歳でパリの国立音楽院に合格すると、教授たちは、いっせいにさけびました。

「この子は天才かもしれない、きっと大音楽家になるぞ」

学校で学びはじめたビゼー少年は、たちまちのうちに、どんな難しい曲でも理解するようになりました。ピアノ演奏、オルガン演奏、さらに作曲などで賞をとり、19歳でローマ大賞まで受賞して音楽院を卒業すると、胸をふくらませてローマへ留学しました。

ところが、3年間のローマ留学を終えてパリへもどってきたときから、天才ビゼーの苦しみがはじまりました。

作曲家の道をあゆみはじめたビゼーは、歌劇や管弦楽曲をつぎつぎに発表しました。しかし人びとは、どの曲にも拍手をおくりません。そのころのパリでは、おもしろおかしい歌劇が流行していたので、芸術を理解する人は、あまりいませんでした。

曲が売れないビゼーは、ピアノの先生や、作曲の指導や、楽譜出版の手つだいなど、いろいろな仕事をして生活をささえました。しかし、どんなに生活に困っても、金もうけのために作曲することは、けっしてありませんでした。ビゼーにとって、音楽は芸術であって、商売ではないと考えていたからです。

ビゼーの曲が、はじめて絶賛をあびたのは、34歳のときに発表した『アルルの女』という劇の音楽でした。ところが、その2年ごに作曲した歌劇『カルメン』は、力づよい合唱と、はげしい旋律が、理解されず、評判は良くありませんでした。また、カルメンが、さいごにはホセという男に殺されるという物語の悲しさに、明るさを求めるおおくの人は顔をそむけてしまいました。

「わたしの音楽が、なぜ、わかってもらえないのか」

ビゼーは、頭をかかえて悲しみました。そして、この深い悲しみから、立ち直るひまもなく、36歳の若さで永遠の眠りについてしまいました。苦しい生活で、いためていた心臓を悪くしてしまったのです。

ビゼーは不幸でした。でも『カルメン』は、いまもなお、フランスオペラの最も人気のある代表作として、世界じゅうの人びとから喝采をあびています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)11巻「ナイチンゲール・シュリーマン・パスツール」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「ビゼー」 をもとにつづりました。

なお、ビゼーの代表的な歌曲は、「カルメン組曲」のサイトで試聴することができます。


「6月3日にあった主なできごと」
 
1853年 黒船来航…アメリカ海軍に所属する東インド艦隊司令長官 ペリー は、日本に開国をせまる大統領の親書をたずさえて、この日4隻の黒船で江戸湾浦賀(横須賀市浦賀)に来航。「黒船あらわれる」というニュースに、幕府や江戸の町は大騒ぎとなりました。翌年、ペリーは7隻の艦隊を率いて再来航、幕府はペリーの威圧に日米和親条約を締結して、200年余り続いた鎖国が終わりをつげることになりました。

1961年 ウィーン会談…アメリカ大統領 ケネディ と、ソ連最高指導者 フルシチョフ は、オーストリアのウィーンで、東西ドイツに分裂・対立するドイツ問題についての会談を行ないました。フルシチョフが西ベルリンに西側の軍隊が駐留するのは侵略行為、侵略を阻止するためには戦争も辞さないと主張。ケネディは、どんな危険を冒しても西ベルリンを守りきると、2人の意見は完全に対立しました。これにより、東側は逃亡者を防ぐための (社会主義化した東ベルリンから、自由を求めて西ベルリンへ逃亡する人は400万人ともいわれました) 強固なベルリンの壁を建造し、ベルリンをめぐる東西間の緊張が一段と高まりました。

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